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そうそうない  作者: 碧井 漪
7/43

7 2015年10月5日のこと

10月5日、月曜日の朝。



僕は今日も美和を車で幼稚園まで送る。



後部座席は、二人で作った紙の花と輪飾りを入れた袋で埋まっている。



それらを幼稚園前で車から降ろそうとすると、



「あ、元。車ここに停めてて大丈夫だから、荷物、中まで運ぶの手伝ってくれない?」と美和が言い出した。



「え?中まで?」



「いいでしょ。ほら、早く!」



僕の背中を手のひらでバシンと叩いた美和は、ガサガサと両手に持てるだけの袋を持って、幼稚園の通用門を潜ると、真っ直ぐ職員玄関へ向かった。



「まったく・・・」



人使いの荒い所は志歩理に似ている。



従ってしまう僕も、甘いけど。



ここでゴネるのはみっともないし、(らち)が明かない。


ふーっ、と溜め息を吐きながら、両肩に袋を担ぎ、季節外れのサンタクロース気分の僕は、扉を開け放たれた職員玄関に辿り着いた。



ガサッ、ガサ・・・



上がり口に袋を下ろすと、すぐ脇にある職員室にくるりと背を向け、玄関を出ようとした。



その僕に「あのう・・・」と声を掛けたのは、美和より年上に見える女性だった。



振り向いてしまった手前、無視も出来ないと「はい、何でしょうか?」と訊ねた。



「岩沢先生のご家族ですか?」



イワサワ?



ああ、美和の事か。名字で呼ばないから忘れていた。



「家族と言うか・・・」



何と言う?



元同僚です、と言うのは語弊がある。同じ会社に勤めていたと言っても時期が違う。



これは流行りの、シェアハウスの同居人ですと言っておけばいいのか?



困っている所へ、


「あ、元。ありがとう!」美和が職員室から顔を出した。



「そこに置いたから。それじゃ、僕はこれで。」



ぺこりと軽く頭を下げ、今度こそ出て行こうとする僕の耳に、



「岩沢先生の彼氏ですか?」とひそひそ話が聞こえて来た。



「あ、うーん。違いますけど、一緒に暮らしてるんです。」



美和が正直に答えた。バカ、それは言わなくてもいい事だろ。



「ええっ?一緒に?そうなんですか。」



「はい。私の片想いです。」美和の言葉は、僕の耳に突き刺さった。



はあーっ?!



何を言っている。



美和の想い人は志歩理だろ?僕を巻き込むな。



思わず足を止めた僕だったが、振り向く訳にも行かないので、ザッザッザッ、聞こえなかった振りをして園庭を横切り、通用門を出て、ようやく車に辿り着いた。



バタン。運転席のドアを閉めると、両手でハンドルに掴まり、ハーッと深く息を吐いていた。



どき、どきどきどき、何か変だ。



美和は何故、あんな事を言った?



そして僕は何故、動悸がしている?



意味が分からない。



キュルルルルン、エンジンを掛けた。



“片想い”なんて甘酸っぱい言葉、美和が僕に対して吐くなんて、全く想定していなかった僕は動転して、



帰り道、どうやって運転して来たのか記憶が抜けていた。



ハッとしたのは居間の畳の上。寝返りを打ち、仏壇の遺影を見て、我に返った。



「わーさん。僕はわーさん一筋だから。美和の言葉なんかに動揺したりしてないから。」




写真たての中で笑顔を浮かべるわーさんは勿論無言だ。何の言葉も返してくれない。



こんな時、言葉が返って来ると言う人は、自分に都合の良い言葉を、写真の中の故人が言ってくれてると思い込みたいだけなのだろう。



僕はそんな事しない。



喋ってくれるなら喋って欲しいけれど。



死人に口無し。



僕はまだわーさんに縋り、答えを求めようと思ってるのか?



美和の事はわーさんに関係ない。



僕が自分でけりを付けなくてはならない事だ。



愛とか恋とか片想いとか、そういうものを全て終わらせた僕の前に翳さないでくれ。



美和が帰って来たら、どういうつもりなのか話をしよう。



夕方、美和を幼稚園に迎えに行く前に、スーパーに寄って、夕飯の買い物をした。



ふとした弾みに、僕の脳裏に美和の”片想いです”という声が蘇り、ショッピングカートを押す手が変に痺れて来る。



美和が僕を好き・・・まさか、僕はゲイだって知ってるくせに。



普通の女はゲイの男を敬遠するものじゃないか?



美和が僕と暮らせているのは、美和もレズビアンだからじゃないのか?



