フォールデイ
『20代の終幕』
この地方都市の代表駅の裏手にあるシアトル初のカフェチェーンと併設された大型書店[TATSUYA BOOKS]の店内でその本が目に留まったのは、《読書の秋フェア》の特設コーナーのディスプレイを施した書店員のセンスによるものなのか、又は170cmというアラサー平均身長の俺の目線に平置きを狙った出版営業の功によるものか、それとも俺がもうすぐ20代の終幕を迎えるにあたり現実を憂いた心境だったからなのかは定かではないが、俺は数秒の間その本の表紙を凝視していた。
『20代クライマックス、結末はハッピーエンド?』
その本の帯には捻った自己啓発特有の、希望とも不安ともとれる煽動文句が、赤字の太ゴシック体で印字されていた。
その既視感と強迫観念に嫌悪感を抱きつつも、20代という10年スパンよりも365日分にフォーカスを絞ってきている点においては、作者の信念と自信に感心するとともに、いやこれは逆に「今の俺が読むべき本だ!」と一定の条件を満たす読書に対する先入観をホールドするための振り切った戦略なのではと驚愕の念を抱いた。
「今の俺が読むべき本だ」
「え?」
心の声?
いや違う。肉声だ。
しかも俺の声じゃない。声質もキーも違う。しかも右側から聴こえた。
そこに男は立っていた。
「今の俺が読む本だ」
今度ははっきりソイツが喋っていた。独り言か?独り言って見ず知らずの他人の半径1m以内で正体して、かつ相手の目を真っ直ぐに見据えて言うものか?もしくは俺に言ってんのか?ならヤバいヤツか?
「そう言ってる顔してるなぁ」
俺に言ってる!ヤバいヤツか?返事するべきか?
「…いやぁ、まぁ、タイトルが目に留まっただけで」
「ヒットしたんだろ?てかドンピシャか」
「…ああ、まあ」
やべ、咄嗟に年齢バレちまった。まあ、まだセーフか。生年月日でもなければ、大丈夫だ。ていうか、なんなんだコイツは?
「その割に中々手には取らない。せっかく出来たかさぶたを剥がすべきか思慮するように」
「…いやあ、そんなんじゃないけど。つーか誰?」
「誰?この流れにその情報は必要か?」
「いや、流れっていうか、こっちからしたら質問の意図も読めないし。あんたはすでに俺の年齢聞き出してるし」
「おいおい聞き出すなんて物騒な。ああわかった、情報保全に敏感なんだな若者よ。ならフェアに行こうか。俺もドンピシャ。よろしく兄弟」
なんだ。お前も若者じゃないか。
虚をつかれながらも、俺は差し出された手を咄嗟に握り返していた。
そう身体が反射したのは、俺が元来握手という古来からの風習が座右の銘でもあった「一期一会」を地で行くような行為で親近感があったからなのか、この本のタイトルに幾ばくか驚愕しているところを少しでも共感し緩和しえる可能性の存在に安堵しつつあったからなのか、もしくはこの初秋には少し早すぎるレザージャケットをその時期外れを凌駕するくらい着こなして魅せる、俺より少々長身で、同い年にしては老いというより貫禄というより、男が憧れる類いの渋みのエッセンスらしきものを持ったこの長髪ひげ面かつ色男類のルックスや声が、あくまでLOVEではない方の俺にとって好ましい印象にあったからなのかは定かではないが、俺はこの男に対するヤバいヤツという不信感よりも興味の方が上回りつつあるのは事実ではあった。
コーヒーをテイクアウトで注文し、カフェから見える海沿いの道を、俺はさっき出会ったばかりのこの色男と並んで歩いた。
これはもしや逆ナンか?
