39 2016年4月3日のこと
早朝、目を醒ました僕は顔の異変に気付いた。
何だか瞼が腫れぼったくて重く、開け難い。
鏡が無いので、手近にあるスマートフォンのカメラを起動し、INカメラに切り替えた。
映し出された僕の顔。メガネが無いから画面がぼやけて見えるが、全体的に膨らんで、瞼もぷっくりして居るのが分かった。
浮腫んでる、いや、腫れてる?とにかく酷い顔だった。
思い当たるのは、ゆうべ眠るまで泣いてしまった事。
なんて情けない。小学生ではあるまいし、泣いて翌朝、顔をパンパンに腫らす事になるなんて。
4時10分か。今なら誰も起きては居ないだろう。こういう時は、確か冷やしたらいい筈。
部屋を出ると、隣の部屋を見た。美和はまだ寝て居るだろう。僕と違ってよく眠れたに違いない。
僕だけだ……ゆうべ美和を傷付けた事に傷付いて居るのは。
傷付けた、美和を傷付けてしまった──────
ふるふると頭を振った。そうしてそっと階段を下りた。
ええと、こういう時は冷やすのがいいだろうと、洗面所へ向かった。
カタン、中から物音がした。警戒して戸を開けると、なんと美和が鏡に向かって居る。
美和の手には濡らしたタオルが握られ、僕と一瞬合った目をすぐに逸らすと、慌てたようにタオルで顔を覆った。
「おはよ……」
「おはよう。」美和の声はタオル越しのくぐもった声。
顔も見たくない程、僕の事を嫌いになってくれたみたいだ。
ほら、この程度だったんだよ。自分を傷付ける相手を簡単に嫌いになれる程度の好き。
ふと、鏡を見た僕は、そこに映る酷い顔に気付き、急いで顔を洗った。
ザーザー、ジャバッ、ジャバッ。
両手で顔に叩き付けた冷水で、髪の生え際も、パジャマの袖口も濡らした。
冷たい。
顎からポタポタ零れ落ちたしずくが僕の首筋を伝った時、そこにパッと乾いたタオルのようなものを押し付けられた。
次に瞑って居た目の周り、鼻、口と移動する。一通り拭われた後、ようやくそれは僕の顔から外された。
「ぷはっ!」
僕が目を開けて振り向くと、美和は慌ててタオルで顔を覆って隠した。
そんなに僕と顔を合わせたくないのか、と溜め息が零れた。
ゆうべ『一人にして欲しい』と言ってしまった事を少し後悔して、思わず『ごめん』と言いそうになった。
いや、駄目だ。僕から離れようとする美和を繋ぎ留めるような事をするのは。
そう思い、唇を噛み締めた僕の前で
「くしゅん!」
美和が小さなくしゃみをした。
洗面所は寒い。僕が洗面台を塞いで居たら、美和が使えない。
先に来て居たのは美和だ、と僕は洗濯機の上にあったタオルを掴み、
「キッチン行くから。」と言うと、
「ううん、私が行く。電子レンジお借りしたいの。」と美和が出て行く。
電子レンジ?何か食べるつもりかな?こんな早朝に?
変だと思った僕は、そっと美和の後について行き、ダイニングの隅からキッチンに立つ美和の様子を
窺った。
美和は濡らしたタオルを電子レンジの中へ入れ、温め出した。
電子音が鳴り、取り出したタオルを一度広げて畳み直すと、美和は上を向けた顔の上に乗せた。
何をして居るんだ?と物陰からそっと覗く僕の方こそ何をして居るのだろう。
そうだ、美和とは対照的に、顔を冷やす筈だったと思い出した僕は洗面所へ戻ろうとした。その時丁度、顔からタオルを外した美和と目が合った。
お互い、顔を隠そうとして気付いた。
美和の顔も浮腫んで居る事に。
どうしてそうなったの?と訊く前に考えた。
僕と同じ……だとしたら、美和も泣き腫らしたのだと。
「僕のせい?」
背を向けた美和にぽつり問い掛けると、
「違う!寝不足なだけ!」慌てて否定しながらちらと振り返った美和を見て、
僕のせいだと確信した。
泣いたのも寝不足なのも、どっちも本当だろう。僕もそうで、顔を腫らしたのだから。
ふっ、と思わず笑みが零れた。似て居るな、僕達は……と。
同時に緩んだ僕の目から、ぼろりと涙の粒が零れた。
胸に渦巻くのは、美和を傷付けた自分に対しての憤り、それから、やっぱり─────「元。元、どうしたの?大丈夫?」
目元を拭う僕に向かって、美和が駆け寄って来る。
ぼんやりした視界の中で、近付く美和に安堵した僕は、大きく息を吐き、腕を伸ばした。
そして僕の前に立ち、持って居るタオルで僕の涙を拭う美和を抱き締めた。
「ごめん。ゆうべは。」
「ううん、私こそ邪魔しちゃってごめんなさい。」
「違う。違うよ。僕は、僕はやっぱり……」
「……やっぱり、何?」おそるおそる訊いた美和に、言おうか迷ったけれど、胸に痞えたままの想いを吐き出したくて口を開いた。
「やっぱり、傍に居て欲しい。」
「え?」
愛おしかった。美和の体はあの日のわーさんと違って温かく、生きて居る。どうしても、このまま僕と一緒に生きて欲しいと願ってしまう。
「僕を一人にしないで欲しい。ずっと、死ぬまでずっと、美和に、僕の傍に居て欲しい。」
言った後でハッとした。これじゃ、まるでプロポーズの言葉だ。
「元……」
困惑したような美和の声。僕は美和の顔を見る事が出来ないまま、抱き締める腕をゆっくり解いた。
「気にしないで。何でもない。寝惚けただけ。」
話せば話す程、深みに嵌まる。
美和は俯いて居た。
昔、同じような言葉を口にした。わーさんと一緒に暮らして三年経った記念日だったと思う。
暗くした部屋、レンタルした映画のDVDのエンドロール、狭いソファーに二人肩を寄せ合い、僕はわーさんの肩に凭れながら、小さな声で宣言した。
『僕は、これからもずっとわーさんの傍に居るから』
この先も彼に受け入れ続けて貰える自信なんて少ししかない中で零した言葉。
『うん』
だけどそう言ってわーさんは僕の手をきゅっと握った。
心強かった。
たった一言。けれどしっかり握られた僕の手が何よりの証拠とばかり、とにかく嬉しかった。
愛は言葉じゃないんだ、そう思った瞬間だった。
そのわーさんを裏切る言葉を、美和に対して発してしまった報いなのだろうか。
美和は何もしていない。だけど僕はドンと強く突き飛ばされたようなショックを受けて居た。
また勝手に涙が零れそうなのは、心から思って零した想いを受け入れて貰えなかったから。
同時に羞恥が込み上げ、顔が火照り出した。恥ずかしくて堪らない。今すぐ自分の部屋に戻りたかった。
「ごめん……あの、何でもない。ほら、あれだ。園児と同じだ。幼稚園の帰り際、寂しくなって離れたくないって甘えるのと同じだからさ……美和、今日帰るから、それで─────」
言いながら後退る僕の袖口を美和がパッと掴んだ。
「は、離して……」慌てて腕を動かすと、僕の腕は美和の指から逃れられた。
美和は、やはり僕と目を合わせないで俯いたまま黙って居る。
「支度出来たら言って。送って行くから。」
この状況で車で長時間、二人きりになるのは気まずいとも思えたが、僕が送って行くより他にないと思ったからそう言った。
「じゃあ、あとで。」
僕は美和の前から逃げた。
恥ずかしさと惨めさと、わーさんを裏切ってしまった罪悪感と後悔。
自惚れて居たから罰が当たったんだ。
美和がいつまでも僕の事を好きで居てくれるなんて、思い上がって。
ゆうべの態度で僕は美和に嫌われた。
美和が僕に対して抱いた想いは、結局その程度でしかなかった。
それを僕は今日知った。
傷付けて分かった。
良かったとは言えない。でも悪くないじゃないか。
うん……そうだよ。
静かに階段を上った僕は、自分の部屋に入った。
情けなくて惨めで寂しかった。
わーさんの胸に飛び込んで思い切り泣きたくなった僕は、布団の中に潜って泣こうと考えた。
思い切り泣いたらスッキリするって聞くから、試してみよう。顔はまた腫れてしまうだろうけれど。
掛布団に手を伸ばした瞬間、「失礼します!」と声がして、振り向くと、部屋の中に美和が立って居た。
「えっ……」僕は膝立ちのまま振り返ると、慌てて正座した。
すると美和も僕と向かい合って正座して、「あのね、話が───」と切り出した。
「何?」
"何?"じゃないだろう、と心の中で自分自身にツッコミながら、動揺を隠そうと、腫れた顔でも表情を緩めないよう努めた。
「あんまり、私の顔見ないで……酷いから。それで、あのね─────.」
─────ゆうべの事、怒って居るのだろう。こんな人だと思わなかった、しばらく距離を置きたいとか、僕が昔付き合った恋人達との別れ際、言われたような言葉だろうとしか考えられない僕は、今美和の話を聞きたくなかった。そのせいなのか、僕の耳には目の前で話す美和の言葉が何も入って来なかった。
ああ、何も感じない。胸も痛くない。ドキドキもしてない。平気だ。うん、大丈夫。
「─────元、それでいい?」
「え?ああ、何でも……」
「それじゃあ─────」
ふわりと、飛び立つ瞬間の鳥の羽のように美和の両腕が開いた。
─────天使……?
