4 2015年9月30日のこと
しかし・・・
それから一か月が過ぎた9月30日現在。
彼女はまだこの家に居座っている。
しかも・・・
「元、早く早く早くう!幼稚園、遅刻しちゃう!今日雨だし、駅前の道、絶対混むから!」
わーさんが僕をそう呼んでいたと知ってから美和は、僕の事を"元"と呼ぶようになっていた。だから僕も"美和"と呼ぶ事となった。
「もーっ!どうして僕が毎日送らなくちゃならないのさ。」
9月から大来名駅近くの”おおきな幼稚園”に教諭として勤める美和は、足の火傷が治った今でも、僕を"足"代わりにしている。
この家からバス停まで歩いて20分弱、そこから駅まで20分、更に電車で10分、駅から歩いて10分、待ち時間を含めると一時間以上かかる幼稚園までの道を、車だと30分だからと、毎朝毎晩、僕に送り迎えさせる。
「運転免許、取ろうとか思わないの?毎日僕に送り迎えさせて悪いなーとか感じない?」
「そりゃあ、免許欲しいけど、でもそんなさくっと取れる物でもないでしょう?教習所、駅からバスで20分以上かかるし。」
「はあーっ、何を言っても無駄かぁ。」
赤信号で止まり、わざとらしく溜め息を吐く僕に、助手席の美和は「元に感謝。今夜、ご飯何にするの?」と顔の前で両手を合わせ、いたずらっ子のように舌を出して微笑む。
「さっき朝ご飯食べたばっかりでもう夕飯の話?食費、二倍貰うぞ?」
「えー、負けてよ。畑仕事頑張るから!」
「ほんと、調子いいな。」
「へへっ。」
「着いたぞ。」
「ありがと。じゃあ、帰り道、気を付けて!」
「うん。」
「あ!忘れ物!」
美和の声に、僕は運転席から身を乗り出し、助手席の下を覗き込む。
と・・・ぽふぽふ。
僕の後頭部を美和の手が撫でた。
「あ、またっ!」それをやるなと言っても、美和は聞かない。いつも僕が送り迎えをすると、頭や腕、背中なんかを撫でて来る。
ボディータッチってやつなのか、幼稚園の園児達にしているように、僕にもして来るから本当に困ったものだ。
遅刻するって言うから急いだのに・・・もう!
美和は僕がこの道の角を曲がるまで、幼稚園の前からいつも必ず車を見送る。
駅前の信号で止まると呟いていた。
「今夜の夕飯は、何にするかな。久し振りにとんかつとか作ったら、美和、喜ぶかな。」
誰かの為に料理するなんて事が、またあるとは思わなかった。
美和を幼稚園まで送って行くようになったきっかけは、僕が美和に火傷を負わせてしまったからだった。
火傷させた翌日、8月31日、皮膚科で軟膏を出して貰った。皮を剥がして薬を塗り、乾燥しないように、ワセリンの付いたガーゼフィルムで覆い、その上から包帯を巻いた。
それでもしばらくは靴下と靴が擦れて歩き難そうだった為、9月1日、僕が車で幼稚園まで送ると申し出た。
一か月経った今、痕は残っているものの、皮はすっかり元通りになった。日焼けしないようにすれば数年で痕は目立たなくなると
皮膚科で言われている。
それなのに、美和は毎朝「送ってって」と僕を起こす。
確かに、毎日畑仕事以外特にする事もない僕は”暇”だが、足が治った今、美和を送る義務はない・・・ないけれど、でもこうして文句を言いながら送ってしまうのは───
僕が、誰かに感謝される喜びを思い出してしまったからだろう。
ここ数日で、朝晩、めっきり涼しくなった。
畑のひまわりは二週間前程に全て枯れ、種を取る為に、後半月はこのまま放置する。
昨年は一人で、泣きながら収穫したひまわりの種。植えたのはわーさんと一緒だったのに、刈り取る時は一人だった。
何も無くなった畑を見た僕は、僕の命はいつ尽きるのだろうかとその事ばかり考えて、次の年を迎える事なんて、あの時は全く考えられなかった。
夏が終わり、秋になったとも、冬が終わり、春になったとも分からず、ただ実体のない抜け殻のように過ごしていた。
変わったのは、志歩理からの電話でわーさんの事を話した後、それからしばらくして、ひまわりの種を植える気になった。
一周忌に、畑にひまわりが満開になっていたら、わーさんが喜んでくれるんじゃないかって、自己満足だったけど、ようやく一歩踏み出せた。
