6 2015年10月4日のこと
翌日、美和が昨日のパーティーで使った運動会用の花を模造紙から外している時に、僕は一人、外へ出た。
車に乗り込み、スマートフォンの画面を覗き込む。
AM11:35
日曜日の昼前。
志歩理は電話に出るだろうと、画面の発信マークをタップした。
『元啓、どうしたの?』
僕がまだ会社に勤めていた頃は"木村"と呼ばれていたけれど、僕が"社長"と呼ばなくなってからは、志歩理も僕を名前で呼ぶようになっていた。
「ああ、うん。昨日、ありがとう。」
『昨日?何だったかしら?』
「誕生日。カタログギフト。」
『ああ、あれね!』
「ありがとう。」
『どういたしまして』
「来年からは、いいから。」
『え?』
「だから、誕生日を祝うって齢でもないし・・・」
『迷惑?』
「そうじゃないけど。」そうだ、とはっきり言える人を紹介して欲しい。
『気に入らなかったんなら、来年は違う物にするから』
志歩理には、何を言っても無駄だった。
「うん。」と返事をした後、電話の向こうから、『志歩理、あ、電話中?』と旦那の声が聞こえて来た。
「ごめん、忙しいみたいだね。それじゃあ、また。」
『うん、またね。わざわざありがとう』
僕は電話を切った。
時間に余裕があったら、美和の話をするつもりだった。
何故、僕の家の住所諸々(もろもろ)を美和に教えたのかと。
仮に、美和の話を出来ていたとしても、
『あら、気に入らないなら追い出せば良かったじゃない。元啓らしくない』
なーんて言いそう、志歩理は。
僕が美和を追い出せるような性格じゃない事も分かってるから恐ろしい。
志歩理の代わりにENT社の社長代理をしていた頃は、やり手だとも言われた僕だけど、実は志歩理の方が一枚も二枚も上手なんだから。
わーさんといい、志歩理といい、僕よりも僕の性格を知っている。
そんなに分かり易い人間だという自覚はないのだけれど。
コンコン。
不意に窓を叩く音が聞こえた。
顔を上げると、美和が運転席の窓から中を覗いていた。
僕がドアに手を掛けると、美和はサッと後ろに退いた。
バタン。ピッ。
ドアを閉め、ロックした。
「電話、終わったの?」
「うん、何?」
「志歩理社長、私の事、何か言ってた?」
「・・・・・・」
わざと無言でスタスタ歩き出した僕の後をちょこまか付いて来る美和。
勝手口から入って上がろうとしたが、出来なかった。上がり口に花の入った段ボールとビニール袋が積み重ねて置いてあったから。
僕はそれを抱え上げ、回れ右をした。
慌てて美和が後ろ歩きでドアの外に出る。
ずんずんずん、僕は車のロックを解除し、抱えている荷物を後部座席に積み込んだ。
バタン、ピッ。
ずんずんずん、今度は勝手口に向かう。また美和はちょこまか付いて来る。あー、何度も何度も煩わしい。
今度こそ家に入る。
僕は台所を通り抜け、居間に一直線。
昨日とは違い、いつも通りの居間に戻っていた。わーさんの遺影も仏壇にある。
ゆうべは片付けないで布団だけ敷いて寝たから。
「ねぇ、元。志歩理社長、私の事、なんて言ってた?」
僕の後ろに立つ美和の声は、いつもと違って震えていた。
その時、僕は思った。
美和の好きな女性というのは、志歩理の事ではないかと。
志歩理は既婚で、遠くに行ってはいないけれど、美和が遠く離れた事をそう表現したのであれば、辻褄が合う。
志歩理への叶わぬ恋を諦め切れなかった美和は、親友ともいえる僕の家に転がり込んで、遠くからでも志歩理の様子を窺いたかった・・・とか?
