獣人国の王女が婚約破棄を宣言されたなら
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「ノワール、お前との婚約を破棄する!」
王宮大広間の高い天井に、傲慢な怒声が反響した。壇上で顔を紅潮させ、指を突きつけているのは、コストルツィオーネ王国の王太子マローネ。
国王夫妻の不在を突いて開催された、名目不明の夜会。その真の目的がこの「茶番」であったことに、列席した貴族たちは言葉を失い、冷めた視線を交わし合う。そもそも、留学中だった隣国の王女ノワールに執着し、半ば強引に婚約を毟り取ったのは、他ならぬマローネ自身であったというのに。
涼やかに澄んだ切れ長の黒瞳、濡れそぼるような光沢を湛えた漆黒の長髪。花の蕾が綻ぶような唇。
そのしなやかな肢体を包むのは、夜の帳を写し取ったかのような、静謐な黒のドレス。
闇を纏うその装いが、透き通るほどに潔い白肌の輝きを、残酷なまでに鮮やかに浮かび上がらせる。
(これこそが、真の『美』だ……)
居合わせた人々は、初めて目にするその峻厳な美しさに、思わず膝をつきそうになっていた。
これまでこの国で「美」と定義されてきたのは、波打つ金髪に青い瞳、そして甘いパステルカラーのドレスに身を包んだ、いわば人形のような愛らしさ。まさに今、マローネの腕にしなだれかかっている令嬢のような姿だ。
しかし人々は、ノワールの芯から立ち昇る気高さに魂を揺さぶられ、同時に、隣で媚びを売る令嬢の薄っぺらな装いに、生理的な嫌悪さえ覚え始めていた。
(王太子が一目惚れしたのも、無理はあるまい)
(だが、自ら強引に求婚しておいて、この仕打ちは何だ……?)
(そもそも、あのみっともなく縋り付いている女は、どこの誰だ?)
貴族たちの冷ややかな困惑をよそに、マローネはさらに声を荒らげた。
「お前、私を騙していたな! あろうことか、獣人の血を引く卑しき身分であったとは!」
マローネが吐き捨てた罵倒は、あまりに的外れであった。
列席者たちの頭上には、困惑の沈黙が重くのしかかる。
だが、その怒号の渦中にあっても、ノワールは柳に風と受け流すように、静謐な佇まいを崩さない。
彼女はただ、深淵を思わせる瞳で男を見つめ、静かに、しかし断固とした響きで口を開いた。
「……私は、ティアヴァルトの者でございますが」
「それがどうしたというのだ!」
「ティアヴァルト王国の、王女にございます」
「だから、それがどうしたと言っている!」
その返答に、会場を支配していた困惑は、やがて救いようのない「呆れ」へと変わった。隣国ティアヴァルトの成り立ちを知らぬ者など、この場には一人としていない。それほどまでに基礎的な教養さえ欠いた王太子の醜態に、貴族たちは声もなく目配せを交わし合う。
いたたまれなくなった宰相が、重い腰を上げてマローネの耳元へ歩み寄った。
「……殿下。ティアヴァルトとは、古語で『獣の森』を意味する言葉でございます。
初代国王は、群雄割拠の荒野を武力で平定した伝説の獣人――『獣王』その人に他なりません」
「な……そ、そんな馬鹿な」
マローネは救いを求めるように大広間を見渡したが、そこにいたのは、あまりに当然すぎる教養を前に冷ややかな視線を送る貴族たちだった。
彼らの沈黙が「常識中の常識だ」と雄弁に物語っている。
「ねえねえ、どうしたのぉ?」
隣でしなだれかかる令嬢が、緊張感の欠片もない甘ったるい声を上げた。
マローネは縋りつくように彼女へ問いかける。
「……お前、ティアヴァルトの建国神話を知っているか?」
「てぃあゔぁるとぉ? えっとぉ、それってどこのお店の名前ぇ?」
そのあまりに空虚なやり取りに、居合わせた者たちはこの国の暗澹たる未来を予感し、深い憂鬱に沈んだ。
宰相は、この救いようのない愚か者たちの相手をすることに心底嫌気が差しながらも、己の悲願を果たすためだけに、辛うじてその場に踏み止まっていた。
