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そうそうない  作者: 碧井 漪
38/43

38 2016年4月2日のこと

こんな時、どうしたらいいのかな。役に立つと思って居た過去の経験とやらは、どの引き出しにも入ってなくて、初めてのほろ苦い胸の疼きの前に、僕はただ美和を抱き締めるだけで何も出来なかった。


告げたい言葉は見つからないまま、やわらかくあたたかな体を抱き寄せたまま目を閉じた。


美和の匂いがする。他の誰とも違う匂い。


このまま、何も考えず眠ってしまえれば楽なのにな。


ずっとこうして、ただこのまま─────コンコン、コンコン。


「美和ちゃん、起きてる?ごめんなさいね。」部屋の外から母の声がした。


二人で一つの布団に包まって居る状況を見られてしまうのは、何だかよろしくない……と、美和と顔を見合わせた僕は、慌てて布団から転がり出ると、押入れを開けた。


「美和ちゃん?開けてもいい?」


「は、はい!」


美和は母の元へ急いだ。


「どうしました?」


「ごめんなさいね。お手洗いに起きた時に元啓の部屋を覗いたら、灯かりは点いて居るけれど、姿は無くて……あら?元啓、あなたここで何してるの?」


僕は隠れようとして居た押入れに物がいっぱいで入る事が出来なかった為、四つん這いで押入れに頭だけ突っ込んだ状態でじっとして居る所を、母に見つかってしまった。


「ちょっと探し物。」


「こんな夜中に何を探して居るの?」


「ア、アルバムを……」


「アルバムをどうするの?」


「美和に見せようと思って……」本当は見せたくない。咄嗟に吐いた嘘だった。


「美和ちゃんに?」


母と美和は顔を見合わせた。


母はフッと笑いながら、「もうさっき見せたわよ。」と言った。


しまったと思うのと同時に、恥ずかしさが込み上げた。


僕のアルバムを美和に見られたのかと。わーさんも見た事が無かった僕の幼少時代の写真。決して恰好良いものばかりではなく、どちらかと言えば悪いものが多かった。


「いつまでも美和ちゃんのお部屋にお邪魔してないで、早く寝なさい。」


「分かってるよ。」


「おやすみなさい。美和ちゃん。」


「おやすみなさい。」


「おやすみ。」


「うん。」


僕はもやもやした気持ちを抱えながら美和の部屋を後にした。


自分の部屋に戻って溜め息を吐いた途端、背中を押された。


「えっ?」振り向くと美和が僕の背中にくっついて居た。


「何してるの?」


「だって、まだ眠くないんだもん。さっきコーヒー飲んじゃったから。」


僕の背中に美和の指が触れて居るのが分かる。


部屋の中の空気より熱い吐息も、僕の理性を吹き飛ばそうとする。


閉め切った部屋に二人きり。さっきも今までも何度もあった事なのに、まるで初めてのように心臓がドキドキ鳴って抑えられない。


向き合って美和を抱き締めたら、僕が僕で居られなくなってしまうかもしれないという恐れを感じつつも、そうせずには居られなかった。


再び美和を僕の両腕の中へ収めると、少し落ち着きを取り戻した。


黙って居た美和が、突然ふふふと笑い出した。


何だ?嫌だった?確かに何度もしつこかったよね、そう思って美和の表情を確かめると、


美和は微笑んだまま「嬉しい。元にいっぱいぎゅってして貰えて。」と言った。


それが本当に嬉しそうな顔に見えて、何だか僕も嬉しくなってしまい、美和の事を益々強く抱き締めてしまった。


手離したくない、嫌われたくない、だけどこれ以上好きになって貰える自信は無くて、だから怖くて焦ってしまうのかなと思う。


この先、どうしたら良いのか分からないんだ。


何度恋をしても、愛が分かった振りをしても、美和への接し方の正解がまだ見えて来ない。


どうしたらいい?僕に教えてよ。こうして欲しいと。


「抱き締めるだけでいい?」でも抱き締める度、離したくなくなるけど。


「……うん。」


そうか、これでいいんだ。少し物足りない気もしたけれど、美和がこれで満足ならいいと納得しようとした時だった、美和が


「ほんとは……キスもしたい。」と言い出した。


意外だった。美和がそんな事を言い出すなんて。


また知らなかった美和の一面を見せられて驚いた僕は、


「"キスは一生しなくてもいい"ような事を言ってたよね?」と意地悪を言ってしまう。


「そ───そうだね。そう、しなくてもいいから。ごめんなさい、変な事言って……」


恥ずかしそうに視線を下に向けながら、美和はもぞもぞ、僕の腕の中から逃れようとし出した。


その耳は真っ赤で、ああ……と、美和の気持ちが手に取るように分かった僕は、込み上げて来る愛しさに、両腕の力を緩める事が出来なくなった。