確かに、そのままENT社に居るのは辛かっただろう。
どんな気持ちで志歩理の結婚式に出ていたのか。
そこで偶々見かけた、同じく寂しそうな僕に何かを感じ、ここへ来たのだとしたら・・・
まあ、少しは同情したくなる。
「美和、どうしてそんなに志歩理との電話の内容が気になるの?」
「えっと・・・」
「正直に言って。美和の好きな人って志歩理?」
「あの、それは───」手で口を押え、下を向く美和。
「やっぱりそうか。」
美和の好きな女って、志歩理の事だったのか───
「あのっ、私の話は、出来ればなるべく社長にはしないで下さい。」
「心配しなくても、何も言ってない。美和がこの家に来た理由って、僕が志歩理の親友・・・というか、友人だったからなんだろ?」
「・・・はい。元が社長と友達ではなかったら、ここへは来られなかった訳ですから、社長には感謝してます。」
「それ違うんじゃない?ここへ住めるのは、僕に感謝すべき事でしょ?」
「あ、うん、そう、そうですね。」
どうして気付かなかったんだろう?志歩理の話になると、美和は丁寧な言葉遣いになる。
そうか、美和の好きな女って、志歩理だったのか。
わーさんも『いい女だ』なんて言ってたな。
志歩理は金遣い荒いし、僕より甘えたがりだけど、憎めない、いや、憎たらしい程いい女。
美和に『頑張れ』とは言ってやれない代わりに、
「ま、気が済むまでここに居てもいいよ。」と言ったら、
「あ、ありがどう、ごじゃいますぅー・・・ううう、うううっ・・・」美和が激しく泣き出した。
いつも気丈な美和が泣くなんて、本当に驚いた。
僕が志歩理に美和の話をしなかった事にホッとしたかのように、泣く美和の顔は涙も鼻水もお構いなしの酷いものだったけれど、まだこの世に居る好きな人を想って泣ける美和が羨ましいと僕は思った。
そんなに泣ける程、美和はまだ恋をしている。
僕は、今、わーさんを想って泣けなくなっていたから。
だからって、わーさんの事、嫌いになった訳じゃないよ。忘れた訳でもない。
僕は仏壇の遺影に目を向けた。わーさんは今日もあの日のままの笑顔を見せていた。
会いたい・・・強く願っていた気持ちは穏やかになり、わーさんは死んだとか二度と会えないとかいう感覚より、ただ遠くに居て会えないだけで、寂しいけどだけど、わーさんにはわーさんの、僕には僕の生活があるなんて、思えるようになったのって───
「お腹空いたね。お昼、何にする?」
切り替えの早い美和のせいだろうな。
今し方泣いていたばかりなのにもう、昼食の心配をしているなんて。
失恋しても、男より女の方が立ち直り早いって、大学時代、同級生の男子学生がぼやいてたな。
そうかもしれないな。
美和は志歩理を忘れて、その内「この人の事、好きになっちゃったー!だから出てくね」とか、さらっと言い出すんだろう。
パッと現れ、パッと去って行く。
若さっていいなあ。
美和はこれからいくつか恋をして、その恋が叶って、いつか相手を看取った後、今の僕の気持ちが分かって貰えるのかな。
美和の相手が男でも女でも、誰かを愛し続けられたら、いつかその誰かと別れる時に、酷い痛みを感じるんだ。泣いても泣いても癒されない、辛くても忘れる事が出来ないから苦しい。
出来たら味わって欲しくないけど、人を甘えさせたいと言った美和は、いずれ誰かに愛されて愛して、しあわせを得るだろう。
それを失った後に来る後遺症のような痛みに、僕も耐えられたんだから、美和も大丈夫だよと、その時を迎えた時の彼女に言ってあげたかったけど、その頃僕はこの世に居ないだろうから。
今はまだ早過ぎる。美和がこの気持ちを理解するのは。
生き別れも辛いだろうけれど、死に別れだって辛いって事。