一瞬見惚れた内に、とすん、美和の肩が僕の鎖骨にぶつかった。
─────何故、僕を抱き締めるの?
正直、訳が分からなかった。美和の手で撫でられる僕の頭の中は真っ白で、だけど体は温かくて、安心して、涙が溢れて来る。
「これからはずっと私が元の傍に居るからね?だから無理はしないで。甘えたい時は甘えて。泣きたい時は泣いて。私に出来る事がある時は何でも言って。私、元に頼られている時が、一番しあわせなの。」
「な……に……?今、なんて……」ぐすっ、洟を啜って訊いた僕の頬は、傘を差さず雨の中に立った時と同じになって居る。
「元、大好き。これからも大好きで居させてね。」
「え?何、どういう事……?」
「好き、好き、大好き、物凄く元が好き、ずっとずーっと大好き。死ぬまで大好き。」
「だから、あの、えっと……」どういう事なのか必死で考える中、僕の頬と耳だけがどんどん熱くなって行く。
「さっきのは取り消せないから。だって今日は4月3日だもん。」
「さっきのって?」
「ずっと元の傍に居て欲しいと言われた事。」
「え?!」
「嘘だよって言って、元が針千本飲んでも、私は忘れないから。」
「それを言ったら、この前の美和のプロポーズも、4月2日だから取り消せないよね?」
「あ、あれは!」
「取り消して欲しい?」
「……取り消さなくてもいいよ。」
「……それは少し困る。」
「断るから?」
「違うよ。まだ指輪を用意して居ないから。」言いながら、僕の心臓は強く脈打ち出した。
「指輪って────」
「婚約指輪。」
頭で考えるより先に放った言葉が、僕の未来をどんどん決めて行く。
こういう事は滅多にない。だけど気分は悪くない。
頬を染め、両手で口を覆った美和の左手の薬指に、僕は右の人差し指を伸ばしてなぞる。
「僕が戻ったら、この指に合う指輪を買いに、一緒に行こう。」
「嘘……でしょ?」
「嘘は吐かない。針千本飲む勇気が僕には無いから。」
「だって、そんな……」美和は真っ赤にした顔を下に向けた。
「正直、結婚という形式に僕は拘らない方だ。美和がしたくないならしなくてもいい。ただ、死ぬまで傍に居る約束をしたいのは美和だけだって事、憶えておいて欲しいから。」
言った後で、気障だと思い恥ずかしくなるが、もう取り消せない。
「……期待しちゃうけど、本当にいいの?」
上目遣いに僕をそっと窺う美和が可愛らしくて、つい意地悪を言いたくなる。
「期待って、何の期待?」
にやりと口の端を上げると、
「もうー!イジワル元!」と美和が軽く握った拳で僕の胸を叩きに掛かる。
「嫌いになった?考え直すなら今だよ?」
ぶんぶんと勢いよく首を横に振った美和。
跳ねる髪の先に触れると、動きを止めた美和と視線がぶつかる。
その潤む瞳に、吸い込まれるように僕は顔を近付けた。
─────このまま、キスしてもいいかな?
と考えた瞬間、目を瞑り掛けた僕の頬は美和の手で押され、僕の唇は、進路を90度変更させられた。
「あ、あの、えっとね、まだその、歯磨きしてないから……あとでね?」
「あ、ああ、うん……」
"あとで"と言われても、そのタイミングを上手く計れるだろうか、と不安になる。
キスを断られた恥ずかしさから、このままでは何だか恰好付かないと、僕は頭の中で色々考えた。
「あっ、そうだ……」
バレンタインのお返しをまだ渡して居なかった事を思い出した僕は立ち上がった。そして、ハンガーに掛けてある上着のポケットの中を探り、そこから長細い箱を引っ張り出した。
そのあと、振り向きざまに、箱を美和に向かって差し出した。
「これ、チョコのお返し。」
「えっと、チョコって?」
「バレンタインのお返し。えーとホワイトデー?すっかり遅くなっちゃったけど。」
「えっ?だけど……」
「開けてみて。気に入るか分からないけど。」
「ああ、でもお返しなんてそんな別に……」
手のひらを体の前でひらひら振って、美和は受け取ろうとしない。中身が分からないからだろうか?
それじゃあと僕は包装紙を解き、跪くと、美和の前で箱の蓋を開けた。
「受け取って貰えないと困るな。僕は使わない物だから。」
「これ、凄い……綺麗。真珠のネックレス、私に?」
「美和の他に、誰に渡す為に僕が買ったと思うの?」
「えっと、志歩理社長……チョコいっぱい貰ったし。」
「志歩理にはもう渡した。ネックレスじゃないけど。これ、気に入らない?」
「ううん、そんな事ないけど、でもこんな高そうなネックレス、私には似合わないから。お店に返して来て。」
「一応天然真珠らしいけど、そんなに高い物じゃないよ。」
あ、こういう時は、"それなりに高いお値段だったよ"と言った方が受け取った貰えたかな?
しかし"高かった"と言えば益々"返品して"と言われる可能性もある。
「だけど……」
渋る美和の前で、僕は箱から取り出したネックレスの金具をパチンと外した。
そして美和の後ろに回り込むと、俯く美和の顎の下からそっと首に真珠のネックレスを掛け、金具を留め、再び美和の向かいに移動して胡坐を掻いた。
僕の選んだ真珠のネックレスは、長過ぎず短過ぎず、美和に丁度良いサイズだった。
乳白色の真珠は、光の当たり具合によって輝きを変える。
美和はネックレスの下に指を入れ、首に掛けられたネックレスを覗き込むようにして見て居る。
「迷ったけど、これにして良かった。美和によく似合う。」
「えっ、あ、ありがとう……」
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう。」贈り物は、用意するだけでは贈り物にならない。相手に受け取って貰った瞬間、初めて"贈り物"となる。
「訊いてもいい?どうして私にこれを?」
「実は、宝飾店のおかみさんに真珠には大切な人を守る力があると言われて、僕の代わりに美和を守ってくれたらいいなって思ったんだ。」
今日の僕は自分でも驚く位、思った事を素直に口に出来た。
美和の反応は?と見ると、ネックレスの真珠を指で触れたまま、考え込んで居るのか微動だにしない。
"込められた気持ちが重い"とか考えてしまって居るのだろうか。
手編みのセーターには匹敵しないと思うが、女性にとっての真珠は、もしかしたら似たような物?
「あ、でも別にそんなに深く考えずに、気軽に着けて貰えれば────だけどそうか、仕事中は着けられないよね。」
うんそうか、使い道のない物を贈ってしまったから、"いつ使えばいいの?要らないわ"と考えて、浮かない顔をして居るのか?
