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第四話 その者の死を望む

 七


 それは、今からずっと昔の話だ。

 俺の腕で、その少女は必死に暴れていた。熱が下がらない妹を村に置いてここまでやってきたその少女は、泣きながらもがいた。そして繰り返すのだ。何度も、何度も、それ以外の言葉を忘れてしまったかというように。


『この花さえあれば、妹は死なずに済むの!』


 だから、ねぇ、お願い。たった一輪だけでいいから、見逃して。――たった一輪だけでいいから。

 泣きながら、彼女は純白の花に手を伸ばした。たった一輪だ。彼女の言う通り、たったの一輪。それだけで、彼女の妹は助かる。俺が彼女に死者に咲く花を摘むのを許せば、本当にそれだけで彼女の妹は間違いなく救われるのだ。生者の命は尊い。俺はそれをよく知っている。この一輪が摘まれたとしても誰も気がつかないだろう。泣きながら家で閉じこもっているフアも気がつかない。だって花はこんなにもあるのだ。壁の端から端まで、生者が死ぬ限りこの墓地には純白の花が咲き続ける。だからこの中から一輪くらい無くなったって、誰にも分からないだろう。それでも俺はその少女を羽交い締めにするのをやめなかった。俺は、彼女が花を手に入れることだけは決して許してはならなかった。


『どうして!』

『俺が墓の守り人だから』


 彼女は泣き叫ぶ。


『ねぇ、どうして、この花を生者から守る必要があるの。この花さえあれば、たった一輪だけで私の妹は助かるというのに! この花で救われる命があるのよ!』


 それはその通りだった。この花はあらゆる病を治す薬でもあるのだから。あらゆる傷すら一瞬にして治してしまう。死者を蘇生させることはできないが、生者であれば、死んでさえいなければ、この花は必ず患者を全快へ導くことが出来る薬なのだ。だからこの花は生者の命を救う。だが、本当の意味でそれが生者を救うのならば、そもそも墓の守り人というものは生まれなかった。墓の守り人が死者に咲く花を守るのには理由があるのだ。


『お願い、死者に咲く花さえあれば、私の妹は助かるの!』

『死者が生者を助ける存在であってはならない』


 俺はその少女を後ろから抱きしめた。少女の瞳からは、それでも涙が零れ落ち続ける。


『死が、生きる人を救うことだけはあってはならないんだ』


 それが、墓の守り人が生まれた理由であった。フアから何度も教えられた、俺達墓の守り人の存在理由。少女の嗚咽が響く中、俺は静かに語る。


『死に意味を持たせてはならない。それが俺達、墓の守り人の掲げる信念であり、かつて生者によって生み出されたものだ。それは手の届く範囲で死んでゆく少数を救わない。けれど、それ以上の多くの生者を救う』


 少女は何を言っているか分からない、聞きたくないと、そういうように何度も首を横に振る。彼女の髪が振り乱れ、瞳から零れた雫が散ってゆく。


『死は、それ以上の意味を持ってはならない。死が生きる者を救うことはあってはならない。そのためだけに人生を捧げるのが墓の守り人であり、俺は墓の守り人だから、君に花を摘ませることは出来ない。それは俺にとっての禁忌だからだ。死者に咲く花が、死した者が生み出すものが、未だ生きている君の妹を救うことはあってはならない』

『分からない! 貴方の話を聞きたくないの!』

『死者の数より、薬を必要とする生者の数の方が、多いんだ。それも圧倒的に……』


 世界中にいるであろう、俺が出会ったことのない墓の守り人達が皆、各々の親から教わること。それは遥か昔から絶えることなく語り継がれる悲劇的な歴史だった。俺達はそれを子守歌のように幾度も聞いて育つのだ。


『まだ墓の守り人がいなかった頃、壁に囲まれていない墓地に死者は埋葬され、死者に咲く花は薬として日常的に使われていた。しかし、次第に人々は狂っていった。事故で手を失ってしまった者がいた。足を失った者がいた。不治の病にかかった者がいた。だから如何なる病も傷も一瞬にして治療してしまう死者に咲く花を求めて、人々は墓を荒らして花を奪い合ったそうだ。けれど薬を欲する者はあまりにも多すぎた。……大怪我を負って血が止まらなくなった者がいた。今にも息を引き取ってしまいそうな赤子がいた。床から起き上がれなくなった老人がいた。失明した少年がいた。生まれながらに病を抱えた少女がいた。子供を産めなくなった女がいた。性病にかかった男がいた。苦しむ人間は、世界中に溢れていたんだ。しかし、既に墓は荒し尽くされ、墓に埋められた死者はこれ以上、生者を救うことはできなかった……どうなったと思う?』

