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そうそうない  作者: 碧井 漪
9/43

9 2015年10月10日のこと

10月10日土曜日。運動会当日の朝、僕はいつも通りの時刻に起きた。



美和はまだ寝ている。



一応起こすか、と体を揺する。



美和はゆっくり目を開けて、ぼんやり僕を見た後、枕元の目覚ましを掴んで覗き込んだ。



「うーん・・・えっ、うそ、もうこんな時間?目覚まし止まってた。わー、どうしよ。唐揚げ揚げてる時間なーい!」



急いで身支度を整える美和。



「ごめん、元。送って行ってくれない?」



朝食も食べず、幼稚園に行くと言う美和。



僕は車を飛ばし、幼稚園最寄り駅前のコンビニに寄った。



おにぎり二つとお茶を買い、美和に渡した。



「ありがとう・・・」



項垂れる美和を乗せ、幼稚園に送り届けた。



元気がないのはお弁当が作れなかったからか。



まったく・・・無理し過ぎなんだよ。連日、園児達との運動会練習に加えて、準備、教職員の出し物だというダンスの練習までして、クタクタの美和。



僕は家に戻ると、台所に立った。



朝食を作る為ではなく、ゆうべ美和が下ごしらえしていたお弁当の仕上げをする為に。



唐揚げ、玉子焼き、タコウインナー、おにぎり、おいなりさん・・・定番だな。しかし野菜がない。



美和の考えたお弁当のおかずを完成させる傍ら、彩りの為にブロッコリーを茹でた。そして、野菜室に残っていたかぼちゃとさつま

いもと大根を刻んで下茹でした後、厚揚げと一緒に甘辛く炊いた。



時間が無いからこれで行くしかない。



美和の用意した分量は三人分だった。僕はその通り完成させ、ゆうべからテーブルの上に用意されていたプラスチック製の三段重にせっせと詰めた。



美和はこんな物まで買って準備していた割に、寝坊で実行出来ないとは詰めが甘い。美和は間抜けだな・・・僕はぷっと吹き出した。



真新しいお重、外は黒で中は臙脂。蓋に白いうさぎが描かれている。



それを風呂敷に包み、割り箸と紙皿、紙コップとお茶のペットボトルを大きな保冷トートバッグに入れた。



『いってらっしゃい』



「え・・・?わーさん?」



今、わーさんの声が聞こえた気がした。



こんな事、初めてだった。



トートバッグを肩に担いだまま、僕は仏壇に近付き、わーさんの写真を覗き込んだ。



何も言わず、ただ笑っているわーさんの顔が見える。



気のせい、だよな。



「いってきます。」



一応そう言った僕は、勝手口から外に出た。



年季の入ったそのドアに鍵を掛け、車に乗り込んでトートバッグを助手席に下ろすと、エンジンを掛けた。



その時、ふと、あ、レジャーシートとか要るのかな?と思い浮かんだ。



今朝、美和を送る時、バタバタしていて何も聞く暇なかった。



時計を見るとお昼が近い。幼稚園にはレジャーシートの一枚位、あるかもしれない。



取り敢えず、美和にお弁当を届けて、どうしても必要なら後で僕が買いに行こう。



10月だというのに、お昼にかけて気温はどんどん上昇して、肌に感じる陽射しの暑さは8月下旬並みだった。車を運転する僕の脇の下にも、じとりと汗が滲む。



12時からお昼ごはんと聞いていた。今、12時5分前。ギリギリだった。



幼稚園の隣の空き地に車を停めようかと思っていたけれど、普段ガラガラのそこは、今日は車で一杯だった。



園児達の家族の車。それでも全園児の人数を考えると入り切らない広さの空き地だから、空き地の端には自転車の列も見えた。



これじゃあ、部外者の僕なんかが停められる訳がないと、12時になったのにも拘わらず、まだ競技中らしい園庭の様子を車の窓から確認した僕は、一旦車を出した。




駅前の通りから300m脇道に入ったコンビニの駐車場に車を停めさせて貰い、トートバッグを担いでコンビニ店内へ入った。



生憎、レジャーシートは売り切れで、代用になりそうな45Lのポリ袋・10枚入を買った。



コンビニを出ると”すみません”と申し訳なさを感じながら、停めた車をやむを得ずそのままにして、600m先の幼稚園へ走った。



お弁当を揺らさないようにと、極力右肩を振らないように走る。



どうして僕がこんな事をしなくてはならなくなっているのだろう、と少し考えながら、でもそれ以上に、美和が驚き、僕に感謝して笑う顔が見てみたかった。



馬鹿だな。感謝されたって1円の得にもならないのに。



それでも僕は、ここ一週間、特に頑張って来た美和にガッカリさせたくないと、懸命に息を切らした。



ガシャッ。



園庭の職員通用門に辿り着いた時は、膝がカクカクしていた。僕の運動不足は深刻だ。



「はーっ、はーっ・・・」こめかみに浮いた汗を袖口で拭った僕は、比較的空いている園庭の端っこを職員玄関まで一直線に向かいながら、美和の姿を探した。



その時、マイクを通した女性の声が聞こえて来て、僕は足を止めた。



「午前の競技は終了です。午後は1時に集合して下さい。」



美和の声ではなかった。園舎の時計の針は12時20分を指している。



本部らしいテントの下に視線を向けると、美和がバッグを掴んで、物凄い勢いでこちらに走って来るのが見えた。



僕の倍以上の速さで近付いて来る美和が、立って居る僕に気付いた。



「元!来てくれたの?」



驚いた顔の後、美和は嬉しそうに目尻を下げた。



「もしかして、お弁当、持って来てくれたとか?」



美和は僕の右肩のトートバッグを指差し、訊ねた。その通り過ぎて、僕は恥ずかしくなって、変な言い訳をした。



「材料そのままにされても困るし。駅前に用事があったから、ついでだよ。」



「わー、嬉しい!ありがとう、元!大好き!」抱き付きそうな勢いで、美和は両手を前に出した。



ぶっ・・・!