えーと、えーと、女性が真珠もネックレスを着ける時は……そうだ!冠婚葬祭。
「友達の結婚式とか、僕の葬式とかで着けてくれればいいから。」
「えっ?!」ようやく美和が僕を見た。
「えっ?て、あ、今って結婚式では着けないとか?」そんな事ないと思ったけど、流行りではないとか?確かに"真珠のネックレスは若者向け"というイメージは真っ先に浮かばない。
となると、美和には真珠ではなく、ダイヤのネックレスとかの方が良かったのか……失敗したな。
「ごめん、気に入らなかったら別に着けなくていいから。」
「ううん。着ける。大事な日に着ける。だけど……」
「だけど何?」
「元のお葬式に着ける約束は出来ないよ。私の方が先に死んじゃうかもしれないから。」
「怖い事言わないで。」
「だって、それは分からないでしょう?」
「まあ……それじゃあ、僕が先に死んだら、美和はそのネックレスを着けて僕の葬式に出てくれる?」
「生きてたら。」
まあ、そうだな。生きてたら。
「そっか、ありがとう。」
僕は改めて美和の首元で光る真珠のネックレスを見つめた。
僕が死んだ後も、このネックレスは残り、ずっと美和を守ってくれるならいいなと思った。
「でも!」
「でも、何?」
「生きててね。長生きしてくれないと嫌いになっちゃう!」
「それは分からない。」僕が美和を真似て返すと
「もーっ!」とほっぺたを膨らませてから美和は、
「大好きだから、長生きして!」と白い歯を見せて笑った。
「じゃあ僕も。大好きだから、僕より先に死なないで。」
"大好き"────そう言えば、もっと笑ってくれると思ったのに、反して美和は泣き出した。
耳を赤くし、両手で口を覆いながら美和は、ボロボロ涙を零して居る。
何だ、どうした?僕は言い間違えてしまったのだろうか?
内心オロオロと狼狽える僕の前で、美和は洟を啜り、涙を拭った。
「どうしたの?美和。何か嫌……だった?」
「だって……こんなにしあわせ貰ったら、罰当たっちゃうんじゃないかって……」
「罰って?え?何の話?」
「元に"大好き"って言って貰える日が来るなんて夢にも思わなかったから、だから怖くなっちゃう。」
「怖いって、何が?」
「元に"嫌い"って言われる日が来てしまうのが。」
「────僕が美和の事を好きじゃなくても美和は僕の傍から離れないような事を言ってなかった?」
「そ、それはそう、だけど……」
「何年も経てば美和だって僕の事を"好き"とか"嫌い"とかで傍に居るんじゃないって事が分かると思うよ。うちの両親みたいに。」
「元のご両親?」
─────ピピピ、ピピピ、ピピピ……
電子音がだんだん大きく響いて来る。
「あ、大変!」
急に美和が立ち上がり、部屋を出て行ってすぐ、単調に繰り返される音は止まった。
戻って来て僕の部屋に顔を覗かせた美和は、
「アラーム掛けてたの。うるさくしちゃってごめんね。私、そろそろ着替えて、下でご飯の支度手伝うから。」
「え、あ……うん。」
もっと話したい、まだ話は終わってない、そう言いたい気持ちを呑み込んだ。
にこりとした美和は隣の部屋に戻って行った。
深く吐いた溜め息が、ゆうべの僕の行動を責めた。
ここで一緒に寝て、もっと話をすれば良かった。
ああ……でもこれから向こうへ帰る車の中で、もっと話が出来るかもしれない。
僕のもどかしさはまだ消えない。
多分きっと、僕の胸の中にはまだ、美和に伝えきれていない気持ちが残って居るのだろう。
多分きっと、まだ、もっと、足りない……
今日、美和は帰ってしまうのに、僕はまだもっと、美和と一緒に居たいのに。
その後、両親と僕らの四人で朝食を食べた。
「美和ちゃん、何時の新幹線?駅まで元啓が送るから。」
箸を置いた母が食器を重ねながら言った。
「まだ決めてないんです。でもあまり遅くならない内に帰ろうと思います。」
"帰ろうと思います"
美和の言葉に少し寂しさを感じながら、それよりもと僕は
「新幹線って何で?僕が車で家まで送って行く。」と考えて居た事を口にした。
「それは駄目。私、来た時のように、新幹線で帰ります。」美和は両親と僕の前でハッキリと言った。
「いや、僕が送って行く。」
「でもそれじゃあ、元啓さんが疲れてしまうから。明日、お仕事でしょう?」
「早目に行って、帰ってくれば平気だよ。」
「だけどさっき、私が『新幹線で帰るね』って言った時、元啓さんは『何でもいい』と言いましたよね?」
美和は食器を重ねた後、そう言いながら真っ直ぐ僕を見つめた。
「そんな事、言ってないし、新幹線の事は聞いてない。」
「元啓、美和ちゃんがいいって言うのだから、無理に送って行こうとするのはやめなさい。」母は美和の味方らしい。
「無理に、ってそんな……美和、僕が車で送って行くのがそんなに嫌なの?」
少しでも長く一緒に居たい僕は、美和に車で送って行く事を拒絶されてガッカリして居た。
ショック、でもあった。
美和が、僕とは一分一秒でも長く一緒に居たいとは考えて居ないようで。
「嫌とか、そういう意味では無くて、元啓さんが大変だから─────」と美和は言うけれど、僕には甘えたくないだけなのだろう。
頼り甲斐のない男なのだろうか?美和にとって僕は。
「まあまあ、二人でよく話し合って決めたらいいだろう?」
父が間に入った事で、僕らの言い合いは一旦収まった。
そして朝食後、片付けはしなくていいと両親が言うので、僕と美和は二階へ上がった。
お互い無言のまま、美和は隣の部屋に入り、僕は自分の部屋に入った。
何だか釈然としない。どうして僕が送って行くのが駄目なのかと。
明日、仕事だから?疲れるから?
それは分かってる。だけど僕の問題で、美和が決める事ではない。
それとも他に、僕に送られたくない理由があるのか?
向こうの駅まで、誰かに迎えに来て貰う約束をしているとか?
誰かって……いやいやいや、そんな。
目を瞑って、僕は頭を振った。
居ても立っても居られず、部屋を出た僕は、隣の部屋をノックした。
「はい。」
美和の返事を待って、
「ちょっといい?」と僕は隣の部屋に入った。
「どうしたの?」
荷物を纏める手を止めた美和は、僕を見上げた。
僕はその場に腰を下ろした。
美和と僕の間に、美和のバッグがある。
もう帰ってしまうんだ、と改めて寂しくなる。
このままここに居て欲しい。
いや、無理なら僕も一緒に帰りたい。
だけど……そのどちらも今は叶えられないって事を、僕が一番よく分かって居なくてはならないのに。
美和の胸元に光る真珠が、何だか恨めしい。
僕の代わりに美和を守ってと願って居た筈なのに、今は僕の代わりに美和の傍に居られていいなと妬んでしまう。
ずるい、僕は美和をこんなに想って居るのに、傍に居られない。
ずるい、僕は美和をこんなに愛して居るのに、美和はそうでもないらしい。
ここに僕を置いて、一人で帰る事に寂しさを感じないんだ、美和は。
酷い女だ。女だから酷いのか。だから僕は今まで女を好きにならなかったのか。
どうして美和なんだろう。どうして好きだと思ってしまったのだろう。
今からでも引き返せる?離れたら忘れられる?
だったら好都合じゃないか。早く帰って。僕の心を掻き乱す美和は帰ればいい。僕を置いて────「何時に帰るの?」
「まだ決めてない。」
「そう……」
「うん。午後にしようかと思ってる。」
「用事が済んだのなら、暗くなる前に帰れば?」
「……元、怒ってる?」
「怒ってないよ。」
「嘘、怒ってる。こっち向いて。」
「怒ってない。」
「まだね、用事済んでないの。」
「じゃあ、早く済ませたら?邪魔者は消えるから。」
僕は美和と目を合わせないまま立ち上がり、部屋を出た。
「あっ、元……!」
バタン、
僕は自分の部屋に戻ると、うつぶせに倒れた。
不貞寝だ。嫌になった。何もかも思い通りにならない。
イライラしている。何に?
自分にだ。
寂しいからってイライラして、美和に甘えられず、本当は構って欲しいのに素直になれず、意地を張って、馬鹿みたいで……情けない。
重い胸の中をスッキリさせたいと、溜め息を吐いても吐いても、益々苦しくなるばかり。
目を閉じたその時、部屋の外から呼び掛ける美和の声が聞こえた。
「元、入ってもいい?」
断る理由も無い僕は、ゆっくり起き上がると「どうぞ。」と答えた。
胡坐を組んだ中で軽く両手を握った僕は、部屋に入って来た美和を見上げた。
美和は右手にバッグ、左手にコートを抱えて居た。
さっき僕が『暗くなる前に帰れば?』と言ったからだろう。
どうしても僕には送らせないつもりなんだな。
意地っ張り。
僕もだって言われるけれど、僕より頑固だ。可愛くない。
可愛くないのに、その微笑みも憎らしいのに、
訳もなく愛しい。
まだ行かないでよ、
素直にそう言えないのは、僕が年上だからとか、男だからとか、ここが僕の実家だからとか、それら全部が理由ではいけない?