だけど今更"キスしてもいい?"と訊けなくなった僕は、美和の真っ赤な耳殻に唇を寄せた。


軽く食むと、美和の体はビクビク震えた。


その反応もまた、僕の気持ちを煽るもので、僕は自分で自分の行為を止める術を思い出せなくなってしまった。


可愛い、可愛い、可愛い……手離したくない。


自分でも信じられなかった。年下の、しかも女性に対してこんな風に思う日が来るなんてびっくりだ。


「元、あの、もういいから、そろそろ寝よう?」


その言葉、そういう意味ではない事は分かって居るけれど、履き違えられるものなら履き違えてしまってもいいなんて思う。


もぞもぞ、僕の腕の中で暴れる美和に、


「美和のせいで眠れない。責任取って僕が眠るまで傍に居てよ。」なんて、情けない言葉で甘えると、美和はぴたりとおとなしくなって僕を見上げた。


「うん、いいよ。」と、それはもうすっかり先生の顔で僕に笑い掛けた。


あれ?僕は言い方を間違えたかな。わーさんの時のようには行かないなと思った。


だけど────「早く寝よう。」と、美和は僕を布団へ促した。


バサッ、僕らは一枚の布団に一緒に潜り込んだ……がしかし、美和は僕の背中をトントンと、まるで母親の如く、僕を寝かし付ける体勢のまま─────僕は、いつキスすれば良いのか分からなくなってしまった。


トン、トン、トン……全身が温まり、ゆっくり刻まれるリズムにふわぁと欠伸が出てしまう。


いつも一人で寒々感じて居た布団が、今夜は温かく、とても贅沢な気がした。


明日帰ってしまう美和。もう一泊するのだろうけれど、明日もこんな風に眠れるとは限らない。


寂しいな……実はこんなにも寂しがりだったんだって事、思い出してしまったよ。


美和は知らないでしょう?一人だと諦めるしかない寂しさも、二人だと諦められなくなってしまうんだって事。


片想いと両想いの違いかな。だったら、僕は美和に片想いして居ると思えば、これ以上美和を求めて負担を掛ける事が無くなるかな。


ふわぁ……こっそり欠伸をした僕の瞼は、どんどん重くなって行った。


『元、大好きだよ』


そう言って、僕の頬にくちづける美和の夢を見たような見ないような─────





気付くと朝だった。温かい布団の中には僕一人。


美和は?


まさか帰ったとか────


隣の部屋を覗くと、布団が畳まれていた。美和の荷物らしいものは無い。


まだ午前六時前。急いで階段を下りた。


ドダダダダ……っと、危ない。最後、踏み外して滑り落ちそうになった。


ふう、と息を吐いてキッチンの戸を開けると────「あら、早いじゃない。」エプロン姿の母が朝食の支度をして居た。


美和は……居ない。


まさかと思う事が現実になるというのは、今まで何度も経験して来た。


僕に黙ってやって来て、僕に黙って帰ってしまったんだな。がくりと肩を落とす。


美和は僕を『好き』だと言ったけれど、この程度だったの?


これじゃあ、僕ばかり『好き』で不公平だ。


だけど"恋愛"に"公平"と"不公平"を絡めたら、たちまち壊れてしまうという事を僕は知って居る筈だろう?


胸の奥がスッと冷たくなって、美和と僕の気持ちの間に温度差を感じた。


僕が美和を想うより、美和は僕を想って居ない。僕が一人で勝手に舞い上がって居ただけなんだ。


そうだよな、20歳も齢が違うんだから、そもそも同じ気持ちで"恋愛"出来る訳が無かったんだ。


ああ、心が冷たくなる。ひやりと手も冷たく……えっ?


びっくりして振り向く。そこには美和が立って居た。


「えへへ、冷たい?おはよ、元。」


「え?何で、美和……」帰ったんじゃなかったの?


「新聞取って来たよ。読む?」


「えっと、新聞?」僕がまごついて居ると、


「元啓、着替えて来なさい。」母にピシャリと言われ、


「そうだね。着替えて来て。」と美和も僕と一緒に肩を竦めてくれた。


ああ、もう!


一度可愛いと思ったら何度でも可愛く思えてしまう。これは完全に病気だな。恋の病。


「着替えて来る。」


「うん。」


階段を上りながら、ホッとして居る自分に気付いた。


美和は僕が考えるより僕を想って居てくれて居るかもしれない……良かった。


甘くて苦くて酸っぱくて、時々しょっぱくて、忘れた頃にまた甘さがやって来て、病みつきになってしまう恋の味。


甘いだけじゃないそれを繰り返し求めてしまうのは、人の本能なのか何なのか。


これ以上、恋の深みに僕だけが嵌ってしまうのが怖い。


美和と一緒に落ちて行くなら構わない。だけどそんなの分からない。僕だけ周りが見えなくなってしまって居るのかもしれない。


これが一人の恋なのか二人の恋なのか、明確に出来る術を知らなくて、相談出来る相手も─────あっ!志歩理ならどうだろう?