また”好き”って言った。しかも今度は”大好き”?



カーッと頬が熱くなるのを感じた。耳まで。美和を驚かせようなんて思ってしまった報いか。



お弁当を作って、ここへ来てしまった事を少し後悔しながら、僕は美和にトートバッグと、買ったポリ袋の入っているコンビニ袋を手渡した。



「はい、これお弁当。じゃあ、僕は帰るから。」



「えー?折角来てくれたんだから、一緒に食べようよー。」



「いい、別に。お腹空いてないし。」



「車、どこ停めたの?」



「不動産屋の近くのコンビニ。」



「えー?あっちから来てくれたの?園の裏の畑の所に一台停められるから、そこに停めて来てよ。」



「いいよ。僕は帰るから。」



「帰らないで、お願い!実はね───」



「岩沢先生。どうしたんですか?数喜(かずき)くん、テントで待ってますよ。」



「あ、えっと・・・」



「ああ、彼氏さん。こんにちは。あ、いえ、彼氏さんではなかったんでしたっけ?」



本部からやって来たのは、この前、職員玄関で会った女性教諭だった。僕の顔を見て、楽しそうに一人、ペラペラ喋り出した。



「お弁当届けてくれたんです。」美和は自分の肩に担いだトートバッグを示した。



「ああ、お弁当か。持って来るの忘れちゃったとか?それで朝からソワソワしてたんだね。」



美和は、えへへと笑って誤魔化した。僕は内心ヒヤヒヤしていた。僕が作ったなんて言わないで欲しいと思っていたから。美和が余計な事を言わないでくれて少しホッとした。



「それじゃ、僕は───」今度こそ帰ろう、体の向きを変えた僕の腕を、「待って下さい。」と女性教諭は引き留めた。



「え?」



「お昼の後、先生達でダンスをするんです。あなたも、是非、見て行って下さい!」



目を爛々と光らせ、鼻息を荒くして言われてしまっては、「結構です」と断れなかった。



「分かりました。一旦車を取りに行って、裏の畑の方に停めさせて頂きます。」



僕がそう言うと、女性教諭は、


「はい。どうぞどうぞ。空いてる所に停めちゃって下さい。ダンスの発表は1時5分前からです。お待ちしてますね!」ようやく僕の腕を離してくれた。案外、強い力だった。



僕は再びコンビニに走り、車に乗って幼稚園に戻った。



1.2キロ程走った僕は、自分の運動会でもないのに息を切らして、軽い疲労感に襲われている事に苦笑した。



再び園庭に入ると、競技中より静かだった。



園庭のあちこちに広げられたレジャーシートに座り、家族がそれぞれ固まって、手作りのお弁当を広げている。



園児達は嬉しそうな顔をして、家族の前でおにぎりや唐揚げを頬張っていた。




世間一般では、こういう風に送る人生をしあわせと言うのだろう。



僕には縁のない暮らしだった。



異性と結婚して子どもを設け、家族仲良く暮らす。



それでも僕は不幸だとは感じなかった。



わーさんと暮らしている間、とてもしあわせだった。



大好きな人と、自分のペースに合った暮らし。



結婚も子どもも望めないけれど、不幸だなんて感じた事は無かった。



わーさんと別れる事になった時は辛かったけれど、二人、一緒に居た時は、この上なくしあわせだったと、僕は胸を張って言える。



僕らは間違ってない。この世の中の方がおかしいんだ。



そんな主張が通らない事は知っている。でも、そう考えているのは僕だけではない事も知っている。



色々な人間がいる。これが自分にとってのしあわせなのだという事は、他人に言われて決める事ではない。



自分が心からそう感じた時に決まるものだ。



しあわせだと感じる時が、”僕のしあわせ”なんだ。



「元!こっちこっち!」



離れた場所から僕を呼ぶ美和の声が聞こえたけれど、姿を見つけられなくてキョロキョロしていると、



「おじさん、こっちだよ。」と間近で男の子の声がした。



ふと見ると、赤い帽子を被り、体操服に身を包んだ男の子が、僕のシャツの裾を引っ張っている。



男の子の指差す先に、美和が立って居た。



職員玄関脇の人けのない場所にポツンとブルーシートを敷き、その上に僕の作ったお弁当を広げてある。



僕は男の子の後について、美和の元へと向かった。



「美和、どうしてこんな場所にシート敷いたの?」職員玄関から続くコンクリートの上。玄関脇の立木が影を落とす場所。



「おじさん、よびすてはだめなんだよ。”みわせんせい”だよ。」



5歳位の男の子に注意され、ちょっとカチンと来た。そんな僕の様子に気付いた美和は、笑いを堪えている。



「美和先生、この子は?」



「数喜くん。お昼、一緒に食べる約束をしてたの。」



「ふーん。」



「さ、時間が無いから食べようか。座って座って。」



そう言われて、最初僕は靴を脱ぐのが面倒で、ブルーシートの外に足の先を投げ出して座った。



すると、美和がここにシートを敷いた理由が分かった。



「暑い。足だけ。」



僕は靴を脱いで、膝を曲げた。シートの上に着けた足の裏はひんやりしている。



日なたと日陰ではこうも感じる温度が違うものなのかと、改めて知った。



「数喜くん、食べて食べて。」



「いただきます。ん!おいしい。せんせいがつくったの?」



「え、えーとね、先生は途中まで。作ったのは”おじさん”だよ。」



「え?これ、おじさんがつくったの?すげー!パパなんてりょうりできないんだよ?」



幼稚園児に”すげー”と言われても、あまり素直に喜べない。



「美味しい?」



「まあまあ。」



厳しいな。



「ママのおべんとうのほうがおいしい。」



「そうなんだ。」そりゃそうだ。



小腹も空いたし、余らせるのも嫌だったので、僕は自分で作ったおにぎりに手を伸ばした。



この子だけ、どうして家族が来ていないんだろう?どうして美和とお弁当を食べる事になったのだろう?と思ったけれど、人の家の事情だから訊かずにおこうと考えた。



ところが、男の子は、齧りかけの唐揚げを紙皿に置いて喋り出した。



「ママにゅういんちゅうなんだ。あかちゃんうまれるから。パパはね、きょうゴルフだって。うんどうかい、きたいっていってたのに、きゅうにいかれないって。カズキといっしょにはしるのいやだったのかなぁ?」



