心弱き者たち
あなたのために、用意しておきました――芥川は私に一本のナイフを差し出した。刃の先端はほとんど針のように尖っていて、グリップの感触はダーツのそれに近い。ただし、圧倒的な重量がある。それは人を殺すことの重みを私に示唆していた。
「羽根君のチカラは素晴らしい」と芥川はいう。
「様々な従業員から、様々な種類のチカラを目にして参りましたが、これほど殺人に適した能力にはついぞ巡り会ったことがない」
ハネは先ほどから沈黙を守っているが、苦しそうな息遣いは感じとることができた。私がこれから殺人を犯すことに対して嘆き悲しんでいる。辛い。結果として私はハネを傷つける。とても深く。それでも、ハネの崩壊と天秤に掛ければ、文字通り鉛と羽根の如く前者に傾く。
「十分後、ある男性がこの店を訪れます」と芥川がいいながら後方に指を差した。カウンターに隣接している壁面が横長の長方形に切ってある。中は厨房のようだ。紫のカーテンがかかっているが、あそこからならほとんどの客席を窺うことができそうだ。
「あなたはあそこで待機していてください。男性客はここに座ります。私がビールを出したら、それが合図です。このナイフで、ブルを狙うように男性の心臓を射抜いてください」
厨房の隅にしゃがみこんで、私はナイフを眺めていた。緊張感と安心感と焦燥感がない交ぜになって私を襲う。真っ暗な夜の海で、大嵐に遭遇してしまった憐れな航海士のように、心の舵をしっかりと握り締めた。それ以外に、できることはないのだ。私はとても無力な女。大嵐の中にあって、逃げることも挑むこともできずに、ただ船が沈まないよう、右へ左へ勝手に回ってしまう舵を固定し続ける。
けれど、それが私の運命であり責務。
『姉さん、やっぱり』とハネがいう。
『やめよう。姉さんが人を殺すことに、僕は協力しない。例え僕を助けるためにしてくれることだったとしても、僕はチカラを姉さんに貸さない』
予想通りの意志表明だった。姉さんに人殺しをさせたくない――ハネの気持ちは優しすぎて痛い。これからその優しい気持ちを利用することを考えると、より一層、痛い。
「そう」と私はいった。
「それじゃ私、死ぬわ」
『えっ?』
私は自分の喉元に刃を突き付けた。
「ハネが壊れるくらいなら、死んだ方がいいから」
もちろん、これは本音でもある。ただし、今回は打算がプラスされている。
『……なんで? 勝手だよ……』
ハネは泣いていた。痛みが加速度的に増していく。
「ごめん。でも、無理なの。ハネがチカラを貸してくれないなら、私は死ぬわ。ハネはそれでもいいのね?」
なんて嫌な女なんだろう。私の命は、ハネに救われたのに。そのせいで、ハネの命は失われてしまったのに。
ハネ、どうか私を罰して。これが済んだら、ありとあらゆる罵詈雑言で、私を貶めてください。あなたを傷つけた私に、その百倍の傷を与えてください。その傷に塩を塗ってください。あなたは私の《マスター》。だからこの瞬間、あなたに背く私を――。
どうか赦して。
「答えてよ、ハネ。私が死んでも、いいのよね?」
『いいわけ……』
ハネは鼻をすすりながら言葉を紡いだ。
『いいわけ、ないだろ! なんで、なんでそんなことっ!』
「だったら、チカラを貸しなさい。私が生きるためにチカラをちょうだい」
いいながら私も泣きそうになる。歯を食いしばる。こらえる。
『なんで、《僕のため》に、そこまでするんだよ!? 僕が、姉さんの本音に気付かないなんて思ってるのか!? 姉さんはそんなに、僕の気持ちを舐めてるのかよ!』
涙がせり上がってくる。心の防波堤が涙の津波を必死に食い止めていた。
『そんなこといわれたら、もう、僕にノーなんていえるわけないじゃないか。《僕に嫌われようとしてまで》、《僕を助けようとしている》姉さんに、ノーなんていえるわけないだろう!』