その人じゃなければならないってのと、その人から愛を貰えなくなったってのは、その人が生きてても死んでても同じ事だけど。
「元、ぼんやりして、どうしたの?お昼、何にするか決まった?」
「あ、あー、お昼ね。何でもいいけどあったかい物がいいな。」
「じゃあ、あつあつのきつねうどん?」
「んー、きつねかぁ・・・ゆうべいなりずし食べたしなぁ。どうせなら、野菜のかき揚げにしない?それと、僕は蕎麦の方がいい。」
「あー、蕎麦ね。この前、加藤先生に貰ったやつあったね。じゃあそれにしよう。」
「美和、畑から茄子取って来て。出汁引いとく。」
「あいよ。あ、ネギも要る?」
「要る要る。」
「了解。」
美和は玄関で長靴を履き、茄子と長葱を取りに畑へ向かった。
僕は台所で片手鍋に水と昆布を入れて沸かし、昆布を取り出した後、鰹節をどばっと入れた。
火を止め、漉す時に使う乾いた布巾を鍋蓋代わりに被せて、冷蔵庫から薄力粉の入った密閉容器を取り出した。
田舎暮らしをするまでは、調味料関係を冷蔵庫にしまう事などあまりなかった。
今は、虫が付かないように結構なんでも冷蔵庫にしまうようになった。
ボールに薄力粉と塩に鰹粉、卵と水道水を加えて混ぜる。
天ぷらの生地を混ぜた後は、ボールにラップを掛けて、一旦冷蔵庫へしまう。
大鍋に水を入れ、火に掛けた。
「わー、いい匂い。」
鍵を開けたままだった勝手口から、長靴をガポガポ鳴らして美和が入って来た。
両手に抱えていた野菜を、ひょいと流し台の中へ放り込むと、また勝手口から出て、玄関へ回った。
「足、洗って来る。」とお風呂場へ駆け込む。
靴下を履けばいいのに、裸足で長靴を履くからだよ。
足を洗って戻って来た美和は、流し台の中の野菜を洗い始めた。
茄子と長葱だけではなく、にんじんもあった。
美和が洗った茄子を、僕が賽の目に切ってボウルに移す。
その間に、美和は洗ったにんじんの皮をピーラーで剥いて、空になったまな板に載せた。
「千切りでいい?」
「うん。あ、玉ねぎも入れようよ。」
「いいけど。野菜室だよ。」
「了解。」
美和は冷蔵庫の野菜室から玉ねぎを取り出すと、水に濡らし、皮を剥いた。その方が剥きやすいらしい。僕は乾いたままでも剥いてしまうけれど。
半分に切った玉ねぎを薄くスライスした後、長葱を刻む僕の横で、美和は茄子、にんじん、玉ねぎを入れたボウルに水を入れ、ザッと混ぜると、ザルに空けて水を切った。
長葱を小鉢に移した僕は、予め用意しておいた天ぷら生地の入ったボウルを冷蔵庫の中から取り出した。
その中へと、ザルの中の野菜を一度に全部混ぜた美和は、油鍋の用意を終えた僕にボウルを手渡した。
天ぷらを揚げ終えると、蕎麦を湯がく美和の横で、僕は麺つゆを仕上げた。
かけ蕎麦とかき揚げが完成した。
美和がどんぶりに蕎麦を入れ、僕が麺つゆを掛ける。
お盆に載せたどんぶりを運ぶのは僕の役目。
運ぶ間に転んで、美和にまた火傷されたら面倒だから。
美和は長葱の小鉢と、揚げたてのかき揚げをそれぞれの手に持って運んだ。
「あ、お箸とお水忘れた。持って来るね。」
居間のテーブルにどんぶりを二つ置く僕にそう言って、美和はまた台所へ引き返した。 「美和、七味も持って来て。」
「はーい!」
とすとすとす、カタン。
「はい、お水とお箸と七味でーす。」美和はもう一つあった小さな盆にコップを二つ、箸を二膳、それから七味唐辛子を忘れずに持って来た。
テーブルを挟んで向かい合わせになった僕と美和は、揃って座布団の上に膝を折った。
美和はどんぶりのよこにコップを置き、僕に箸を手渡すと、七味をテーブルの真ん中に置いた。