母親は出産の為の入院で、父親はゴルフ・・・断れないのは、おそらく接待だから。



両親共に来られない事情は、大人には理解出来るが、子どもには無理だろう。



仕方ない、で片付けるには辛いよな。



僕にはこの子の両親の気持ちが分からない。でも、来たくないと思っているとも思えない。ただ、それについては僕が言える事は何もないと思った。



「もっと食べて。ほら、ウインナー、タコ星人だぞ?」



僕はお重の中から、男の子の皿におかずを取り続けた。



「こんなにいらないよー。たべすぎて、うごけなくなる。」



「そうだ、元!午後のプログラム。親子競技、数喜くんと一緒に出て!」



「・・・は?!」



「えー?ぼく、せんせいとでるんでしょ?」



「んー、そうだけど、おじさんとじゃいや?」



「いやじゃないけど。」



「ちょっと美和、センセイ。どういう事?」



「お願い、元。数喜くんと出てあげて!」



「え、い・・・」嫌だよ、とは言えなくなった。僕をじっと見つめる無垢な瞳に負けてしまったから。



「いいよ・・・何時から?」



「うーん、押してるから、多分二時頃かな。はい、これ。プログラム。」



「分かった。」



「放送されたら、あそこにある”にゅうじょうもん”の所に来て。」



「はいはい。」



ピンポンパンポーン、とお知らせチャイムの音が響いた後、



「職員集合して下さい。この後、職員によるダンスを披露します。みなさま、どうぞ一緒にお楽しみ下さい。」アナウンスが流れた。



美和は、唐揚げを一つ抓んで口の中に放り込むと、もぐもぐもぐ、急いで噛み、飲み込んだ。



そして「さてと、行かなくちゃ。元、後お願いします。」と言って美和は立ち上がると、スニーカーを履き、本部テントへ走って行った。



僕は、名前しか知らない男の子と二人、日陰のブルーシートの上に取り残された。



「おじさん、もうたべられない。」



げっぷをしながらカズキくんは、それでも、僕が皿の上によそった分だけは全部平らげて言った。



「うん。よく食べたな。偉い偉い。」



わーさんが僕にしてくれたように、僕はカズキくんの頭を意識せず撫でていた。



ふと思い出して、目頭が熱くなる。わーさんもこんな気持ちだった?



もっと愛されたいと素直に言えなかった僕の気持ちに気付いて、頭を撫でていた?



そうだ。僕みたいにカズキくんもいつか気付く。今この瞬間も愛されている事に。傍に居なくても、家族の愛は途切れる事はない。



僕も、今は分かるよ。わーさんが僕を愛してくれていた事。家族だと思っていてくれた事。今も、傍に居ないけど、多分───



『いってらっしゃい』



さっきのあれは、やっぱり天国のわーさんの声だったんだ。



わーさんは、今も僕を見守っている。多分。






残ったお弁当を片付けて、トートバッグのファスナーを閉めた時だった。



ジャジャーン!と派手な音が響き、どこかで聞いた事のあるような音楽が流れて来た。



流行には(うと)い僕でも知っているアイドルの曲のようだ。



美和がトラック内に出て来た。どこかで見たような腰蓑を着けて。



「ぷっ!」



ヘンテコなダンスを笑顔で踊る美和とその他の教職員達の滑稽さに、思わず吹き出した。



カズキくんは・・・と見ると、体育座りをしながら、真剣な顔で見入っている。



他の園児達は、家族の前でおどけて踊り出した。



カズキくんがそう出来ないのは、僕に心を許してないからだろう。ご両親の前でだったらカズキくんもきっと他の園児達のようにおどけて踊り出していたに違いない。



見て欲しい人が居ないと張り切れないよな。



カズキくん自身、母親の理由については、やむを得ないと思っていても、父親の理由については、腑に落ちないのかもしれない。さっき”いっしょにはしるのいやだったのかなぁ?”と言っていたのを鑑みると、自分の運動会よりゴルフを優先した理由が分からなかったのだろう。



