蓬田卵の奴隷生活
彼――彼方自由太の背中が遠ざかっていく。彼がエレベーターのある区画へ入っていくと、視界からは完全に消えた。振り返ることを期待していたわけじゃない。けれど、何故か――。
溜め息がでた。
私は首を振って、彼方自由太が置いていった二本のナイフと、壁に刺さった一本、彼のスニーカーに蹴散らされた一本、計四本を回収し、ハイエースの運転席に腰を落ち着けた。
荷台で伸びている二人は、あろうことかいびきをかいていた。まったくもう。
彼らがプロであった頃、その技量は私より上だった。経験も豊富で、新人時代の私は、よく手ほどきを受けていたものだ。
それがこの体たらく。パートナーを失うと、これほどまでに能力が低下してしまうものなのか。私は身震いした。
『姉さん』と、蓬田羽根が語りかけてくる。
『不思議な、人だったね』
「えぇ。そう、ね」
ハネは弟だった。殺し屋の精神に宿っているパートナーは多種多様。男性である場合も女性である場合もある。いずれにせよ、それは《殺し屋にとって近しい存在》が、なる。私のパートナーは弟。七年前に死んだ、四つ下の弟だ。
幼い頃から体が弱かった。弟は特別な病気を患っていた。筋肉が日ごと、収縮し、損なわれていくという、難病だった。
両親は私が大学一年生の時、交通事故で死に、以来、私はハネを育て、養い、療養させる金銭を稼がなくてはならなくなった。
ハネはその時、十四歳だったが、すでに足で立つことかなわなかった。彼は青春をベッドの上で謳歌した。それは青春と呼ぶにはあまりに狭く、暗く、寒かった。どのような光もハネを照らすことはなく、どのような温もりもハネを癒やすことはなかった。終わりない冬のような牢獄の中にあって、しかし、ハネはそんな世界に絶望しなかった。
『僕には姉さんがいる』とハネはいった。
『僕はきっと、長くない。父さんも母さんもいない。もう、普通に生きることができない。友達と遊ぶことも、誰かに恋をすることもできない。でも、姉さんはいてくれる。僕が失ったもの全て、姉さんが補ってくれる。だから、僕は幸せなんだと思う』
私は、ハネのために、私の人生を捧げることを決めた。
ハネへの治療は基本的に、病を取り去ることよりも、進行を遅らせることに主眼を置いている種類のものだった。にも関わらず、医療費は莫大な額になる。私は大学を辞め、ひたすら金策に励んだ。そして、娼婦になった。
抵抗はあった。私はその時点において純潔であったし、当時は人並みの、乙女心を持っていたのだ。つまりは《初めては愛する人に捧げたい》という乙女心を。
しかし、私はそれを捨てた。ハネは私だけいればいいという。私も、ハネだけいればいい。それは覚悟であり誓いであった。ハネのためなら、私は全てを金銭に変えることができたのだ。純潔はもちろん、プライドでさえも。
私が所属していたのは、派遣型の風俗店だった。客を指定のホテルで待たせ、然るべきタイミングで向かい、《抜いて》去る。一連の行為を私は風のように迅速にこなしていった。どうやら、私は手や口を使って男性を素早い射精に導く才能を先天的に持ち合わせていたようだ。それが幸いしてか、性交渉を求められることはなく、私の処女はその後しばらく守られた。
転機は、一年後に訪れた。
私を週に一度、必ず指名する客がいた。四十五歳の、豚のような男だった。身長は私より頭一つ低いのに、肩幅は私の二倍以上。性器を隠すほど腹の肉が垂れ下がり、体臭は糞尿の発するそれに似ていた。どう控えめに表現しても、醜悪以下にはならない外見だった。
内面は、外見を凌駕して最悪だった。
男は《マスター》と名乗っていた。おれは《マスター》だ。全ての支配者だ。おれが神なのだ。おれの名をみだりに呼ぶことは赦されない。おれの前にひれ伏せ。感謝しておれに奉仕しろ。
私は平均二分で神を天国にいかせることができた。口を使わず、手だけで、だ。もちろん、《マスター》との仕事のあとは、いつも以上に入念に体を洗った。
ある日、マスターは私にこのような提案を持ちかけてきた。
「お前が働いている風俗店を辞め、おれのみに尽くすとここで誓いをたてれば、莫大な富を与えてやる」
莫大な富――心が躍る。正直な話、単なる娼婦では生活費とハネの医療費を稼ぎ出すことに限界を感じていた。心強いパトロンが、私には必要だった。