「逆ナンみたいに思うなよ?」
「…思うだろ、普通」
「ナンパだったらお前みたいなパッとしない量産品白シャツスラックス姿の平凡一般男性なんかより、新作のラテを飲むために朝からメイクもバッチリなエレガントマダムにでも声かけるさ」
「ほっといてやれよ。新作のラテも、休日の睡眠時間を削ってまでも小一時間かけて盛るメイクも、彼女たちからしたら崇高な美学かもしれないだろ」
「こんな晴れた休日でも自己啓発本の陳列の前で唖然としてるのも美学なのか?」
この男の指摘は鋭い。
「週に一度、仕事の一環で書店を巡るんだ。どんな本が売れてて、どんな売り出し方をしてるのか調査してるんだ」
仕事の一環といっても街中にあるここよりも小規模の会社の一書店員である俺ができることと言えばたかだがしれてて、こうしている理由の大半は趣味だった。
俺は本が好きだった。書店が好きだった。表紙を観て回るのが心地よかった。人間関係とは違い、一方通行で楽だ。読みたいかそうでないかだ。
だからこの街でダントツの売り上げを誇る、いわゆるライバル店であるモダンでカッコつけてて老若男女ミーハー客ウケする感じのこの書店も、特段嫌いにはならなかった。
「で、調査中に邪魔が入ったわけか」
「邪魔してる自覚はあったんだな」
「俺のことじゃない。さっきの本だ。アレにお前は虚をつかれた。見て見ぬフリをしていたものを直視させられたように」
たしかに俺はあの本のタイトルには惹かれた。
それと同時に痛いとこをえぐられたとも思った。
俺はもう半年もすれば30歳になる。
30になると言っても消費期限のように健康面や精心面の安定が保証されなくなるわけでも、賞味期限のように人間としての旨味や魅力が消失してしまうわけでもない。
ただずっと、そうではないとも言いきれないとどこかで思ってもいた。
「30になるのが怖いのか?」
「怖いわけではないよ。ただ、二十歳になる時みたいに希望が先行するような気持ちにはなれないかな」
「二十歳になれば可能性が増えるからな。酒も煙草も合法だし、少し前までは選挙権も与えられ、肩身狭く燻ってた若造がようやく社会で走り回れるパスポートを手渡されたようなもんだ」
「そいつはちょっと初期設定がジャンキー過ぎないか?」
「だが30にってなると可能性が狭くなりますよってのと同時に、色々な重圧がかかる。社会的にも物理的にも。脚腰のパフォーマンスは下がるのに、背負うウェイトだけは上がっていく。まるで行軍だ」
行軍。デスマーチ。刺さる言葉だ。
「それはイヤな例えだ」
だがコイツの言い分は的を得ていた。鼻につくような横文字を使う節はあるが、こちらが望むレイアウトを構築から装飾まで施してくれるような、話のセンスがあった。
そしてこの一見して俺とは真逆の世界の人間のようではあるのに、どこか波長があう感じがした。
「あんたは30になるのはどうなんだい?」
「そうだな。俺は特段、節目とか行事とかにこだわりのない人間だが、お前のようにそれらをモチベーションとしているヤツらへの敬意を払いみて言うならば…俺なら全部捨てるかな」
「全部?」
「背負った荷物を一旦捨てて、空身になる」
「アンタってミニマリストか何かか?」
「おいおい、人と本を一緒にするな。そんな単純なジャンルで仕分けられても困る。何も物だけじゃない。世の中、情報が多すぎる。今じゃ寝ている間も24時間、強制的にインプットさせられて、起きた時はすでに消化不良だ」
「それってようするに、過去の執着と余分な文明は捨てて、精神ともに身軽になって安定しよう的なことじゃねえのか」
「いいか。本の虫君よお。そういった考えはどこぞの断捨離ストが説いた引用だか参考だかしらねえが、俺は俺の言葉で話してるんだ。だから共通項はあったとしても、それを同カテゴリーとして括ってしまうのは早計だ。それではいつまで経っても真理にはたどり着けない」
たしかに俺の言葉は俺が発してるだけで、過去に誰かが書いた若しくは誰かに言われた言葉を翻訳にしているだけなのかもしれない。
そんな自問が日頃からもあったので、俺は何も言い返さなかった。
そしてやはり、この同い年のくせに哲学者のように断言口調でものを言うこの男が俺は嫌いじゃなかった。
