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『幸福の基準』

作者: 小川敦人

『幸福の基準』


「東京都内で炊き出しは150箇所を超えるらしいよ」

河野は、カフェのテーブルに広げた本を指差しながら言った。その指先は、インクの染みついた印刷工場で働く人間特有の、薄く黒ずんでいた。

「そのうえ都の清掃の仕事すると月に5万円を稼げるという。ホームレスも悪くはない暮らし方だって」

向かいに座っていた私は、コーヒーをすすりながら黙って聞いていた。河野が読んでいるのは『社会の底辺から見上げる星空』という本で、著者は高学歴の男性だった。出自は人に自慢できないほど貧困だったが、頭は良く国立大学を卒業している。そして今は、自らの意思で社会の底辺を生きることを選んでいるという。

「何でわざわざそんな生活を?」私は尋ねた。

「著者は言うんだ。社会の底辺を生きてきた、その方が居心地が良いって」河野はページをめくりながら答えた。「価値観の押し付けがなく、自由だって」

カフェの窓から見える銀座の街は、春の陽気に包まれていた。昼休みを利用して、私たちは同じ出版社に勤める同僚として、よくこのカフェで休憩を取っていた。

「おかしな話だね」私は言った。「世間では、成功とは上に登ることだと思われているのに」

「そうなんだよ」河野は本を閉じた。「でも、この著者は言うんだ。『社会が決めた成功の物差しこそが、多くの人を不幸にしている』って」

私たちの会話は、カフェに流れるニュースの音声によって中断された。


「...16歳で芸能界にデビューして一世を風靡した歌手兼女優の長谷川美月さんが、昨夜、高速道路で事故を起こし、搬送先の病院で暴れる騒ぎがありました。長谷川さんは数日前にも、公の場で奇行を繰り返し...」

河野と私は、テレビスクリーンを見上げた。かつて国民的アイドルとして親しまれた長谷川美月の、疲れ果てた表情がそこにあった。

「彼女、確か私立の難関大学を卒業してるんだよね」私は言った。

「そうだよ。歌手や俳優の華やかな世界に憧れて、十代からTVに出ることが人生の目標と言ってのけてた」河野は溜息をついた。「そして、その『夢』を実現させた」

「なにが幸福の基準か、もはやわからなくなるね」

私たちは黙ってコーヒーを飲み干した。


夕方、会社に戻った私は、新刊企画の打ち合わせに参加していた。「社会問題」コーナーを担当している私に、編集長は新たな企画を出すよう求めていた。

「最近、何か面白い話題はないか?」編集長の佐藤は、窓際の席から振り返って聞いた。

「実は…」私は河野から聞いた本のことを話し始めた。「『社会の底辺から見上げる星空』という本があって…」

会議室は静まり返った。編集長はメガネを外してこめかみをさすった。

「なるほど。確かに興味深いテーマだ」彼は言った。「幸福とは何か、成功とは何か。現代社会における価値観の多様性…」

「それに関連して」私は続けた。「長谷川美月の最近のニュースはご存じですよね。彼女こそ、世間が言う『成功者』なのに」

「なるほど」佐藤は頷いた。「対比的に扱えるかもしれない。底辺を選ぶエリートと、頂点に立って苦しむアイドル」

企画は承認され、私は河野と共同で特集記事を書くことになった。


週末、私は河野と共に『社会の底辺から見上げる星空』の著者、水島誠に会うために、上野の簡易宿泊所を訪れていた。

「案外、きれいな場所だな」河野はロビーを見回して言った。

確かに、想像していたよりも清潔で、小さいながらも整然とした空間だった。受付では、年配の女性が穏やかな笑顔で私たちを迎えた。

「水島さんなら、2階の共有スペースにいますよ」彼女は言った。

階段を上がると、小さな図書コーナーがあり、そこには十数人の住人が集まっていた。読書会のようだった。水島誠はすぐに見分けがついた。細身で眼鏡をかけた40代の男性。髪はやや長く、服装は質素だが清潔感があった。

「水島さん」私たちは自己紹介をした。「今日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ」水島は穏やかな声で答えた。「私のような者に興味を持っていただいて」

インタビューは読書会が終わった後、近くの喫茶店で行われた。水島は自分の生い立ちについて淡々と語った。

「父は工場労働者で、母はパートを掛け持ちしていました。家は狭く、勉強する場所もなかったので、夜は公園のベンチで教科書を開いていました」

彼は国立大学に入学し、一時は大手企業に就職した。しかし、三年目に会社を辞め、以来、定職に就かず、日雇い労働をしながら生きてきたという。

「なぜそのような生活を?」私は聞いた。「能力があれば、もっと…」

「よく聞かれます」水島は微笑んだ。「私が言いたいのは、『底辺』という言葉自体が間違っているということです。社会的な成功の物差しで測れば、確かに私は底辺にいるでしょう。しかし、別の物差しで測れば違う」

