バタフライ〜恋と蝶の羽ばたき〜
春、
緊張に悩まされていた澄羽張乃。
今度の悩みは……
恋の悩み!?
こんなに難しいこと、どうすればいいんだ!!
そんな張乃が、今作も、考えて、考えて考え続ける物語です!!
これは、前作「バタフライ〜緊張と蝶の羽ばたき〜」
から半年が経った頃のお話
秋、澄羽張乃は
恋に落ちていた……
そして、彼女の目線の先には、
イケメンな須藤君が……
須藤くんは、身長175以上で(推定)、頭もいい
スライド発表では、わかりやすくまとめている男子だ。
そして、そんな須藤くんに対して、張乃は恋をしてしまった。
須藤くんは、たまにいじわるをしてるところはあるけれど
やはり、クラスの人気者だろう。
ムードメーカーっていうかなんて言うか……
まぁ、考えていてもよくわからないけれど、
張乃にとっては、普通にイケメンな人だった。
たまにいじわるをしてるところは見るけれど、根は優しいんだな、
と思えるような行動をたまにしている。
なにか悪いことを思いついたら、
すっごい謎の笑みを浮かべるけれど、そうでもなければ、
普通のイケメン男子だ。
窓の外、
そこには、赤っぽい景色が広がる。
この周辺には桜と紅葉が交互に植えられていて、
春、秋と、どの季節でも楽しむことのできるような土地柄だ。
私は、緊張してしまうクセが少しだけ改善した。
もちろん、ほんの少しだけだ。
だが、以前と比べると全然違うように思える。
そして、新たな問題は私の後ろにいたのだった。
今は授業中、
数学の授業を受けているところだ。
私の後ろにいるのは、須藤定君だ。
数学の先生が、黒板の方を向いたのを見て、
私はさっと、彼の方をちらっと見る。
彼は今寝ているようだ。
なぜ寝ているかって?
彼は数学の授業がちょっと暇だったようだ。
頭いい人の脳ってどうなってるんだろうな?
今、私は数学の授業なんて理解できている感じがしていない。
なぜなら、
私の苦手教科は、
理科以外のすべての教科だからだ。
体育はもちろんのこと国語、英語……
と全然できない。
えっ?理科ができるんなら理系だろうし、数学もできるんじゃねって?
あぁ、残念、外れです。
私にとって数学とは算数と同義なのです。
そもそも私は計算が苦手だったし、
それに加えて理論的に捉える、数学は私の最大の強敵なのだ。
黒板の前には謎の式が書いてある。
「シーの2乗イコールエーの2乗たすビーの2乗?」
やっぱり謎だ。
なんかこじんまりとした式だから。
覚えるだけだったらなんとかなる?
かはわからんが、たぶん今日一日だけだったら覚えられる。
私はもう一度隙を見て、須藤君のほうを見る。
やはり、彼は寝たままだ。
よほど暇なんだな……
などと私は感じた。
でも、私は何故か彼が好きだな。
頭の中……
というより、私の心が出した答えがこれだった。
いじわるもするけれど、憎めないっていうか……
「澄羽さん、ここの答え、答えて」
「は、はい!」
突然話しかけられてびっくりし、つい立ち上がると
周りは少し笑っていた。
笑われるのは前の自分だったら、怖いと思っていた。
でも、みんなそこまで深く考えていないのだ。
授業が終わり、
休み時間に入った。
須藤くんは廊下の方に向かっていった。
私も……
とは少し思ったが
そんな勇気、私はあいにく持ち合わせていない。
悲しいなぁ。
ふとそう思った。
自分の気持ちが伝えられない。
行動に移すことができない。
つまり……
臆病者だ。
私は臆病者なのかもしれない。
私は春まで緊張者だった。
次に出てきた問題は、
臆病者だった。
どうだろう、
今、何もすることのできていない自分を
臆病者と言わずになんというのか。
じゃあ、
行動に移せばいい。
だが、そんな単純なことではないのだ。
私の心の問題……
こんな難しいこと、簡単に決められない。
そう、これは私の運命に関わることかもしれない。
もし、
持てる勇気の全てを振り絞り
実行したとしよう。
そして、思いが伝わらなかったとしよう。
ほら、無理だ。
今行動に移したとて、