僕に何が出来る訳ではないけれど「カズキくん、後で一緒に走ろうね?」と静かな横顔に向かって話し掛けると、カズキくんは膝を抱えたまま、こくりと首を動かした。



教職員のダンスが終わった。園庭内に拍手が沸き起こる。



退場する美和は、額に汗を一杯浮かべながら、笑顔で、こちらに向かって手を大きく振った。



その後、再び「みんなー、先生達の所に集合して下さーい!」とアナウンスが流れ、急いで腰蓑を外したらしい担任達が、朝礼台の前に横並びになった。



園児達は一斉に、家族の元からトラックの中へと飛び出して行く。



立ち上がったカズキくんも靴を履いた。そのまま走り出すと思っていたが、僕を振り返り、



「あとで・・・おくれないでね。」ぼそりと言った。



「うん。後でね。」



咄嗟に笑顔を作った僕は、左手で膝を抱えたまま、右手をひらひら振った。



すると、安心したようにカズキくんは、みんなの居る方へ駆け出して行った。



午後のプログラムが開始されると、僕は美和に渡された、一点一点手作りされた色画用紙のプログラムとにらめっこしていた。



現在、午後一時二十分。トラック内では園児達のダンスが披露されているが、僕はそっちのけで、何度も何度も、ある四文字を目で追っていた。



プログラムには親子競技、一時三十分からとあるが、それは午前の競技が滞りなく終わっていた場合。



この調子だと、午後二時頃に僕の出番がやって来る。



「どうしてこんな事になったんだろう・・・」と、高まる緊張が僕にそう呟かせた。



“競技”参加は分かるが、”親子”だなんて、僕はまだ結婚もしていないのに。



ああ・・・つい、だよ。引き受けなければ良かった。



でも、カズキくんの寂しそうな様子を見たらさ、引き受けざるを得なかった。



わーさんが居たら『俺が出る』と即答していたと考えると、これで良かったのかなとも思うけれど・・・はあっ。



何年振りに味わう、このふわふわした雰囲気。



ピストルのパーンという音や、ダンスの音、人々の歓声。



乾いた土の匂い、頭と背中をジリジリ焼く陽射しと熱った肌を冷やす風。



汗を掻いて、水を飲んで、一々厄介で、気付いた疲労感にまだ生きてるって事だと考えさせられる。



わーさんと来たかったな。



そうしたらきっと、わーさんは終始笑顔で、僕にも『もっと笑えよ』と言っただろう。



美和みたいに、疲れを知らない人のようにずーっと走り回って、人から人に笑顔を繋ぐ役を買って出ただろう。



そんな事を考えて、泣きそうになった。



何だろう、僕は。



わーさんが亡くなってから、誰かの笑顔を誰かに繋ぎたいと考える余裕もなかった。



独り、可哀相な人間だといじけているだけで、毎日をただ過ごしていた。



そこへ美和がやって来て、僕を、僕の知らなかった世界へ引っ張り出した。



迷惑だと思いながらも、付き合ってしまうのは、実は僕もやってみたいと思っていたからなのか?



そこの所はまだよく分からないままだけれど、わーさんを想って独り、家の中で鬱々としていた時よりは、わーさんの事をはっきり思い出せる。



死んでしまったと思っていたわーさんは、僕の心の中で活き活きしている。



僕が笑うとわーさんも笑ってくれる。



空を見上げると、澄み渡る青に、綿のような白い雲が浮かぶ。その向こうにわーさんの笑顔。



『がんばれ、元。カズキくんとがんばれ!』



わーさんが応援してくれていると思いたい、ではなく思う。



『親子競技に参加される保護者の皆様は、入場門付近にお集まり下さい』



放送が流れた。



僕は立ち上がると靴を履き、ザッザッザッ、園庭の砂を踏みしめながら、カズキくんの待つ”にゅうじょうもん”へ向かった。




【にゅうじょうもん】



二本のポールの間に、僕らが作った紙の花で飾られた看板を取り付けた簡単な門。



その付近には園児に加え、僕と変わらない年齢の主に男達と、女性も居た。



先生らしき女性が列の先頭に立ち、こちらを向いて



「はーい、ではお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんは、お子様の隣に並んでくださーい!」と叫んだ。



ざわざわ、保護者は子ども達の並ぶ列の横に並び始めた。



ええと実は保護者ではない僕はどこに移動すればいいのだろうか・・・見ると、各クラス毎に分かれているようだが、僕はカズキくんのクラスも知らなかった。



顎に手を当て、考え出した時、


「数喜くん、こっちでーす。」と僕は背後から、両脇を掴まれ、押し出されるようにして、カズキくんの隣に連れて来られた。



「はいっ、ここです。」と美和は僕の脇腹から両手を離した。



「美和・・・先生。」



振り向くと、美和はにっこり笑って「頑張って下さいね!」とガッツポーズを見せた。



ここではあくまで僕はカズキくんの保護者で、美和は先生。



その芝居に付き合うよ。



美和はひらりと身を翻し、どこかへ走って行ってしまった。



僕の心に僅かな緊張と不安が芽生える。



「おじさん。がんばろ?」



僕を見上げるカズキくんは、僕の右手を握った。



頼れるのはお互いだけか。



みんな知らない。僕がカズキくんと何の関係もない人間だとは。



いや、関係ない事もないか。



カズキくんはさっき、僕の作ったお弁当を食べたから。



「がんばろうな。」



空いている左手をカズキくんの帽子の上に置くと、「うん!」と元気な返事が聞こえた。



しばらくして競技の説明が始まった。



「まず、タスキを掛けた保護者の皆様がお子様をおんぶします。そして、あのトンネルの前まで走り、お子様はトンネルを潜ります。保護者の皆様はU字型に曲がったトンネルの出口で待ち伏せて、出て来たお子様をおんぶして、こちらまで戻って来て下さい。次の人にタスキを渡して、最後、ハチマキをしたアンカーが一番にゴールしたチームの勝ちです。」



つまり、スタートとゴールが一緒の地点で、そこで次の人にタスキを繋げばいいという事か。



単純な競技。僕はトンネルの入口までカズキくんをおぶって走り、トンネルの出口でカズキくんを待ち、出て来たカズキくんをおぶってスタートした場所に戻り、次の親子にタスキを渡して役目を終える。



それなら大丈夫そうだ。



時刻は午後二時を過ぎた。



音楽が鳴り、僕はカズキくんと手を繋いだまま歩いて"にゅうじょうもん"を潜った。



スタートラインの後ろにクラス毎に整列すると、腰を下ろせと指示された。



周りを見回すと、園児達はみんな、べたりと園庭の砂の上にお尻をつけて座っている。保護者はまちまち。僕はさすがにお尻をつけられず、しゃがんだまま、カズキくんと手を繋いでいる状態。



