聖人対鴉
扉を開ける――。鴉が一羽、屋上のへりにとまっていた。
長髪の男だった。漆黒のコートに身を包み、こちらを射抜くように睨みつけている。雲一つない晴天の下、容赦ない太陽光にさらされながら汗一つかいている様子がなかった。身長は己より少し高い。百九十ほどだろうか。
強いな、と聖人丈治は思った。少なくとも、刹那で終わらせられる相手ではないかもしれない。
己が聖人と呼ばれる由縁。
《痛みを感じる前に殺す》。
それが難しそうな相手に出会ったのは、初めてだった。
「あんたが、聖人丈治か」と鴉がいった。
「多くの人が、私をそう呼ぶ」
「怨みはない。これは仕事だ。あんたの命を、貰いたい」
聖人丈治は鴉に歩みよりながら、背後の三人に声を掛けた。振り返らず、視界の左に入った配電版の並びを指差す。金網で仕切られていた。
「あちらで、見ていなさい」
それに従う華美たち。「赦さない」という声が聞こえる。
「お前ら」と鴉が田所と新垣に目を向けた。
「何故、ここへ来た?」
田所と新垣が鴉に吠える。
「オヤジの仇討ちだ。決まってるだろうが!」
「末石は、お前たちを守りたいといっていた。《最後に守りてぇ大切なもんは》お前らだとな。その気持ちを、無駄にするな」
聖人丈治は、無意識に舌打ちをする。舌打ち? いつ以来だ? そして、己は何故、舌打ちをした?
理由は己が、やはり無意識に行った次の動作で明確になる。華美を振り返る。金網越しに、彼女の顔が。
ひび割れた。哀しみという鉄槌。
余計なことを。
再び、鴉を見――えない。すでに、今いた場所にいない。無論、消えた鴉の行方は必ず。
空――。垂直に、鴉がこちらへ降ってきた。武器も何もない。拳で己に挑もうとしている。
無謀――ではない。少なくとも、敵の力量を間違えるタイプの男には見えなかった。とすれば。
《武器はある。己の眼に、映っていないだけだ。》
聖人丈治はその武器について推測をしない。武器があろうがあるまいが、眼に映るか映るまいか、そんなことに意味などなかった。
己には《当たらない》。それは決まりごとのようなものなのだ。
『……』
胸の奥から、《別の人間》の息遣いを感じた。何かを囁いているようだが、ノイズのように耳障りな雑音に阻まれて、明瞭さを欠いているため、意味を捉えることはできない。しかし、その人間が懸命に、己の身を案じていること。それだけは、しっかりと伝わってくる。
《あなた》は、《誰》であったか?
刹那の問いかけに、返答を期待していたわけではない。しかし、微かな意思表示を感じることは出来た。深い森に閉じ込められた哀れな迷子が、必死に救助を要請するような、か細いがしかし、切実な意思表示を。
鴉が迫り来る。申し訳ない。己にはいま、あなたを助けることが出来ない。
『そ……で、も』
鴉の右腕――コートの裾から、三本の湾曲した鉤爪が飛び出して、鴉の拳を覆う。そして爪の先端は、聖人丈治の額を狙っているようだ。
『あ……し、あ……を』
鴉と、目が合う。勝利を確信した漆黒の瞳が、己を死出の旅路へ誘おうと、その暗黒を増幅させていく。
『助ける』
鴉の爪が額に触れる直前、《いつもの》暗転がある。
次の瞬間、鴉が地べたに這いつくばっていた。
「何を、した?」
鴉が鳩尾をかばいながら、うめくように、いっている。立ち上がろうとする努力を行っているが、聖人丈治はそれを許さない。
顎に蹴りをはなった。フェイントである。ガードしようと腕を上げさせたところで、がら空きになった鳩尾に本命をいれておく。
無様に悶え苦しむ鴉を見下ろしながら、しかし聖人丈治は感心する。《暗転》のあと、息があったのは鴉が初めてであった。やはり強い。もっとも息があったところで、それは虫の息に過ぎない。羽根をもがれた鴉など、もはや赤子をひねるより簡単に殺せる。
華美を見つめた。彼女の瞳からは何もかもが失われている。先ほど、この男に向けていた憎悪も、末石に対する愛情も、どこか別の時空に吹き飛ばされてしまったように、綺麗さっぱりと。
その要因は鴉が出し抜けに、田所と新垣へ放った一言だった。
末石が最後に守りたかった大切な者についての言及。
どのような意図で末石がそれを鴉に語ったのかは知る由もない。しかしそれは、結果的にこのような意味として華美に伝わる。
末石は華美を大切に思っていなかった。少なくとも、《最後に守りたい》と思うほどには。
真実がどうであれその言葉は、華美の心を抉った。残酷に、容赦なく。
無論、鴉は華美について知らない。末石の遺言を田所と新垣に伝えたことに関して、この男に罪はない。
だが、聖人丈治は赦さない。そもそも華美にはなんの罪もなかった。生涯最愛の男を唐突に失ったその日、男にとって自分が最愛でなかったことを知らなければならないような罪が、彼女に存在するはずもなかった……。
?
出会ってから数時間も経たぬ華美について己は何故断言できるのだろう?
どうも、華美は己の調子を狂わせる。その証拠に、己の思考回路は通常の仕事であればありえない方向へ向かっていた。
鴉に《痛み》を与えようと、考えている。