成功する確率はほぼ無に近い。
でも、そんな風に迷い続けて
現実を逃避することこそが
臆病者なのかもしれない。
でも、
やっぱりすぐには脱却できない。
これは根深い問題である。
そんな事を考えていると
チャイムが鳴る。
いつものチャイム、
ごく普通のチャイム。
だが、少しだけ、私を嘲笑うかのように聞こえた。
放課後、私は一人で帰る。
部活は……
入っていない。
正確には入っていた、だ。
まぁ、三年生にもなったら、
大概の人は部活を引退する。
私もその一人だ。
でも、吹奏楽部の人とかはコンクールが残っているとか、
残っていないとか……
まぁ、私もよく知らないから詳しくはわかりかねるが。
……
なんでだろう。
なぜ、周りの人はそんなに
告白などということができるのであろうか。
たぶん、
その人達もよほど緊張して挑んでいるのだろう。
もしかしたら、
緊張もしない人もいるかもしれない。
でも、
そのほとんどは、私のように
怖かっただろう。
”振られるのが怖い”
”勇気が出ない”
”嫌われたくはない”
そんな
負の感情が溢れ出る。
怖いのは私だけではない。
恋、
といえるかはこの場合わからないが、
恋をしてしまった人達は
たぶんここで行き詰まるのだろう。
そして今、
恋人、という人がいる人は
それを乗り越えた者なのだろう。
すごいなぁ。
と、私は思う。
人間そんなうまくはいかない。
テレビで成功する人も、
なにか不祥事で失脚する人も
テレビなんかとは無関係に生活する人。
それら全員、等しく同じ人間だ。
そうだろう?
みんな人間だ。
十人十色で、億人億色。
この世界に奴隷制度なんてありゃせんのだ。
皆平等かはさておき、
三年生公民で習う、生存権やら社会権やら
つまるところ基本的人権の尊重ってやつだ。
これらがある限り基本的な人として生きる権利は保証される。
はずだ。
例外は見たことないからわからないけれど、
ほとんどの人は、この常道に当てはまっている。
外見とか性格とか
色んな要素が人にはあるけれど、
自分の一点を磨けば
誰か、それに惹かれるかもしれない。
みんな、それを本当に行動してるの?
思い思いのことでもいいから、本当に実行したの?
いや、自分が言うことではなかったな。
というか、誰に言ってるのか……
私は、臆病者だ。
だが、人間みんなそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
私はそろそろ覚悟を決めるべきだ。
よし、やってやる。
そんなことを考えているうちに家についた。
私にできることからしよう。
翌日の学校、放課後にて
私は廊下に立つ。
周りに渦めく人々(生徒)は
帰ったり、友だちと話したりと
目まぐるしく動いていた。
そして、そのなかでボッチな私。
この状況……
普通に帰ればいいの?
昨日決意したことは何だったのだろうか。
普通に昨日から考え続けてて……
全然眠れなくて、
授業も起きてはいたけど、身が入らなくて……
今に至る……
ということか。
うん……
やっちゃった。
結構ちゃんとやってしまった。
これはいけない。
だめだ。
このままでは何も進まない。
どうすれば?
「あっ」
と、私は声を漏らす。
須藤くんは、一人で悠々としていた。
この流れの絶えない
廊下の混雑の中。
まるで、一匹の狼のように。
「かっこよ……」
少し汚い(かはわからんけど)言葉が出てしまう。
やっぱり、
惚れちゃってるわ。
自分でも感じてしまうほどだ。
うん、帰ろう。
そうやって何もできない……
私はやっぱり臆病だった。
翌日学校にて、
昨日は何もできなかった。
話しかけることも、目を合わせることも、
何もできなかった。
結局、「かっこいい」と思って終わっただけだった。
だから今日は違う。
話しかける勇気はまだない。
告白なんてもっと無理。
でも、せめて自分の気持ちくらいは確かめたい。
というわけで、私は一日ずっと須藤くんを観察することにした。
……
いや、待って、冷静に考えると、
これって結構危ない人じゃない?