『知らないっ、もう離してよ!』

『生者は自らの手で死者を生み出し始めた――薬を求めて、人々は殺し合いを始めたんだ』


 かつて生きた人々がその結論に至るのは、あまりにも容易なことであった。純白の花が咲き誇る中、俺は淡々と歴史を語る。


『死者が、死者の生み出す花が人に救いを与えるのならば、生者を殺して死者にしよう。人々はその考えに至り、人を殺し始めた。それは大切な者を守るためだ。勿論、救いを求める者が動けるのならば己が生き残るために刃を持ち、救いを欲する者が恋人ならば、その恋人のために誰かが刃を振るった。もしくは親友のために、家族のために――きっと、君のように、愛する妹のために人を殺した人もいたのだろうな』

『そんなこと、知らないわ……』

『直接人を殺す勇気を持たない者もいた。すると商人は金儲けのために、死者に咲く花を売り始めた。死を金儲けに使い始めたんだ。もしくは、死者に咲く花を手に入れるという大義名分を掲げ、村を襲う集団も現れたそうだ。人を傷つけるために死を利用する。死者に咲く花は救いを求める者に高値で売られる。こうしてかつては平和に生きていた人々は、平和だった国は、次第に狂っていった。狂い果て、これ以上壊れるところなどないところまで人々は堕ちていった。――そして、壊れつくした最後に人々が求めたのが、死が人を救わない世界だった』


 こうして、墓の守り人は生まれた。死者に咲く花を生者から隔離し、決して利用させない墓の守り人。花で誰かを救いたいという欲を持ってしまわないために人々と交流をやめ、ただ墓を守ることだけに生涯を捧げる者。誰もが欲する最高の薬である死者に咲く花を守り続ける者。ただ、本当の意味で守っているのはこの儚い純白の花ではないのだ。

 ――本当に俺達が守っているのは。


『墓の守り人は、生者を守るためだけに存在しているんだ』


 だからこそ、俺は禁忌だけは犯せない。

 沈黙が落ちた。暴れて泣き叫んでいた少女は、それでも俺の話は聞いていたらしかった。彼女は涙を零しながらもなお歯を食いしばり、獣のような唸り声を上げる。俺の腕の中で大人しくなった彼女を覗き込めば、その瞳には月明りを反射する雫だけでなく、激情も湛えられていた。


『だから、貴方は私の妹を見捨てるの?』

『そうだ』

『私の妹も救えないで、何が生者を守る、よ。なにも救えてないじゃない……!』

『それでも、死に意味を持たせないことが生者を守ると信じている。だから、俺はこの死者に咲く花で君の妹を決して救わせない。……だから、このまま死んでくれ』


 救われることなく、無慈悲に死者となり、誰も救わず、そして美しい花を咲かせるだけの無意味な存在になってくれ。その言葉を聞いた少女は再び暴れようとした。自らの体を押さえつける俺の腕に噛みつこうとしたのだ。しかし、俺はその前に続ける。


『俺の父のように』


 その言葉は何の意味もなく、思わず零してしまった言葉だった。それでも、その言葉に少女はぴたりと動きを止めた。


『貴方の、お父さん?』

『数日前に死んだ。小さな傷が膿んで、熱が引かず、そのまま死んだ。手を伸ばせば今すぐにでも父を救える薬がいくらでも咲いているというのに、俺と母はそれを手に取ることを許されず、父が苦しむ様をまざまざと眺めることしかできなかった。死にたくない、妻のそばを離れたくない、息子の成長を見届けたい。慟哭する父を、救いを求める父の最後の願いを、俺と母は拒んだ。そして、父は死んだ。救えたはずの命を、俺達は見捨てた。それがあるべき形だから。死が人を救ってはならないから。だから今、あそこに花が咲いている』


 俺は片腕を少女から離し、眼前を指さす。少女は呆然と、俺の指先を追った。


『俺の父が生み出した、死者に咲く花だ』


 純白の花々に囲まれて、一輪だけひっそりと、それは咲いている。それは先程まで少女が必死に手を伸ばしていた純白の花であった。

 少女は崩れ落ち、俺も体から力を抜いた。俺達は支え合うようにして抱きしめ合い、涙を零す。俺と彼女にしか分からない嘆きがあった。絶望があった。しかし、俺達は哀哭を拒絶し、静寂を愛した。そこに意味はなく、ただこの沈黙を二人で分かち合いたかっただけだった。だからこそ俺達は無言で互いの体に腕を伸ばし、互いに縋ったのだ。まるでそれしか生きる術がないとでもいうように。

 その後、少女は口を閉ざしたまま、静かに帰っていった。本当はこの墓地に入った者は決して外へ出てはならず、殺さねばならないのだけれど、俺はそれが出来なかった。それは彼女の絶望に共感したからであり、妹を救おうと命がけでここまでやってきた少女への憧憬もあった。こうしてその少女は仮面を被って去っていった。

 翌日運び込まれた死体はあまりに幼くて、きっとこれからの人生を楽しみにしていたのだろうにと、俺は一人、嘆くことしかできなかった。


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