美和は静かに僕の前に正座した。
少し悲し気な微笑みを湛えたまま。
「色々ありがとう、元。とっても楽しかった。」
そう言って少し目を伏せた美和に、僕は
「うん。」としか言えなかった。
「どこか行きたい所、ないの?」
「あるからここに来たの。それにやり残した事もある。」
「やり残した事って何?」
「今、してもいい?」
「今?」
「うん。私がここに来て、一番したかった事。」
僕に近付き、膝立ちになった美和は、いきなり僕を抱き締めた。
「何?」冷静を装い、低く放った僕の声は、少し上擦ったように思えた。
「大好き。」
耳に届いた美和の小さな声は、僕の心を震わせた。
どくんどくんどくんどくん……
美和の胸に抱かれたままで居たい、そんな風に思った。
僕の頭を撫でる美和の手に、いつまでも甘えて居たくなる。
離れたくない。
僕はそっと美和の背中に腕を回した。
なのに美和は酷いんだ。
「そろそろ私、帰ります。」
勝手に抱き締めて置いて、急に体を離した美和は、僕に背を向け、そのまま荷物を纏め出した。
僕の腕の中にあったぬくもりは消え、心の中に隠れて居た寂しさがどんどん広がり始めた。
まだお昼前。車で送って行くとしても、もう少し時間がある。
「そんなに急がなくても大丈夫。多分、道混んでないから。」
「ううん、新幹線で帰るから大丈夫。」
僕の考えを拒絶する美和の背後から、僕は静かに腕を伸ばした。
「それじゃあ、帰さない。」
後ろから美和を捉まえた。
半分冗談で、半分本気だった。今とても、離れたくなかった。
美和を抱き締めながら、僕は僕の気持ちを美和に"分かって欲しい"と思って居た。
「元。」
ポンポンと、美和は宥めるように僕の腕を叩いた。
「私の一番行きたい所はここ。元の腕の中。だからここに戻って来る。必ず最後に。だって、もし死ぬとしたら、ここがいいから。」
「僕の腕の中で死ぬの?」びっくりして腕を緩めると、美和はくるりと回って僕と向き合った。
「あ、ううん。それはやっぱり嫌だ。」
「えっ?」
「だって私、元に抱き締められて居たら死にたくなくなる。多分、元が見守って居る中では死にたくない。」
「それって、僕に看取られたくないって事?」
「そうだよ。だって、一番好きな人を置いて行くのはつらいでしょう?連れて行きたくても出来ない。少し孤独で少し絶望して居るくらいの方が死ぬのは丁度いい。そうじゃなければ寂しくて、泣いてしまうから。」
「わーさんも……わーさんもそうだったのかな……」
美和は、僕の腕を解かないまま、器用にくるりと回転して僕の方を向いた。
「わーさんの気持ちは分からないけれど、私だったらそう。元が傍に居たら、死にそうでも死ねない。」
「そうは言ったって、死ぬ時は死ぬんだよ。力尽きて。」
「そうかもしれないね。ただ、もしも私が一人で死を迎えても、元が悔やむ事は無いからね。私が死ぬ時は必ず、ここに、私の心の中に元がずっと居るから。だから私は寂しくないよ。私の心の中に居る元と一緒にあの世に行くから。」
「えっ……?」美和の心の中の僕と一緒に、あの世へ行くって?
「わーさんもそうだったと思うよ。元の全部の想い出を持って旅に出たんだよ。来世で会うまで、元の事を忘れないように。」
「来世って、そんなのは────」
「ないかもしれないって事は、あるかもしれないでしょう?」
「説得力無いな。」
「そう?私は信じるけど。来世でも、元とわーさんに会えるようにって。」
「美和は、わーさんに会った事はないだろ?」
「直接的にはね。間接的には会ってるよ。」
「どういう意味?」
訊ねた僕の胸に、美和が手を当てた。
「元の中に融け込んでる。元の心の中に。私が元を好きになった時、元はわーさんを愛してた。私は、わーさんを愛して居る元を好きになったの。という事は、わーさんも丸ごと好きって事に─────」
「ならないよ、それは。僕だけだ。わーさんを好きで居てもいいのは。それと、美和も、僕が好きなんでしょう?わーさんまで好きにならないで。」
「やきもち?」
「違うよ。」
「大丈夫。私が好きなのは、元の中のわーさんだけだから。来世で会っても好きになるのは元だけだよ。」
「え、あ、そういう意味じゃ……」
美和は、ふふっと笑って、「嘘だったらどうする?」と言った。
「えっ?嘘だったらって?」
「嘘だよー。本当に好きだよ。」
「だから何が嘘で本当かちゃんと教えて。」
「嘘でも本当でも、私は元が"好き"としか言いません。」
「えーと?それって……」
「私の人生、"好き"な人は一択、木村元啓しか居ないから。絶対に憶えて置いてね!」
美和は唇の前に立てた人差し指を、まるでピストルのように僕の心臓に向けて、バアンと呟いた。
撃たれた?
本当に射抜かれてしまったかのように、心臓が熱くて痛かった。
「なっ……何、一択って。そんな訳ないだろ!誰か別の人を好きになる可能性だってあるんだよ!」
ドッドッドッと僕の心臓は、やはりおかしい。
「元、耳まで真っ赤。かわいい。」
「可愛いって言うな。」
「だって、かわいいから。好き!」
「大人をからかうな。」
「私も大人だよ?」
「僕から見たら子どもだよ。」
「あと20年したら、元と同じ齢になるよ。」
「その時、僕はじじいだ。」
「私だっておばちゃんだよ。でも、元はきっとかわいいおじいちゃんになるね。」
「可愛いじじいって変だろう?」
「ううん、好き。元ならおじいちゃんになっても好き。」
「何それ……」
「私の言う事が信じられない?じゃあ、同じ事をわーさんが言ったとしたら?」
僕はわーさんが同じように言う様を想像した。
『元がじいさんになっても、好きだよ』
うん、わーさんにそう言われるのはアリだな。
「……信じる。」
「もーっ!私、まだわーさんに勝てないのね。」
「そうだね。キャリアが違うからね。」
「分かった!元、絶対長生きしてね!わーさんと過ごした年月より長く一緒に過ごしたら、私だって信用して貰えるようになるでしょう?」
「それはどうかな?」
「もうっ!元。」
美和は僕の腕を叩いて、あははと笑った。
僕も笑った。もう隣にわーさんは居ないのに、わーさんも僕の隣で笑って居る気がした。
美和と二人で居ると一人にならない。わーさんに限らず、ここに居ない人達まで思い出して、孤独が消える。
僕とこの世が繋がって居る事を思い出させてくれる。
この気持ちが一時的なものかもしれないって事も分かってる。未来に期待し過ぎだって事も。
でも駄目だ。この先、酷い寂しさに襲われる事になるとしても、それでも今僕は─────美和を離したくない。
美和の手に僕の手を重ねた。手のひらから伝わる、ただ一つのぬくもりをそっと握り締めた。
「長生きして、可愛くないじじいになるかもしれないけれど、美和……僕と一緒に生きて欲しい。」
大きく吸った息と共に、一気に吐き出した。
ドクンドクンドクン、緊張のせいか、心臓が痛い気がする。
「……」
黙って僕を見つめて居た美和は、
「かわいくないと嫌だ。」と口をへの字に曲げ、首を横に振った。
「えっ……嫌?」
驚いた僕の顔を見て吹き出した美和は、
「嘘、嘘。元ならきっとかわいいおじいちゃんになるから大丈夫。」あははとお腹を抱えて笑った。
「それで……いい?いいの?」
答えを急かすと、どすん、僕の胸に美和のおでこがぶつかった。
「ありがとう、元。元の胸、あったかーい!」
「美和……おでこ、痛くないの?」
「うん。元は?胸、痛かった?」
「少しね。」
「あっ、ごめーん!」
えへへと笑いながら、美和は僕の胸骨を撫でた。
「いいよ。それより────」返事は?と訊けず、
「何?」と笑って返す美和に
「いや、何でもない。」僕は答えを訊く事から逃げた。
プロポーズ失敗かな。
指輪も無いから、今のがプロポーズだと美和は気付かなかったのかもしれない。
それとも……僕の言った意味を受け入れたくないからだとしたら、これからどうなるのだろう。
二人の考えが違ったら、僕があの家に戻っても、一緒には暮らして行けない。
だけど、今はまだ……それを考えたくない。
二人で歩めると思い描いた未来を消す事は出来ない。
キス、したかったけれど、しそびれた。
あーあ、と思って居ると、
「元。」と美和が僕に縋った。
そして
「助けが必要な時は遠慮しないで言ってね。それと、寂しい時は甘えて。それから……」
「それから、何?」
「キスはしたい時にしていいからね。」と言った。
キスしたかった事を改めて意識した僕の顔が再び火照った。
急にそんな事を言われては、却ってキス出来なくなった。
だけどね、期待して、欲張りになってしまったよ。
「僕の事、死ぬまで好きで居てくれるなら、甘えてあげてもいいよ?」
「勿論、大歓迎。」
僕の胸に頭を寄せたまま、美和はキュッと僕の人差し指を握った。
どくんと美和の手に包まれた指先から全身にドキドキする熱が広がる。
ああ、落ちた。完全に落ちてしまった。美和の手中に僕は落ちてしまった。
キスしたいよ、甘えたい、遠慮だってもうしないよ?