「あんた、仕事はなにしてんの?」
「次は職業か。その人間の正体を知るのに年齢と職業が必須条件なのか?仮にこれが逆ナンだったとしてもその平凡さに辟易して帰られてるぞ」
「ああわかった。あんたのシニカルセンスの鋭さと、30前にして人間関係の基礎問題を社会的スペックでしか解けないのは強く認めた上で、単純な興味でお聞かせ願いたい」
「それだけ分析できてるなら可としよう。俺の仕事は、世界を変えることだ」
男は真顔でそう言った。
「…それは職業なのか?」
「職といえば職だし、業言えば業」
「世界はお前に変えられるのか?」
そんな一見馬鹿げたような質問を俺が本気でしていたのは、そういった類いの小説や映画を好んで観ていたのと、そのような台詞を発す人間を現実で見つけたことに少なからず感動しつつあったからだ。
「世界を変える方法は二つ。一つは革命若しくは破壊によって変える方法と、もう一つは、自分自身にそれらを施す方法。ゆえに世界は必ず変えられる」
俺は彼の言葉の意味をほとんど咀嚼できない状態ではあったが、それを吐き出しても無意味な気がして飲みこまないままだが聞いた。
「…アンタはどっちなんだ?」
「どっちも。どっちだ」
それは答えになってるのか?とも聞かなかったのは、やはりその言葉がただの洒落ではないことだけは解っていたつもりだったからで、俺は敢えて記憶の奥底にヒットした言葉を言ってみた。
「そういえば俺も一つ、世界を変えられる方法を知ってる」
「ほぉ」
「小説だ。小説で世界を変えられる」
「…ああ、作家の言葉だな。たしかその作家自身が作品の中でサブキャラとして出演して言った台詞だ。タイトルは昔の映画と同じ…」
「読んでんじゃねえよ」
「読んでてほしくなかったか?」
「俺の心をだよ」
そうだ。俺が特に好きな作家の特に好きな作品の特に好きな台詞だった。これは引用ではない。好きの3乗は引用ではなく、教訓だ。
俺は裏を読まれた悔しさよりも、この教訓をこの男にも少なからず記憶されるくらいに称賛された気がして安堵していた。
「だいたいの平積みされている文献は読んでいるし、それらで血肉を肥やしたつもりでいる若造の心理くらいもだいたい読める」
「アンタも若造だろ。…そういや、あんたの終幕はいつなんだ」
「早速、引用してんのか」
男は笑った。はじめは年上にも思えたが、その笑顔には少年頃の面影が写った気がして、少し愛らしく思えた。
愛といってもLOVEではない。断じて。
「3月だ」
「一緒じゃん!日にちは?」
「聞いてどうすんだ、女子高生か」
「わかったわかった。なら名前だけ教えてくれよ」
「情報に敏感だが女子高生。このご時世、自分から情報開示しねえと認証されずに化粧水さえも買えねえぞ」
「ならまずはアンタのドライなハートに塗ってやるよ。俺は安藤」
「安藤…&?」
「孝」
「タダシ?」
「考える。って書いてタダシ」
「いい名だ」
「ありがとう」
「オリゴ糖」
「もういいよ、駄洒落」
俺も自分の名前をいいと思ってる。
人からよく考え過ぎだ。とか、考えないほうが楽だよ。とか言われたが、俺にはそれができなかったし、考えないようにしても結局考え始めて、寝れなくなって朝眠たい頭でまた考えはじめる。
それが俺だ。そういうところは好きであり、嫌でもあった。
「で、アンタは?」
「俺は、硯だ」
「スズリ?スズリってあの?」
俺は手のひらで透明の墨を擦って見せる。
「ああ、その下の方な」
「下が硯なのか?」
「上は墨だろ」
「そうじゃなくて。名字ではなく名前が?」
「どっちもどっちだろ」
「それじゃ俺のが情報損じゃん」
硯はまた笑った。そして手を挙げた。
「じゃあな、女子高生」
「逆ナンだったのかよ」
「愛想尽かせたわけじゃない」
「また逢えんのか?」
「逆逆ナンかよ。また逢うさ。俺もこの街にいる」
そういって彼は踵を返し、そのまま振り向くことなく街に消えていった。
その後ろ姿を見送りながら、初恋の兆しのような、春の訪れのような高揚を感じる。
まではないが、30目前にしたこの低迷期とでも呼べるようなタイミングで劇的とまでは言えないが、少し歯が浮くくらいの体験をしたものだと思った。
人生は一期一会。こういうこともある。
それくらいに思っていた。