そうか。さっきのはきっと冗談だ。



まさか同僚の女性教師に『実は私、レズビアンなんです』と言う訳にも行かないから・・・きっとそうだ、そうに違いない。



だから美和は馬鹿なんだ。僕の事を訊かれても、適当に『親戚です』とか言っておけば良かったんだ。



考え事をしながらだった僕の籠の中には、どうしてか、チーズが何種類も入っていた。



チーズ売り場の傍に置かれていたプレーンクラッカーも入ってる。



そう来れば、ワインだ。飲もう。今夜は飲んで、それとなく美和にさっきの話を訊いてみよう。



聞こえなかった振りをしたいのは山々だけど、こうして何かの弾みで思い出して動きを止めてしまうのは良くない。



運転中の記憶を失くすなんて、命に(かか)わる。



ワインの赤か白か迷ったので、ロゼのスパークリングにした。



いつもの僕らしくない。判断力が低下している。美和のせいだ。あんな事を言うから───「元、お待たせ。」



ガチャッと開けたドアをバタンと閉めた助手席の美和は、何食わぬ顔をしてシートベルトを締めた。



“お待たせ”じゃないよ。



まったく・・・



「どうしたの?疲れてる?何か機嫌悪い?あ、待ちくたびれてお腹空いちゃった?」



僕を園児と一緒にするなよ。



「あー、買い物して来てくれたの?ごめんね、今日遅くなって。」



「別に。」



僕は右手でハンドルを操りながら、無意識の内に軽く丸めた左手を口に当てていた。喋った時、親指の付け根の隆起した部分に唇が擦れて、そうしている事に気付いた。



またぼんやりしていた。



早く美和に訊かないと。どうして”あんな言葉”を口にしたのか、と。



「ただいまー、あー、つっかれたー!」



僕に続いて勝手口で靴を脱いだ美和は、そのまま、上がってすぐの台所の床の上に、うつ伏せに倒れ込んだ。



「こら、そこで寝るなよ。」



「んー、だってぇ、疲れたんだもーん。元が買い物しておいてくれて助かったー!」



今日は何となく、美和が幼稚園から出て来るのが遅い気がして、先に買い物を済ませておいて正解だった。



案の定、美和はいつもより30分遅く出て来た。



僕はぼんやりしてたから、美和が来た後で時刻を確認し、いつもより遅い事に気付いたんだけど。



今夜は簡単に焼き魚。見切り品で処理済みの秋刀魚が出ていたから。それと、きんぴらごぼうの総菜を買った。



ご飯は炊いてあるし、豆腐の味噌汁をチャチャッと作って、後は漬物出して終わりでいいかな。



「ぐー、ぐー。」



何の音だ?



冷蔵庫から味噌の容器を取り出すついでに見回すと・・・



「美和!ここで寝るなって言ったばかりだろ?」



「うー、うーん、分かってるよぅ・・・ぐー・・・」



一度目を開いてそう行ったのにも拘わらず、美和はうつ伏せの姿勢を崩さぬまま、再び台所の床の上で目を閉じた。



どれだけ疲れてるんだ?