それでもいいの?
「本当にいいの?」
「うん。だって、元が甘えてくれるなんて、信じられない位、しあわせだもん。」
しあわせだって?ああ僕も、それは思う。
しあわせ……だけど、恥ずかしくて口に出来ない。
代わりに、美和の膝の上に思い切って頭を乗せてみた。
すると、自分が男だとか年上だとかゲイだとか、全部まっさらにして、
ただ甘えて居るこの時間が、どれだけ贅沢でかけがえのないものだという事がよく分かった。
"好き"が"大好き"になって、僕の胸の奥から飛び出し、全身を突き抜けたら、
次に心から溢れ出したのは「愛してる。」だった。
他にもっと的確な表現があるのだろうけれど、45年の人生しか経験のない僕は、それ以上の気持ちをまだ知らない。
「私も、愛してるよ。」
美和の膝の上の僕の頭を抱き締める手に、ギュッと力が籠められた。
ああ、安心する。僕は、やっと僕は、行き場の無くなった愛を向けられる人に出逢い、その人に受け止めて貰った愛を、別の愛にして返して貰えた。
わーさんを忘れるとか裏切るとか、そうじゃなかった。
忘れてもないし、裏切ってもない。
ただ僕の中にまた新たな愛が増えただけ。
それをきっと、わーさんなら喜んでくれると思う。
『よかったな、元』
そう言って、本当に嬉しそうに笑ってくれると思うんだ。
だって、そういう人だったから。
僕のしあわせを一番願ってくれて居る人。きっと今も天国から僕を見守って居てくれる。
うん、そう信じたい。
わーさんから貰う愛は増えないなんてもう拗ねたりしないよ。
美和を愛し、愛される事で、過去になってしまった愛も思い出して、うん、未来でも増やせる気がする。
美和と一緒ならきっと。
「前髪、伸びたね。」
美和は僕の前髪をさらさらと払った手で僕のおでこに触れた。
「うん。そろそろ床屋に行かないと。」
「会社に行く時、前髪上げるの?」
「前髪?ああ……美和は僕が額を出すのが嫌いなんだっけ?」
「違うよ、逆。」
「逆って?」訊きながら僕は、にやりと笑ってしまう。
それを見た美和は、「もう!知ってるくせに。イジワル。」と僕の肩を叩いた。
最初、嫌われていると思った髪型。だけど実は逆で、この髪型の僕に一目惚れしたからドキドキして見て居られなかったらしい。
本当にそんな事あるのかなって思うけど。
「僕の外見に騙されてない?」
「そうかも。」
「やめておく?」
そう訊いて、"やっぱりやめる"と言われたら悲しくなるくせに、訊いてしまった。
でも美和は、
「やめられない。一生騙し続けて欲しい。」と言った。
"一生騙す"だなんて、それは疲れるよ。
「それって、本当の僕を好きじゃないって言われてるみたい。」
すべて美和の理想通りには生きられそうにない。
「本当の元ってどんな人?私の知ってる元は、本当の元じゃないの?」
「えっ?」
「あの家に居る時、元は私を騙して居た?お芝居して居た?本当の元じゃなかったの?」
「え、いや、そんな事はして無いけど。」
「惹かれたきっかけは外見だったかもしれないけれど、それだけじゃあ、こんなにずっと一緒に居たいと思えないよね?元の所へ押し掛けて来た時の私よりも、今の、元の色々な姿を知って居る私の方がずっと、胸張って元の事を愛してると言えるよ。たとえ今から違う元を見せられても、もう離れられない。私は、元の居ない生活なんて考えられない。」
"どんな僕も"と言われて恥ずかしかった。
けれど美和は、どんな僕とでも暮らしたいと思ってくれて居たんだ。
しかしそれなら何故、さっきの結婚の話にはいい返事をして貰えなかったのだろう?
「そんな風に言ってくれてありがとう……だけど、今は離れて暮らしてるよ?美和は僕の居ない生活を満喫して居るんじゃない?」
美和はムッとして、僕のこめかみを両手で挟むように叩いた。
「ばか……ばかばか!元のばか!私がどれだけ……っ!」そう言うと、突然両目から大粒の涙をボロボロ零した。
「美和。」驚く僕の顔に、美和の降らせた涙の雨が降り注いだ。
「会いたかったよ、毎日毎日、元の声が聞きたくて、ずっと我慢してた。」
美和は僕の顔に落ちた涙を懸命に手で拭った。
「……声だけ?」だったら電話で済むじゃないか。
僕は美和の膝枕から起き上がった。
洟を啜った美和と見つめ合う。
「ううん、声だけじゃやだ─────全部。元全部がいい。ぎゅってして……」
今度は僕が美和の濡れた頬を指で拭い、そのまま────「ぎゅっ!」と美和の両頬を抓った。
「いたっ!え……?」
びっくりして居る美和の頬から指を離すと、
「もうー!そうじゃないってば!」と美和が怒った。その頬は赤く、僕が抓ったせいかそうでないか区別が付かない。
「ごめんごめん。」抓ってしまった美和の頬を指でなぞる。
美和が少し擽ったそうに首を竦めた瞬間、僕は近付けた唇で美和の頬に触れた。
「ん……!」
恥ずかしそうに目を瞑って、身を捩る美和の様子に、僕の胸の奥は甘く痺れた。
ただ、肌に唇で触れるだけでは足りない。
もっと、もっとと欲が溢れて止まらなくなる。
さっきしそびれた唇へのキスを、もう一度試みる。
僕が肩を引き寄せると、目を閉じた美和の顎をそっと持ち上げた。
小さく紅い美和の唇に、唇でそっと触れる。
軽く啄み、濡らした後、更に深くを求め、唇の端が酷く濡れてしまうのを厭わず、お互いの熱を貪り続けた。
引き寄せた美和の肩を掴む僕の手に、思わず力が籠もってしまう。
キスをしたら僕の気持ちも落ち着くかと思って居たのに逆効果だった。
益々離れ難くなって、数時間後の事を考えるともう嫌になってしまう。しかし、このぬるま湯のような時に浸かって居られるのは束の間で、すぐにどうするか決めなくてはならない。
鼻で息をするのも辛くなって来た様子の美和を、一刻も早く離さなくてはならないのは分かってるけれど、どうしよう、まだもう少し欲しくて。
「んっ……ん……」美和が鼻を鳴らす回数が増えて来ても、無視し続けて居たら、やがて嫌われてしまうかな。
でも、このままずっと離れたくないんだよ─────あの日のように、離れたら二度と会えなくなるかもしれないなんて考えたらもう……「元。」
僕の頭の中に響いたのは、わーさんの声?でも今目の前には美和しか居ないから、美和の声に違いないけれど─────「大丈夫。」ポンポンと僕の背中を叩くのは、やはり美和だった。
「何が大丈夫なの?」
「……何だろうね。だけど大丈夫。」美和は僕の背中に回して居る腕に、きゅっと力を籠めた。
「僕は大丈夫じゃないよ。」離れたくない、と囁くと、
「私も、離れたくないよ?」と美和は、僕の見られたくない顔を覗き込む。
どんな僕も知って居て、どんな僕も好きだと言ってくれた美和の前ではもう、取り繕っても何の意味もないけれど、でもまだやはり恥ずかしさは残って居て、「見ないで。」と顔を背けると、
「かっこいいよ、元。」と美和は、本当は"かわいい"と言いたかったのだろうなと分かる言葉を僕に向けた。
「だったら、家まで送らせて。」
