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そうそうない  作者: 碧井 漪
8/43

8 2015年10月6日のこと

翌朝、珍しく美和が僕より早く起きて、朝食の支度をしていた。



コーヒーの匂い。



顔を洗って台所へ行くと、昨日買っておいた食パンが台所のテーブルの上にあった。



朝はご飯とパンをその日の気分次第で決める。僕は今朝はパンの気分だった。



「おはよ。今日は早いね。」



「おはよう。パンにしちゃったんだけどいい?」



少しだけ振り向いた美和は、皿の上にフライパンを傾けながら言った。



「うん。いいよ。」



僕は食パンの袋を片手にオーブントースターの扉を開けた。



六枚切を二枚並べて、タイマーを5分まで回す。



「美和、マーガリン出して。」



「はーい。」



美和はベーコンエッグを載せた皿を左右の手に一枚ずつ持ってテーブルの上に運ぶと、冷蔵庫の扉を開け、中からマーガリンの容器を取り出した。



一時期、発がん物質がどうとか言うのをテレビで見て、トーストに塗るのはバターにしていた。



しかし、わーさんが「バターって美味しいけど、塩味が強いし、塗り難いからマーガリンに戻そうよ」と言って「確かに。サンドイッチにはマーガリンだよね」と品薄で高価なバターをやめ、山と並べられた安価なマーガリンに戻した。



大量に口にする訳ではないからいいかな。人生折り返してるし。



マーガリンを摂らないからと言って、わーさんのがん細胞が減る訳ではないし、食べたからと言って、劇的に増えたりもしないだろう。



そうやって意識される事の方が、わーさんは辛いのかもしれないと思ったりもした。



体にいいから、そう勧められて、病気を治す為に嫌いな物を食べさせられるというのも僕は嫌だ。



チーン。オーブントースターのタイマーが切れて、食パンが焼き上がった。



僕より先に、用意していた皿の上に熱々のパンを取り出す美和。



「あちちっ!」



「大丈夫か?」



「平気平気。」そう言って、右手の親指と人差し指で耳朶を挟む美和。



その仕草、可愛いと思う。この前、美和がうっかり熱い鍋に触れてしまった時もしていた。



「何、どうしたの?」



「いや、コーヒー、僕がマグに入れるから。」



女に見惚れるなんて事、今まで無かった。



「いいよ。元、コーヒーは私が入れるから。それよりパン焼いて。私、二枚食べる。」



「あ、うん。」



何故か僕はパンの袋をずっと握っていた。これでは、美和が次のパンを焼けなかった訳だ。



またぼんやりしていた。最近の僕はどうしてしまったのだろう。



コポコポコポ、美和がサーバーからマグにコーヒーを注ぐ。以前はコーヒーメーカーがあったが、古くなったのと、頻繁に飲まなくなったので、一杯使い切りのコーヒードリッパー付きパックを買っている。



二人分、だけど一パック。



本来なら一つのマグに一つ使う所を、一杯分のお湯を注ぐだけだと濃いので、耐熱ガラスのコーヒーサーバーに無理矢理セットした使い切りドリッパーに二杯分のお湯を注ぐのが僕とわーさんには丁度良くて、



僕がそうして美和の分と僕の分を淹れていたら、美和は貧乏臭いと言うかなと思ったけれど、「へー、こっちのがいいね。丁度いい濃さ。経済的だし」と気に入ってくれて、以降、美和もこの淹れ方を採用してくれている。