マスターは当初、私を住み込みの娼婦として雇う腹積もりだったようだ。私は病床に伏している弟のことを説明し、在宅のまま仕えることの許可をとりつけた。
「いいか、卵。今日からお前はおれの奴隷だ。お前はおれのものだ。おれが舐めろといえばどの犬よりも先に舌をだしてくわえろ。おれがやらせろといえば、例え白昼の公園だろうと脱いで股を開け。そうすれば、お前は生涯、金をちり紙と同じ価値で使うことができる」
その日以来、私はマスターの奴隷になった。
マスターは人格的には破綻していたが、確かに潤沢な資産を所有していた。とある建設会社の代表取締役(二代目)で、世田谷に豪勢な邸宅を構えていた。
会社の実質的な経営は全て役員が行っており、マスターはほとんど出勤せず、ただ家で飯と酒と女を食らうという怠惰な生活を送っていた。
私は週六日、朝九時から夜七時まで、マスターの邸宅にメイドという形で勤めた。
出勤すると、まず私は全裸になり、首輪を装着することを義務づけられた。また、マスターの許可なく二足歩行することも禁じられた。したがって私の移動のほとんどは四つん這いで行われていた。マスターはそんな私を、哀れな雌豚となじった。
奴隷としてマスターの邸宅に勤めた初日、私はついに純潔を失った。十九歳の夏だった。
マスターの邸宅には地下室があり、そこはマスターが特注でこしらえたSMルームになっていて、そういうプレイに使用されるであろう器具の、想像のつく限り全てが用意されていた。
その日、マスターはまず、私に床の掃除を命じた。そもそもが大理石の煌びやかな床であり、清掃の余地が見いだせないほど完全に清潔な状態が保たれているように見える。私は疑問を覚えたが、従うほか選択肢はない。三十分、丹念に床を拭いた。
しかし、マスターはその掃除に不備があったと怒鳴り、私を叱った。罰を与えるという名目で、私は地下室に連れてこられ、天井の梁にくくりつけられた鎖の枷に両手を拘束され、文字通り吊るされた。
マスターは自由を奪われた私の尻を容赦のない鞭の打撃でなぶった。その苦痛は想像を絶した。私は泣き叫んで、許しを請う。申し訳ございません、どうかお許しください御主人様。
尻が真っ赤に腫れ上がると、マスターは私を吊るしたまま、後ろから私の純潔を奪った。その間も、私は謝罪を続けることを命じられていた。私は卑しい雌豚です、申し訳ございません、私の純潔を御主人様に捧げます。それでどうか、お許しを。
勿論、私は泣いていた。屈辱、恥辱、その他ありとあらゆる辱めが私の精神をズタズタに切り裂いていく。不幸中の幸いか、喪失の痛みは精神の痛みによって緩和されていたようだ。
満身創痍でその日の勤めを終え、アパートに帰る。
ハネはベッドの上で上体を起こし、ダーツを勤しんでいた。彼の五歳の誕生日に両親が買い与えた玩具のダーツセットで、ハネのお気に入りだった。ハネにとって遊びといえばこのダーツだけ。その腕前は十年の歳月を経て、プロ顔負けといっていいほどに昇華されている。
私は、ハネがブルを決めたのを見届けると、ハネの華奢な体に抱きついた。そして再び泣いた。
ごめんなさい、お姉ちゃん、汚れちゃった。
《私は純潔をハネに捧げようと思っていた》のだ。
私はハネの姉であり母親であり友人であり恋人。ハネが失った全てで在ろうとした。
「ごめんね、姉さん」とハネは私の肩に腕を回した。少しだけ力をこめれば折れてしまいそうなか細い腕。それでも、私にとってはダイヤモンドより堅く、キリストより優しい腕。
「僕が、こんなだから、僕のために、姉さん、頑張って……、それなのに、僕、何もしてあげられなくて……」
ハネもまた、泣いていた。私は自分の仕事について、ハネに語ったことはない。しかし、語らずとも悟っている。
「僕なんか、いない方が」
その先をハネにいわせたくない。私はハネの唇を私の唇で塞いだ。
私とハネを隔てていた姉と弟の境界線が、この瞬間に破られた。私は純潔を失ったその日に、ハネの女になった。
耐えられると私は思う。私がいかに汚れようとも、私がいかになぶられようとも。
ハネが私を浄化してくれる。ハネが私を癒やしてくれる。
私たちはそのまま、口づけを交わし続けた。舌を絡ませるのに、それほど時間はいらなかった。
ハネ、私にはあなたが必要なの。もう、いない方がいいなんて、いおうとしないで。その代わり、時々、私をこうして抱き締めて? そうすれば私は世界中のどんな災厄にだって耐えられる。いい?