「それは駄目。」
「どうして?」
「帰り道、心配になっちゃうから。」
「帰り道?」
「私を家まで送ってくれた後、ここに戻るまでの元の事が心配になるから。」
「ええと、それって、僕の運転を不安に思って居るの?」
「そうじゃないよ。だけど、何が起こるか分からないでしょう?それに元、明日仕事だし、運転疲れが残ったら嫌だから。」
「それくらい平気だよ。」
「じゃあ、もし逆だったらどう?私が元を車で送って行って、ここに帰って来る間、元は私の心配をしないの?」
「それはするよ。だって美和は免許を持って居ない。」
「そういう事じゃなくって!」
美和の言いたい事は分かる。だけど……「少しでも長く一緒に居たいから送って行きたいんだよ。」
「分かるよ、だけどね─────」
まだ僕を拒む美和の髪を指で梳くと、美和は黙って目を閉じた。
「気持ちよさそう。」僕が言うと、
「うん。」と少し上を向く美和の唇が動いた。
もう一度、そのやわらかな唇に触れたくて、許可も貰わず、静かにそっと僕は唇を近付ける。
あと少し、触れるか触れないかの所で、美和がハッと目を開き、部屋の入り口を振り返った。
「どうしたの?」
許可を貰わずキスしようとした事が嫌だったのかなと不安になった僕に、美和は
「今、子どもの声がしたの。」と言った。
「子ども?」
僕が耳を澄ませても、子どもの声は聞こえなかった。
この近所の家々の住人も両親のように高齢の人が多く、小さな子どもは居なかった。
可能性があるとすれば、孫世代が遊びに来たとかだろう。
「ほら、階段上がって来る音が聞こえない?」
「え?」
言われれば確かに、階段を上がる足音が近付いて来る。
だけど「母さんじゃないかな?」─────「ううん、違う。子どもの足音。」
幼稚園教諭である美和が言うならそうかもしれないけれど、「子ども……?」誰だろうと考えた時、トントンとノックする音が響いた。
悪い事をしている訳ではないけれど、人に見られたくないという気持ちがあって、ビクリとしてしまう。
「はい。」と返事をした美和は、冷静に立ち上がり、部屋のドアを開けた。
部屋の前に立って居たのは日葵だった。
美和は屈んで、「こんにちは。日葵ちゃん?」と訊いた。
「だれ?」と日葵が言うと、
「元啓さんのお友達です。」と言った。
"お友達"かあ……僕は美和を"友達"と思った事がないから、嘘をついてしまって居るような感覚だった。
同居人、恋人、婚約者……には、まだなって居ないか。
「もとひろさんって、おじちゃんのこと?」
「うん、そう。おじちゃんの事。」
「日葵、どうしたの?ママと一緒に来たの?」
「えっとね、みにきたの。」
「見に来たって、何の事?」
「かのじょ。」
「かのじょ、って?」頭の中に変換される文字は"彼女"?
「おじちゃん、けっこんするの?」
「……えっ?!」
美和が僕を振り返った。思わず合わせた視線を慌てて外すと何だか気まずい。
プロポーズは上手くはぐらかされてしまったのに、いきなりそんな話題を日葵から振られてしまうとは困った。
美和も黙って居た。
ああ、なんて答えよう。"結婚しないよ"と言おうか。でもそれもなあ……
「このひと?おじちゃん、このひととけっこんするの?」
日葵が美和を指差して訊いた。
何も言わずに美和はしゃがみ込み、日葵の手を握ると、その肩を撫でた。
その様子を見ながら僕は、
「うん、日葵。僕はこのお姉さんと結婚したいんだ。」
初めて、誰かの前で"結婚したい"と口にした。
「ほんとう?おじちゃんとけっこんするの?」
日葵は丸い目を更に丸くして美和に訊いた。
美和は困ったような顔をして僕の目を見た。
僕が黙って頷くと、美和は日葵に向き直り、
「うん。」と答えた。
その瞬間、まさかと思った僕だけど、心の中は明るくなり、甘酸っぱいと呼びたくなる感覚が全身に広がった。
返事をしたきり、僕を振り向かない美和の耳は赤く、それを見ただけで本気だと判断するのはおかしいだろうが、僕は僕以外の人に対して美和が結婚を肯定した事を嘘だと思えなくなった。
特に相手が子どもだったからかもしれない。
美和は子どもに嘘を吐かない人だと思って居る。
ああ、だから好きなんだ、僕は美和の事。
わーさんもそうだった。身近に子どもは居なかったけれど、無垢な子どもに対して、決して嘘を吐かない人。
だけど、わーさんと似て居るから好きという訳じゃない。
わーさんはわーさんで、美和は美和だ。全然違う人間だという事は僕が一番よく分かって居るつもりだ。
「ねー、いつドレスきるのー?」
日葵の声にハッとした。
ドレス─────そうだ、僕はそこまで考えて居なかった。結婚する事ばかり考えて居て、結婚式を挙げる事を。
言い訳のようだが、わーさんとは結婚式どころか結婚をするという事すら考えられず、僕の生涯には"結婚"に纏わるものは一切無いだろうという前提がもう頭の中にあったから。
けれど、美和と出逢い、恋に落ちた僕の目の前に今、結婚という選択肢が現れた。
僕はそれを掴み、美和に突き付けた。そして、たった今、美和も僕の考えに同意してくれて……という事は、日葵の言う通り"ドレス"は?となる。
「ドレスはまだ分からないなー。」と美和は正直に答えた。
「えー?きないの?きてー、きてー!」
日葵は美和の両手を掴んで、左右に振って居る。
「うーん、そうだねー……」美和は困ったように返した。
一緒に暮らす事や結婚指輪、入籍までは考えて居た。しかし、その先の結婚式までは考えが及ばなかった。
美和は女性だから、僕が"結婚"を口にした時、すでに"結婚式"の事まで考えて居たかもしれない。
僕よりずっと沢山考えて居たかもしれない。
なのに僕はそれらを全然考えもしないで、ただ美和が返事をくれない事に不安がって居るだけで、もしかして僕よりも美和の方が不安だったかもしれない。結婚し時の事も考えて居なかった僕なんかに結婚を申し込まれて。
何の準備も計画も無く、結婚を口にした僕は真剣じゃないと思われたかもしれない。
でも、それでも日葵に訊かれて"うん"と答えてくれた美和を僕は、この先ずっと大事にしたいと思った。
今すぐ美和と二人できちんと話したかった。
しかし、日葵は部屋から出て行く様子は無く「ねえねえ、したであそぼう?」と美和を連れ出そうとする始末。
「日葵、おじちゃんね、お姉ちゃんとお話があるんだ。」
「えー?なんのおはなし?」
「二人で話したいんだ。」
「えー?ひまりもおねえちゃんとおはなししたいー。」
5歳児と張り合うのは気が引けるが、それでも────「ひま……」「いいよ、お話しようね。」
僕を遮った美和は、傍らにあったバッグを部屋の隅に押しやると立ち上がった。
何それ、と思う。
僕より、新幹線の時間より、日葵を選んでしまう所、美和らしいと言えばそうだけど何だか寂しい。
日葵の手を引き、部屋を出ようとした美和が僕を振り返り、
「いいよね、元?」と訊いた。
今更だよ。駄目と言える人間じゃなくて、悪かったな。
"好きにすれば?"