ストーカー予備軍みたいになってない?
いやいや、観察と言っても、ちらっと見るだけだから。
たまたま視界に入っただけだから。
……たぶん
そんな言い訳を頭の中で並べながら、一時間目が始まった。
一時間目は国語だった。
先生が教科書を開くように言う。
私は教科書を開きながら、ほんの少しだけ斜め前を見る。
いた。
今日もちゃんといる。
もちろん、当たり前なんだけどね。
なんだろう。
それだけで少し安心する。
先生の話が始まる。
私は黒板を見る。
……ふりをする。
視線だけ少しずらす。
須藤くんは真面目にノートを取っていた。
字、綺麗だな。
そういえば、スライド発表のときも見やすかった。
文字が大きすぎず、小さすぎず。
色も使いすぎない。
スライドでは、イラストが多くて理解しやすかった。
ああいうところにも性格って出るのかな。
「澄羽さん」
「は、はい!」
突然先生に当てられ、私は勢いよく立ち上がった。
しまった。
また見すぎた。
「この一文から読みましょう」
「あっ、はい」
よかった。
答える問題じゃなかった。
私は胸をなで下ろしながら教科書を読む。
読み終えて席に座ると、小さく息を吐いた。
危ない危ない。
観察している場合じゃなかった。
いや、授業を受けなさいよ、私。
心の中でもう一人の私がつっこんでくる。
二時間目、休み時間、三時間目⋯⋯と。
気づけば私は、何度も須藤くんを目で追っていた。
友達と話している。
笑っている。
先生と話している。
なんだ。
普通の男子じゃん。
そう思う。
でも、その「普通」が、なんだか心地よかった。
昼休み、
私は教室でお弁当を食べていた。
結衣たちは恋愛の話で盛り上がっている。
「ねぇ、張乃は好きな人いないの?」
「えっ?」
心臓が止まるかと思った。
「い、いないよ」
「ほんと?」
「う、うん」
自分でもわかるくらい声が裏返っていた。
怪しい。
絶対怪しい。
でも、結衣は「ふーん」と言っただけで、おかずの話に戻っていった。
……危なかった。
いや、本当に危なかった。
私、嘘つくの下手なんだよなぁ。
昼休みが終わる。
掃除の時間、
私はほうきを持って廊下を掃いていた。
そのときだった。
「あ、ごめん」
前を歩いていた一年生が、本を落とした。
教科書やノートが廊下に散らばる。
一年生は慌ててしゃがみ込む。
その瞬間、
「はい」
須藤くんが、ごく自然にしゃがんだ。
何も言わず、一冊、また一冊と拾っていく。
「ありがとうございます!」
一年生は何度も頭を下げる。
「いいよ、気をつけて」
それだけ言って、須藤くんは歩いていった。
……。
私はほうきを持ったまま動けなかった。
なんだ。
そういうこと、普通にできる人なんだ。
誰も見ていなかった。
先生もいなかった。
褒められるわけでもない。
それなのに、当たり前みたいに助ける。
私はその後ろ姿をぼんやり見送る。
……ずるいなぁ。
そんなの好きになるじゃん。
私は思わず笑ってしまった。
これじゃあ、自分の気持ちを確かめる必要なんてなかった。
答えなんて、とっくに出ていた。
私は、
須藤定という人が、
好きだ。
その結論が出た瞬間、不思議と胸の中がすっきりした。
……いや、すっきりしたというより、
「認めてしまった」
という表現のほうが正しいのかもしれない。
今までは、
「気になる人」
「なんとなくかっこいい人」
そんな曖昧な言葉でごまかしていた。
でも、もう無理だった。
私は恋をしている。
その事実だけは、もう否定できない。
放課後、
私はいつものように一人で階段の前へ向かっていた。
須藤くんは友達と笑いながら歩いている。
やっぱり人気者なんだな。
そう思う。
私は少し距離を空けて歩く。
別についていっているわけじゃない。
……たぶん。