美和より年上の女性教諭が、マイクを通して二度目の競技説明をしている。



足が痺れて来た。園庭の砂も乾いて、風に舞い上がる。



早く、と思う中、ようやく競技が始まったが、順番が来るまでしゃがんだまま前に移動するシステムらしい。



しばらくはこの姿勢を維持しなければならない。思っていたより腰と背中に負担が掛かる。



カズキくんは飽きてしまったのか、いつ拾ったか知れない木の枝で砂に落書きを始めた。



親だったら『やめなさい』とでも言う所だろうが、僕は親でもないからな・・・と黙って見ていると、描いているのはどうも、人の顔のようだった。髪の毛は長い、女性だ。



美和の髪は短いから、母親かな。



やっぱり来て欲しかったんだろう。



ただ、妊娠中の母親が運動会に来られたとしても、親子競技に一緒に参加するのは難しかっただろうから、そうすると父親に来て貰わなければならない。



両方来られない事は、そうそうない。



でも、あるんだ。こういう事も。



そして、先生でもない、初対面の”おじさん”と親子競技に出る事になってしまう事もある。



前が空き、カズキくんと二人でずっ、ずっ、ずっ、少しずつ詰めている時、



ふと立ったカズキくんが、「あっ・・・」と驚いた声を漏らして、足を止めた。



「どうした?」



僕はカズキくんの顔を見上げた。



順番は三番目。僕らの前に二組の親子が待っている。



カズキくんは僕の顔を見た。そして「あこそにいるの、パパかもしれない。」と言った。



「えっ?どこ、どこ?」



僕も立ち上がり、カズキくんが指差す方を見た。



西に傾いた陽が眩しくて、トラック外から競技を見ている大人達の顔はよく見えない。



「パパ、来てるの?」



「わかんない。でも・・・」



走者が戻って来て、僕らの前で待つ親子はあと一組。



後ろを見ると、三組の親子が並んでいる。アンカーまで、僕らを含めてあと五組。



僕はしゃがみ込んだ。そして、背中をカズキくんに向けた。



「カズキくん、乗って。おんぶ。パパの所に行くよ!」



「え・・・?」



「早く、あそこまで行ってみよう!」



「うん!」



カズキくんは僕の背中に凭れ、首に腕を回した。



僕はカズキくんをおんぶして立ち上がった。



「すみません。少し抜けますが、戻って来ます。」



後ろの親子に声を掛け、僕はトラック外を目指して走り出した。



「どっち?」



「あっち!」



僕は、カズキくんが指差す方に全速力で向かった。



「カズキくん、パパの事、呼んで。」



「パパー!カズキのパパー、どこー?」



カズキくんを負ぶった僕は、観覧する大人達の前をウロウロした。



「数喜!」



どこからか声がした。



「パパ?」



すみません、と人の間を通り抜け、額に汗した男性が僕らの目の前に立った。



「カズキくんのパパですか?」



「はい。あなたは・・・?」



「話は後です。僕と交代して、競技に出て下さい。このままカズキくんを負ぶって、あのオレンジの旗のある列です。早く!」



「え、は、はい!」



僕は背中からカズキくんを下ろした。




そしてカズキくんはパパの背中に乗り、初めて、安心したような笑顔を見せた。



カズキくんのパパはオレンジの旗の列へ走り、待ち構えていた親子にアンカーのハチマキを結ばれた。そして列の先頭でタスキを受け取ると、トンネル目がけて走り出した。



パパの背中から降りたカズキくんは、張り切ってトンネルを潜り抜けた。再びおんぶでゴールを目指す。



パン、パーン!



競技終了のピストルが鳴った。



結果、カズキくんのクラスはビリから二番目だったけれど、カズキくんもパパも、嬉しそうに笑っていた。退場する時、二人は手を繋いで顔を見合わせ、何かを話しているようだった。



「間に合って良かった。」思わずぽつりと呟いてしまった事に、人前だったと気付いて恥ずかしくなった僕は、その場から逃げるように、お弁当を置いてあるレジャーシートまで戻った。



お昼より傾いた陽は、レジャーシートの日陰部分を半分にしていた。



僕は靴を脱いで日陰に腰を下ろすと、曲げた膝を抱えた。



はーっ、と深く息を吐くと、途端に疲労感に襲われる。



疲れた。だって僕はもう45だよ。



昼前にも走って、今もカズキくんを背負って走った。



カズキくんのパパは僕より年下に見えたし、その他の保護者達も、僕より年下に見える人が殆どだった。



幼稚園位の子どもを持つ父親は、大抵三十代から四十代前半だろう。



それを踏まえると、僕がゲイではなかったとして、これから結婚して子どもを・・・なんて考えは遠のく。



仮に、僕がすぐ結婚して相手に子どもを産んで貰ったとして、46歳。



そこからカズキくんの年齢に達するまで四、五年。50歳を超える。



50歳で運動会に参加し、走るのは大変だ。



今は晩婚化が進んでいるから、僕位の年齢でも珍しくはないだろうが、体力的に大変なのは変わらない。



子育ては若い内の方が楽だと聞くが、何にしてもそうだと思う。



僕の年齢から、新たに何かを始めるのはしんどい。



勿論、僕以上の年齢の人が新しい事にチャレンジするのは素晴らしいと思うし尊敬もする。



けれど、自分がするとなると別だ。そんな気力はもうないと思ってしまう。



そう考えると、わーさんの移住の決断だって、すごいと思う。あの時、彼は46歳だった。



死を前提としていたからというのもあったのかもしれない。



今、僕が病気になって余命わずかと宣告されたら、僕は何をしたいと願うだろう。



考えてみた。



何も思い付かない。僕が生きる事に、特に大きな意味があるとも思えない。



ただ地球上の資源を消費して、生命維持をしているだけの僕。



社会貢献もしていない。



僕が死んでも、悲しむ人もいない。



そうだ、バタバタしていて忘れていた。



僕が死んだ後の家と墓の事。託せる先を探しておかなくては。



人生、何があるか分からない。病気に限らず、事故や天災で突然死んでしまうかもしれない。



死に対して怖いと思う事はない。



やり残したと思う事もないから、死にたくないとも思わない。家と墓を託せる先が見つかれば、僕はいつ死んでもいい状態だ。



困るのは美和かな。



ここへ来る(あし)が無くなる。



家も探さなくてはならなくなり、生活費が今の倍以上かかるだろう。



僕が生きてて得するのは美和だけか。



そんな事を考えながら、僕が膝の上に顎を載せてふーっと息を吐き、肩の力を抜いた時だった。



「おじさん!」



子どもの声。カズキくん?