「別の物差しとは?」

「自由度、時間の使い方、人間関係の質、自分の生き方に対する満足度…」水島は言った。「私は、競争や出世、物質的な豊かさを追い求める生き方に居心地の悪さを感じていました。それよりも、自分のペースで生き、好きな本を読み、考え、時には文章を書く。そんな生活に幸福を感じています」

彼の言葉には説得力があった。しかし、私の中には疑問も残った。

「でも、病気になったら?将来は?」

「確かに不安はあります」水島は正直に答えた。「でも、実は多くの人が『安定』と信じているものも、実際にはそれほど安定していないのではないでしょうか。会社は倒産するかもしれないし、年金制度も将来どうなるかわからない。それよりも、日々を大切に生き、必要最低限の蓄えを持ちながら、人とのつながりを大切にする。それが私の選択です」

インタビューを終え、水島に見送られて宿を後にした私たちは、静かな上野の街を歩いていた。

「どう思う?」河野が聞いた。

「正直、混乱してる」私は答えた。「彼の言葉には説得力があるけど、それでも…」

「じゃあ、もう一人に会ってみよう」河野は言った。


翌日、私たちは渋谷の高級マンションを訪れていた。長谷川美月のかつてのマネージャーだった田中さんが、取材に応じてくれることになったのだ。

「長谷川さんのことは、本当に心配しています」田中は、リビングでコーヒーを出しながら言った。「私がマネージャーを辞めたのは3年前ですが、その頃から彼女の様子はおかしかった」

「どんな風に?」

「彼女は16歳でデビューして、あっという間にトップに上り詰めました。テレビ、CM、映画、コンサート…休む暇もないほどの人気でした」田中は言った。「でも、彼女はいつも『もっと』と言っていました。『もっと人気になりたい』『もっと認められたい』と」

「でも、彼女は既に国民的アイドルでしたよね?」私は尋ねた。

「そうなんです」田中は溜息をついた。「それでも、彼女の中には満たされないものがありました。難関大学にも合格し、勉強も仕事も完璧にこなして…でも、心の中は空洞だったんです」

田中によれば、長谷川は何をしても満足できなかったという。売れれば売れるほど不安になり、評価されればされるほど自信を失っていった。

「彼女は常に言っていました。『私は演じているだけ』『本当の自分なんて誰も知らない』と」田中は悲しそうに言った。「そして、自分自身も、本当の自分が何なのかわからなくなっていったんです」

「なぜそうなってしまったんでしょう?」河野が聞いた。

「私の考えですが…」田中は少し考えてから言った。「彼女は幼い頃から『成功』という目標を与えられ、それに向かって突き進んできました。でも、その『成功』の中身は空っぽだったんです。彼女は『なぜ成功したいのか』を考える機会がなかった」

インタビューを終え、マンションを出た私たちは、華やかな渋谷の街を見下ろしていた。

「二つの極端な例を見たね」河野は言った。

「そうだね」私は頷いた。「社会の底辺を選んだ男と、頂点を極めた女性」

「でも、幸福の基準はどこにあるんだろう」

その問いに、私たちは答えを見つけられないまま、帰路についた。


特集記事の執筆は難航した。水島誠と長谷川美月、二人の対照的な人生をどう描くべきか。私と河野は何度も議論を重ねた。

「この記事で何を伝えたいのか」編集会議で、佐藤編集長は問うた。「単なる対比で終わらせるのか、それとも何か提言があるのか」

私は考え込んだ。この取材を通じて感じたことを言葉にするのは難しかった。

「私たちが伝えたいのは…」私は慎重に言葉を選んだ。「『成功』や『幸福』という言葉が、人それぞれに異なる意味を持つということ。そして、社会が押しつける価値観に縛られず、自分自身の基準を見つけることの大切さです」

「でも、水島さんの生き方が正しくて、長谷川さんが間違っているというわけではない」河野が続けた。「どちらも自分の選択の結果です。ただ、その選択が本当に自分自身のものだったのか、社会や周囲の期待に応えようとしたものだったのか、そこが問題なのかもしれません」

佐藤は頷いた。「なるほど。では、読者に問いかける形で記事を構成してはどうだろう。『あなたの幸福の基準は何ですか?』と」

特集は『幸福の基準を問う〜社会の底辺と頂点からの視点〜』というタイトルで、月刊誌の巻頭を飾ることになった。


記事の発売から一週間後、予想外の反響があった。SNSでは議論が巻き起こり、「#幸福の基準」というハッシュタグが一時トレンド入りした。様々な立場の人が、自分の考える「幸福」について発信していた。