僕に、美和を"好き"だという事を自覚させたのは、志歩理が『美和ちゃんの事、好きでしょう?』と訊いたからだ。


その時僕が『好きだよ』と答えた事を思い出して、急に恥ずかしくなった。


だけど今、この気持ちを打ち明けて相談出来る相手は志歩理以外に居ない。


この齢になって親友に恋愛相談というのもおかしな話だが、だけど、ゲイだった僕が女性を好きになるのは初めての事で、これをどうしたらいいのか訊くのは、同じ女性である志歩理が適任のような気もして来た。


後でこっそり、電話してみようかな。


着替えた僕はダイニングへ向かった。


朝食後、僕は一人、戻った自分の部屋でこっそり大きな溜め息を吐き、肩を落として居た。


それは、今日、美和と二人で出掛けるという役目を、母に奪われて居たからだ。


明日帰ると言う美和との今日の約束を先に取り付けて居たのは僕ではなく母の方だった。


『───という訳で、今日のお昼は美和ちゃんとどこかで食べて、午後は一緒にお茶飲んで帰って来るから。いいわよね?元啓』


駄目と言えば、僕に譲ってくれるかもしれないが、美和は気にするだろう。


正月に両親揃って訪ねて来た時に、すでに美和と遊びに行く約束をして居たのは、僕も憶えて居る。


だから今日、僕の入り込む余地は無かった。


せめて買い物先まで車で送ろうかと言ってみるも、『大丈夫。折角のお休みなんだから、元はのんびりしてて』なんて美和まで言い出したので、


僕は『分かった』と言うよりほか無いじゃないか。


ごろ寝する以外、何もする事のない僕は、一時間もぼんやりすると、こんな事なら会社に行って、週明けからの案件を片付けてしまいたいなと考え始めた。


時計を見ると午前八時。


美和が僕の部屋を訪ねて来た。


以前、写真を撮った日に母が美和にと買った白いワンピースを纏って居る。


あの時は、そんなに深く考えなかったけれど、今見ると、可愛いなと思う。ただ、美和のスカート姿は見慣れて居ないから変な感じもする。


「変、かな……?」


「いや、そんな事ないよ。」


「やっぱり変だよね。」


"可愛いよ"とか"似合ってるよ"と言いたくないのは、可愛くないとか、似合ってないとか思って居るからではなく、何だか言いたくないからで、


「変じゃないよ。いいと思う。」頑張ってそれだった。


すると美和は、


「ごめんね、お母さんを取っちゃって。」と申し訳なさそうに言った。


「いや、全然。ゆっくりして来て。」


美和の目には、僕が母を取られたと(むく)れて居るように見えるのだろうか。


どちらかと言うと、母に美和を取られて剥れて居るのだが……それは恰好悪いので黙って置こう。


「本当は、志歩理社長のお見舞いにも行きたかったのだけど……」


「志歩理の?えーと、じゃあ帰って来たら行く?」


「でも、帰って来るのは夕方になってしまうかも。」


「ああ、そうか。じゃあ、明日でもいいか、後で志歩理に電話して訊いて置く。」


「うん。ありがとう元。それじゃあ、いってきます。」


「気を付けて。」


「うん。」と頷いた普段より紅い美和の唇を、僕は嫉妬交じりに見送った。


何だか振られてしまった気分の僕は、会社へ行く時のスーツに着替えた。


お見舞いの件やその他、恋愛についての相談など、すぐにでも志歩理に電話したかったが、まだ朝早い。


ひとまず僕は会社へ行って、お昼近くなったら志歩理に電話しよう。


鞄を持ち、洗面所へ行くと髪を整え、玄関へと向かう。


その間、話し声のするダイニングを覗くと、支度途中らしい母を、薄手のコートを手にした美和が立ったまま待って居た。


駅までバスかタクシーかな、と考えた僕は声を掛けた。


「母さん、どこへ行くか知らないけれど、近くまで車で送ろうか?」


「えっ?あら、でもあなたその恰好……お休みなのに会社へ行くの?」スーツ姿の僕に目を向けながら母が言った。


「まあ暇だし、仕事が残って居るからね。」ちらと美和を見ると、やはり僕から目を逸らして居た。美和の両耳が赤い。だけどその反応は、僕が嫌いなのでは無くて"好き"という事なのだと考えたら、僕の耳も熱くなって行った。