"どうぞご勝手に"
言ってやろうかと思った言葉は呑み込み、
結局「どうぞ。」に止めた。
パタン。
一人部屋に残されると、はあーっと溜め息を吐いて、仰向けに倒れ込んだ。
日葵に負けるとは情けない。だが事実。僕は負けた。
どうしてなんだ?と思う。
美和は僕を好きだと言うがしかし、その僕の頼みより、日葵や両親の我が儘を優先してしまうのだろう。
少しは僕の我が儘も聞いてくれたらいいのに、なんて思う時点で情けない。
"甘えていい"と言われたけれど、甘えてばかりでは、いつか愛想を尽かされてしまいそうで怖い。
僕は一体どうしたらいいのだろう。わーさん、教えて。
今更訪れた恋の悩みを相談出来る相手は居ない。
同い齢の友人が居たとしても、45にして恋の悩みを打ち明けたり打ち明けられたりはお互い辛い。
志歩理にだって言いたくない。馬鹿にはされないだろうけれど、何となくかな。恰好付かないからかな。
誰にも打ち明けられないこの胸のモヤモヤを、一体どうしたら解消出来るのだろう。
わーさんが居たらな……わーさんになら何でも話せた。
けれど、わーさんが生きて居たら、僕は美和を好きにならなかったと思うし……
ただし、寂しかったから好きになった訳じゃない。わーさんが生きて居たら、わーさんしか見えなかった。わーさん以外の人を見た結果、好きになって居る事に気付いた、それだけ。
美和じゃなくても良かったとは思わない。美和だったから、好きになった。
どうして美和なのかと、まだ自分でも腑に落ちない所はあるけれど、でも、どうしても美和がいいと思ってしまうのは否めない。
好きになる運命だったのかもしれないと、今は思う。
未来にあった運命というものに引き寄せられて、今ここに僕が生きて居るのだとしたら、
わーさんと死に別れてしまう事も運命だったと言えばそうで、きっとこの先、僕と美和にも色々な運命とやらが訪れるに違いない。
それでも僕は、一人で辿る運命より、二人で辿る運命を選んでしまった。それは美和も同じ事。
僕と辿る運命を選ばせてしまった。
だからこそ、後悔はさせたくない。頑張ると言っても、具体的に何を頑張ればいいのか、僕はまだ分かって居ないが、とにかく、二人で毎日穏やかに楽しく過ごして行ければいいと願う。
特別な事は何もなくていいから、ただ二人、今まで通り、いつも通り、暮らして行きたい。
おはよう。
いってきます。
いってらっしゃい。
ただいま。
おかえり。
いただきます。
ごちそうさま。
おやすみ。
些細だけど、大事な言葉を交わしながら、お互いを想いながら、ゆっくり、一日一日大切に生きていきたいと願う。
ただそれだけ。
だけど、そうしたいと願う相手にはそうそう出逢えない。
美和と出逢えたのは奇跡と言えば奇跡。偶然と言えば偶然。必然とは思わないけれど、もしかしたらそれもあり得る?
人生どうなるか分からないね、わーさん。
『そうだな』
「えっ?」
わーさんの声が聞こえた気がして、僕は辺りを見回した。
居ない……けれど、見えないわーさんがここに居るかもしれない、そう思ったっていい。
「まだ、そっちに行けないけれど、待っててね。」
『ああ。ゆっくりでいいよ』
今度は声はしなかった。だけどわーさんならそう言うだろう。
ゆっくりか……あとどのくらいと思って生きるより、まだまだと思って生きてもいいのかな。
一寸先は闇と言うけれど、たとえ僕の余命があと僅かだと分かったとしても、まだまだと思って生きた方がいいのかもしれない。
わーさんみたいに、のんびりと。
終わりが決まって居る命をなぞるように生きるのではなく、その終わりを、人から告げられた終わりに向かって生きるのではなく、自分で想像した道の先へと向かおうとする力が多分、命を作るのだと思った。
わーさんが告げられた余命より長く生きられたのは、わーさんが自分の命を日々生み出して居たからだろう。
僕もそんな風に生きたい。
美和と、何気ない日々を、当たり前ではない命を、大切に生きたい。
それから結局、美和とは碌に話をさせて貰えないまま、昼下がり、昼食を終えた僕は今、両親と妹夫婦に囲まれ、そこで美和と僕の結婚までの計画を勝手に練られて居た。
「だーかーらー、式と披露宴は、美和ちゃんのご両親を呼んで、こっちでした方がいいって!そしたら私達も楽でしょう?うちはチビ三人居るから、向こうまで行くの大変なんだってば!」
妹は、僕らの結婚式と言いながら、自分達家族が参列しやすい形に持って行こうとして居る。
「そんな事言ってもねぇ、元啓達は向こうで暮らすんだから、向こうの、美和ちゃんのご親戚の皆さんにも出て頂かないといけないでしょうし、うちの都合だけで決められないわ。ねえ、そうでしょ?元啓。」
母は一応、気を遣ってくれては居るが、妹同様、まだ具体的になって居ない結婚式を確定したものとして話を進めてしまって居る。
「いや、あのね、母さん、僕と美和はまだ結婚式とかそういう話はまだ何もしてなくて……」
「それなら尚更いい機会じゃない。ここで決めちゃった方がいいよ!」妹は僕の話を全く聞こうとしない。
父と義弟は女性陣の隣で黙り込んだまま。何か言ってくれたらいいのにと思ったけれども、男性陣が僕の味方をしてくれた所で、女性陣の勢いは止まらないのは明らかで、やはり黙って居て貰った方が賢明かもと苦笑いした所で、突然義弟が「でも、さすがお義兄さんですね。20歳も年下の女性を虜にしちゃうなんて。」と言い出し、子ども達と遊ぶ美和を目で追った。
義弟の言い方も目つきもいやらしく感じてしまった僕は、「齢は関係ないと思うけど?」義弟に向けた視線が鋭くなってしまった。
しかし義弟は気付かず、
「可愛い人ですよね、美和ちゃん。」などと言い出す始末。悪気が無いのは分かって居るが、美和を見るその目付きが生理的に受け付けない。
「僕と結婚したら、年下でも義姉になるけどね。」チクリと言ってみるが、「ああー、そうですよね。だけど俺の方が年上だから、お義姉さんって呼ぶのも変ですよねえ?」義弟には届かなかった。
ムカムカムカ。
もう何だか僕は、一刻も早くこの場から美和を連れ去りたくなって居た。
四月第一日曜日、何だって今日、妹一家が実家を訪ねて来たのかと言うと、母が妹に『お兄ちゃんが婚約者連れて来てるのよー』と電話したらしい。
それを聞いた妹は、美和がどんな女なのかと見に来た次第。
いや、妹一人で来るのならともかく、旦那と子ども達まで連れて来る事は無かったじゃないか、と思う。
母さんも、美和の事はまだ妹に話さないで居て欲しかった。
そして多分、僕の方の親戚達に広まるのはそうそう遠くない、と言うか、即日かもしれない。
「美和先生、さすがねぇ。子ども達に大人気!」と、子守りから解放された妹は、美和が三人の子ども達の相手をするのを、のんびりお茶を啜りながら眺めて居る。それもムカ付くポイントだ。
ああ、もう!こうなると分かって居たら、本当に志歩理の言った通り、ホテルでもどこでも泊まって、美和を実家から遠ざければ良かった……と後悔してしまう。
ごめん、美和。
だけど美和はこっちの話はお構いなしに、ただただ子ども達と一緒に無垢な笑顔を浮かべて楽しそうにして居た。
「本当にいい子よねえ、美和ちゃん。」母が言えば、
「確かに。こんな20も年上のおにいのどこが良かったのか訊いてみたいわ。」と同調する妹。
気に入られないより良かったけど、気に入られ過ぎて家族に取られてしまうのも何か違う。
変な嫉妬心を抱えながら僕は、何とか美和を連れ出そうと、「美和はそろそろ帰らないといけないから。」と席を立った。
そして美和に近付いて、「美和、そろそろ行こう。」と促すと、
「あっ、おじちゃんだー!かたぐるまして、かたぐるま!」と日葵が、屈んだ僕の背中にしがみ付いた。
「えっ?」
「はーやーくー!」
「元、してあげて。」くすくす笑いながら美和が言う。
「分かったよ、一回だけね。」
「わーい!」
義弟にねだってよ、と思いながらも僕は日葵の要求通り肩車をした。
すると、甥二人も僕の足元にやって来て、「つぎ、ぼくね!」「ううん、おれのほうがさき!」と争い出した。
「二人共、じゅ・ん・ば・ん!」にっこり笑う美和先生。
ああ、ここで僕の要求は何一つ通りそうにないなと観念した。
僕と美和が解放されたのは、それから一時間程後の事だった。
日葵が疲れて眠ってしまったのをきっかけに、妹たちもようやく腰を上げた。
「ありがとうー、美和先生。」