顔を上げると、シートの前に、カズキくんとカズキくんのパパが立っていた。



「ありがとうー。」カズキくんが僕の目の前で開いた手のひらをひらひら振っている。



「あの、今日は本当にありがとうございました。数喜から聞きました。お昼も御馳走になったそうで、本当に何とお礼を申し上げたら良いか・・・」



「あ、いえ。僕は何も大した事はしてません。親子競技だって、お父さんが出られたでしょう?」



「本当はもっと早く来たかったのですが、渋滞していて・・・」



「間に合って良かったですね。」



「ありがとうございます。」



「おじさん、からあげってまだある?」



「唐揚げ?あるよ。食べる?」



「パパ、おなかペコペコなんだって。」



「あ、それじゃ、良かったらいかがですか?」



膝立ちの僕は、トートバッグに手を掛けながら、カズキくんのパパを見上げた。



「いえいえ、そんな。」



カズキくんパパの向こうに、レジャーシートを撤収する家族の姿が見えた。



あれ?とトラック内を見渡すと、園児達の姿はなく、閑散としていた。



「運動会って、もう終わったんですか?」



ぼんやりしていたから、気付かなかった。閉会式とかプログラムに書いてあったけれど・・・それも終わったって事かな。



「ええ、先程。」



「かえるまえに、パパがおじさんにごあいさつしようって。」



それを聞いて、膝立ちだった僕は正座した。



「それはわざわざありがとうございます。」



「こちらこそです。」



カズキくんのパパは深々と頭を下げた。



「あっ!みわせんせいだー!」



横を向いていたカズキくんが、突然声を上げた。



カズキくんの視線の先に僕も目を遣ると、美和が走って、こちらに向かっていた。



「こんにちはー、数喜くんのお父さん。」



シートの前で立ち止まった美和は、カズキくんのパパに挨拶した。



「こんにちは。」



「よかったねー、数喜くん、お父さん来てくれて。」美和はしゃがみ込んで、カズキくんの肩に手を置いた。



「うん!みわせんせい、ありがとう。おべんとういっしょにたべてくれて。」



「どういたしまして。」



「先生、本当にありがとうございました。」



「いえいえ。数喜くん、かけっこもダンスも頑張ってましたよ。」



「そうですか。」



カズキくんのパパは、少し申し訳なさそうな顔をした。



「パパ、らいねんまたきてね。こんどはママとあかちゃんといっしょにだよ?ね?そうだよね?みわせんせい。」



美和が運動会は『来年』もある、とカズキくんに教えたんだな。



「そうだね。今度はパパとママと赤ちゃんに来て貰おうね。」



「うん!パパ、やくそくね!」



「分かった。それじゃ、数喜、そろそろ行こう。」



カズキくんのパパは、カズキくんの手を取った。



「あの、良かったらこれ、持って行かれませんか?残り物ですけれど、お弁当。」



「え?おじさん、もらっていいの?」



「いいよ。カズキくんのママのお弁当には及ばないけど。」



「およがない?おべんとうはおよがないよ?」



「あ、えーと、そうじゃなくて、ママのお弁当には敵わないけどって意味だよ。」



「ふーん。」



「あの、でも頂く訳には───」断ろうとするカズキくんパパに、


「ご迷惑でなければ、貰って下さい。彼、料理得意なんです。」美和がトートバッグを手渡した。



「パパ、もらったら”ありがとう”でしょ?」



「それでは、ありがたく頂戴します。何から何までありがとうございます。」



肩にトートバッグを提げたカズキくんパパは、美和と僕に向かってお辞儀した。



そこまでお礼を言われる程の事ではないから、何だか変な気分になった。



「たのしかったね、おじさん。またね、バイバイ!」



「バイバイ!」またね、と僕は言えなかった。カズキくんには、もう会う事もないだろうなと思ったから。



遠ざかる親子の背中を見ていた僕の(そば)で、ガサガササ、バサッバサ、と音がした。



「きゃあ!元、そっち持って。飛んでっちゃう!」



園庭の砂を巻き上げる風が、ブルーシートをふわりと浮かせた。



慌てて僕は反対の端を両手で掴む。



バサッ、バサッ!



風を孕んだブルーシートが、帆のように膨らんだ。



美和は、それが可笑しいのか笑っている。



今日だって疲れているだろうに・・・でも、こっちの顔の方がずっといい。



疲れた顔より、笑った顔。



僕も疲れていたけれど、無理矢理口角を上げると、


「元、まだ元気そうだね。それじゃあ、片付け手伝って?」と美和がにやりと笑った。



藪蛇。



それから僕は、運動会の片付けを手伝わされた。



解放されたのは夕陽が沈んでからだった。



お弁当を届けに来ただけのつもりだったのに、まさかこんな時刻になるまで帰れなくなるとは思っても見なかった。



「元、お疲れさま。」



ほんとだよ。



無言でシートベルトを締めた僕は、ハンドルを握ると、エンジンを掛け、ヘッドライトを点けた。



「ねえ、元。」



何だよ、と僕は疲れて返事もしたくなかった。アクセルを踏み込むと、車は動き出す。



「ご飯、食べて行かない?」



どこで?と訊き返す気力もなく、畑道から通りに出る所で停まると、


「駅の踏切の先のステーキ屋さん。」と美和が言った。



「ステーキ?」



「肉食べたい。ガッツリ。私が奢るから、いいでしょ?帰って作る元気もないし。」



確かに。僕も今夜は台所に立ちたくないなと思った。



膝から下が物凄く怠い。運転するのに支障はないけれど。



しかし、ステーキか。重くないか?



「あっ、ここ、ここ。」



駐車場に車を停め、店内に入ると夕食時で少し混雑していた。美和が順番待ちの用紙に名前を書いてから入口付近の長椅子に腰を下ろすと、十分と経たない内に”キムラさま、二名さま”と呼ばれた。



「はいっ!」と元気よく、僕の隣に座っていた美和が、手を挙げて立ち上がった。



何故“イワサワ”と書かなかったのかと、案内された席に着いてメニューを開きながら訊ねてみると、


「“イワサワ”って言い難いでしょ。“キムラ”の方が響きもいいし。」



“キムラ”の響きがいい?そんな事、初めて言われた。何か隠してるのか?怪しいな。



美和の顔は縦長のメニューブックにすっぽり隠れていて、どんな表情を浮かべているのか分からない。



「岩沢と名乗れない理由があったのか?」



実は知り合いの店とか?