そして迎えた一周忌、思いもかけぬ事が起きた。
突然、この家を訪ねて来た人がいた。美和だ。
美和は一体、いつ出て行くんだろう。
日に日に増える美和の荷物。特に服。
ここへ来た時は登山用リュック一つ分で、パジャマも持ってなかったのに、今は幼稚園で着るジャージから何から、結構増えた。
ただ、若い女が好みそうな派手な色のスカート何かは持っていない。
美和の持っているフォーマルな服は黒のスーツだけだと教えてくれた。黒いジャケットに、膝丈スカートとパンツが付いている物が唯一だと。
普段着る服が増えたと言っても、ベースはデニムと黒のズボン、涼しくなって来たからと買ったのは長袖Tシャツとパーカー。
「会社に勤めてた時、スカートとか履かなかったの?」
ENT社は事務職でも制服はなく、派手過ぎなければ、どんな服装でもOKだった。
僕はスーツの方が都合が良かったからスーツのみだったけれど、おしゃれな男性内勤社員は、カジュアルなジャケットにジーンズを合わせたりしていた。
派手過ぎずという基準も、志歩理の前だとかなり範囲が広くなる。一番派手なのは、間違いなく社長である志歩理だから。
そんな、服装規定の緩い会社に勤めていて、透けるブラウスやヒラヒラしたスカートの一つも持っていないなんて、若い女の子にしてはかなり・・・
「変わってるって言われなかった?」
そうぶつけてみたのは、美和が三枚目のロースかつに箸を付けた時だった。
美和を迎えに行く前に寄ったスーパーで、豚ロース四枚入りのパックを買った。これって三人から四人家族用なんだよなと思いつつ、僕が一枚、けれど美和は一枚じゃ足りないだろうと、四枚入りを選んで正解だった。
千切りキャベツは畑のキャベツ。トマトも最後の収穫だ。
「んー、ほうでもないよ。」むしゃむしゃ、とんかつとキャベツを同時に頬張る姿は、女らしくないと感じる。
美和は化粧っ気もないし、ヒラヒラスカートも穿かない。シャンプーもボディーソープも僕のを使ってるし、香水も使わない。
別に、女が皆、志歩理のように色っぽくしているとまでは言わないが、若いんだから、もう少しファッションに気を遣うものじゃないのか?と首を傾げてしまう。
まあ、そんな女とだったら、この同居生活は一か月も続かなかったとは思うけれど。
変わってる女。女と呼んでもいいのか迷う女だから、ある日突然始まった、この奇妙な同居生活が成り立っているのだろうな。
「あー、食べた食べた。お腹苦しーい。」
今夜もまた並べて敷いた布団の上に、豪快に転がった美和は天井を見上げた。
「言おう言おうと思ってたんだけど、この部屋で寝るのやめたら?」
「え?何で?」
「いや、ほら、一応男と女だから、間違いあったら困るでしょ。」
「ないよ。元は女に興味ないし、私も男に興味ないから。」
「いや、でもさ、世間的に・・・」
「夜中に誰か来る訳じゃないし、仮に来たとして、私と元が一緒に寝てるって誰かに知られて、どこか問題があるの?」
「いや、そうじゃないけど・・・」
「男同士、女同士だったらいいの?」
「いや・・・」
同性愛者の僕達は、どちらかと言うと同性同士の方が危ないと言うか・・・
廊下を挟んだ向こうにも部屋がある。
そこは主に僕とわーさんの私物を置いて物置きとして使っている部屋だけれど、もう一つの奥の部屋と違って、壁紙と畳を貼り替えて綺麗にしてある。
美和の服もそこの部屋に収納していて、着替えもそっちでしてる。居間程広くはないけれど、奥の部屋に僕とわーさんの私物を移動したら、美和一人の部屋としての広さは十分だろう。
このままここで暮らすつもりなら、せめて寝る部屋だけでも分けた方がいいんじゃないかと、今更だけど考えて「向こうの部屋、荷物片付けて美和が一人で使っていいよ。」と言うと、美和は、お腹をさする手を止めた。
「ここがいいな。一人で寝るの怖いから。」美和は天井を凝視しながらそう言った。
「怖いって、何で?」
「何でも。」
何が怖いと言うのだろう?虫だって平気で潰す位なのに。
何かを思い出すからなんだろうか?
