彼女を売女と呼ぶものを赦さぬ男の声
「聖人丈治」と己を呼ぶ声がして、聖人丈治は振り返った。
男が先ほど我々が開けた扉の前に立っていた。かつてどこかで見たことがある男だった。鴉が「自由太」と呟いた。
自由太――。
カナタジユウタ?
『……!』
胸が苦しい。心臓を得体の知れない猛獣に食い荒らされているような、途方もない苦痛が聖人丈治を支配し、思わず鴉に向けていた匕首を落としてしまった。
胸の中の《誰か》が叫びだす。嘆き悲しんでいるのか、怒り狂っているのか、喜びにうちふるえているのか。確定出来ない叫び声が、聖人丈治の頭に鳴り響く。
男――自由太は己に向かって走りだした。明確な殺意が、憎悪が。ひしひしと伝わってくる。
聖人丈治は何をすべきかわからない。ただ全ての部位が痛い。とりわけ、頭痛がひどい。体も心も、かつてない痛みに対処の方法を見失っていた。
迫る自由太が放ったのは右ストレート。暗転――自由太は鴉の隣に仰向けで倒れた。
しかし聖人丈治もまた、あまりの痛みに立つことかなわない。頭を抑えながら、膝をついた。
気にかかること――傍らの自由太と鴉。そして何より、金網越しに己を眺めていた華美。
「殺して、やる」
自由太の呪詛。彼は肘をコンクリートにつきながら、起き上がろうとしている。
「お兄さん!」
華美がこちらへ。田所と新垣の制止を振り切り、疾走していた。
「来ては、ならない」
水気を失った雑巾からなんとか絞り出した最後の一滴のようなか細い声はしかし、華美の行動を抑制できない。
自由太はふらつきながらも立ち上がり、匕首を手に取る。無駄だ、己には当たらない。
いや。
あるヴィジョンが頭痛に紛れ込み、聖人丈治を束の間平静に帰還させた。
華美が己を庇ったとしたら?
自由太の凶刃が、切り裂く、あるいは貫くのは?
《アノトキミタイニ、オノレデハナク――。》
痛みの呪縛が完全に溶ける。自由太の刃が己の心臓に迫り、華美の華奢な体が、そこへ割り込む。情景はスローモーションになった。だが、秒針が緩やかになろうとも、時そのものが静止することはない。
力を、と聖人丈治は祈る。誰のために、何に対して?
《愛する者のために》。
《愛する者に対して》。
✴︎
だいじょうぶだよ、みんな、だいすき、みんなだいすきなんだから。
しかたないじゃない。
✴︎
自由太はピクリとも動かず、今度はうつ伏せに倒れていた。にもかかわらず、匕首はしっかりと握り締めたままである。深く暗い憎悪の炎は、意識を喪失した程度で消せはしないようだった。
この男は何者なのか? 聖人丈治は確かにこの彼方自由太という男を《知っていた》。しかし、知っていたという事実のみが頭の中で認識されているだけで、具体的にどのような間柄であったか、何故己を憎んでいるのか、肝心なことが何一つ思い出せないのだ。
《胸の中のもう一人》ならば答えを知っているように思えたが、先ほどの感情の爆発が嘘のように、今は水を打った静けさの中、いつも通りの沈黙を守っている。それに伴い、頭痛もひいていた。
ふと、己の腕の中にある温もりに気づいた。
己は華美を抱き締めている。自由太の攻撃から己を守ろうとした華美を、やはり己が守ったのだ。
「助けて、くれたのですね」
胸に顔をうずめている華美に、そう囁いた。
「助けられたの、あたしです」と華美はふてくされたような声でいう。
「意味わかんないですよ、お兄さん」
「意味、とは?」
「色んなこと、起こりすぎです。末石さんが死んじゃったり、その仇をお兄さんが討ってくれようとしたり、お兄さんが神様みたいで殺し屋だったり、愛しなさいっていわれたり、そのお兄さんが他の人に殺されそうになったり、もう、壊れちゃいそうです」
《色んなこと》の中に、末石の大切な者が華美ではなかったことについての悲観は含まれていなかった。精神の防御機構が巧みに働いたのだろう。現状、《もっとも辛い事実》を一時的に排除しているらしい。
「壊れないように少しだけ、なんとかして欲しいと思って。そしたらお兄さんに向かって、走ってました。助けようとしたんじゃ、ないです。ごめんなさい」
縋る者を求めているのだ。と、聖人丈治は思った。己に縋ることで仮初めの救いを得たいのだ、と。
「私にはあなたの悲しみを癒やすことはできない」と聖人丈治はいった。
「できるのはそこに転がる鴉を、殺すことだけだ」
「ずるいですよ」と華美は抗議した。顔をうずめたままなので、声は籠もっている。胸に、ほのかな湿りを感じた。華美は泣いているようだ。
「だったら愛しなさいなんて、いわないでください」
確かに。己は今日、二度も華美にその言葉をいっている。半ば無意識に。何故だろう?
おそらく、それはこのビルを登ってくる際に《華美の眼光によって頭の中に輝いた何か》が起因している。
己の失われた記憶。欠けてしまったピースの一部。あの輝きは確かにそれを一瞬、取り戻してくれた。
己も求めているのだ。失われた記憶を。それが何がしかの救いをもたらしてくれると、縋っているのだ。この味気ない、無機質な日常から。
眼下に転がる自由太もまた、己の記憶の重大な位置を占めていることは間違いなさそうだが、あの頭痛が再び己を襲っては記憶の復活など望めそうもあるまい。
とすれば己には、華美しかいないのだ。
「一理、ありますね」と聖人丈治はいった。
「確かに、軽率でした」
「……そんな言葉、欲しくない」
「ではあなたが、望む言葉とは?」
「いらないですよ、もう、言葉は」
抱擁の継続を――神は子羊の願いを意志から感じ取ることができる。
聖人丈治は腕に力を込めた。それで己の腕に、暖かさが芽生えるはずもない。ならば冷気を高めよう。華美の悲しみごと、凍てつかせてやればいい。
鴉が唖然とこちらを見ている。この間に僅かに体力を回復させたらしく、ふらついてはいるものの、なんとか立ち上がることには成功していた。
「鴉を殺しますか?」と聖人丈治は尋ねない。今の華美はすでに仇討ちについて興味を失っている。
『それでいい』と、知らない男の声が聞こえた。