母がそれに気付き、「元啓、顔赤いわよ?熱あるんじゃない?今日は会社へ行かずに家で寝て居なさい。」と言い出した。


「熱は無いから大丈夫。それより、ついでだから送って行くよ。」


「あらそう?でももう少し掛かるわ。」


「いいよ、急がなくても。」


「ありがとう。」


そう言って、母は自分の部屋へ行った。


ダイニングに二人きりになると、美和が僕の傍に近付いて、


「会社へ行くの?」と訊いた。


「うん。」


「お仕事、忙しい?」


「多少。」


「手伝えたらいいんだけど……」


「手伝うって僕の仕事を?」


「あ、ううん。私が出来る仕事と違うもんね、元の仕事は。」


「気持ちだけでいいよ。それよりこっち見て。」


「えっ?こっちって?」


「僕の顔。ずっと見ないようにしてるよね?」


「だ、だって……見れないから。」


「見れない?何故?」


「イ……イケメンだから。」


「ぶはっ、何それ!」僕は手で口を覆い、笑った。


「本当だから!」と向きになる美和の頬は益々真っ赤になって、


それを可愛いと感じる僕は、どんどん美和をからかいたくなって止められない。


「じゃあ、母さんと出掛けて帰って来たら、僕とデートしてくれる?」


「えっ、あ、はい……」


「約束の指切りは?」と僕が右手の小指を出した時、


「お待たせー!」と母がコートとバッグを携え、戻って来た。


僕は右手を引っ込めた。


「行きましょうか。」


母は美和を玄関へ促した。


僕もそれに付いて行く。


「美和ちゃん、先にどうぞ。」と言う母に、


「いえ、お母さんからどうぞ。」と美和が答えた。


"お母さん"とはつまり僕の母だからそう呼んで居るのだろうけれど、


"お義母さん"つまり姑と思って呼んで居てくれるのであれば、昨夜のプロポーズも嘘ではなくなる。



そうだ、プロポーズの事を忘れて居た。どうしようか────と考えて居る時、僕の右手に何かが触れた。


見ると、美和の小指が僕の小指を絡めようとして居る所で、僕はそれをしやすいようにと指を広げた。


母が靴を履く間、僕らに背を向けて居る間、こっそり交わす指切りは、僕の心臓をドキドキさせた。


小指が離れた後、美和はようやく僕の顔を見て、小さく頷いた。


僕も頷き、美和に続いて靴を履いた後、三人で外に出た。


まだ少しだけ冷たい風が頬を撫でる。


花の匂いの混じる春の風。


駐車場までの道を連れ立って歩きながら、美和と僕は時折視線を交わした。


美和は嬉しそうに微笑んで居る。


母も穏やかな表情を浮かべ、悪くないと思う時間が過ぎて行く。


ああ……悪くない。


角を曲がると、


「あら、おはようございます。木村さん、お出掛け?」母と同じくらいの年齢の女性の声が聞こえ、ハッとしてそちらに視線を向けると、ご近所の、確か────「芳田さん、おはようございます。ちょっとね、お買い物に。」慣れたように母が笑顔で返した。