妹はまるで、幼稚園の父兄のような都合の良い挨拶をして、美和も美和で「楽しかったです。」なんて返してしまう横で僕は「まったく、美和先生じゃないよ……」と小さな声で不満を口にすると、にこりとして居る美和に、こっそり袖を引っ張って窘められた。
夕暮れ時、時計の針は午後4時を指して居た。
「もうこんな時間だ!急ごう。」
何も言えずに居る美和の横でわざとらしく声を上げた僕は、「美和を送って行くから。」と二階へ促した。
「ありがとう、美和ちゃん。また来て頂戴ね。」
「いや、次は我々が行く番だろう。」
両親に続いて
「結婚式には呼んでね?あ、出来たらこっちでお願い!」と調子の良い妹。
一刻も早くここから美和を連れ出したかった僕は、
「それじゃあ。」妹一家に早く帰ってよと思いながら、美和の背を押しつつ手を振った。
二階へ行き、荷物を纏めた美和に向かって、「こんな時間になってごめん。」と言うと、「ううん。楽しくて長居しちゃった。」と何も気に留めない様子で笑った。
そんな美和を見て居たら、つい本音が出た。
「本当は、帰って欲しくない。」
美和は目を丸くして、その後頷くと、
「元にそんな風に言って貰えて嬉しい。十分。」と言った。
その瞬間決意した。
「家まで僕が送って行く。帰りが何時になってもいいから。」
「ううん、それは駄目。約束したでしょう?」
「してない。」
「やめて、元。私、電車で帰るから。」
「嫌だ。」
「送られたら、嫌いになる。」
"嫌いになる"と言われて一瞬どきりとしたが、それは嘘だと僕は強気で
「なれば?」と言った。
「元の馬鹿!」美和が持って居たバッグを床に投げ出し、手を振り上げた。
ビンタされると思った僕は、反射的に目を瞑ると、
美和の手は僕を殴らず、頬に当てられ、そしてやわらかな感触が僕の唇を覆った。
少しして唇を離すと、
「愛してる。だから嫌いにならせないで。」と美和が僕の胸に頬を寄せた。
僕の負けだった。
「分かったよ。駅まで送る。」
僕はそのまま、ぎゅっと美和の体を抱き締めた。
「元、だーい好き。」
「僕も……」
今はきっと多分、わーさんよりも好きだと言ってしまいそうだった。
それから実家を後にした僕らは、車で駅に向かった。
ここでいいと美和に言われ、僕は駅近くの路上で車を路肩に着けた。
「時間、間に合う?」
「余裕。」
「ホームまで送るよ。」
「ううん、ここでいい。荷物もこれだけだし。」
あの家に来た日のように、荷物の少ない美和。
だから僕は不安になるのかもしれない。
僕の事が嫌になったら、身一つであの家から出て行ってしまいそうで怖いのかもしれない。
ある日突然、わーさんのように『引っ越すから』と言われたら……「僕も付いて行く。」
「んー……でも混んでるみたいだからここで大丈夫。」
美和が"混んでる"と言うのは、駅周辺の駐車場の事だろう。
僕が"付いて行く"と言ったのは、本当は、ホームに"付いて行く"と言う意味じゃなかったから、
「分かった。」と引き下がったと思わせる言葉を吐いた。
「それじゃあね。」
助手席のシートベルトを外した美和は、胸の前で小さく手を振った。
「うん。」諦めたような声で、僕は返事をした。
これで、しばらく会えない。
寂しい。
本当は、僕もあの家に帰り、一緒にご飯を食べて、隣に敷いた布団で眠りたいと思って居る。
なのにそれは当分叶いそうもない。
僕の胸の中は、しばらく忘れて居た切なさで満たされた。
「じゃあ……」と美和がドアに手を掛けた時、「待って、美和!」と、もう何の話も無いのに引き留めてしまった。
「ん?」と振り返った美和の手を掴んだ所までは良かったけれど、掛ける言葉が何も見つからなかった。
"どうしたの?元"と言われてしまうのを覚悟した時、
「チュッ。」とリップ音がした。
「えっ?」見ると、おそらく美和が僕の右手の甲にキスしたらしい……小さく濡れる僕の右手の甲からすでに美和の唇は離されて、その悪戯にはにかむ顔だけが僕に向けられて居た。
信じられないな、こんな事されて、キュンとしてしまう僕の気持ちが。
わーさんと付き合って居た頃の僕は、こんな男じゃなかった筈。
そもそも女性に対してこんな気持ち抱くなんて事がおかしい。だって僕はゲイ……だったのに。
急いでシートベルトを外し、身を乗り出した僕は美和を引き寄せると、その唇を奪いに掛かった。
でもそれだけじゃ足りなくて、強引に美和の中に侵入した。車の周りは駅前の人通りの多い往来だという事も分かって居ながら、美和の熱を確かめるのに必死で。
まるで心と心を絡めて居るようなつもりで居た。
愛してる、愛してる、だから僕を愛して居て。
「待って居て。必ず帰るから。」くちづけの後、まさか、そんな言葉を吐いた僕に、
「待ってる。絶対に待ってるから。」普段"絶対"を口にしない美和の強い気持ちの籠もった言葉が届けられた。
だから僕は、ようやく安心して、美和を送り出せた。
バタン、助手席のドアを閉めた美和が、開けた窓から僕を覗き込んだ。
「気を付けて。」
「うん。着いたら電話するね。」
「待ってる。」
「それじゃあ。」
うん、とお互い頷いて、手を振り別れた。
僕は美和の背中が見えなくなるまで、車を動かさなかった。
いや……動けなかったんだ。
まだもう少しだけ、この残り香に縋って居たかった。
やがて日も暮れ、一人実家に戻った僕は、帰りを待ち侘びて居た両親、妹夫婦と一緒に夕飯を済ませた。
その内、妹一家が帰ってから、僕はお風呂に入って布団を敷いた。
向こうの駅前でタクシーを拾えて居れば、そろそろ美和は家に着いた頃だ。
布団に横になりながら、僕はスマートフォンの時計表示をじっと眺めた。
まだか、まだか、まだか……美和からの電話は中々かかって来ない。
はあっ……溜め息を吐いた唇を指でなぞる。
さっきあんなに感じた美和の熱はもう無くて、忘れられない位にと濡らした唇は、全部夢だったかのようにすっかり乾いて居た。
不安に似た焦りがいつまでも消えてはくれない。美和ともっと深く繋がったら、安心出来るのだろうか。
その時僕は初めて、美和とそうなる事を考えた。
早く気持ちを落ち着けたい、その為なら何だってする────そんな考えで頭を一杯にしてしまって居る僕の手の中で、ブルルル、ブルルル、ブルルル……ようやくスマートフォンが振動した。
ハッとして、画面に向け、人差し指を動かした。
「はい、もしもし。」
『あ、もしもし元?今着いたよー!』
「無事?」当たり前の事を訊いてしまい、恥ずかしくなりながら、僕は急いで身を起こした。
『無事だよ。わーさんに、これから"ただいま"って言う所』
「ああ、そう……」一応、わーさんより先に、僕に報告してくれたんだな。でも今夜、美和の一番近くに居るのはわーさんか……と変な嫉妬が僕の中で動いた。
『元、ご飯食べた?』
「ああ、うん。食べた。」美和に悪いなと思いながらも、妹達と一緒だったから仕方なかった。
『私もね、駅弁食べちゃった。美味しかったー!』
それが本当かどうか分からないけれど、「うん、良かったね。」少しホッとした。
『これからお風呂入って寝るね』
お風呂か……と、うっかり変な想像をしそうになって、それを掻き消すように慌てて「うん。」と返事をした。
『それじゃあ、元。明日お仕事頑張ってね!』
「美和も。」
『うん……あとね────』
「何?」
『えっと……やっぱりいい』
「何?気になるよ。」
『えっと、ね……元』
「うん、何?」
『さっき、いっぱいキスしてくれてありがと。じゃあ、おやすみなさい!』
ブツリ、と美和は電話を切ってしまった。言うだけ言って─────え、え、えっ?と戸惑いながら、さっきの出来事を思い出した僕の両耳は、とてつもなく熱くなってしまった。
キス、キスか……
指で触れた今の僕の唇は、カサカサして、とてもじゃないが気持ちいいキスはしてあげられそうにないなと思えた。
しかも車の中で別れ際、性急に強引に奪うようなキスで、あんなので満足させられる訳がないのに。
ごめん、美和。独りよがりのキスをして。
今度は美和を満足させられるようなキスがしたい。
布団に倒れ込みながら、溜め息を漏らした。
ああ……リベンジしたいな。もっと、もっと美和が僕に溺れてくれるようなキスをいっぱい出来たらいいのにな─────どうしたらもっと、美和が僕を好きになってくれるだろう?
ああ……僕ばかり、美和に想いを募らせて苦しいよ。
僕は枕を抱き締め、目を閉じた。