「コ、コホン……!」
マローネはわざとらしく咳払いをし、崩れかけた体面を必死に繕った。
「貴様は獣人の証である耳や尾を隠し、我が国へ入り込んだ。それはあまりに卑劣な欺瞞ではないか!」
「獣人の血を引くといえど、それは数十代も前のこと。耳や尾など、今の我らには生えませぬが……」
「フ、フン! ええい、うるさい! 屁理屈を申すな! 婚約破棄だ、今すぐここから立ち去れ!」
マローネの怒号が響く中、ノワールはただ静かに、その艶めく唇を綻ばせた。
「……承知いたしました。では最後に二つほど、お願いを差し上げても?」
「な、何だというのだ!」
「殿下へ、惜別の接吻を。そして、身の回りのささやかなものを一つ、形見にいただければ嬉しく存じます」
その言葉を聞いた途端、マローネの顔はふやけたように緩んだ。婚約を破棄したとはいえ、稀代の美女からの口付けは、彼の浅薄な自尊心をこの上なく満たしたのである。
「……よかろう。許してやる」
「もう、マロったらぁ! 意地悪なんだからぁ!」
隣でしなだれ令嬢が甘えた声を上げ、マローネの肩を叩く。
(……マロってか!?)
その場にいた貴族たちは一斉に、心の中で猛烈な突っ込みを入れずにはいられなかった。
「では……失礼いたします」
ノワールがしめやかに歩み寄ると、マローネはしなだれ令嬢を無造作に追いやり、玉座にどっかと腰を下ろした。そして期待に胸を膨らませ、陶酔しきった表情で目を閉じる。
人々が固唾を呑んで見守る中、ノワールがゆっくりと距離を詰めていく。その時、列席者たちは己の目を疑った。近づくにつれ、ノワールの輪郭がゆらりゆらりと陽炎のように揺らぎ、徐々にその境界を失っていく。
そして次の瞬間、マローネの鼻先に立っていたのは、一頭の気高く、恐ろしくも美しい「黒豹」であった。漆黒の獣はマローネの顔へ顔を寄せると、躊躇なくその鼻先を牙で深々と貫いた。
「ヒ、ギィイイッ!?」
絶叫を上げ、のたうち回るマローネ。
だが黒豹は、獲物を逃さぬ冷徹さで食らいついたまま離さない。
「ひ、ひえぇっ!」
それを見たしなだれ令嬢は、悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、自らの豪奢なドレスの裾を踏み抜き、無様に階段へと顔から突っ込んでいった。
鼻を貫かれた激痛に、マローネはなりふり構わず涙を流し、無様に鳴き喚いた。
その醜態を見届けた黒豹は、ようやく牙を解くと、音もなく床へ着地する。
そして、傍らに立ち尽くしていた若き宰相、ヴェルデ・ボルドーへと歩み寄った。漆黒の獣は、彼のフロックコートの裾を、慈しむように優しく口に挟み、ついっと引っ張る。
「……っ!」
ヴェルデはその瞬間、すべてを悟った。自分を縛り付けていた忠誠という名の鎖が、今、この高潔な獣の手によって解き放たれたのだと。
彼は弾かれたように、黒豹の導きに従って駆け出した。背後で呻く愚鈍な主を振り返ることもなく、高らかに声を響かせる。
「殿下! 『殿下の身の回りのささやかな者』として……私は、お供させていただきます!」
折しも、月明かりを背に一羽の巨大な鷲が舞い降りた。ノワールとヴェルデは、その力強い翼の背へと身を躍らせる。呆然と見上げる貴族たちを残し、二人は夜の深淵へと、自由を求めて飛び去っていった。
(少し、強引すぎたかしら……)
ノワールはふと不安を覚え、隣で鷲の背に跨るヴェルデの横顔を盗み見た。
初めて体験する高空の疾走に、彼は幾分か身を強張らせてはいたが、その双眸には、かつて王宮で見せていた諦念など微塵もない。希望に満ちた輝きが宿っている。
(……ええ。きっと、大丈夫)
安堵の吐息を漏らしたノワールの脳裏に、ふと、遠い日の記憶が鮮やかに蘇った。
それは、彼女に王族の証である「変化」の力が顕現し始めて間もない頃のこと。陽光が降り注ぐ穏やかな午後、ノワールら兄妹は、ピクニックのために深い森を訪れていた。
