冷たい救い主
膝をついて茫然自失としている女。これ以上かかわるつもりもなかったが、女に向かって、拳だいの瓦礫が彗星のように降り注ごうとしているのを認めると、逡巡することもなく、女を抱きかかえ、曲芸さながら、紙一重でそれを避ける。
「しっかりなさい」と聖人丈治はいう。女は聖人丈治の腕の中、失った瞳の光を、ほんのわずか、取り戻す。
「あ、さっきの……」
「立てますか?」
「は、い」
腕を離すと、四肢を小刻みに震わせながらも、女は自力で地に立った。彼方からサイレンが近づいてくる。
「ありがとう、ございました」といって女は再びビルへ向かう。聖人丈治は女の腕を取る。
「何処へ?」
「彼の、末石の、ところへ……」
「よしなさい。あの爆発では、もう」
「嫌」
「あなたが危険を冒すことを、彼が望んでいると?」
女は足を止め、そして聖人丈治に振り返り。
顔を、くしゃくしゃに。涙が、とめどなく。
感情が爆ぜる。
女は顔を聖人丈治の胸に埋める。聖人丈治は女を包み込もうとはしない。温もりや優しさ、そういうものを己がこの女に与えることはできない。ただ静かに、佇むだけだ。己は冷たい墓石だった。こうしていても、癒やされはしない。
それでもいいなら、そのまま少し。泣き続ける猶予を与えよう。末石に与えるつもりだった猶予の代わりに。
女を胸に埋めさせたまま、聖人丈治は感覚を研ぎ澄ました。己を狙う殺し屋の気配を感じ取ろうとする。前後左右に、それはない。だとすれば、敵は。
上。
空を見上げた。澄んだ青空に黒煙が溶けていく。その黒煙に紛れて、鴉が一羽、飛んでいた。
「あの、やろうだっ!」
ビルの入口から雪崩のように飛び出してきた人々の最後尾、角刈りとパンチパーマの二人がその鴉を指差していった。涙のあとが、頬に滲んでいる。
その声に反応した女は顔を離して、角刈りとパンチパーマに目を合わせる。
「田所さん、新垣さんっ!」
慌てた様子でその二人がこちらへやってきた。
「華美さん、すんません、オヤジがっ!」
角刈りとパンチパーマが同時に、コンクリートに打ち付けるように土下座した。顔をあげたとき、案の定、二人の額は割れている。
「末石さんは、末石さんは誰に?」
女の声色に違和感を感じる。あまりにも透き通っているのだ。悲しみが払拭されている。感情を一点に絞ることで、自らを奮い立たせているようだった。すなわち憎。あるいは怨。何故か今し方見上げた、黒煙が溶ける青空を連想させられた。
「あのやろうです、鴉っ!」
その鴉は、ビル屋上付近を旋回しながら、徐々に高度を下げていた。己の顔を知っているのだろうか?
そういえばこの間、【アクタリ】で【レスト・イン・ピース】の代表である貝原晴雨に「記念だから」という理由で写真を撮られていた。
思えばあの時から、奴は己を殺すつもりだったのだろう。【アクタリ】と己が提携した――聖人丈治にはそんなつもりはさらさらなかったが――ことに、相当な危惧を抱いていたことは奴の眼が語っていた。
――まぁいい。顔を知られようとなかろうと、そんなことは己の不利益には繋がらない。蠅を叩くように、鴉を落とすだけだ。
「飛んでる」と、華美と呼ばれた女はいった。
「うそ、あれ、人なの?」
パンチパーマと角刈りは土下座の体勢を続けながら、忌々しそうに中空を睨む。
「はい。あいつは、鴉って呼ばれる、殺し屋です。オヤジを殺ったのは、あいつです」
華美の表情は、みるみるうちに修羅のものへと変わっていった。
「行く。あたしが、あいつを、殺す。殺さなきゃ」
見上げながら歩く華美に、お供します、と続くパンチパーマと角刈り。鴉もこの状況に戸惑っているようで、一定の高度から下りてこない。周囲には野次馬が集まってきている。それに間もなく、救急や警察、消防が辺りを囲むだろう。
刹那、聖人丈治は手頃な《物件》を探した。末石のビルから左。区画にして二ブロック先に、階層は一つ高いが、セキュリティーの甘そうな、やや老朽化した集合ビルがある。
聖人丈治は鴉に見えるよう、右手をあげ、それをそのビルの方向にかざした。鴉は意図を読み取ったらしく、そちらのビルの屋上へ降り立った。
「華美さん」と聖人丈治は女の背中に声をかけた。華美は踵を返し、表情を少しだけ柔らげる。
「こんなことを、私がいえた義理ではないが」
「何ですか?」
「なるべくなら、人は、人を殺さない方がいい」
この非常事態にあっても、習性を忘れない番犬のように、角刈りとパンチパーマは聖人丈治に威嚇を始めた。それを華美がいさめる。
「ありがとう、お兄さん」と華美は笑った。
「でも、やっぱり、あたし、赦せない」
追い払うことは出来そうになかった。こちらの世界に入り込もうとしている華美。それをもっとも嫌っていたのは末石だということを教えてやりたかったが、そんな時間はもうありはしない。
「致し方ない」と聖人丈治はいった。
「私も、御一緒しましょう」
華美と二人は目を丸くした。にわかに聖人丈治の言葉が信じられないようだ。
「あんた」と角刈りがいった。
「誰だか知らねえが、カタギが、興味本位で極道の世界に首突っ込むんじゃねぇぞ、こら」
犬の恫喝が聖人丈治に効果をもたらすはずもない。聖人丈治は角刈りに近寄ると、握手を求めた。
「あぁん!?」といって角刈りは聖人丈治の手を捻ろうとするが、そうする前に、何故か尻餅をついている。
聖人丈治は角刈りを見下ろし、そして平坦な視線をパンチパーマに送る。白昼夢を見たように、二匹の番犬は口をパクパクとさせていた。
「カタギでも極道でもありませんが」と聖人丈治はいう。
「あなたたちより、私は彼女を助けられる」
聖人丈治は仕事以外で殺しをしない。それは別に、誇りだとか信念だとか、そういう大層な代物ではなく、単なる習慣だった。例え、誰かに命を狙われようとも、基本的に狙っている者の命をとろうとは考えない。
しかし、あのAランチを。あのAランチを報酬として、聖人丈治は鴉を殺そうと思った。華美の為に?
それはわからない。そもそも己が末石を殺す予定だったのだから、単なる《帳尻合わせ》として、適当な理由が欲しかっただけかもしれない。あるいは、己を久しぶりに笑わせた華美に、ちょっとした礼がしたかったのかもしれない。
とにかく、結果として、もうしばらく、聖人丈治は華美にとっての救い主を演じ続けることにした。
「異論は?」と聖人丈治は尋ねた。番犬は答えず、華美も口を開かない。サイレンは極めて近い場所で鳴っている。
聖人丈治はそれ以上の問答は諦めて、一歩踏み出した。追うようにして、華美が後ろから別の質問を投げかける。
「どうして、あたしを助けてくれるんです? お兄さんは、誰なんですか?」
聖人丈治はどちらの問いにも、明確な答えをもっていなかった。だから華美の顔を見ずに、宙をさまよっていた言葉の一つを、呼吸の如く、吸って、吐く。
「あなたのメシアは、ことのほか、Aランチが気に入ったようです」