砂糖は互いにスプーン一杯。牛乳がある時は、カフェオレにしたりもする。



「美和、牛乳あるよ。入れる?」



「んー、今日はお砂糖だけでいい。元はどうする?」



「僕も、いいや。」



チーン。次のパンが焼けた。皿の上にはトーストが三枚。僕が一枚、美和が二枚だ。



「じゃあ食べよう。」



「うん、いただきます。」




「いただきまーす。このサニーレタス、加藤先生が農家さんから貰ったレタス?」



「うん。」



ベーコンエッグの皿の端に、サニーレタスが載せられている。



「ちょっと苦いね。」



美和と同様、フォークで刺したレタスを口に運んだ僕も顔を顰める。



「だね。マヨネーズ掛ける?」



「んー、目玉焼きと一緒に食べる。」



「僕もそうしよう。」



シャク、シャクッ。



醤油と目玉焼きとサニーレタスの苦味がごっちゃになった。



飲み込んで、マーガリンを塗ったトーストを齧りながら、コーヒーを飲んだ。



「あー、美味しいねぇ。」



「そうだね。」



一人だったら、特に感動もないような朝食だけど、誰かと食べると違うなと思った。



僕は、美和との暮らしに馴染んでいた。抱いていた僅かな疑念を、簡単に隅に押しやってしまう程に。








エンジンを掛けた車の運転席で、ハンドルを人差し指でトントン叩きながら僕は待っていた。



ガチャッ、助手席のドアが開き、美和が顔を覗かせた。



「わー、待って待って。」



「急げよ、美和。」



やっと来た。



バタン。シュッ、カチッ。ドアを閉めた美和は、素早くシートベルトを締め、僕を見て、


「ごめーん。だって何だかお腹が痛くなっちゃって。」笑いながら言った。



「朝から食べ過ぎなんだよ。」トースト二枚を平らげて、時間があったら三枚目に手を伸ばしていただろう。



「だってぇ。しっかり食べないとお昼まで持たないから。」



美和の幼稚園、お昼は給食だ。



僕達が子どもの頃の幼稚園はお弁当が主流だったらしいが、今は完全給食を行う幼稚園も増えているそうだ。



時代が変わったんだな、なんてしみじみすると、じじくさい。



「何?じじくさいって。」



走らせた車の中で美和が僕に訊ねた。



「え?僕、声に出してた?」



じじくさいとは思ったけれど、口にはしていなかったと思う。



「今さっき”じじくさい”って言ったよ?」



「え、あ、そう・・・」



「うん。」



言った覚えはないのに、言っていた、らしい。



耄碌(もうろく)したな。じじくさいどころか、その先に進んでいる。



確かに年だよな。45歳。人生折り返してる。



「元は”じじくさくない”よ。」



「美和に言われても。」



「え?私”ばばくさい”?」



「ううん。どちらかと言えば”じじくさい”。」



「えー?私のどこがー?幼稚園の先生の中でも一番年下だよ?」



「そういうのは、年齢関係なく。」



美和の事を“じじくさい”と言ったが、本当はそうは思っていなかった。



ただ、僕の持っていた25歳女性のイメージと美和は全然違っていた事は事実だ。



落ち着いているというか、いや、勿論騒がしい面はあるけれど、若いから感性が合わないと言うような事がなく、中身で言えば、20歳の違いを感じなかった。



カーラジオから流れて来る昔の洋楽。



僕が美和より若い頃に聴いていた曲でも、


「あ、これ好き。昔、CD持ってた。」と口ずさむ。意外と上手い。



「美和先生はお歌が上手なんですね。」とからかうと、


「あなたは口がお上手ですね。」にやりと笑って返して来る。



「着いたよ。」



「はーい。あ、今日も遅いかもしれない。」



カチッ、シートベルトを外しながら美和が言った。



「分かった。適当に買い物しておく。」



「パスタ食べたいな。」



「ミートソース?」



「そう、今日はミートソースの気分!」



「分かった。」



「ありがと!元、大好き!」



僕の動きが一瞬止まった。



バタン。



美和は車を降り、ドアを閉めると手を振った。



それにハッと気付いた僕の心臓は、まだどくんどくんと大きく鳴り続けている。



頬が火照る僕は、美和の顔をまともに見る事が出来ず、無駄に後ろを確認したりして、落ち着きを取り戻せないまま車を出した。



また美和はあんな事を言って。



ドッドッドッ・・・中年の心臓に悪い。



やっぱり年下の子どもだ。僕をからかって。



お互い同性愛者だから、そういう冗談は言わない方がいいのに。



いや、さっきのは単なる社交辞令だ。志歩理も言っていたじゃないか。



『木村、大好き!』と・・・



女はそうやって、好きでもない男に媚びを売る生き物なんだ。



スパゲティミートソースにすると言ったから、“大好き”と言ったのだろうという事は僕にも判っていた筈なのに、また動揺してしまった。



言われ慣れてないからだ。女性に免疫がないと言われればそう。



「好きとか嫌いとか、もうそういう事、言わないで欲しい。」



“好き”と言われる事は、”嫌い”と言われるよりは嬉しいが、別の意味に勘違いしそうで嫌だ。



「ああ、わーさんに言われたいなぁ。”好きだよ”って。」



僕はわーさんの声を頭の中で蘇らせてみる。



でも、さっき聞いたばかりの美和の声に邪魔されて、上手く思い出せなかった。




“好きだよ”



こんな声だったっけ?



ああ・・・美和のせいだ。思い出そうとすればする程、美和の声がこだまする。



馬鹿美和。誤解させるような事を言うな。中年をからかうな。



今夜の夕飯、ミートソースにしてやらないぞ?



はぁっ・・・








そんなこんなで三日経った今、僕は美和に真意を問い(ただ)せないまま、運動会前日を迎えていた。



前日準備で忙しかったらしい美和は、幼稚園に迎えに行くと、いつもより一時間も遅く出て来た。



こんなに待たされるなら、ガソリン入れて来れば良かったな、と思って居た所へ、


「お待たせー、元。明日、何とか天気持ちそうで良かった。」美和は疲れを隠した笑顔で助手席に乗り込んだ。



10月9日金曜日の今日、雲は厚かった。昼にはパラパラ、一時小雨も降って来て、明日の開催は見送られるのではないかと心配もしたが、午後二時には上がっていて、暖かくはないが、これと同じ天気のままなら、明日の運動会は何とか行えそうだと思った。



別に、僕の子どもが出る運動会でもないのだから、そんなに心配しなくてもと思ったが、準備を手伝わされた身としては、運動会を予定通り終わらせて、帰りも待たされずに帰りたいとも考える。



「今夜のご飯、何?」



「焼き魚。」



「秋刀魚?」



「そうだけど?・・・あ、今、またって顔したな?」



「べーつーにー?それより、明日のお弁当の材料買って来てくれた?」



「買って来たけど、朝作るの?明日、いつもより早いんだろ?」



「んー、今夜下ごしらえして、何とか作る・・・」



「とか何とか言って、最近、朝起きられないじゃないか。」



「う・・・」



「美和一人だろ?無理に作らなくてもいいんじゃないか?」



普段は給食で、お弁当は持って行かない。



運動会の時はお弁当かもしれないけれど、園児達は家族と食べるのだろうから、見栄を張る相手もいない筈だ。



「いいの!作るんだから!」



向きになる美和。何か隠しているように見える。



「あっそ。好きにすれば?僕は起こさないから。」



「起きるもん。」



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