電柱
その電柱は、昔からずっとそこに立っていた。
彼がこの街に来たのはほんの三十年程前だけれど、既にその時から電柱はぼろぼろだった。ぼろぼろのうえに、その電柱には、電線がついていなかった。
だから、彼は、その電柱が一体何のために存在しているのか不思議だった。
彼は、古いアパートの二階に一人で住んでいた。若いときに親元を離れ、その時からずっと一人でそこに住んでいる。窓際の机に向かっていると、その電柱を見下ろすことができた。彼は、何もする気が起きないときは、電柱を上からじっと見下ろす習慣がついていた。
ある日、電柱に異変が起こった。電柱が昨日よりも少し傾いていたのだ。最近彼は毎日のように電柱を見下ろしていたので、些細な変化に気づくことができたのだった。
あくる日も、彼は電柱の異変に気づいた。昨日はほんの少しだった傾きが、今日は、更に傾いでいる。
電柱の異変は、その二日間だけではなく、次の日も次の日も、毎日続いた。
気がつくと、十日経っていた。今や電柱は、すっかり傾いてしまっていた。しかも、その傾き方といったら、電柱の真ん中あたりからぐいっと折れ曲がるように傾いていた。彼はその電柱をみて、老人のようだと思った。
だが、彼はふと、もう一つの可能性に気づいた。
電柱は老人のように腰が曲がっているわけではなく、こちらを見上げているのかもしれない、と。確かに電柱は、彼の窓から見てのけぞっているようにも見える。
あの電柱は、こちらを見ているのかもしれない。
彼は、こちらを見上げてくる電柱を見下ろした。来る日も、来る日も、彼は電柱を見下ろした。
すると彼は、電柱が見ているのは自分ではないことに気づいた。
その年老いた電柱は、この部屋を、この窓を見ているのだ。
ある日、彼の部屋に電話がかかってきた。
窓から見下ろすと、電柱には電線が生えていた。
彼は電話には出なかった。
次の日、今まで彼の部屋の窓からはのけぞるように見えていた電柱が、まるでこちらにお辞儀をするように傾いていた。
まるで病気にでもなったみたいだ。
彼は今にも電柱が血を吐いて倒れるのではないかと思った。
そして電話が鳴った。
彼は出ない。
また電話が鳴った。
彼は出ない。
また電話が鳴った。
そして彼は受話器をとった。
窓から見下ろすと、電柱がまたのけぞるように傾いて、こっちを見上げていた。
受話器から聞こえてきたのは、年老いた老婆の声。
ごめんね、ごめんね。
母さん、もう父さんのそばには居られないの。
ごめんね、ごめんね。
こんなに小さな坊やを置いていくのはとてもつらいわ。
でも、連れてはいけないの。
ごめんね。
大丈夫よ、母さんはいつでも坊やのこと見ているわ。
ずっと見守るから、安心してね。
ごめんね、ごめんね。
母さん、もう死んじゃうみたい。
お医者様が言ってたわ。
あぁ、最後に坊やに会いたかったわ。
会って話がしたかった。
父さんとはうまくやっているのかしら。ご飯は食べているの?
けれど母さんはもうこの街から離れられないの。
けれど坊やはこの街に来てくれたわ。待っていてよかった。
大丈夫よ、母さんはいつでも見ているわ。
ずっと見守るから。
私が死ぬまでずっと。
風化した電柱から、白い骨が見えた。