第10話
ふっ、と。
世界を構成していた光の粒子が霧散する。
数秒前まで身体を包んでいた硬質な鋼の感覚、人工筋肉の唸るような振動、そして世界をクリアに映し出していたカメラアイの視界。
それらが急速に遠のき、代わりに重く、湿った闇が俺を包み込んだ。
「…………」
目を開ける。
そこにあるのは、見慣れた天井のシミと、薄暗い空間だけだった。
俺は、ゆっくりとヘッドギアを外そうと手を持ち上げた。
その瞬間、強烈な違和感が襲った。
「……おも、い」
腕が、鉛でできているかのように重い。
ヘッドギアを掴み、サイドテーブルに置くだけの動作が、ひどく億劫な大仕事に感じられた。
ガコッ、と無骨な音が響き、プラスチックの筐体が机に置かれる。
俺はベッドの縁に腰掛け、大きく息を吐いた。
部屋の中には、エアコンの室外機が唸る低い駆動音と、遠くの道路を走る車の走行音だけが響いている。
無限に広がっていた星の海を漂うコロニーから、狭苦しい四畳半への帰還。
その落差が、脳を麻痺させる。
「重い……まさか、重力の感覚を感じるなんてな」
俺は自分の掌を握り、そして開いた。
反応が遅い気がする。
『ナイトハウンド』に乗っていた時は、思考した瞬間に指先が動いていた。
だが今は、脳から発せられた命令が神経を通り、筋肉を収縮させ、ようやく指が動くまでに、「ラグ」を感じる。
これが、現実か。
ゲームの中の、あの最適化されたコロニーの重力とレスポンスに脳が慣れきってしまったせいで、生身の肉体がひどく不便な乗り物に思えてくる。
立ち上がろうとして、足元がおぼつかずによろけた。
膝に力が入らない。
平衡感覚がずれている。
まるで船酔いの陸酔いバージョンのようだ。
「おいおい、こんなレベルのVRゲームが存在したのかよ……噂にある軍用の訓練VRって言われても違和感ねえ、凄過ぎだろ」
独り言が、乾いた唇から零れ落ちる。
凄すぎる、なんて言葉じゃ足りない。
あれはもう、別の現実だった。
思考を巡らせようとした瞬間、喉の奥が張り付くような強烈な渇きを訴えた。
そういえば、最後に水を飲んだのはいつだ?
ゲーム内での時間は数時間程度だったはずだが、体感では数日を過ごしたような疲労感がある。
「……水」
俺はふらつく足取りで部屋を出た。
廊下の床板が軋む音が、やけに大きく聞こえる。
階段の手すりにしがみつくようにして一階へ降り、台所へと向かった。
冷蔵庫の扉を開ける。
ブゥン、というモーター音と共に、冷気と庫内の明かりが漏れ出す。
その人工的な光が、今の俺には救いの光のように見えた。
ドアポケットに入っていた麦茶のポットを鷲掴みにする。
冷たい。
結露した水滴が手に触れる。
食器棚からコップを取り出し、震える手で茶色い液体を注ぐ。
トクトクと注がれる音すらも、高解像度の効果音のように鼓膜に響く気がした。
一気に煽った。
香ばしい香りと冷たさが、乾ききった食道を駆け下り、胃袋へと染み渡っていく。
「ふぅ……生き返る」
コップをシンクに置き、俺は深く息を吐いた。
少しだけ、脳の霧が晴れた気がする。
やはり脱水症状気味だったのかもしれない。
落ち着きを取り戻し、改めて現状を整理しようとした、その時だった。
ブゥゥゥゥン……。
耳障りな羽音が、静寂を切り裂いた。
顔を上げる。
台所の天井、円形の蛍光灯の周りを、一匹の小さな羽虫が不規則に飛び回っていた。
黒い点のような羽虫。
普段なら気にも留めない。
せいぜい手で払いのけて終わりにするか、あるいは目障りに感じて部屋を出る程度の、日常の些細なノイズ。
だが。
「…………」
その羽音が鼓膜を震わせた瞬間。
俺の意識が、異常なほど鮮明に「そこ」へ吸い寄せられた。
世界が、泥の中に沈んだように減速する。
瞬きすら億劫になるほどのスローモーション。
俺の視線は、無意識のうちにハエの動きを捉え、離さなかった。
ただ見ているだけではない。
情報量が、多すぎる。
羽虫が右へ旋回する。
その羽ばたきの残像、わずかな空気の揺らぎまでもが、肌に触れるように知覚できる。
次は左。上昇。そして急降下。
不規則に見えるその動きが、まるでスロー再生された映像のように、手に取るように分かる。
不思議と、焦りはなかった。
次に奴がどこを通るのか、脳が勝手に答えを弾き出している。
まるで、何度も見た映画のワンシーンを眺めているような感覚。
「ここに指を出せば当たる」という確信が、思考よりも先に降りてくる。
俺は無造作に右手を伸ばした。
狙いを定める意識すらなかった。
シュッ。
静かな台所に、鋭く空気を切る音が響いた。
俺の指先が、空中の「ある一点」を通過する。
その瞬間、指の先に、微かな、本当に微かな「抵抗」を感じた。
柔らかい何かに触れた感触。
羽虫は、驚いたように軌道を大きく変え、換気扇の隙間へと逃げ込んでいった。
「…………」
俺は自分の右手を見つめたまま、凍り付いたように立ち尽くした。
中指と人差し指。
その指先が、わずかに濡れているような錯覚。
「……今、見えたぞ」
呟きは、戦慄に震えていた。
捕まえる気はなかった。
ただ、見えたからそこに「指を置いた」だけだ。
そうすれば当たるということが、分かっていたから。
捕まえようと思えば、捕まえられた。
潰そうと思えば、潰せた。
ハエが止まって見えたわけではない。
流れる時間の中で、俺の感覚だけが突出して加速していた。
これは、なんだ?
ただの反射か?
いや、違う。
この、神経が焼き切れそうなほどの集中力、そして対象の動きが手に取るように分かる感覚。
あの時と同じだ。
ゲームの中で、『思考加速』を使った時の、あの感覚に酷似している。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
同時に、強烈な目眩が俺を襲った。
「ぐっ……!?」
キーンという耳鳴り。
脳の奥が焼けるように熱い。
まるで、普段使わない脳の領域を無理やりこじ開けたような感覚。
「VR酔いか……」
視界が明滅し、足の力が抜ける。
俺はシンクに手をついて、なんとか身体を支えた。
ヤバい。
これは、ヤバい。
現実の肉体とVRでの世界の感覚の差から起こる吐き気。
脳の糖分が一瞬で枯渇していくのがわかる。
「今は……考えるな……寝よう」
這うようにして階段を上り、自室へと戻る。
ベッドに倒れ込むと、スプリングが軋む音を聞く間もなく、俺の意識は泥のような闇へと沈んでいった。
ただ、右手の指先に残る「羽虫に触れた感触」だけが、いつまでも消えずに残っていた。