いや、ちょっとだけかもしれない。
自分でも何をしているのかわからない。
もし今、
「何してるの?」
なんて聞かれたら、
その場で蒸発できる自信がある。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ近くにいたかった。
それだけだった。
校門を出ると、須藤くんたちは駅の方へ歩いていく。
私は反対方向だ。
今日も結局、
話しかけられなかった。
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。
そのときだった。
ひらり。
一枚の赤い葉が、私の目の前を横切った。
風に揺られながら、
くるくると回っている。
秋だなぁ。
私は空を見上げた。
校庭の木々は赤や黄色に染まり始めている。
そういえば、
この学校は桜と紅葉が交互に植えられているんだった。
春は桜。
秋は紅葉。
同じ道なのに、
季節が変わるだけで全然違う景色になる。
私は歩きながら、その木々を見上げる。
すると、一匹の蝶が飛んでいた。
秋なのに、まだいるんだ。
私は立ち止まる。
蝶は風に流されるように飛んでいる。
自由だなぁ。
私はそう思った。
好きなところへ飛んで、
好きな花に止まって、
誰にも縛られない。
そんな生き物なんだろうな。
でも、
本当にそうなのかな。
私は蝶を目で追う。
風が吹く。
蝶は少し流される。
また羽ばたく。
さらに風が吹く。
それでも羽ばたく。
自由に見えていた蝶は、
実は風に逆らっていた。
好き勝手に飛んでいるんじゃない。
飛びたい場所へ行くために、
必死に羽を動かしている。
私はその姿を見ながら、小さく笑った。
まただ。
また私は、
蝶に何かを教えられている。
春、私はバタフライを泳ぎながら、
「沈まないために羽ばたく」
ことを知った。
そして秋、
私は蝶を見ながら、
「行きたい場所へ行くためにも羽ばたかなければならない」
ことを知った。
何もしなければ風に流されるだけ。
私も同じだ。
何もしなければこの恋は何も始まらない。
時間だけが過ぎて、
卒業して、
「あのとき話しかければよかった」
そう思う未来が来るだけだ。
嫌だ。
それだけは嫌だ。
でも怖い。
やっぱり怖い。
もし、
「ごめん」
と言われたら。
もし、
困った顔をされたら。
もし、
もう話しかけてもらえなくなったら。
そう考えるだけで、
心臓が痛くなる。
私は鞄の肩紐をぎゅっと握った。
恋って、
なんでこんなに難しいんだろう。
発表より難しい。
バタフライより苦しい。
誰も答えなんて教えてくれない。
正解もない。
でも、
私は歩き続ける。
家までの道を。
そして、自分の気持ちからも逃げないように。
その日の夜、
私はベッドに寝転びながら天井を見つめていた。
眠れない。
目を閉じても須藤くんの顔ばかり浮かぶ。
教室で笑っていた顔。
一年生を助けたときの顔。
数学の時間に寝ていた顔。
全部思い出してしまう。
「重症だ……」
私は枕に顔を埋めた。
好きって、
こんなに人の頭をいっぱいにするものなんだ。
時計を見る。
もう十一時だった。
明日も学校なのに。
寝なきゃ。
そう思えば思うほど眠れない。
私は寝返りを打つ。
そのとき、
ふとスマホの画面が光った。
結衣からだった。
『明日、朝早く行く?』
私は少し考えてから返信する。
『どうしたの?』
すぐに返事が来た。
『いや、ちょっと先生に用事あるだけ〜』
私は「そっか」と返してスマホを置いた。
……朝。
朝か。
もし。
もし明日、
少しだけ早く学校へ行けば。
須藤くんと話せるかな。
いやいや。
何を話すの。
「おはよう」?
いや急すぎる。
変に思われる。
でも、
「おはよう」くらいなら、
言ってもいいんじゃない?
