1話 『渚、人生最大のピンチ』
「────終わった」
意識が覚醒してすぐ、すぐ傍に置いてあるスマホの画面を見た。現在の時刻は十一時五十七分。丁度、時刻が昼に差し掛かろうとしている最中、ベットの上で横たわる少女は絶望に駆られていた。寝起きなのにも関わらず、眠気は一切感じられなかった。
「────ぁ、あ、ぁぁ…」
焦燥感が募りに募る。時計から発せられる秒針の音がやけに五月蝿い。思考を全て放棄し、少女は何も考えないように全身を布団で包み込み、その中で耳を塞いで完璧な防御壁を展開。が、秒針はその防御壁を軽々と突破して、少女に時間が刻々と過ぎていくのを伝えてくる。
「ま、待て……い、今のはただの見間違いなはずだ」
少女は残酷な現実を受け入れられず、先ほどスマホで見た時刻は、自分の見間違いなのではないかという可能性を導き出した。
再度、少女はスマホの画面の確認する。そこに表示されていた時刻は───、
「十一時五十八分……。いや、ま、待てよ……私は今、夢の中にいるという可能性はないか?」
スマホに表示された時刻を見た瞬間、少女の頭の中には、次なる考えが浮かび上がってきた。
この世界は現実ではないという可能性だ。現在、自分は夢の中におり、この世界は空想で創り上げられた偽りの世界。
その可能性に希望を導き出し、少女は早速頬をつねった。ここが夢の世界ならば、痛みは感じないはずだ。が、そんな希望は無惨にも砕け散っていった。
「痛い……」
少女の頬には痛みが浸透し、軽い唸り声を上げながら頬を抑えた。
痛みを感じる。つまりここは夢の世界ではないということが証明されてしまった。
刹那、少女の心の中に絶望感が注ぎ込まれてくるが、その絶望感を更に悪化させるものが少女の目に焼き付いた。
スマホが通知を受けて振動し、その通知の内容が液晶画面に表示される。その内容は少女にとって非常に耐え難いものであった。その内容は───、
『今駅前着いたんだけど渚ってもう着いてるの?』
某チャットアプリのメッセージに、さつきと言う名前の人物から、メッセージが送られてくる。
さつき──雪下紗月と言う名前であり、紗月は渚と言う人物が、駅に到着するのを待っているという状況だ。
そして、紗月から待たれている渚と言う人物は、一体何処にいるのかというと、
「渚は着いてます……頭の中で」
ベットに横たわりながら、白い天井を呆然と見上げているのが渚だ。寝起きの掠れた声で、静かにそう呟いた。
渚──名前は水無瀬渚と言い、都内に住む大学一年生だ。
今現在、渚は待ち合わせ場所になっている秋葉原駅前にいるはずが、何故か自宅のベットで横たわっており、絶えなく湧いてくる絶望感に打ちひしがれてた。
呆然とメッセージを眺めていると、いつの間にか時刻は昼の十二時に差し掛かってしまっていた。待ち合わせ時刻だ。終わりだもう。
「あぁぁがなかたぁあぎおさなぇぁぁ!まひまはむなたかあさたさまさはつらありあはまかまあまぁかなたひま!はまはたぶはまはらたらたなぁぁがはまらあはまざかだぁ!」
枕に顔を埋めながら全力でそう叫ぶも、無意味な行動に終わってしまう。
そもそも、何故昼の十二時に秋葉原駅前で待ち合わせしているのかと言うと、大学の友達である紗月と、秋葉原で買い物──オタ活をしに行く予定だった。
だが、十二時になった今でも、渚は家にいるため、完全に詰んでしまったと言う訳だ。
「ち、畜生………。す、全てはあいつのせいだなんだ……あいつさえいなければ…」
こうして渚が寝坊してしまったのは、前日の夜十時頃に、動画プラットフォームを軽く眺めていたところ、面白そうなアニメを見つけてしまったのが原因だ。
軽くあらすじを見たあと、これは面白いと確信してアニメを見始めた。それから、段々とアニメの沼へとハマってしまい、一度ハマってしまうと、まるで蟻地獄へ落ちたかのように抜け出せず、結局夜通しで全話一気見してしまった。
そのせいで、渚は深夜の四時頃に寝る羽目になってしまったのだ。