「そうなの。いいわねぇ。元啓くんと、こちらのお嬢さんは?」


芳田さんが最初から爛々とした目で美和を見て居たのには、気付いて居た。


美和は微笑みながらも肩を竦めて居る。


母は「私のお友達なの。」と美和を紹介した。


「え?あら、そうなの?私はてっきり……元啓くんの婚約者かと思ったのよ。」


「あら、そう?」母はふふふと笑った。


「でも、ねぇ……齢が離れて居るものねぇ。違うわよねぇ。」と、自らを弁護するように並べられた芳田さんの言葉は、僕らを少し傷付けた。


「私は齢なんて気にならないわ。二人がいいならそれが一番。」強く放たれた母の言葉の重みは、誰よりも僕の心に沁みた。


母はずっと願って居たのだろう。齢だけじゃなく性別も超え、相手が誰であっても僕のしあわせを。


多分、わーさんの事がなくても、美和との事は反対しなかったと思う。


「じゃあ、また!」上向きに言った母は、美和の肩を両手で包み、駐車場へ向かった。


結局一言も発さなかった僕は、芳田さんに軽くお辞儀をして、二人の後を追いかけた。


母の行き付けのデパートに着いた。


大きな駅に隣接するその建物の裏にある大通り、バス停留所エリア手前で車を停めた。


「ここでいい?」


「ありがとう。」


「帰りは何時?」


「うーん、何時になるか分からないからいいわよ。タクシーだっていっぱいあるから。」


「言ってくれれば迎えに来るよ。」


「来なくていいわよ。あなたこれから会社行くんでしょう?」


「大した仕事はないから、すぐ終わると思う。」


「当てにしてないわ。」


車を降りようとしたのに中々降りない母の隣で、美和はクスクス笑い出した。


「仲が良いですね。」と言う美和の顔を見た母は「そんな事無いわよ、ねぇ?」と今度は僕の顔を見た。


笑いを堪える美和の顔を見てしまった僕も可笑しくなり「さあねぇ……」と堪らず笑った。


「美和ちゃん、行きましょ。帰りは迎えに来なくていいからね。」


母が車を降り、次いで美和も「じゃあ。」と降りた。


「うん、頼むね。」口にした後、誰に何を頼むのかと考えた。


バタン、ドアが閉められた後、ハザードランプを消して右のウインカーを出した。ハンドルを切ると、手を振る美和の姿がミラーの中を移動する。


『あとで』────と、不確かなデートの約束を、心の中で唱えた。


会社に着いたら、志歩理に電話しよう。相談するかしないかの迷いは無くなって居た。


時が過ぎるごとに、美和への想いが深くなって行くのを感じた。


離れて居たから余計なのかもしれないけれど、再び会って、それだけではない気持ちになった。


美和にこれからしあわせになって欲しいと願うのは変わらない。だけど、誰かとではなく僕と一緒に居てそうなってくれたらいいなと考えてしまう。


これを"恋"と呼ぶのか"愛"と呼ぶのかは知らない。


この先、僕がどんな選択をすれば正解なのかも分からない。


けれど、僕は美和に幸せになって貰いたいし、僕も出来る事ならしあわせになりたい。


独りの時は誰かを幸せにしたいとか自分もしあわせになりたいという考えが湧かなかった。


誰かを"好き"になるだけで、人生がこんなに変わるって、それを忘れてからの僕の人生は随分くすんでつまらない色をして居たと思う。


誰も居ない会社に着いた僕は、灯かりの点いて居ない廊下を静かに歩き、社長室に辿り着いた。


椅子に座り、足元に鞄を置くと、上着のポケットからスマートフォンを取り出して机の上に置いた。


志歩理にかけようとした時、ブーッブーッブーッと、机の上のスマートフォンが振動した。


スマートフォンを手に取って確かめると、電話は志歩理からだった。


丁度かけようと思って居た時だった。長い付き合いだと、思考が似て来るのかな。


「はい、木村です。」と電話に出ると


『おはよう。早速だけど、美和ちゃんに代わって?』


「代わってって、今ここには居ないよ。」


『えっ?だって、美和ちゃん、元啓の実家に泊まるって聞いたけど?』


「誰から聞いたの?」


『美和ちゃん。こっちに来る時は連絡してって言っておいたから。律儀よね、美和ちゃんは』


「あー、はいはい。不義理な友人で申し訳ないですね。」


僕が不貞腐れると、


『あら、じゃあ義理を通してよ。お見舞い来てくれるんでしょう?二人でうちに来る時に、お見舞いの品よろしくね』と志歩理は明るい声で続けた。


「お見舞いの品って、何か希望でも?」


これが好いと要望があるから言った事位は、長年の付き合いから分かった。


『美和ちゃん、貰おうかしら?うちに住まわせて一緒に暮らすの。勿論ベッドも一緒よ?』


「えっ?!」


『ぷぷぷっ、その反応面白い。元啓をそんな風にしちゃうなんて、美和ちゃん凄いわぁ!』


「な、何が!」


『だけど元啓、お返しまだしてないんだってね?それは駄目よ、男として』


"お返し"って何の?


"男として"って……


「お返しって何の事?」


『これだから男は……』大きな溜め息を吐いてから志歩理は『ホワイトデーよ』と言った。


"ホワイトデー"?あ、ああ!そう言えば、すっかり忘れてた……事を隠し、志歩理には冷静な声で返す。


「ホワイトデーね。それは戻った時にと決めてる。」真っ赤な嘘だけど、そうしようと今決めたから嘘にはならない。


『何をするって?子ども騙しのお菓子買って終わり?』


「いや、それは志歩理には教えない。」


『"僕と美和の秘密だから"とでも言いたい訳?』


変にからかわれてカッとなった僕は、


「もう切るよ。悪いけどお見舞いは行くかどうか分からない。」と電話を切ってスマートフォンを机の上にゴトンと置いた。


その後で、大人げなかったと後悔するが、やはりあのまま志歩理と電話を続けては居られなかった。


親友だから何を言っても良いって仲ではないだろう?


踏み込んではいけない領域もあるんだ。


まあ、今回の話はそこまでって訳でもないけれど、だけど────ブブッ、机の上のスマートフォンがまた震えた。


今度は何だ?と見ると志歩理からのメールだった。


【仲直りするなら↓この店でギフト選んで来て。勿論美和ちゃんにもね!】


添えられたURLをクリックしてみると、開いたのは……「あれっ?間違ってないか?」


その店と言うのは、てっきり洋菓子店か何かだと思って居たのに、スマートフォンの画面に現れたのは【ジュエリーショップツナシマ】という宝飾店のホームページだった。


住所を見ると、近くは無いが遠くも無い。


「駐車場はあるのかなあ……あ、裏に商店街の駐車場があるのか。」


ギフトって何?と思いながらスクロールすると、


【GIFT】という文字を発見し、クリックしてみる。


現れたのは誕生石をあしらったというリングネックレス。


志歩理の誕生月は、何月だったかな……って、いやいやいや、買わない。仲直りにジュエリー?


志歩理らしい要求と言えばそうだけど、違和感を覚える。これは多分きっと、美和へのホワイトデーのお返しをここで買えと言いたいのだろうと考えられた。


リングネックレスか……リング内側にメッセージも刻印出来るとある。


悪くない、けれど僕は美和の誕生日を知らない。教えて貰えない。


何故教えて貰えないのか色々考えた。しかし未だ分からないまま。


ふと、僕は社長室の鍵付きキャビネットに目を遣った。


おそらく、あの中に美和の履歴書も入って居る筈だ。それを見ればいつが誕生日なのかも分かる。


鍵を手にした僕は、キャビネットを開けた。


ガサ、ゴソ…………





それから一時間後、僕は志歩理に指定された店の中に居た。


ジュエリーショップツナシマ。


古くからある商店街の片隅にある宝飾店。


真新しい訳でも規模が大きい訳でもないのに、志歩理は何故この店に拘った?と首を捻る。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


母とさして変わらぬ年齢と思しき女性が奥から出て来て、ショーケースの向こう側に立った。


小さな丸い眼鏡をちょこんと掛けた女性は、栗色の長い巻き毛で、恰幅が良く、肌の色は白いので、黙って居れば外国人と思われるかもしれない。


「贈り物ですか?お相手はおいくつの方かしら?」


しかし中身は日本人のようだ。かなりの商人(あきんど)