鍋の中に味噌を溶かして、火を止め、味噌の容器を冷蔵庫にしまった後で、僕は倒れ込んでいびきを掻く美和の傍らにしゃがみ込んだ。



「起きないとキスするぞ?」



目を閉じる美和に向かってそう口走った後で、ハッとした。



今、何を言ったんだ、僕は。



わーさんも近くに居るのに。ちら、と仏壇の方向を見る。写真の向きが東だから、北側に位置するここから、わーさんの顔は拝めない。



聞いてなかったよね、わーさん。美和を脅かす為の悪い冗談だから。



「・・・・・・」



良かった。美和も聞いてなかったみたいだ。



ホッとして立ち上がった途端、



「出来るものならしてよ、キス。」と美和が言った。



え?と床の上の美和を見下ろすと、美和の目は開いていて、僕の足を見ているようだった。



「じょ、冗談に決まってるだろ。」



「分かってる。元はわーさんにしかキスしないって知ってるから。」



僕と視線を合わせずそう吐き出した美和は、むくりと起き、四つん這いのまま仏壇へ向かった。



無言でわーさんに手を合わせ、何か、会話をしているようにも思えた。



二人で何の話をしている、という、勝手に僕のわーさんに向かって、都合の良い答えを求めないで欲しいと腹を立てた僕は、仏壇へ行き、写真たてをパタンと伏せた。



その音に、両手を合わせていた美和は、顔を上げ、目を開いた。



僕のした意地悪に対して何か言うかと思ったのに、


スッと立ち上がった美和は、「先にお風呂貰うね。また眠っちゃいそうだから。」とお風呂場に向かった。



僕は、伏せた写真たてを元に戻し、両手を合わせて、心の中で”ごめん”と唱えた。



風呂上がりの美和は、食事中ぼんやりしていた。運動会の準備で疲れて、眠いのだろう。



今夜もまた、寝巻きにしているトレーナーの首周りを湿らせている。



よく髪を拭かなかったからだ。いくら短いからって。えりあしからのしずくが、トレーナーのみかん色を濃くして行く。



僕は箸を置いて立ち上がると、脱衣所の棚からフェイスタオルを取って来て、すずっと味噌汁を啜る美和の背後に立った。



広げたタオルで後ろからぐるりと美和の肩を覆い、襟ぐりに半周、タオルを折り込んだ。



「いいのに。」



美和は振り向かず言うと、お椀と箸を置いた。味噌汁は、まだ1/3程残っている。



「風邪引くだろ。移されたら困るからな。」



本当は僕に風邪が移ったってそれ程困らない。昔のように毎日出社する生活でもないから。



でも美和は困る筈だ。今週末、子ども達が楽しみにしている運動会があると言うのに、先生である美和が体調を崩して休んだら、子ども達ががっかりするだろう。



「私、馬鹿だから、風邪引かないよ。」



「実際はそんな事ない。馬鹿だって風邪を引く。気を付けなさい。」



「はい。」



「素直だな。」



「元が、親や先生みたいに言うから。”気を付けなさい”って。」



「先生は美和だろ。運動会近いんだから、あったかくして早く寝なさい。後片付けは僕がやるから。」



「やさしいね。わーさんが元にそういう風にしてくれてたの?」



「え?何が?」



「何でもない。お味噌汁おかわりしていい?」



「いいよ。お椀貸して。」



「いい。私が行くから。」



お椀を呷った美和は、ぱっと立ち上がり、鍋の置いてあるコンロへ向かった。



鍋からお椀に味噌汁をよそう美和の後ろ姿を見つめながら座ると、箸を持ち上げた。



総菜のきんぴらごぼうに箸を伸ばし、冷めたご飯と一緒に口に放り込んだ。



もぐもぐもぐ、ごくん。ずずっ、パリパリポリポリ。



戻って来た美和もずずっ、二杯目の味噌汁を啜った。とても瞼が重そうだ。



お腹も一杯だし、美和が眠そうなので、チーズとワインはまた今度。



気になる”片想い”の発言の意図を訊くのもまた今度。はぁ・・・



お皿を下げると、美和が洗おうとするので、



「僕が明日洗うから、このままにしておいて。ほら、布団敷くから、美和は先に寝て。」と



僕は美和を居間に押し戻した。



美和が押し入れを開けて、引っ張り出した布団を僕が受け取って敷いた。



いつもこうして、どちらともなく夕食後、布団を敷いてお風呂に入り、寝るというのが僕らの日常になっていた。



二枚の布団の間は、座布団が一枚入る程度。



もう少し離した方がいいかなと考えた事もあったけれど、窓側と廊下側、どちらに近付き過ぎても朝晩寒いので、このように落ち着いた。



今まで、美和はレズビアンだから、間違いなど起こりようがないと考えていたけれど、今日の”片想い”発言を聞いてから、変に意識してしまう。



もしも美和が、男が好きだったら、或いは男も女も好きだという”バイセクシャル”だったら、僕も恋愛対象になってしまい、そういう間違いも───



美和の方を見ると、いつの間にか美和は、先に布団に潜り込み、目を閉じていた。



間違いなんて起こらないか。僕が変な気を起こさない限り。



起こす訳ない。



居間の灯かりを消した僕は、お風呂場に向かった。



ゴシゴシ、体を洗いながら考える。



美和のあの発言、実は深い意味はなかったのかもしれない。



だって、もしも美和が僕に片想いしていたら、あんな風に毎晩隣でぐーぐー眠るなんて事、出来ないだろうし。



良かった。美和に質問しないで。



『僕の事、好きなの?』とか訊いて、違ったら、かなり恥ずかしい。



自意識過剰と言われてしまう。



仮に美和が”バイ”だったとしても、僕みたいなゲイのオジサンを好きになったりはしないと思う。美和は僕がゲイである事をかなり気にしていると、わーさんの事を訊かれる度、思う。



僕がわーさんにぞっこんだという事、美和は百も承知だ。



そんな僕を好きになる女性がいる訳ない。



良かった、とホッとしたような、少し寂しいような、変な感じがするのは、



もしも美和が僕に”片想い”しているのだったら、ここを出て行かないだろうと考えてしまったからなのだろう。



キュキュッ、ザアアア・・・



雨のような音を立てるお湯に打たれて、またぼんやり・・・してる場合ではない。



美和が誰を想おうと、僕には関係ない。昼間のアレは聞かなかった、忘れよう。



スウェット上下に着替えて、水を飲もうと台所に立つと、シンクの中に置いてあった筈の食器類は全て洗って、水切り籠の中に伏せてあった。



美和だな。僕がシャワーを浴びている間に洗ったんだ。いいって言ったのに。



お茶碗に残る水滴、灯かりを消した居間、閉められた引き戸。



小人や、わーさんの仕業にでもするつもり?



この家には僕と美和しかいないんだから、美和の仕業に違いない。



勝手口の鍵を確認した僕は、水を飲み、台所の灯かりを消して、台所と居間を仕切っている引き戸をそっと開けた。



美和は顔半分を隠すようにして、布団に潜り込み、寝息を立てていた。



狸寝入りかもしれないけれど、判らないので、”ありがとう”の代わりに「おやすみ」と呟いて、僕は隣の布団に潜り込んだ。



ジージージー、虫の音と、すーすーすー、美和の寝息。



静かな秋の夜。どこからか入って来る隙間風を頬にひやりと感じながら、あたたかな布団に包まれ、しばらくの間、暗い居間の天井を仰いでいた僕の意識は、いつの間にかもっと暗く深い所へ音もなく沈んで行った。



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