そんな中、水島から連絡があった。

「あなたの記事を読みました」彼は電話口で言った。「とても公平に書いてくださって、ありがとう」

彼は、記事をきっかけに自分の講演会が増えたことを報告してきた。「社会の底辺」という言葉の意味を問い直す活動を始めたという。

一方、長谷川美月については、彼女の所属事務所から「当面の間、芸能活動を休止し、療養に専念する」という発表があった。田中からの連絡では、彼女は静かな地方で暮らし始め、少しずつ回復しているとのことだった。

特集の成功により、私たちは続編として「現代における成功と幸福」をテーマにした書籍の企画を任されることになった。

「河野」私は企画会議の後、彼に尋ねた。「あなたにとっての幸福の基準って何?」

河野は少し考えてから答えた。「わからない。でも、少なくとも誰かに決められたものではないと思う」

「そうだね」私は頷いた。「私も探している途中かな」

カフェの窓から見える東京の街には、様々な人生が交錯していた。高層ビルで働く人々、公園で本を読む人々、忙しく行き交う学生たち。それぞれが、自分なりの「幸福」を追求している。

水島誠の言葉が思い出された。

「『底辺』や『頂点』という言葉自体が、ある価値観を前提としています。その価値観から自由になれば、新たな景色が見えてくるかもしれません」

私は手帳に、次の企画のためのメモを書き留めた。

「幸福の基準—それは他者との比較ではなく、自分自身との対話の中にある。」

窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。


三ヶ月後、私たちの本『幸福の物差し—自分だけの基準を見つける旅』が出版された。その中で、私たちは水島誠と長谷川美月の対照的な人生に加え、様々な立場の人々のインタビューを掲載した。

老舗和菓子店の三代目で、家業を継ぐか自分の道を行くか悩んだ末、伝統を現代に生かす新しい店を開いた女性。

大企業を辞め、過疎の村で農業を始めた元商社マン。

路上生活から抜け出し、今は簡易宿泊所で相談員として働く男性。

彼らに共通していたのは、「社会の期待」と「自分の望み」との間で葛藤し、最終的に自分自身の価値観を見つけ出したということだった。

本の最終章で、私たちはこう書いた。

「幸福とは、誰かに与えられるものではなく、自分自身で見つけ出すもの。それは時に、社会の常識とは相容れないかもしれない。しかし、他者の物差しではなく、自分自身の物差しで人生を測ることで、本当の意味での『成功』が見えてくるのではないだろうか」

本の発売日、私は水島誠から一通の手紙を受け取った。

「あなたの本を読みました。私が伝えたかったことを、さらに深く、広く伝えてくれてありがとう。これからも、様々な『幸福の形』を探し続けてください」

そして、驚くべきことに、長谷川美月からも連絡があった。彼女は療養を終え、芸能界に復帰するのではなく、若者のメンタルヘルスをサポートする活動を始めるという。私たちの本がきっかけの一つになったと、田中を通じて伝えてきた。

「あなたたちの本を読んで、私は初めて自分自身に問いかけました。『私にとっての幸福とは何か』と。それはファンの歓声でも、メディアの評価でもなく、もっと静かで、でも確かな何かだったのです」

彼女の言葉は、本の増刷版の「あとがき」に掲載されることになった。


一年後、私は出版社を辞め、フリーのライターとして活動していた。収入は減ったが、自分の書きたいテーマで記事や本を書けるようになった。河野は会社に残り、「社会問題」コーナーの編集長に昇進していた。

「幸福の基準は見つかった?」久しぶりに会った河野は尋ねた。

「まだ探している途中だよ」私は笑った。「でも、少なくとも自分の言葉で書けるようになった」

私たちが書いた本は、今でも静かに読み継がれている。SNSでは、「#私の幸福基準」というハッシュタグで、多くの人が自分なりの答えを共有していた。

水島誠は全国を回る講演活動を続け、簡易宿泊所の改善プロジェクトにも携わっていた。長谷川美月は表舞台には戻らず、若者向けのメンタルヘルス支援団体を立ち上げ、静かに活動を続けていた。

東京の街を歩きながら、私は考えた。「底辺」と「頂点」、その言葉自体が特定の価値観に基づいている。その価値観から自由になったとき、人はどんな景色を見るのだろうか。

かつての同僚から連絡があり、「幸福の基準」をテーマにしたドキュメンタリー番組の企画があると聞いた。水島と長谷川、そして様々な立場の人々に再び会える機会になるかもしれない。

「幸福の基準」という問いに、完全な答えはないのかもしれない。それでも、問い続けることに意味がある。そう思いながら、私は新しい取材の準備を始めた。

窓の外では、また新しい春の雨が降り始めていた。

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