時間が経つにつれ、渚は何度もアニメの視聴を辞めようと試みたが、渚に深く刻まれたアニオタ魂が、何一つ言うことを聞いてくれなかった。
流石にこれはマズいと思い、スマホのアラームを十時に設定したのだが───、
「なんでなってねぇんだよ!おかしいだろ!ぶっ壊れてんのかよこの携帯!」
確かに、渚は朝の十時にスマホのアラームを設定した覚えがある。それなのに、スマホは静寂を保ったままであったのだ。
一分ごとにアラームを設定しておけば良かったと、そんな後悔の念に晒されるが、今更もう遅い。
「あー、もう無理だぁ…。秋葉原まで行くの結構時間掛かっちゃうし…」
紗月が待っている秋葉原へ向かうには、三十分は優に超えるだろう。故に、渚が秋葉原へ到着するのは、おそらく十二時半頃になるわけだ。
そう、渚が十二時丁度に家を出ていればの話だ。
「なんでこう言う時って時間早いの!おかしいでしょ!大学の講義中だったら時間すごく遅いのに!何?この空間だけなんかバグってない?」
気付けば、時刻は十二時五分。既に待ち合わせ時刻から五分が経過していた。
渚はこの世の不条理さに憤慨する。
時間というのは不思議なものだ。何故こういう時に限って、時間が通常より早く進んでいくのだろうか。
そうこうしている内に、渚の携帯が振動し始めた。
渚は恐る恐るスマホの画面を見ると、紗月から電話が掛かってきていた。
「う……出たくねぇな…」
紗月と話したくない。気まず過ぎる。絶対に怒られる。
このまま電話に出ないという考えも一瞬浮かんだが、それでは流石に申し訳なさ過ぎるので、渚は渋々電話に出ることにした。
大きく震える指を何とか抑えて、通話ボタンを押した。
「も、もも……も、もしもし……。な、なんでしょうか?」
渚は声を震わせながら、恐る恐るそう訊いた。
「ねぇ、渚?今どこにいるの?私もう着いてるけど」
「あ、あぁ………わ、私は…もうすぐ着くところだよ。うん、あともうちょっとだからね」
渚はもうすぐ着くと言ったが、実際は三十分近くは掛かってしまう。まあ、三十分を四捨五入すれば多分ゼロになるので、おそらく大丈夫だろう。
「それほんとに言ってる?渚さ、もしかして遅刻してるんじゃないの?」
その言葉を聞いた瞬間、渚の心臓が大きく跳ね上がる。
「いやいや、遅刻してるわけないじゃん!もうすぐ着くってもうすぐ、だから大丈夫だから、安心してそこで待ってて!」
「え?ちょっと、あ───」
渚は声を大きくして喋り続けると、紗月の言葉を待たず、一方的に電話を切った。
危機的状況を何とか打破し、渚は一安心して大きく息を吐くと、ようやくベットから起き上がった。
「だる……」
睡眠時間が短かったせいで、あまり体が休まっていないのだろう。
ベットから起き上がった瞬間、鉛のような重たさが渚の体中を襲う。
このまま二度寝してしまいたいが、紗月が待っているのでそうはいかず、渚は重い体を叱咤して、無理やり動かした。
「か、顔洗わないとな…」
起床して、まず最初にやるのが洗顔だ。
渚は重い体を動かして、何とか洗面台の前まで辿り着く。
洗面台の蛇口を勢いよく捻り、水を垂れ流す。その流れている水を手で掬い、顔に全力でぶつける。
「う───」
水の温度が冷たく、渚は呻き声を上げてしまう。この時点で、渚の心は殆ど萎えかけている状態だ。だが───、
「グッズを買いに行くため…グッズを買いに行くため…」
全てはアニメグッズを買いに行くため。今日の目的を思い出して、何とか心を奮い立たせる。
洗顔が終わったあと、続いては寝癖を直す時間だ。
「うわぁ……」
幸いにも、寝癖はあまりついていなかったのだが、渚の髪は少し乱れていた。
流石にこの髪では外出したくないので、すぐさま髪を整えようとするが、これまた面倒臭い。
なんせ、渚はロングヘアなので、髪を整える時間が多く掛かってしまうのだ。
一刻を争う時間の中、渚はヘア櫛や寝癖直しウォーターなどを駆使して、乱れた髪を最速で整える事に成功した。