「お兄様、見てください!」
幼き日のノワールは、愛らしい小柄な黒豹の姿となり、弾むように草地を駆けた。
「こら、待ちなさい。逃げ足が速くなったな!」
兄プレトが快活な笑い声を上げ、妹を追いかける。その微笑ましい光景に、供をしていた侍女や護衛たちも、思わず顔を綻ばせていた。
「遠くへ行ってはいけませんよ」
かくれんぼに興じ始めた兄妹の背に、侍女の穏やかな声が掛けられる。
だが、運命の歯車は音もなく狂い出した。ふと我に返ったとき、ノワールの周囲に、先ほどまでの賑やかな気配は跡形もなかった。じっとその場で待っていれば、誰かが見つけてくれたはずだった。
けれど、幼心に募った焦燥が、小さなノワールを突き動かす。彼女は必死に皆の姿を探し、無我夢中で森の奥へと駆け出した。己が助けから遠ざかる、真逆の方向へ向かっていることなど、知る由もなかった。
「おや、君はどこから来たの?」
走り疲れ、心細さに打ち震えていたノワールの前に現れたのは、一人の少年だった。少年は動けなくなった彼女をそっと抱き上げると、周囲に飼い主の影がないことを悟り、自らの邸へと連れ帰った。
そこはコストルツィオーネ王国の辺境、フルール公爵領。無我夢中で森を駆けた幼きノワールは、知らぬ間に国境を越えてしまっていたのだ。ノワールはすぐにでも人の姿に戻り、事情を説明しようとした。
しかし、芽生えたばかりの魔力はあまりに不安定で、極度の緊張が彼女を獣の姿に繋ぎ止めてしまう。言葉を持たぬ一匹の黒豹として、彼女はただ不安に身を委ねるしかなかった。
そんな「迷子の仔猫」を、少年ヴェルデは献身的に慈しんだ。細かく裂いた鳥肉を自らの手で与え、柔らかな毛並みを丁寧にブラッシングする。夜になれば、自分のベッドの傍らに設えた小さな寝床で、彼女が安眠できるよう見守りながら共に眠りについた。
数日後、王都から帰還した父・フルール公爵は、息子が溺愛するその「猫」を一瞥し、深く考え込んだ。
「ヴェルデ、その仔はどこから来たのだね?」
「森で動けなくなっていたところを見つけたんです」
公爵は静かに頷くと、愛おしげに息子と獣の頭を撫で、おもむろに書簡をしたため始めた。
さらに数日が過ぎた頃。
公爵邸の庭園に、陽光を遮るほどの巨大な影が三つ落ちた。
飛来したのは、見たこともないほど雄大な三羽の鷲。
ヴェルデは反射的に、守るように仔猫を抱きしめた。だが、鷲の背から降り立ったティアヴァルトの国王一家の姿を見るやいなや、仔猫は彼の腕の中で激しく身悶えた。
ヴェルデがそっと地面に下ろすと、彼女は弾かれたように、跪いて待つプレトの胸へと飛び込んだのだ。「……無事でよかった、本当によかった」
プレトの震える声。王妃が二人を包み込むように抱擁し、国王がさらにそのすべてを大きな腕で抱きしめる。
(ああ、あんなに大切にされていたんだ。……良かった)
国王一家の様子を目の当たりにし、ヴェルデの心には安堵とともに、耐えがたい寂寥感が押し寄せた。溢れそうになる涙をこらえる彼の肩を、プレトが優しく抱き寄せる。
そして、耳元で静かに、希望を灯すように囁いた。
「大丈夫だ。……約束するよ、きっとまた会える」
その言葉に、ヴェルデは滲んだ視界の中で、小さく、だが力強く頷き返した。
鷲の背に揺られながら、ヴェルデは隣の黒豹――ノワールの横顔を見つめ、同じ光景を脳裏に描いていた。
(あの時、プレト王子が口にした名は……『無事でよかった、ノワール』ではなかったか。もしそうだとしても、申し訳ないが、今はこの機会を利用させてもらおう)
ティアヴァルト王国に降り立ったヴェルデを待っていたのは、予想を上回る熱烈な歓迎だった。
国王一家は、あの日の幼き恩人を鮮明に記憶していたのだ。
「あの日からしばらくして、ノワールはようやく人の姿を取り戻したのです。けれど、あなたにどれほど優しくされたか、それは嬉しそうに何度も話してくれましたのよ」
