第20話
ジジジジジジジ……。
鼓膜をヤスリで削るような、耳障りなノイズで意識が浮上した。
機械の駆動音ではない。
生物の放つ、圧倒的な夏の生命力の音。セミの鳴き声だ。
「……う、あ……」
重たい瞼をこじ開ける。
その瞬間、網膜を刺したのは、カーテンの隙間から差し込む暴力的なまでの夏の日差しだった。
昨夜見た、あの深淵のような宇宙の静寂はどこにもない。
あるのは、湿度と熱気に満ちた、日本のありふれた夏の朝だけだ。
「……身体が、重い」
ベッドから身を起こそうとして、呻き声を漏らす。
筋肉痛とは違う。
神経の一本一本が張り詰めたまま固定されてしまったような、奇妙な不快感。
時計を見る。
午前七時。
今日は夏期講習の日だ。
俺は泥のように重い身体を引きずり、制服に着替えた。
鞄を持つ。
いつも通りの教科書とノートが入っているだけのはずなのに、鉛の塊でも入っているかのように重く感じる。
「あんた、顔色悪いわよ。また夜更かししてゲームのやりすぎじゃないの?」
玄関を出ようとした背中に、母親の呆れたような声が飛んできた。
ゲーム。
その単語に、心臓が小さく跳ねる。
「……大丈夫、大丈夫。行ってきます」
俺は振り返りもせず、力なく手を振って家を出た。
母親の言う通りだ。
あれはゲームだ。
ただ、少しばかりリアリティのパラメータがバグっていただけの、よくできたVRゲーム。
ガチャリとドアを閉める。
モワッとした熱気が全身を包み込む。
アスファルトからの照り返しが、視界を白く揺らめかせていた。
通学路を行き交う人々。
くたびれたスーツのサラリーマン、部活へ向かう他校の生徒、買い物へ行く主婦。
すれ違うたび、俺の視線は無意識に彼らの頭上や胸元を彷徨う。
(……表示されない)
『戦術解析』。
昨夜、ゲームの中で見たあのウィンドウを探している自分がいた。
だが、何も見えない。
ただの人間が、ただ歩いているだけだ。
緑色のカーソルも、脅威度判定の赤文字も浮かばない。
「……はは。そりゃそうだよな」
俺は乾いた笑いを漏らし、安堵の息を吐いた。
同時に、胸の奥底で何かが冷たく沈むような、失望感も覚えた。
やっぱり、あれはただのゲームだ。
俺の頭がおかしくなったわけでも、世界が変わったわけでもない。
ただの寝不足と、ゲーム脳の錯覚。
そう自分に言い聞かせながら、俺は学校の校門をくぐった。
***
夏期講習の教室は、冷房が効いているはずなのに、どこか空気が澱んでいた。
チョークが黒板を叩く、カツカツという乾いた音。
老教師の単調な声が、呪文のように古文の活用形を読み上げている。
「……なんか集中できないな」
俺は頬杖をつき、ノートの隅に意味のない幾何学模様を描き殴っていた。
退屈だ。
昨夜の体験が、あまりにも鮮烈すぎた。
無限に広がる星の海。
まるで空を飛ぶかのような高機動。
思考と直結して動く、鋼鉄の身体。
あの『ナイトハウンド』の疾走感と比べれば、この教室はまるで、色の褪せたモノクロ映画のようだ。
「(次の展開、どうなるんだろうな……)」
意識はいつの間にか、昨夜の続きへと飛んでいた。
惑星降下。
新しい仲間。
アビスウォーカーとの戦闘。
カチ、カチ、カチ。 手遊びで回していたシャープペンシルの芯を出し入れする。
そのプラスチックの安っぽい感触に、指先が違和感を訴える。
違う。
俺の手が求めているのはこれじゃない。
もっと重く、吸い付くような『村雨』のグリップ。
あるいは、撃鉄を起こす時の硬質な金属の手応え。
現実感が希薄だ。
まるで、自分の身体のサイズが合っていない着ぐるみを着せられているような感覚。
あるいは、解像度の低い、質の悪いVRゲームの中に閉じ込められているような錯覚。
どっちが現実で、どっちが夢なのか。
その境界線が、熱で溶けたアスファルトのように曖昧になっていく。
チャイムの音が、俺を現実に引き戻した。
午前の講習が終わったのだ。
周りの生徒たちが一斉に席を立ち、昼食の相談や部活の話で騒ぎ始める。
俺はその喧騒に混ざる気になれず、逃げるように教室を出た。
***
下校時。
俺は校舎の外、グラウンド沿いの通路を歩いていた。
フェンスの向こうからは、野球部の活気ある掛け声が聞こえてくる。
「しまっていこー!」
「オッス!」
土埃の匂い。
制汗剤とサロンパスの匂い。
健康的な青春の音が、今の俺にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
快音が響く。
フリーバッティングでもしているのだろう。