「45歳と25歳です。」


「では、ブローチかネックレス……イヤリングもございますよ。」


「ネックレスを……リングの付いた。」


「はい、それはこちらにございます。誕生石付きリング。お相手の方のお誕生月はご存知ですか?」


「いえ、それが───」


志歩理の誕生月は電話で訊けば教えてくれるだろうが、美和のは───あれからキャビネットの中を調べても履歴書は無く、結局分からずじまいだった。


いや……美和の履歴書を見つけられて居たとしても、それを勝手に見て購入したジュエリーなど、美和は貰っても嬉しくはないだろう。


やはりやめよう。志歩理にも美和にも、僕がジュエリーを贈る理由が見つからない。


「あの────」「こちらならいかがでしょう?大切な人へ贈るお守りとして。」





十五分後、僕は店を出た。手に小さな紙袋二つを提げて。


"お守り"と言われて、買ってしまった。


本当に"お守り"になるならと思うと欲しくなった。


志歩理にも、美和にも。


僕の居ない所で、守られて居て欲しい。


いや、僕が傍に居るからと言って二人を守れて居るなんて思い上がっては居ない。だけど────


美和の顔を思い浮かべた時、上着のポケットが揺れた。


電話だ。志歩理、ではなさそうだけど、もしかして……明るくて文字の見えない画面をそのまま耳に当てる。


「はい、木村です。」相手は誰だ?と一瞬緊張する。


『ごめんなさい、元。今大丈夫?』


「えっ?美和?」


まさか美和だとは思って居なかった僕は、耳に当てたスマートフォンを離し、目で確認しようとするが、屋外は明るい為、やはり文字は見えない。


『あのね、今会社?』


「いや、ここは違う。」


『お仕事終わったの?』


ぎくり。


会社には行ったけれど、結局、仕事は何一つ片付けて居なかった。


「今日はもう終わり。」


今日、会社に行ったのは、美和に相手にして貰えなかったから。一人実家で暇を持て余すのは何だか惨めだなんて思えたから。そして休日出勤すれば、平日少しは楽になるかと思っただけで、あまり意味のない行動だったと反省すべき所。


『それならね、お願いがあるの』






午後四時になる。現在、僕らは実家に戻って居た。


美和から電話を貰った後、僕は美和と母を迎えに、今朝降ろした場所へ車で向かった。


どうやら母は、張り切り過ぎて疲れてしまったらしい。腰と足が痛い上に、沢山買い物をし過ぎて身動きが取れなくなってしまったとの事。


今、母は寝室のベッドの上で、美和にマッサージをして貰って居る。


僕は父と、今夜の夕食の支度をしようと、キッチンに立った。


すると父は「うーん、こんなに総菜買って来たんなら、今夜はこれでいいな。」と言い出した。


「え?でも……」


テーブルの上に並べられたのは、デパート地下街で販売された値の張るおかずの入ったパックの数々。


「こんなに買ったんだ、母さん……」


普段、出前や総菜を利用しなかった母さんが、と驚く僕に気付いた父は、


「二人だけだと、いつもこんなもんだよ。母さんは、お前達が帰って来た時だけ料理してる。」と打ち明けた。


「そうなの?」


「毎日毎日、変わり映えしない暮らしで、特に食べたい物も無い時、外に食べに行くよりはって、スーパーとかデパートの総菜利用したら、悪くなかった。だから作るのが負担な時とか利用して。」


