嫌われホストの夜食
バスを降りてアパートに帰る途中に、お洒落な看板のスナックがあった。
当時付き合っていたカレシと、初めて飲みに行った時にマスターから
『 店で働かないか?』と、その後も行く度に誘われていた。
彼と別れて数ヶ月経ったある日、店の前を通り過ぎようとした時に、お客を送り出すマスターと、思いがけず鉢合わせをして「1杯飲んでいきなよ!」と誘われた。帰ろうとしたお客も店に戻り1杯が数杯になり、当時 化粧品会社で働く私は化粧が濃く、やや派手な顔立ちが水商売に向いていると思ったのか、帰ろうとした時にマスターがまた
「働いてくれないか?」と懇願するような勢いだった。
彼とはもう別れたし、出勤日は気まぐれでもいいことを条件に働くことにした。
カウンター8席、小さなテーブルが2つのさほど広くないお店だったが、いつも賑わっていて、お客は 4.50代の既婚者が多く、2.3杯飲んでカラオケを数曲歌って帰る人が殆どだった。
そんなお店に、紫陽花が咲き出した小雨が降る日にその男はきた。
お客を見送りに出た時に入れ違いに「いいですか?」と二人の男が入って来た。
サラリーマンには見えない高そうなスーツを着ていて、雨に濡れたから…と上着を渡されて、ハンガーにかける時に見えたタグが、当時はまだ日本では無名の、ゴージラインの低いアルマーニだった。二人はカウンターに座るとバーボンを注文して、ひとりの男が私に名刺をくれた。
ホストか…
黒沢年雄似の色黒のホストが、それから時々店に来るようになった。
来るのはいつも遅い時間で、閉店になるまで飲んでいて、マスターが
『彼は危ないから…」と、いつもそのホストが帰るのを待って店を閉めた。
その日は彼もかなり酔っていて、店を閉めると言っても帰らず、私を送っていきたいとしつこく言う彼に根負けして、仕方なく彼を表で待たせて店の裏口を閉める時にマスターが、私の耳元で
「彼は気を付けなよ」と言った。
店から5分ほど歩きアパートの階段下で私が「ここでいいから」と言うと、「コーヒーくらい飲ませてよ!」と彼がニヤついた。嫌だな…と思いながらもお客さまなので仕方なく部屋にあげたが、今日の彼はちょっと危険な気がして、お湯が沸くまでヤカンの側で立ったまま話をして、ちょっとぬるめのお湯でコーヒーを入れた。
ぬるめの珈琲を三口ほど飲むと「お腹が空いたから何か食べに行かないか」というので、アパート裏の人気ラーメン店に行った。お腹が空いたと言っていた彼は1/3ほど残し、私が食べ終わると彼は「財布を忘れた」という。仕方なく私が払った。
ホストの世界では当たり前のことかもしれないが、昭和50年代当時の 私の日常には、女性が男性に食事を奢ることなど有り得ないことだった。
ラーメン屋さんを出てアパートの階段を駆け上り、部屋の鍵を開け
「ちょっと待ってて!! 」と彼に声をかけ、急いで部屋に入り彼のセカンドバッグを取った。
「ラーメン代は要らないから!!」
そう言って彼にバッグを渡しドアを閉めた。
苛立ちを露わにした彼の靴音が遠ざかるのを聞きながら、部屋の灯りをつけると、飲みかけのコーヒーカップの横に、彼が忘れて行ったカフスボタンがあった。
彼はラーメン屋を出る時も、バッグを渡した時も、ごちそうさま!! と言わなかった。財布を忘れたのは、もう一度部屋に上がり込む為の手段だったのか。
私は、彼が忘れていったカフスボタンを右手でぎゅっと握り窓を開け、アパート前の空き地に思いっきり放り投げた。
やはりなるべく関わりたくない人種だ。
あの男が食べたかった夜食は…。
たとえご私が馳走になったとしても、そう簡単に落ちる女じゃない。
まして自腹でラーメン代を払って抱かれるほど、私は安い女じゃない。