いや、無理。
でも……
いや、
でも、
私は布団の中で何度も寝返りを打った。
結局その夜も、
答えは出なかった。
それでも、
胸の奥では何かが少しずつ動き始めている気がした。
蝶が羽を動かすように。
ほんの少しだけ、
私の勇気も羽ばたき始めていた。
翌朝、
私は、いつもより三十分も早く家を出た。
何をしているんだろう。
自分でもそう思う。
別に須藤くんと待ち合わせをしているわけでもない。
約束なんてしていない。
それなのに、足は自然と学校へ向かっていた。
「おはよう」
その一言だけ。
その一言だけ言えればいい。
そう何度も自分に言い聞かせる。
……でも。
その一言が一番難しい。
学校へ着く。
まだ生徒は少ない。
教室へ入り、自分の席に座る。
誰もいない教室は静かだった。
窓から朝日が差し込み、机の上を明るく照らしている。
私は鞄を置き、深呼吸をした。
落ち着け。
今日はただ、
「おはよう」
それだけ。
それだけ言えばいい。
それだけで今日は百点。
そう決めた。
ガラッ。
教室の扉が開く。
「おっ、張乃、おはよう」
結衣だった。
「お、おはよう」
「早いじゃん」
「ちょっとね」
危ない。
今ので心臓が跳ねた。
結衣ですらこうなんだから、
須藤くん相手なんてどうなるんだ。
そんなことを考えているうちに、
少しずつ教室へ人が増えていく。
私は落ち着かなくなった。
まだかな。
いや、何を待っているんだ私は。
来る保証なんてないじゃん。
そのときだった。
「おはよー」
聞き慣れた声。
私は反射的に後ろを向いた。
須藤くんだった。
友達と話しながら教室へ入ってくる。
来た。
心臓が、
一気に速くなる。
言うんだ。
「おはよう」
それだけ。
立て、振り向け、声を出せ。
私は椅子から少し腰を浮かせた。
その瞬間、
須藤くんは友達に呼ばれ、そのまま笑いながら後ろの席へ行ってしまった。
「あ……」
まただ。
また何もできなかった。
私はゆっくり座り直す。
昨日から何も変わっていない。
いや、
昨日より悪いかもしれない。
朝早く来た意味。
ゼロ。
完全敗北。
私は机に突っ伏した。
「何やってんだろ、私」
自分で自分に呆れる。
でも、
そんな私を見て、結衣が笑う。
「朝から眠そうだね」
「あはは……」
ごまかすしかなかった。
恋って、
本当に人を馬鹿にする。
いや、
馬鹿になるのかもしれない。
授業中、
先生の話は耳に入らない。
黒板も見ているようで見ていない。
私の頭の中では、
朝の失敗だけが何度も再生されていた。
言えたじゃん。
あと一秒早ければ。
なんで動けなかったの。
そんな後悔ばかりだった。
昼休み、
私は一人で中庭へ出た。
秋の風が気持ちいい。
ベンチへ座り、
ぼんやり空を見る。
そのとき、
また蝶が飛んでいた。
黄色い、小さな蝶。
花から花へ飛んでいる。
昨日見た蝶とは違う。
でも、
やっぱり羽ばたいている。
風が吹いても、少し流されても……
また羽ばたく。
私はその姿を見ながら思う。
蝶は、
「飛べるから飛ぶ」
んじゃない。
飛び続けるから、
飛べるんだ。
私は昨日、
一歩踏み出そうとして止まった。
今日も止まった。
じゃあ、
明日は?
明後日は?
百回止まったって、
百一回目で進めたら、それでいいんじゃないかな。
そんなことを考えていると、
蝶は校舎の向こうへ飛んでいった。
私は立ち上がる。
まだ勇気はない。
でも、
昨日より少しだけ、前を向ける気がした。
放課後、
教室には帰り支度をする生徒たちがいる。
私は鞄を持ったまま立ち尽くしていた。
須藤くんは、今日も友達と話している。
笑っている。
いつも通りだ。
私は拳を握る。
今日も帰るだけ?
昨日もそうだった。
今日もそう?
明日も?
来週も?
卒業まで?