「そっか……」


「今日は家で作るのかと思ってたけど、疲れたのと、デパートで総菜見て気が変わったんだろうな。」


父と母の暮らしが、この先もずっと変わらないと思って居た訳ではないけれど、こうして、両親の生活の変化を目の当たりにすると、何とも言えない不安が芽生えた。


本当は僕が両親の傍で暮らして、二人の生活を見守るべきなんだろうけれど、それが出来ない。


いや、"出来ない"ではなく"しない"だけだって、本当は分かって居る。


わーさんと移住したあの家に拘る理由なんて、無いと言われてしまえば無い。


亡くなった彼との想い出やお墓を守る事と、生きて居る両親の暮らしを守る事、どちらが大切かと訊かれたら、両親を取るべきなのは分かって居る。


だけど僕は────親不孝でごめん。今に始まった事ではないけれど。


『僕が何か作るよ』


偽善的な言葉を呑み込み、


ガサ、ガサッと、袋の中から総菜のパックを無言で取り出し、並べた。


揚げ物からサラダ、和え物、栗おこわに父の好きなローストビーフもある。


「ありがとうな、元啓。」


どきりとした。父が僕の名前を呼ぶのは滅多にない。


「何が……」


「いや、お前は親孝行だと思ってな。」


どこが────と言いたいのを我慢すると、


「可愛い恋人と元気で暮らして居る所が。」と父は、僕がびっくりする言葉を放った。


「な、な、な……何それ!」


「いやー、しかし凄いなぁ。まさかお前が20歳下の彼女を作るとはなー、驚きだ。」


「い、いや、まあそれはその……」


ゲイだった息子が、45歳になって初めて異性の恋人、しかも20歳年下と暮らして居るとなれば、まあ、驚く事かな。


だけど、恋人同士になったと、父に話しただろうか?母にも特に言って居ない気がするが……


「これなんか、楽しそうでいいよ。」と父は僕にスマートフォンの画面を見せた。


そこに現れた画像は、僕の日常の姿を映した物。


「いつ、こんな……!」何故これを父が。恥ずかしい。


「時々美和ちゃんが送ってくれるんだ。」そう言って父は笑った。


「美和、勝手に……」と呟くと、


「お前、知ってるのかと思った。そうか、内緒だったか。だからって美和ちゃんの事、責めたりするなよ?我々が喜ぶ事をしてくれて居るだけなんだから。」

と父が僕の肩をポンと叩いた。


「だからって……」気の抜けた顔の数々。どれも情けない写真ばかりだ。


「いい顔してるよ。しあわせだなあ、お前。」


父の言葉が胸に沁みた。


そうかな、そうなのかな。


今の僕を見たら、わーさんもそう言ってくれるのかな。もしもそうなら、安心してくれる?


僕は大丈夫、自分でもそう思える。一人ではないって、心強い。


大切に想う人が現れる事を恐れて居たのに、今は────「あの、私……」


美和の声にハッと顔を上げる。


見ると美和は、さっき着ていたワンピース姿ではないが、手にはスプリングコートと洋菓子店のらしい紙袋を携えて居る。


「出掛けるのかい?」父が訊くと、


「はい。でもすぐに戻って来ます。」と答えた。


「どこへ行くの?」


「えっと……」と言葉を濁す美和。ここからすぐ行けて、菓子折り、僕には言い難い場所と言えば────「志歩理の所?」


僕の声に美和は体をビクリと揺らした。


「……送って行く。」


「ううん、私は一人で大丈夫だから。」


「僕も志歩理に用がある。」


「そう……」


「そう言う訳で父さん、出掛けて来る。」


「ああ、いいよ。ゆっくりして来なさい。美和ちゃんもね、元啓に会いに来たのに母さんに付き合わせて悪かったね。」


"僕に会いに来た"だって?


「いいえ、そんな!とっても楽しかったです。」


「すぐ支度するから少し待ってて。」


「うん。」


僕は美和と父をダイニングに残し、急いで二階へ上がると、ジャケットを着込んだ。そのポケットに財布、スマートフォン、車の鍵を入れ、もう一つ、ラッピングされた長い箱を内ポケットに押し込んだ。


「おっと、これも。」もう一つの紙袋を掴むと、急いで部屋を出て階段を駆け下りる。


ダイニングに滑り込み、切れた息をこっそり整えると、「急がなくて良かったのに。」と微笑む美和。


父は「二人でゆっくりして来なさい。こっちの事は心配しなくても大丈夫だから。」と頷いて、僕らを送り出した。






志歩理のマンションには午後五時前に着いた。


「連絡してないけど、いいかな。」と僕が思わず吐き出したのは、さっきの電話で、志歩理と決裂したままだったから。


「志歩理社長には"これから行きます"って電話したよ。だけど、元と一緒に行く事は伝えてない。」


「そうだよね、うん。」怖気付いた訳ではないけれど、美和の前で喧嘩したくない僕は、泰道に電話をして、エントランスを開けて貰った。


「どうぞどうぞ、わざわざすみません。」泰道が笑顔で出て来た。彼は腰の低い男で、外見も一般的。周囲から、彼のような人と、美しくてプライドが高く見えるらしい志歩理とは合わないと噂されて居るようだが、二人は気にしない。お互いに無い部分を補い合って、多忙な日々を共に乗り越えて居る。


理想……とは言わないけれど、悪くない夫婦だと思う。


「志歩理はどうしてますか?」


「元気ですよ。お二人が来るのを楽しみに待って居ました。」


「えっ?そうですか?」電話ではそんな風には感じられなかった。


僕が黙ると、泰道はにこりとして、まるで事情を知って居るかのように話した。


「志歩理が向きになるのは、あなた方のしあわせを願い過ぎて居るからだと思います。特に木村さん、あなたには本当にお世話になって居るから。」


「いや、そんな、僕は何も───」


「もう少しだけ、志歩理の我が儘に付き合ってやって下さい。」


すみません、と小さく言って泰道は玄関ドアを開けた。決して広くない彼の背中、だけど僕の知る中で、彼の心の広さはかなりのものだと知って居る。


「さあ、どうぞ。」


「お邪魔します。」と美和と僕、揃って靴を脱いだ。用意されていたスリッパを履き、夕焼け色のリビング目指して進んだ。美和の手には菓子折り、僕の手には、志歩理が気に入るとは思えないけれどと用意した物の入った紙袋が握られて居る。