例えば、生き別れたという、恋の相手とか。
「美和が好きだった女の人ってどんな人?志歩理みたいな人だった?」
不意にそんな言葉が口から出たのは、寝しなにいつもわーさんの事を訊いて来る美和へ対抗しての事だったのか。
今日までに、粗方わーさんとの想い出を話し尽くした僕は、今夜は美和の番だと、横になったまま視線を美和へ向けた。
「どんな人って、素敵な人。初めて人を好きになった。初恋で一目惚れ。」
美和は僕の目を真っ直ぐ見ながら、相手の事をそう話した。
「一目惚れ?相手の事をよく知らないで、見た目だけで?」
「うん。でも、後でちゃんと話したよ。」既婚女性と言っていた。片想いだったかどうかまで訊けていないが、おそらくそうだったのだと考える。
「見た目と中身、違ったんじゃない?」
「その通り。全然違った。だけど知れば知る程、益々好きになった。」
「へー。僕もそうかな。わーさんの事、知れば知る程、好きになってた。」
「それはそれは、羨ましいですな、はっはっは!」
「変な笑い方。時代劇に出て来る悪い奴みたいだ。」
僕と美和は同性愛者同士だから、男同士、女同士の方が間違いを起こすと言える。
同性同士が恋仲になるより、男女が恋仲になる事に、世間の目はやさしい。
「私はここで寝る。元の隣。わーさんも居るし、安心だから。」
ああ、そうだよな。わーさんの前で僕が誰かを抱くなんて事がある訳ない。男でも女でも、僕はもうそういう事を誰かとしない。
僕が美和を、美和が僕を、お互い襲う様な事は絶対にないと言えるから、同じ部屋で眠っても、問題ないと言えばない。
「わかったよ。ここで寝ていい。」
「やった!わーさん聞いてた?わーさんが証人だからね。」
遺影に向かって話し掛けるなよ。
美和はわーさんに逢った事がないのに、僕より親しかったかのように話し掛ける。
それが少し妬ける。
わーさんが生きていたら、美和みたいな人と結婚したらいい、年下で健康で明るくて・・・と、そう言って僕に薦めるだろう。
でも、いくらわーさんに薦められたとしても、僕は結婚なんて考えられない。
僕の人生、わーさんが居てくれれば良かった。じいさんとじいさんになっても、二人で暮らして行きたかった。
もしも誰かと結婚しろって言うんなら、あの夢のように、美和の中身が本当にわーさんだったらそうしてもいい───なんて考えそうになって、慌てて打ち消した。
「またわーさんの事、考えてたんだ?」
僕の顔を覗き込みながらそう言って、美和はくすっと笑った。
「悪いか。」
「悪くなーい。」
そう言って掛布団を捲る美和の横顔、えりあし、うなじ、鎖骨、あまり大きくない胸、力持ちだけど細い指、身長が低い割りに大きな足、僕を見て笑う黒く円らな瞳。
「勿体ない。」
思わず呟いた。
「え?」
ENT社を辞めずに、ここよりもっと人の多い場所で暮らしていたら、美和の好きになれる女性にまた出逢えたかもしれないのに。
こんな田舎に来てしまって、しかも一応男の僕と暮らしていたら、女性の恋人が出来る訳がない。
「何が勿体ないの?」
ぼんやりしていた僕に突如、美和が近付いた。
僕と美和の顔は、これまでにない程、接近していた。
ドキッ、とした。
美和の事を意識したとかそういうのではなく、こんな風に誰かに顔を接近させられたら、例えばわーさんの主治医だった加藤先生
にだって僕はどきりとさせられると言いたい。
ぷくりとした美和の唇は薄い紅色で、口紅など何も塗っていない筈なのに、何だかとても艶めかしく光っていて、
布団の上に両足を投げ出し、両手を後ろに突っ張ったままだった姿勢の僕は、立ち上がる事も出来ず、咄嗟に視線を逸らす事くらいしか出来なかった。
「教えてよ、元。」
「で・・・電気。寝るんだろ?早く消してよ。」
「ああ、勿体ないって、電気の事ね。はーい、消っしまっすよーっ!」
園児達に話すように明るい声を出した美和は、もそもそと立ち上がり、パチッ、パチッ、パチッと三度壁のスイッチを押して常夜灯に切り替えた。
忽ち部屋の中が薄暗くなった。僕は布団に潜り込む。
「おやすみなさい。」美和の声に、返さないのも悪いと思って、
「おやすみ。」と小さく返す。
前の部屋から持って来たシーリングライト。リモコンもあるけれど、よく失くすからと、電器店に頼んで配線工事をして貰い、壁にスイッチを取り付けて貰った。リモコンも壁に取り付けてあるけれど、生憎電池切れで、僕も美和も壁のスイッチで点けたり消したりしている。
古い天井はそのまま、なのに照明器具だけ新しくて、似付かわしくない。
目を閉じた後、もそもそ、隣の布団で寝がえりをする美和の気配を感じる。
あの夢のように、この隣に眠る美和の中身がわーさんだったら、と考えてみる。