「ないよ。何となく。」



何となくで、僕の名前を名乗るなよ。



まあ、名前を使われた位でネチネチ言いたくなかったので、僕はそれ以上追求しなかった。



「私これにする。ハンバーグと一口カットステーキの盛り合わせとパンとサラダとコーヒーセット。」



「僕はヒレステーキのおろしソースとライス。」



「コーヒーとサラダは?」



「そんなに食べたくない。」



「私の奢りなのに。」



もっと頼めと、言いたげな美和。食事は、今日のお礼のつもりらしいからなんだろう。



だけど、そんなに食べたくない。疲れたせいかな。齢のせいと言えばそう。だけど全部齢のせいというのはいかがなものかと思う。



「ちょっとトイレ。美和、注文しておいて。」



「了解!」



席に戻って約十分後、僕の前にステーキのプレートが運ばれて来た。



熱々の鉄板の上のステーキからは、ジュウジュウ音がして、白い湯気がもうもうと立ち昇る。僕の周りに、肉の焼ける旨そうな匂いが広がった。



他にライス、サラダと並べられる。美和の前にもパンとサラダ。



あれ?サラダボウルが二つ。



僕はサラダを頼んでいない筈だけど?



「あ、これ?セットの方がお得だからって、サラダ、頼んじゃった。」



「もしかしてコーヒーも?」



「そう。」



「要らないって言ったのに。」



「ごめん。余ったら私が食べるから。」



まったく。



安いからって、食べきれない分を頼んでどうするんだよ。しかも、絶対セットの方が単品より値段上がるだろ。



怒ってもしょうがないので、僕は「いただきます」とナイフ、フォークを手にした。



美和も同じようにナイフとフォークを手にして、鉄板に向かう。



キコキコキコ、グサッ、パクリ。モグモグモグ・・・



食べ進める内、美和が僕の顔色を窺っている事に気が付いた。



気が付いたというか、そんな気がした。



さっきからずっと黙っている。僕もだけど美和も。



美和のプレートを見ると、食べるのに夢中という訳でもなさそうだ。いつもよりペースが遅い。まだパンとサラダにも手を付けていない。



“余ったら私が食べるから”なんて言っておいて、そんな余裕はなさそうだけど?