だって――声にならない。知らぬ間に、防波堤は決壊していた。
ハネの傍にいたいの。元気なハネでいて欲しいの。それだけなのよ。本当に、ただそれだけ。その為なら、嫌われたって――。
――嫌われ……たくない。ハネに嫌われたくない。
「ごめ……ん」と私はいう。涙声で発音が不明瞭になってしまった。
「嫌いに、なった?」
『なるわけないよ、どうして嫌うんだ。僕は、僕は、姉さんのこと、が、が、だれ、だべ? あべっ? ぼぐは、ねえざんの、ごごが。ずぎ? ずぎ? ねえざ? だべ?』
一瞬で涙は枯れ、入口で男性を待つ芥川に私は叫ぶ。
「芥川さんっ! ハネが、ハネがっ!」
「私にも聴こえている。落ち着きなさい。大丈夫、初期症状だ。すぐに収まる」
「落ち着けるわけないでしょう!?」
『だべっ? ぼぐだべっ? あで! っ? あ……げ』
そこでハネは激しく咳き込んだ。私はナイフを捨てて慌てふためいていた。大丈夫? 大丈夫なの、ハネ!?
『……が、ねえざ、ん?』
そうよ、私はあなたの姉であなたのタマゴ。あなたを守る殻だった女。巣立ったあなたの名前はハネ。私を外側から守ってくれた、私の《マスター》。
『姉さ、……ん』
「ハネ、大丈夫!?」
私は胸を掌で小刻みに叩いた。
『ごめ、ん。なんか、急に頭の中がバラバラになって……』
厨房の壁時計を確認する。男性はあと一分ほどでやってくるはずだ。早く、早く来て! 早く殺させて、お願いだから! 一瞬で逝かせてあげるから。一刻も早く、殺されに来て!
「大丈夫、大丈夫よ。すぐ、安心させてあげるから」
ハネの咳は断続的に続いた。私はナイフを拾い直して、標的の到来を待ちながら、ハネに再度協力を要請する。
「チカラを貸してくれるわよね?」
『……』
「ハネ、時間がないの! もう小細工は使わないから。あなたのためじゃない! 私のために、チカラを貸して!」
早口でまくしたてる。急がなきゃ、急がなきゃ。何もかもどうでもいい。とにかく、ハネを助けなきゃ。
『……姉さんに、死んでほしくない。僕の答えは、それだけだ』
歓喜のあまり、涙が再び込み上げてきた。私がありがとう、といおうとした瞬間、芥川の「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。
男性客は、サラリーマン風の優男だった。年の頃は私と同じくらい。芥川に促され、彼はあらかじめ私たちの間で取り決められていた席についた。そこが彼の死刑台だ。
優男と芥川の間で、いくつかの短い会話が交わされている。二人は顔見知りのようだった。もどかしい。早くビールを持ってきてよ、芥川さん。
「お飲み物は、何がよろしいかな?」と芥川がいった。
「仕事の途中です、水を頂ければ」と優男が答えた。
芥川は小さく頷いて席を離れると、三十秒ほどで戻ってきた。彼は右手に、なみなみと黄金の液体が注がれた中ジョッキを持っている。そして底抜けに明るい微笑みをたたえながら、テーブルに中ジョッキを置いた。優男は顔をしかめる。
「お水といったはずですが」
「サービスですよ。旅立ちの祝杯だと思ってください」
強引に勧められ、優男は困惑しつつも、仕方ないといった様子でビールを口元に運んだ。
私は構える。ごめんなさい、と心の中で唱えておく。
あなたに、怨みは特にないけど。
ハネのために。
その命を、私にちょうだい。
投げる――顎を僅かに上げて、不服そうにビールを摂取している優男の左胸に、ナイフが吸い込まれていく。
ぱりん、という音がした。床に落ちた中ジョッキが粉微塵に砕け散り、ビールが血溜まりのように広がった。
このようにして、私は殺し屋になった。