私とハネは、《ずっと一緒》よ。例え《肉体が滅んでも》。魂は永遠に結ばれている。
たった一人の家族であり、たった一人の恋人なの。
甘美なる口づけを交わし終えると、私たちはほとんど同時に言葉を紡いだ。
「愛してる」
その後、四年間、私はマスターの奴隷だった。その生活は途方もなく過酷なものだったが、リターンもまた大きかった。二十三歳にして、私の貯蓄は平均的なサラリーマンの生涯収入に届きそうな額にまで膨らんでいた。
後になって判ったことだが、マスターはどうやら、相当私を気に入っていたようだ。手放したくないあまり、必要以上の報酬を私に与えてしまった。財産の全てを投げ打って、会社の金にまで手をつけていた。
マスターが破滅するのは、至極当然の成り行きだった。
ハネの医療費も、私たちの生活費も充分に蓄えた私は、マスターの元を離れようと思っていた。すると天が私の味方をした。マスターの会社が倒産したのだ。
払われるべき報酬がなければ、奴隷とマスターの関係も終わる。
契約終了の日、定時を迎えたころ、私は首輪を外し、全裸のまま《二本の足で立って》、いった。
「お世話になりました」
マスターは額から大量の汗を流し、親指をしゃぶりながらそわそわとSMルームを歩き始めた。いったりきたりを繰り返しながら、私の方へちらちらと視線を送ってくる。駄々をこねている子供のよう。恐らくは、世界一醜い子供。
「なぁ、卵」とマスターは、いやこの瞬間においてはすでに元マスターとなったその男はいう。
「奴隷の契約は終わったけどな、これからはさぁ、その、おれの《女》にランクアップさせてやるから、一緒にいろよ」
その時の笑顔の醜悪さといったら!
例えるなら、全世界の肥溜めの総和!
例えるなら、全世界の疫病の源!
例えるなら、全世界のゴキブリの始祖!
私はこらえがたい吐き気と怒りをもようする。そして同時に憐れむ。この男と、私自身を。
この男は、自分に金以外で誰かを虜にする力があるとでも思っているの? そのような魅力が、無償の愛が得られるほどの魅力が、その醜い肉塊の、果たしてどこに備わっているというの?
無知故盲目。半世紀近い人生の、その全てが、塵以下の価値。
そして、その塵以下の豚男に、ここまで舐められる私もまた、やはり豚。
私はハネの女。彼に相応しいのは豚ではなく、蓬田卵という名の、人間の女。
私は、豚であった自分と決別しなければならない。
「断るわ」と私はいう。
「あなたの価値は、お金に集約されている。お金があるから、あなたは人間でいられた。お金があるから、あなたは私を奴隷に変えることが、雌豚と呼ぶことができた」
私は豚男に歩み寄った。豚男は豚のように鼻を鳴らした。
「でも、おしまい。あなたはもう、ただのオヤジよ。何もかもを失った、単なる哀れな臭い豚。女にしてやる? ふざけないでちょうだい。最低百回生まれ変わってから出直しなさいよ。そしたら、そうね、私の奴隷くらいにはしてやるわ」
胸のつかえがとれていく。豚男は顔を真っ赤にして、唇を噛んでいた。あまりに強く噛みすぎたのか、下唇から血がだらだらと流れている。他の人間に罵倒されたことなどなかったのだろう。抗議の意図が言葉に変換できず、内側で暴れまわっているのがよく判る。
「それじゃさよなら。あなたのことは忘れるわ。たくさんのお金、ありがとう。大切に使わせていただきます」
結論からいえば、私は調子に乗りすぎていた。奴隷からの解放と、ようやく掴んだハネとの穏やかで幸せな生活への足掛かり。あまりに満ち足りて、浮き足立っていた。いかに愚かな男とはいえ、いかに自分を辱めてきたとはいえ、あれほどの金銭を与えてくれた男に、ここまでの罵倒を与えるべきではなかったのだ。
そして、私は思い知る。
全てを失った人間に残される、全てを凌駕する狂気と破壊力。それが目のない台風となり、私の全てを、いとも簡単に、粉々に粉砕してしまう力を有していることを。