王妃が慈しむような声で告げる。
(やはり、あのときの……)
視線を向けると、ノワールもまた彼を見上げ、その頬を仄かな朱に染めて、穏やかに微笑んでいた。ノワールは、やはりこの方があのときの少年、と胸を熱くしていた。
「まさか、コストルツィオーネの至宝たる宰相を連れ帰ってくるとはな」
国王もまた満足げに頷き、
「即刻、相応しき地位を用意せねば」
と現宰相と熱心に議論を交わし始めた。
こうしてヴェルデは、まずは宰相補佐としてその手腕を振るうこととなる。
平穏な数ヶ月が過ぎた頃、ヴェルデが重い口を開いた。
「陛下、お話ししたいことがございます」
父である国王と共に執務室へと消えていくヴェルデの背中を見送り、ノワールの胸は締め付けられるような痛みに襲われた。
(……やはり、あちらへお帰りになりたいのかしら)
しかし数時間後、執務室から姿を現した二人の表情は、一変していた。冷徹な決意を宿した厳しい面持ちで、すぐさま騎士団長を召集したのだ。ノワールは兄プレトと顔を見合わせ、不安に揺れる眉を寄せた。
騎士団長との軍議が終わり、ノワールたちが真実を告げられたのは、さらに数時間を経た後のことだった。
「……旧フルール領へ侵攻する」
父王の断固たる言葉に、ノワールは息を呑み、隣に立つヴェルデの横顔を凝視した。
フルール領――それは、彼が生まれ育った、かけがえのない故郷のはずだ。ヴェルデは静かに王族たちを見回し、低く、しかし熱を帯びた声で語り始めた。
「これは、私の悲願なのです。父を亡くした時、私はまだ十四でした。
本来ならば成人の十五を待って家督を継ぐはずが……王家はそれを許さなかった。
若輩であることを口実に領地を剥奪し、直轄領として掠め取ったのです」
肥沃な大地、豊かな家畜、そして栄える織物産業。マローネの父である国王は、その富に目をつけ、少年からすべてを奪ったのだ。
「私は母方の実家であるボルドー家へ身を寄せ、狂ったように学問に没頭しました。名を伏せ、ボルドーの人間として王宮の深奥へ入り込んだ……すべては、奪われた領土を奪還するために」
ノワールは、戦慄に近い衝撃を受けていた。この穏やかな微笑みの裏に、これほどまでに苛烈な志が隠されていたとは。
同時に、コストルツィオーネでの苦難の日々が脳裏をよぎる。
異国の言葉、馴染めぬ文化。ティアヴァルトの王女として培ってきた矜持さえ否定される過酷な教育の中で、唯一の救いは教育係の一人であったヴェルデの存在だった。彼は常に丁寧で、地政学の講義は知的好奇心を満たしてくれる至福の時間だった。
(もし、この方が私の婚約者であったなら……)
いつしかそう願うほどに彼に惹かれ、その面影に、かつて自分を救ってくれた少年の影を重ねていた。家名が違うことに戸惑いながらも、彼という存在そのものに、ノワールは心をときめかせていたのだ。
対するヴェルデもまた、密かに胸を痛めていた。あの愚鈍な王太子に強引に連れてこられ、望まぬ教育を強いられるノワール。
(一日も早く、平穏な故郷へ帰して差し上げたい……)
しかし、講義を重ねるうちに、彼は知った。ノワールはただ美しいだけの花ではない。驚くべき努力家であり、一度授けた知識を瞬時に応用してみせる、稀有な才知の持ち主であることを。王宮役人試験を首席で突破したヴェルデをして「これほど素晴らしい女性がいたのか」と驚嘆せしめるほどに。
いつしか、彼女と過ごす時間はヴェルデにとっても生きる糧となっていた。だが、彼は己を厳しく律し続けた。
(この方は王太子の婚約者。そして私は、復讐と奪還の途上にある身……)
二人は互いを深く慕いながらも、その想いを胸の奥底に封じ込めてきた。あの、運命を分かつ婚約破棄の騒動が起きるまでは。
「婚約破棄」を突きつけられた瞬間、ノワールの心に灯ったのは、絶望ではなく仄かな歓喜だった。
(ただ、このまま寂しく国へ帰るだけでは、きっと後悔する……!)