もし、今隣で眠るのが わーさんだったら、抱き締めている。
会いたかった、寂しかったと甘えてキス、それ以上もねだるかもしれない。
わーさんはいつでも、僕が甘えたい時に甘えさせてくれた。
僕は唯一、自分の内面をさらけ出せる人を失って、一人になって、しっかりしなくてはと思うのに・・・いつまで経っても、どこまで行っても、全然しっかりした自覚が芽生えなくて、
このまま齢を重ねる事が怖くもなる。
親兄弟に言わせれば、男は結婚して一人前。独り身の僕は、いつまで経っても半人前。
僕の両親は健在だ。ここより田舎ではない地方都市と呼ばれる街のマンションで二人暮らしをしている。
六つ下の妹は所帯を持って、今は二人の子の母親をしているらしい。
妹が結婚してから、いや、それより前に僕がゲイだという事を家族にカミングアウトしてからは、疎遠だ。
盆暮れの帰省も、年賀状も、電話とメールだってなくなった。
僕からはしても良かったけれど、向こうが嫌なんじゃないかと気を遣ってしなかった。
ノーマルと呼ばれる人達から見れば、僕はアブノーマルに分類される。
男だから、好きになるのは女でなければならない。
もしも、男を好きになってしまうのなら、頭がおかしい。人間として腐っているらしい。
両親も妹もそんな言葉は口にしないが、三人の頭の中に、僕に対してそういう考えがあるだろうとは思っている。
僕自身は、女性を好きになる事が気持ち悪い。ノーマルと呼ばれる人が、同性から望んでもないのにベタベタと性器を触られるのと同じ感覚と言えば解って貰えるだろうか。
だからと言って、女に生まれたかった訳ではない。
女として生まれた自分というのも想像出来ないし、出来ればしたくない。
もし、そうだったら、わーさんと堂々一緒に居られるという事は考えたけれど、仮に僕が女だたらわーさんに好きになって貰えなかったかもしれないと考えると、僕は僕で、男で良かったんだという考えに落ち着いた。
何が一番大事かって、それは愛する人、わーさんと穏やかに暮らして行く事だった。
いつか終わる、そのいつかが一年前に訪れてしまっただけの事だ。
そして、この寂しさもいつか終わる。僕の死を以って。
わーさんの死ぬ日がいつなのか分かっていたら、僕はもっと他にわーさんにしてあげられる事があったんじゃないかと思うけれど、仮にそうだったとして、死ぬ日が分かっているのは僕の方だったとして、わーさんに『元、死ぬ前に何かやっておきたい事はあるか?』と訊かれても『特に何もない、ただこのまま一緒に居てくれるだけでいい』としか言えないよなぁという結論に達した。
死を前提にやりたい事なんて・・・ああ、あれかな。一般的には旅行に行く人が多いと聞いた事があるけれど、別に僕はもうすぐ死ぬからと言って、ここへ行っておけば良かったなぁと思う所はなくて、わーさんは行きたい所があったのかな、なんて今となっては分からないけれど、でも、きっとここに越して来た時に、ここで死ぬ事を覚悟していたのだから、ここが彼の最期の場所に選ばれ、ここが最後に彼の行きたい所だったのだと僕は思う。
あれをしておけば良かった、と思いながら死ぬなんて楽しくない。
今日しなかった事は、それ程したくなかった事なんだと思うべきかもしれない。
時間やお金を理由に諦めた事は、それだけの事だったという事だ。
やりたいけれど、命を落とすかもしれないと迷う事なら、死期を悟った時にやればいいと思う。
詰まる所、人生は、大半、無為だと思う毎日を積み重ねて、その中で時々、大事だという瞬間にハッとさせられるのを繰り返す。
僕とわーさんの無為な日々はしあわせだった。だけど、本当は辛い日もあった。
喧嘩した日、病気が判った時、僕を置いて引っ越そうとした時、
本当に僕を置いてこの世から旅立ってしまった時・・・
今はその辛さも忘れそうになっている自分が嫌だ。
それを思い出したくないと思う自分も嫌だ。
綺麗な想い出だけ思い出すから、その記憶は残っていて、嫌な思いをした記憶は掘り起こしたくないからどんどん埋もれて行って、思い出せなくなって・・・
最近は、わーさんが『かき氷が食べたい』と言った時の顔が思い出せなくなって、何とか思い出そうとするのに思い出せなくて、勝手にその時の表情を、昔のアルバムの写真を見て当て嵌めてしまわないと落ち着かない。
毎日、少しずつ、僕の中のわーさんの記憶が薄れて行く。
あんなに濃かったジュースが、早く冷やそうと沢山入れてしまった氷に薄められて、味がしなくなってしまったみたいな。
早く立ち直ろうとなんてしなければ、僕はもっと、悲しみと孤独の中で、わーさんの最期の時の顔を憶えていられたのかな───