俺は足元の小石を蹴りながら、昨夜のハエのことを思い出していた。
あの時、確か指先が触れた。
あれは偶然だったのだろうか。
それとも――。
「危ないっ!!」
誰かの、悲鳴のような叫び声が鼓膜を打った。
思考が断ち切られる。
顔を上げる。
視界の端。右前方の空から、白い物体が急激に拡大してくるのが見えた。
ボールだ。
ファールチップした硬球が、放物線を描くことすらなく、ライナー性の軌道で一直線に俺の顔面めがけて飛んできていた。
距離、約10メートル。
球速、目測100キロ以上。
回避は無理だ。
普通の人間なら、反射的に目を瞑り、身体を強張らせて衝撃に備えるのが精一杯のタイミング。
直撃すれば、顔面骨折どころか、当たり所が悪ければ失明もありえる。
死角からの奇襲。
絶体絶命。
――そのはずだった。
カチリ。
俺の脳髄の奥で、昨日と同じスイッチが入る音がした。
世界の色が鮮やかになる。
喧騒が遠のき、時間が泥沼の中に沈んだように減速していく。
迫りくる白い球体。
その表面の赤い縫い目の一本一本までもが、鮮明に見える。
ボールは右回転しながら、空気抵抗を受けて微妙に軌道を変化させている。
「どこに来るか」が、直感的に分かる。
「(取れる……)」
思考の中で、俺は冷徹にそう呟いた。
身体が、勝手に動いた。
脳が指令を出すよりも早く。
脊髄に刻まれたプログラムが、肉体を駆動させる。
左手。
スッ、と風を切って手が上がる。
恐怖による防御反応ではない。
最小の動きで急所を庇いつつ、対象を止めるための最適解。
俺の左手が、ボールの軌道上に差し込まれる。
正面からぶつかるように取るのではない。
ボールの勢いを殺すように、接触の瞬間に手首を柔らかく引き、回転に合わせて掌で包み込む。
バシィッ!!
乾いた捕球音が、グラウンドに響き渡った。
ズン、と手首に重い衝撃が走る。
だが、身体が自然と半歩下がり、衝撃を足元へと逃がしていたため、痛みは一瞬の痺れだけで消えた。
俺の左手は、顔面のわずか数センチ手前で、硬球を鷲掴みにしていた。
「…………」
静寂。
時が止まったかのような、完全な沈黙が場を支配した。
一拍遅れて、現実の時間が動き出す。
「おい、大丈夫か!? ……って、ええっ!?」
フェンス越しに駆け寄ってきた野球部員たちが、金網にしがみついて目を丸くしていた。
バットを持った部員が、口を半開きにして固まっている。
「マジかよ……今の、取ったのか? 素手で?」
「嘘だろ、絶対顔面に当たったと思ったのに……」
「すげぇ反射神経だな……どうやって反応したんだ?」
ざわめきと、困惑混じりの称賛の声が波紋のように広がっていく。
「大丈夫ですか!」と遠くから顧問の先生が走ってくるのも見えた。
だが、俺の耳にはそれらの声は届いていなかった。
俺は、自分の左手を見つめていた。
手の中にある硬球の感触。
ざらついた革の質感。
摩擦熱を持った、確かな重み。
左手が、小刻みに震えている。
恐怖?
いや、違う。
あまりにもスムーズすぎたのだ。
無駄の一切ない動きで「処理」してしまった自分の肉体への違和感。
「ゲームのせい……なのか?」
噂に聞いたことがある。
最新のVR技術は、脳に直接信号を送ることで、現実の訓練時間を短縮する学習効果があると。
スポーツ選手のイメージトレーニングや、軍事訓練にも使われているという都市伝説じみた話。
昨日の記憶がフラッシュバックする。
あの時の経験で俺の脳はゲームの中で動作を学習し、それが現実に反映されたのか?
「……いや、違う」
俺は即座に、自分の仮説を否定した。
おかしいのだ。
俺が昨日『ギャラクティック・フロンティア』をプレイしたのは、たったの数時間だ。
チュートリアルを終え、初期ミッションをいくつかこなしただけ。
身体に染みつくほどの「反復練習」なんて、絶対にしていない。
学習と呼ぶには、経験があまりにも浅すぎる。
百回や千回の試行錯誤があって初めて身につくような動きが、たった数時間のプレイで定着するはずがない。
なのに、今の俺の動きはなんだ?
まるで「そう動くこと」へ最適化したみたいに。
練習して身につけたというより、デジャブのような感覚に近い。
俺は震える手で、硬球を強く握りしめた。
革のきしむ音が、現実の音として掌の中で鳴いた。
「……一体なんなんだ」
VRゲームによる経験値が俺を変えたのか?
いや、もっと別の、得体の知れない何かが俺の中で目覚め始めている気がする。
底知れない戦慄と、そして抑えようのない高揚感が、背筋を駆け上がっていった。