……嫌だ。
私は一歩踏み出した。
一歩、
また一歩と。
心臓が痛いくらい鳴っている。
耳まで熱い。
足が震える。
逃げたい。
でも、
止まりたくない。
私は須藤くんのすぐ後ろまで来た。
あと少し、あと一言、
「須藤く――」
その瞬間、
須藤くんがこちらを振り向いた。
須藤くんがこちらを振り向いた。
「……え?」
目が合った。
しまった。
本当に目が合ってしまった。
逃げたい。
いや、逃げちゃだめだ。
ここまで来たんだから。
「す、すどう……」
だめだ。
声が小さい。
自分でも何を言っているのかわからない。
須藤くんは少し首をかしげた。
「俺?」
「あっ……」
違う。
違わないけど、違う。
こんなのが言いたかったわけじゃない。
私の口は開いているのに、言葉が出てこない。
心臓だけが、やけに元気だった。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
耳の中まで響いている。
周りの音が遠くなる。
前作の発表のときと同じだ。
自分がどこに立っているのかわからない。
何を見ているのかわからない。
何を話そうとしていたのかもわからない。
ああ。
まただ。
私はまた、自分を見失っている。
「澄羽さん?」
須藤くんがもう一度呼ぶ。
私はぎゅっと拳を握った。
逃げる?
ここで「なんでもない」と言って逃げる?
それなら簡単だ。
いつも通りだ。
私は臆病者のままでいられる。
でも、そのときだった。
ひらり。
一枚の紅葉が、私たちの間を横切った。
窓から入ってきた風に乗って、
赤い葉はゆっくり床へ落ちていく。
その様子を見た瞬間、
昨日見た蝶を思い出した。
風に流されても、
羽ばたいていた蝶。
飛びたい場所へ行くために、
何度も羽を動かしていた蝶。
私は、
まだ一度も羽ばたいていない。
飛ぶ前から、
落ちることばかり考えていた。
そうか。
私はずっと、
「告白する勇気」が欲しかったんじゃない。
「話しかける勇気」が欲しかったんだ。
いきなり空高く飛ぼうとしていた。
だから怖かった。
蝶だって、
最初の一回の羽ばたきから空の彼方まで飛ぶわけじゃない。
一回、また一回と少しずつ。
それでいいんだ。
私は息を吸う。
大丈夫。
今日は、たった一言だけ。
「……お、おはよう」
…………。
言った。
放課後なのに。
おはようって言っちゃった。
何をやってるんだ私!
終わった。
人生終わった。
私は恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
穴があったら入りたい。
いや、
日本のマンホール全部開けてくれ。
今すぐ潜る。
私は目をぎゅっと閉じた。
すると、
須藤くんが吹き出した。
「ふっ……」
え。
笑われた?
やっぱり変だった?
そう思った次の瞬間。
「それ、朝言おうとしてた?」
その一言に、
私は固まった。
「……え?」
「朝、なんか俺の方見てたじゃん」
……。
見られてた。
終わった。
完全に終わった。
私の観察。
全部バレてた。
もう学校に来れない……
私は頭の中で卒業式を迎えていた。
「いや、ごめん」
須藤くんは笑いながら頭をかいた。
「なんか話しかけようとしてるのかなって思って」
私は言葉を失う。
気づいてたんだ。
全部、全部じゃないかもしれない。
でも、
私が勇気を出そうとしていたことだけは、
ちゃんと伝わっていた。
「その……」
私はもう一度口を開く。
今度こそ逃げない。
「須藤くん」
「ん?」
「ちょっとだけ……話しても、いい?」
言えた。
告白じゃない。
でも、
私にとっては、
告白よりずっと大きな一歩だった。
須藤くんは少し笑って、
「ああ、いいよ」
と答えた。
その返事だけで、
胸の中の何かがふわっと軽くなる。
蝶は、
急に高く飛べるようにはならない。
少しずつ。
羽ばたいて、風に乗って、
そうやって空を覚えていく。
たぶん私も、
今日ようやく、
最初の一回だけ、
羽ばたくことができたのだ。