「よし、おっけえ!」
出来は完璧とは言えないものの、特に目立つ部分はないので、とりあえずこれで良しとする。髪を直したので、次は───、
「着替えだぁ!」
外出用の服へ着替えるために、渚は洗面所から爆速で寝室へ向かい、勢いよくクローゼットを開けた。
「どれにしよ…」
悩んでいる暇は全く無いのだが、やはり服装には悩んでしまう。特段、お洒落に気を使っている訳ではないが、最低限の身だしなみは整えておきたい。
なので、渚はとりあえず目を瞑って、手探りで服を引っ張り出した。そして、ズボンが入っている収納棚を開くと、これまた手探りでズボンを引っ張り出した。
結果は両方とも黒。
如何にも無難といった感じの服装だが、今は気にしている暇では無い。外見のことなど知ったことか。
渚は残像残すほどの素早さで、服を着替えた。
「よ、よし…あとは…」
髪を直し、服も着替えた。残っているものと言えば、オタ活に必須なものだ。それは───、
「あった!」
リビングにあるミニテーブルの上に置かれた財布だ。これがなければ、今日は何もすることが出来ない。
財布を忘れようものなら、欲しいグッズが目の前にあるのに手に入らない一種の拷問を味わう事になる。
渚は素早く財布を手に取ると、即座に中身を確認する。
「ぐへへへへへ…これだけあれば…」
財布の中には、諭吉が十枚ある。
これは、今日のオタ活のために、先日銀行から下ろしてきた金だ。大学生にとっての十万円はかなりの痛手だが、アニメグッズの事となるとやむを得ない。
これだけあれば、大量のアニメグッズを買えるだろう。
「髪もよし、服もよし、お金もよし」
そう点呼しながら必要事項を全てを確認したところで、再びスマホの時刻を確認する。
見ると、時刻は十二時十一分。およそ六分ほどで身支度が出来たので、上々だ。
スマホの通知には、紗月からのメッセージと着信が幾つか来ていたが、それを見ないようにして、渚は全速力で玄関に向かう。
いつもの日課が行えていないのが非常に悔やまれるが、今は緊急事態なので、家に帰ったら直ぐにしよう。
渚は自身が出せる最高速度で、玄関へと猛ダッシュする。と、
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
全速力で走っていたので、全然足元を見ていなかった。
そのせいで、渚は勢いよく壁の角に足の小指をぶつけてしまい、その場に倒れ込み、尋常ではないほどの痛みに悶え苦しむ。
小指だけに痛みを集中砲火されて、渚の視界は真っ白に染まっていく。
とても動き出せない。おそらく、これが人生最大の痛みだ。
「うぅ………」
激痛が走る小指を両手で強く抑えて、必死に痛みを緩和させようとする。
「ふぅ…ふぅ……」
深呼吸をして、意識を落ち着かせる。次第に痛みが引いていき、渚はようやく立ち上がるまでに至った。
どのくらい経っただろうか。あまり激痛にの悶え苦しみ続けていたため、結構な時間が経ったと推測されるが。
「げ………」
スマホの時刻を見ると、現在は十二時十八分であり、およそ七分間もの間、渚は悶え苦しんでいた事になる。痛恨のタイムロスだ。
紗月からのメッセージも、大量に送られて来ていた。
流石に申し訳ないと思い、渚はメッセージを返信しておくことにした。
『ごめんね紗月。なんか異世界に飛ばされてたみたいだから、今から駅向かうね』
異世界に飛ばされたと書いたが、あながち間違えではないだろう。壁の角に小指をぶつけた結果、渚の世界は一時期に真っ白になっていたのだから。
「よし…今から行くから待ってろよ」
今から秋葉原駅に向かうと、到着するのは十三時頃だろうか。
一時間遅刻するのは確定だが、一時間なんて誤差の範囲に過ぎないので、おそらく大丈夫だ。
渚は足元に目を配りながら、玄関に向かって全速力で走った。
「これだっ!」
そして、玄関の前に辿り着くと、玄関横の棚に置いてある家の鍵を取り、適当な靴を履き終えると、勢いよく玄関の扉を開けた。