だからこそ彼女は、愛する者を力ずくで連れ去るという、大胆でいささか強引な賭けに出たのだ。
一方のヴェルデもまた、黒豹の姿をしたノワールが自分の裾を引いたとき、魂が震えるほどの歓喜に包まれていた。
(ああ、ようやくこの鎖を断ち切り、逃げ出せるのだ……)
自分を選んでくれた彼女の熱意と、この腐敗した国では決して叶わぬ「故郷奪還」の志。
彼は迷わず、ティアヴァルトの地へと身を投じる決意を固めた。
軍議から数日後。ティアヴァルト騎士団は、ついに旧フルール領への侵攻を開始した。国境で待ち構える守備兵たちと、あわや一触即発——その緊張を切り裂くように、先頭に立つ騎士たちの間からヴェルデが姿を現した。
「皆、聞いてくれ。私はヴェルデ・フルールだ! この地をあるべき姿に戻すため、帰ってきた。……同胞である君たちと、血を流し合うつもりはない!」
その名を聞いた瞬間、兵士たちの多くが武器を投げ出し、歓声を上げた。若き兵士たちにとって、先代公爵の時代は伝説に過ぎなかったが、家族から聞かされる話はいつも希望に満ちていた。
「公爵様がいた頃は、税は安く、食料は溢れ、誰もが笑い合っていた。それがどうだ、王家がこの地を奪ってからは、重税に喘ぐばかりではないか!」
地元の出身でない兵士たちも、周囲の圧倒的な熱狂に圧され、戦意を喪失して剣を収めた。
こうして旧フルール領は、戦火に焼かれることなくティアヴァルト王国の一部となり、ヴェルデは国王から公爵位を授けられ、正式にその地の領主へと返り咲いたのである。
「……何だとッ!?」
報せを受けたコストルツィオーネ国王の怒声が、静まり返った玉座の間に響き渡った。
「おのれ、いまいましい宰相め……いや、すべてはあの馬鹿息子の失態か!」
事態は領土を失うだけに留まらなかった。有能なヴェルデという「楔」を失ったことで、この国の歯車は音を立てて狂い始めていたのだ。
贅を尽くし、仕事をすべてヴェルデに押し付けていた貴族たちは、今や書類の山を前に右往左往するばかり。機能不全に陥った王宮からは税の徴収が滞り、末端の役人や騎士たちへの給金さえ支払われなくなった。生活のために内職を始める兵士が続出し、国防は風前の灯火。
焦燥に駆られた国王は、フルール領に隣接する伯爵を呼び出し、狂ったように命じた。
「直ちにお前の領から兵士を出し、フルール領を奪還せよ! 逆らう者は皆殺しだ!」
伯爵は死人のような顔で、深々と頭を下げるしかなかった。
しかし、国王の目論見は無惨にも打ち砕かれた。数日後、命じたはずの伯爵は一族を連れて領地へ逃げ帰り、ヴェルデの手引きによってティアヴァルトへと寝返ったのである。
国王は狂ったように次々と別の領主へ出兵を命じたが、結果は同じだった。誰もが沈みゆく泥舟から逃げ出し、真の輝きを取り戻したフルール領へと吸い寄せられていく。
「おのれ……くそうッ!」
もはや、王の命に従う騎士団すらまともに機能してはいなかった。
「……もう、諦めまひょ……」
間の抜けた声に、国王は燃えるような憎悪の視線を向けた。
(そうだ、すべてはこの愚か者のせいだ……!)