僕は半分程食べたライスの皿とサラダボウルを入れ替えた。



ドレッシングを掛け、パクッ、ムシャムシャ。



美和を見ると、手を止め、僕がサラダを食べる様子をじっと見ていた。



「食べないと冷める。」



僕が言うと、ハッとした美和はハンバーグを口の中に詰め込み、それからサラダに手を伸ばした。



食後のコーヒーの入る余裕もない程、お腹は満たされていたけれど、まだ食べ終えていない美和の為に、僕はゆっくりコーヒーを飲んだ。



窓の外を見ると、店の前の交差点の赤信号で停車する車のヘッドライト、テールランプが連なり、都会で暮らしていた頃に見た夜景を思い出した。



クリスマスだったかな。わーさんと通りを歩いた。人通りの少なくなった、うんと遅い時間に。



マスクと帽子で防寒兼、誰かに見られても僕達だと気付かれない対策をした。



男同士手を繋いで寄り添っても、酔っ払いだと見過ごされる時間。



キスしたくてうずうずする僕に、「あとで」とわーさんは低い声で囁いた。



わーさんもキスしたいと思ってくれていたら嬉しいなと、繋ぐ指に力を籠めた。



今は指だけ、後でカラダとココロも深く繋げて、不安になる未来なんて消してしまいたい・・・なんて考えていたな。



平和だったな。あの頃は。



一人になる事なんて考えたくないと、じっくり考えられなくて、まあそれで良かったんだけど。



考えたってどうにもならなかったのに。わーさんの死を目前にして、愁えた時間が今は勿体無かったな、なんて今は思う。



死んで別れた後の事を考える暇があったら、生きている間の一分一秒を何より大事にした方がいい。



今の僕が過去の僕に言いたい事。



彼の死を考えて、苦しむ時間は勿体無かった。



笑え、笑っていろ。忘れるのは苦しさ、不安、これから起こり得るだろうという予想。



そんなもの、ない方が人はしあわせで居られる。



不安は自分の心が生み出している事。未来を考えて、勝手に不安になり、苦しくなる。



死は考えなくたって明日、今日より確実に近付いているから。僕と美和にも。



窓の外から視線を移すと、美和がコーヒーを飲み干した所だった。



カチャン、ソーサーの上にカップを下ろした美和は、左手で口を押えている。



食べ過ぎて気持ち悪いと言った所か。



お腹が空いているというのと、量が食べられるというのは別だ。



「そろそろ行く?」



「急がなくていいよ。まだ苦しいだろ?」



「うん。」



「だから、注文し過ぎだって。欲張るといい事ないだろ?」



「そうだね。欲張ったから、多分、苦しくなったんだね。」



あはは、と苦笑いした美和の表情は、少し翳って見えた。



単に疲れただけかな、と僕はそれ以上、何も追及しなかった。






口数の少なくなった美和と家に着いた。車を降り、勝手口から台所へ上がると、またここで美和が倒れ込んだらいけないと思った僕は「美和、先にお風呂に入って。」と言った。



「私はいいよ。先に元が入って。」



こんな時、遠慮されても困る。



「いいから、先に入って。家主命令。」



僕の持つ権限は、この家の主という事だけ。



「分かりました。家主さま。」



言った後、美和はぷぷっと吹き出した。



居間の灯かりを点け、カーテンを閉めた僕は、布団を敷いて、わーさんの仏壇にお線香をあげた。



手を合わせ、運動会の事などを報告した。



いつもと同じく、わーさんは何も言わない。昼間、家を出る時は『いってらっしゃい』と聞こえたけれど、気のせいだったのかとも思えて来てしまう。




本当だったとしても、そうやって、気のせいと思う事で、死者の声は生きている人間に、だんだん届かなくなるのだろう、なんて考えたりもして。



「お待たせ、元。お風呂どうぞ。」



随分早いな。



「ちゃんとあったまった?」とは言っても、時間からしてシャワーだろうけど。



「うん、大丈夫。」



首筋から鎖骨の辺り、赤くなっている。でもそれはのぼせたのではなく、日焼けらしいと気付いたのは、僕がお風呂場の鏡に映る自分の顔を見てから。



僕の目の下と鼻の頭、額が赤くなっていた。



首も、シャツの襟で隠れていなかった部分だけほんのり赤い。



日に焼けたんだな。10月でも、今日は暑かった。



お風呂を出ると、美和が台所のテーブルに向かって、お茶を淹れて居た。



氷を入れたグラスに、冷ました緑茶を注いで居る。



「はい、元。」



「ありがとう。」



僕が椅子に腰を下ろすと、美和も向かいに腰を下ろした。



「疲れた?」



「うん。」



「ありがとうね。今日。元のおかげで楽しかった。大成功だったし。」



「別に、僕のおかげじゃないだろ。」




「ううん。元がお弁当持って来てくれたから、数喜くんとも一緒お弁当食べられた。」



「誰かさん、寝坊するからさ。」



「ごめーん。ほんと、反省。」



「まさか、競技に出てと頼まれるとは思ってなかったけどな。」



「ありがと・・・あの時、数喜くんのお父さんの所にカズキくんを負ぶって走る元の姿、凄くカッコ良かった。感動した。」



「ば・・・馬鹿な事言うなよ。」



「ほんとだって。ヒーロー降臨、って感じだったよ。」



「ヒーローって、馬鹿。こんなおじさんがヒーローな訳ないだろ。」



「ううん。数喜くんのヒーローは間違いなく元だったよ。木村元啓。カッコ良かったなあ。」



「あまり馬鹿にすると、本気で怒るぞ。」



「馬鹿にしてないってば。感謝してる。」



「はいはい。調子いいんだから。」



「ありがとうございました。」



美和はテーブルの上に両手を揃えて、僕に頭を下げた。



「もういいって。」



やがて顔を上げた美和は、伏せたままの目からぽろりと透明な滴を零した。



汗、な訳がない。



「どうした?」何故泣く。



「あー、ごめんごめん。疲れちゃったみたい。もう寝るね。」



「歯、磨けよ。」



「うん。」



グラスを洗った美和は、水切り籠に伏せ、洗面所に向かった。



僕も、と思ったけれど、今、同じ場所に立つのは気まずく感じたので、少し時間を空けようと、空になったグラスの底とテーブルの上に残った美和の涙を交互に眺めた。



美和が涙を流したのは、ただ単に、疲れて感情が高ぶってしまっただけなんだろうか。



それとも僕が美和の嫌な事を無意識に言って傷付けていたのか。



後者だったら、後味悪い。



レストランでの注文の事を責めたからか?正論だとしても、言うべきではなかった?



美和が僕に奢りたくてわざと多く注文したというのは分かってる。



でも僕は、そんな事されなくても良くて・・・ただそれはあくまで僕の都合。美和は、気持ちを無下にされたと感じたのかもしれない。



どうして僕の方がこんなに気を遣わなくちゃならないんだ。



はー・・・男と女の違いなのか?男はこんな事くらいじゃ、メソメソしない。



しかし妹だったらこんな時、泣いたりせずに「おにいちゃんのバカ!」と腹を殴り付けて来るだろう。



美和はそういうタイプの女ではないらしい。



誰かと暮らすと、度々気を揉む事が起こる。



わーさんと暮らした一年目も、手探りな感じだった。



これをしたら相手が気を悪くするんじゃないかとか、だけどこれは譲れない事だとか、その時々で状況も感情も変化して、一人では味わえない悲喜こもごもに、365日、二人で立ち向かう。



わーさんが居たら、『気になるなら、取り敢えず謝ってみたら』と言いそう。



謝る方へあと一歩まで傾いてる僕の背中をトンと押すタイミングが、いつも絶妙だったわーさん。



僕は、そんな風になれない、敵わないといつも思った程だった。



彼は僕より年上で、僕より多くの感情を知っていて、だから僕の気持ちも手に取るように分かってしまうのだなと、その包容力を魅力的に感じていた。



僕には勿体ない。だけど誰にも渡したくない。僕以外の人間が彼に甘える所を見たくない。



恋をしたと気付いた後、彼から貰ったやさしさが、愛に変わった。



ガタン、と椅子から立ち、


キュッ、蛇口を捻って、


ザーザー、水でグラスを洗い、


キュッ、蛇口を締めた。



コトン、水切り籠にグラスを伏せた後、


トタトタ、冷たい廊下を裸足で歩いて、


カタン、洗面台のスタンドから歯ブラシを取り出した。



ザー、水で濡らした歯ブラシに、


ニュッ、歯磨き粉を付けて、


ゴシゴシ、歯を磨いた。


ガラガラペッ、うがいをして、


スーッ、居間へ続く襖を開いた。



灯かりを点けたまま、美和は布団に潜っている。



僕は灯かりを消して、布団に潜った。



美和の方を見ると、向こうを向いて、顔半分まで掛け布団で覆っている。



耳を澄ますと、スースー、寝息が聞こえる。



謝ろう、そう思ったのに、声が出せなかった。



もし謝っても、美和の事だ、あの涙は疲れたせいだと再び言うだろうと思った。



起こしてまで謝るのも何か変だと、僕は自己満足の言葉を飲み込んだ。



傷付いたとしても、美和は引き摺らない。だから僕も───




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