「ありがと。食べよう。いただきます。」
僕が小鉢の中の葱を箸でざざざとどんぶりに投入すると、美和は箸でかき揚げを抓んで蕎麦の上にどんと載せた。
「いただきまーす。ひゃー美味しそう!」
「いつもと変わらないだろ。」
かき揚げは前にも作った。夕飯の時。
はふはふ、ずるるる。
湯気越しに見える美和の蕎麦を啜る顔が、一生懸命なのが面白い。
よっぽどお腹が空いてたのか。
思わずふっと頬が緩む。
それに気付いたのか、僕を見て美和がにまっと笑った。
「思わず笑っちゃう程、美味しいよね。秋茄子は嫁に食わすなって言うでしょ?それって女は茄子を食べるなって事?男は食べていいの?何で?」
「さあ?」
何だったかな。その由来は、美味しい茄子を嫁に食べさせるのは勿体無いという嫁いびりとも、そうではなく茄子を食べると
体が冷えてしまうから大切な嫁には食べさせられないとも聞いたけど、詳しくは知らない。
「私、茄子食べない方がいいのかなぁ?」
そんな事を訊かれても・・・僕の嫁ではないし。
「知らん。食べたくないなら食べんでいい。」
「やーだよう。食べるもん。どうせ誰の嫁にもなれないんだから。」
「・・・・・・」
「元、黙らないでよ。食べにくい。」
「喋ってる方がもっと食べにくいけど?」
「ご尤も。」
「ふはっ。ははっ。」
「元、何笑ってんの。」
「いや、別に。」
しゃく、しゃくしゃく・・・ずず、ずずずっ・・・
天ぷらを食べる音、蕎麦を啜る音、秋の虫が鳴く音、時々、どこからか入った蠅がブンブン飛び回る音、
それだけ。
ずずっ、ずず・・・ごくん。
ぷはぁ。コトン。
持ち上げたどんぶりをテーブルの上に下ろすのが同時だった。
それだけ、
なのに、もっと深い何かがそこにあるように感じてしまうのは、秋という感傷的な季節になったからだろうか。
僕と美和、不可思議な関係。
嫁でも夫でも、恋人でも友人でもない。
男ではなく、僕の苦手な女、だけど不思議と居心地は悪くない。
わーさんと居た時と違うのは、美和は僕より先に死なないという安心感を与えてくれるという事。
彼女は僕より若く、とても元気で、すぐ死にそうではないから。
どちらかと言うと、僕の方が先に死ぬのだろうなと考えられる。
もし、美和がここに居たいと願うなら、もし、この家を引き継いでくれると言うのなら、僕はこの家と墓を美和に託して、安心して死ねるなと考えたりもした。
なんてな・・・いつ出て行くか分からない美和に、この先の事を頼むなんて事はないだろうけれど。
僕は煩わしいと感じ始めているのだろうか。
自分の死、そして死んだ後の始末、わーさんは僕に託せたけれど、僕は僕の死を託せる相手が居ない。
この家と墓、畑、車、他に財産なんてないけれど、それらは僕の死後どうなるのか、どうしておくのがいいのか、僕一人で考えなくて
はならない。
最後に墓だけあればいい。わーさんの眠る墓に僕も入れれば、それだけでいい。
家と車と畑はあの世に持って行けないし、墓だって、僕が死んで、あの世でわーさんに逢えた後なら無くなっても構わない。
現世で何かを残しても、後の人が処分に困るだけだ。
家族の居ない僕は、誰にも託せない。一人、綺麗に後始末をして、旅立たなくてはならない。
美和は、いつまでここに居てくれるんだろう。
僕を置いて、いつか出て行くのかな。
うん、出て行くだろうな。
あまり、狎れ合っちゃいけないな。
僕もまだ死にそうにはない。美和がここに居る間は、多分生きている。
だから、僕の死後の事を託すのは美和にではない。
僕の遺体の火葬は予め業者に頼んでおいて、この家の事やら何やらも、美和を当てにしようとか考えずに、ある程度自分でつけられるようにしておかないと。