鼻を黒豹に噛み砕かれたマローネは、傷が癒えた後も無様に腫れ上がり、かつての美貌は見る影もない。
横でしなだれかかる令嬢も、階段に激突した際に前歯をすべて失い、口を開けば見るに堪えない形相を晒している。
「貴様……まだそんな不細工を連れ歩いているのか!」
「ひどいな、でも、本当でふね……」
変な鼻声で力なく答えるマローネ。
「バ(マ)ロ、ひろ(ど)ーい……!」
歯のない口でフガフガと喚く女。
王宮の喧騒から彼らが塔へと幽閉され、歴史の表舞台から消し去られるのは、このわずか後のことである。
一方、ヴェルデは荒れ果てた故郷・フルール領の再興に心血を注いでいた。
母の実家に身を寄せていた家族を呼び戻し、自ら泥にまみれて領民と共に汗を流す日々。そこへ、一人の女性が舞い降りた。
「……私も、お手伝いさせてください」
ノワールだった。
彼女は王女という身分を誇示することなく、誰よりも献身的に働いた。
その高潔な姿が家族や領民にとって欠かせない光となった時、ヴェルデは周囲の人々に背中を押されるようにして、彼女の手を取った。
「ノワール様……どうか、この地の公爵夫人として、私の傍らで生きてはいただけませんか?」
その言葉が届いた瞬間、ノワールの瞳から大粒の涙が溢れ出し、陽光を反射して真珠のように輝いた。
「……ええ、喜んで。あの小さな黒豹だったあの日から、私はずっと、あなたをお慕いしておりました」
震える声で答えた彼女の手を、彼は壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという意志を込めて強く握りしめる。
二人の誓いに、ティアヴァルト国王一家も心からの祝福を送った。
「まったく、待ちくたびれたほどだ」
満足げに笑う国王の横で、兄プレトがかつての日のように悪戯っぽくウインクを投げる。
「ねえ、言っただろう? 『きっとまた会える』って」
プレトは愛する妹と義弟となるヴェルデを、力強く、温かく抱きしめた。
数ヶ月の時を経て、フルール領は柔らかな新緑に包まれていた。降り注ぐ陽光の下、執り行われたのは、花々と祝福に満ちたガーデンウェディング。
永遠の愛を誓う神聖な沈黙の中、ヴェルデはノワールの耳元へ、悪戯っぽく唇を寄せた。
「よろしくお願いいたします……『ささやかなもの』ではございますが」
かつての言葉をなぞる囁きに、ノワールは弾かれたように身をよじり、その頬を林檎よりも赤く染めた。
「まぁ……! まだそんなことを。よほど根に持っていらっしゃいますのね」
「ええ、もちろん。ですから一生をかけて、私の隣で償っていただかなくては」
「ふふっ、望むところですわ」
重なる視線。ふと、ヴェルデがずっと胸に秘めていた問いをこぼした。
「……ところで。あの時、どうして王太子の鼻に噛みついたりしたのですか?」
「混乱に乗じて、あなたを攫ってしまおうと思いまして。お気に召しませんでしたかしら?」
「いや、結果としては良かったのだけれど……」
「けれど?」
「少し、妬けてしまって」
思いがけない告白に、ノワールは鈴を転がすような声で笑った。
「うふふ、よろしいですよ。お望みでしたら、いつでも噛みついて差し上げますわ」
堪えきれず、ヴェルデは自分の鼻を押さえ、吹き出した。
二人の笑い声は春風に溶け合い、高く、どこまでも高く舞い上がっていく。
見上げた先には、一点の曇りもない青空。二人の歩むこれからの日々を祝福するように、どこまでも透き通った世界が広がっていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
このお話の人名、および地名はすべて外国語から来ています。
ティアヴァルトはドイツ語で獣の森。
コストルツィオーネはイタリア語で人工建造物。
ノワールはフランス語で黒。
プレトはポルトガル語で黒。
マローネはイタリア語で茶色。
ヴェルデはイタリア語、スペイン語、ポルトガル語で緑。
フルールはフランス語で花という意味です。
お楽しみいただければ幸いです。