「ちょっとだけ……話しても、いい?」
言ってしまった。
私は須藤くんに。
その瞬間、自分でも信じられなかった。
須藤くんは、ごく自然に答えた。
その「いいよ」が、こんなにも安心する言葉だなんて知らなかった。
私たちは並んで歩き始める。
といっても、廊下を少し歩くだけ。
話題なんて何も考えていない。
いや、考えていた。
昨日の夜から何十個も。
「今日の数学難しかったね」
「眠そうだったね」
「部活って何やってたの?」
全部飛んだ。
頭の中は真っ白だった。
「えっと……」
出てきたのは、その一言だけ。
須藤くんは笑う。
「そんなに緊張しなくても」
「えっ?」
「澄羽さん、発表のときもそうだったじゃん」
私は立ち止まった。
覚えてたんだ。
あの発表を。
私の中では黒歴史みたいな出来事だった。
でも、須藤くんは続ける。
「ちゃんと最後まで話してたじゃん」
その一言に、胸が熱くなる。
私は、失敗したことしか覚えていなかった。
噛んだこと。
止まったこと。
頭が真っ白になったこと。
でも、須藤くんは違った。
最後まで話した。
そこを見てくれていた。
「ありがとう……」
小さな声で言う。
須藤くんは少し照れくさそうに笑った。
「いや、別に」
その笑顔を見た瞬間、
私はまた思った。
やっぱり好きだ。
その日は、それだけで十分だった。
「じゃあ、また」
「うん、また」
たったそれだけの会話。
時間にすれば五分もなかったと思う。
それでも私にとっては、
今までで一番長い五分間だった。
それからというもの。
私は少しだけ変わった。
朝、
「おはよう」
と言えるようになった。
帰り、
「またね」
と言えるようになった。
たまに授業のことで話すこともあった。
本当に少しだけ、少しだけだけど、
私たちの距離は縮まった。
でも、それと同時に、
別の気持ちも大きくなっていく。
好き。
その一言では足りないくらい。
話すたびに、笑うたびに、その気持ちは膨らんでいった。
ある日の帰り道、私はいつもの桜並木を歩いていた。
秋の桜は葉だけになり、
隣の紅葉が夕日に染まっている。
風が吹く。
一匹の蝶が飛んでいた。
夏より少しゆっくり。
それでも、
迷うことなく前へ飛んでいく。
私はその姿を見ながら思う。
前作で私は、
「沈まないために羽ばたく」
ことを知った。
そして今、
もう一つ知った。
羽ばたき続けなければ、
辿り着けない場所もある。
恋も、
きっと同じなんだ。
私は立ち止まり、
ポケットからスマホを取り出した。
画面には、須藤くんとの短いメッセージが並んでいる。
『今日ありがとう』
『こちらこそ』
たったそれだけ。
でも、
私はその文字を見て笑ってしまう。
もう、自分の中ではごまかせない。
だから私は決めた。
この恋から逃げない。
怖くても、振られるかもしれなくても。
私は、
自分の気持ちを伝えよう。
その翌日、
その放課後、
夕日に染まる廊下の中、生徒たちは少しずつ帰っていく。
私は深呼吸をした。
手が震える。
心臓が速い。
でも、
これは春の発表の緊張とは違う。
自分で選んだ緊張だ。
私は歩き出す。
一歩、また一歩と。
須藤くんが見える。
あと少し、
あと数歩だ。
私は大きく息を吸った。
「須藤くん」
彼が振り向く。
私は、
震える声で口を開いた⋯⋯
――『バタフライ〜恋と蝶の羽ばたき〜』 完
c²=a²+b²、三平方の定理ですね。
これができなかったら、どうなることか……
作者もどういう仕組みかよく分からなかったっていう覚えがあります。
今回は心理描写多めです。
作者の悩みとか難しいなって思ってるところを、
全部この作品にぶつけました。
ちょっとぶつけすぎて背景描写が途中からなまってるけど、すみません……
告白する直前でストップかけてますが、
この後は、読者の皆さまが想像していただけると幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
(評価していただけると励みになります…)