泰道は、僕らを見守るように後から付いて来た。


「美和ちゃん!」


掛けて居た豪奢なソファーから立ち上がった志歩理に、美和が駆け寄る。


「志歩理社長!」


志歩理は両腕を広げ、近付いた美和をギュッと抱き締めた。


「社長はやめてよ。」


「はい、志歩理さん。」


「元気だった?会いたかったわ。」


「はい、私もです。」


僕らの前で繰り広げられる、男の存在など忘れた女性二人だけの世界。


今でも美和の想いを知らずに居たら、抱き合いながら見つめ合う二人の姿に僕は美和が志歩理を好きで居ると誤解したに違いない。


いや……今の美和のこの姿を見る限り、僕を"好き"と言うよりも、志歩理を"愛してる"と言った方が正しいのかもしれないと思えた。


うーん、複雑だなぁ。いいなぁ、志歩理。美和と抱き合っ……いや、こほん。


「お茶淹れますね。適当に座って下さい。」と泰道は、僕らを広いリビングに残して、一人、ダイニングキッチンへと行ってしまった。


「何見てるのよ、元啓。」


志歩理が美和の背中を抱いたまま、僕にじろりと視線を向けた。


その両手はまだ美和の背中と腰を抱いて居る。


「別に……」


僕はぷいと顔を背け、美和と志歩理が抱き合う姿を見ないようにした。


いや……今の美和のこの姿を見る限り、僕を"好き"と言うよりも、志歩理を"愛してる"と言った方が正しいのかもしれないと思えた。


うーん、複雑だなぁ。いいなぁ、志歩理。美和と抱き合っ……いや、こほん。


「お茶淹れますね。適当に座って下さい。」と泰道は、僕らを広いリビングに残して、一人、ダイニングキッチンへと行ってしまった。


「何見てるのよ、元啓。」


志歩理が美和の背中を抱いたまま、僕にじろりと視線を向けた。


その両手はまだ美和の背中と腰を抱いて居る。


「別に……」


僕はぷいと顔を背け、美和と志歩理が抱き合う姿を見ないようにした。


「美和ちゃん、元啓が焼きもち焼いてるわ。」


志歩理は、ふふふと笑った。


ムッとした僕が再び志歩理の方を見ると、すでに志歩理は美和を離して立って居た。


美和はと言うと、さっき志歩理の座って居たソファーに座り、心配そうな顔で僕らを交互に見守って居る。


「元啓、ちょっと向こうで話しましょう?」


「え?僕?」


志歩理は上に向けた手のひらの人差し指だけをフックのようにして、クイクイと動かした。


「そうよ、あなたその為に来たんでしょう?」


脚は大きく開き、腰に左手を当て、顎を少し上に向けた恰好は、志歩理をより一層尊大に見せた。


丁度、志歩理の纏うルームウェアも、昔流行った"ボディコン"と呼ばれるような体にピッタリしたもので、だけど僕、それが流行った学生時代、志歩理が一度もそんな恰好をした事が無いのを知って居たから、まさか長年憧れて居たとか?なんて想像すると、今更だろうと何だか可笑しくて、慌てて口元を覆った。


「何笑ってんのよ。」と最初ムスッとした様子で放った志歩理の頬も、だんだん緩んだ。僕の崩した顔を見て、堪らなくなったようだ。


「もうっ!」と笑いながら僕を書斎に促す。


僕は少しホッとして、志歩理の後ろに付きながら、そっと美和を見た。


美和も僕を見て居て、にこりとしながら大きく頷いた。


僕も頷き返し、提げて居る紙袋の紐をぎゅっと握った。


「入って。」志歩理に続いて入った部屋のドアを後ろ手に閉めた。


「どうぞ座って。」


書斎兼応接間のここには、低いテーブルを挟んでソファーがあった。そこに僕らは向かい合って腰を下ろした。


「お茶、後でいいかしら?」


「お構いなく。」言おうか迷って「すぐに帰るから。」結局言うと、再び志歩理はムッとした顔を見せた。


「私に何か言う事あるんじゃないの?」


「何かって、何?」


普段なら買わない喧嘩。何だか今日は妙に志歩理に突っ掛かってしまうと、自分でも不思議だった。


「もう!それで、その紙袋持ってるって事は、買いに行ったのね?婚約指輪(エンゲージリング)。」


「エンゲージリング?」えっと、エンゲージって、ええと……婚約?


「まさか買ってないの?」腕を組んだ志歩理の右の眉尻が上がった。


怒ってる?


「リングは買ってない、けど……」


「けど、何よ?」


「他の物なら買った。」


「他の物?何を買ったって言うの?」


「それは、志歩理には関係ないだろ。」僕が美和へ贈ろうと考えた物はこれだと、誰にも言いたくなかった。


「何よ、別に訊いたっていいじゃない。」


「志歩理には、これ……気に入らないかもしれないけれど。」


「私が気に入りそうもないものを選んだの?」


「そういう訳じゃないけど。」


今日の志歩理は随分突っ掛かる。何だかいつもよりイライラして居ないか?


差し出された志歩理の手に、僕は紙袋から取り出した四角い包みを渡した。


「開けるわよ?」


「どうぞ。」


僕が言うと、志歩理は紙袋と同じ黒色の包装をゆっくり解き、現れた小箱の蓋を開けた。


「ふーん……何故これを選んだの?」と志歩理は箱の中から僕の選んだ真珠をあしらった金のブローチを持ち上げ、胸の前に翳した。


「真珠には人を守る力があるらしいから。」


「あなたが守るべきなのは私ではないでしょう?これは美和ちゃんに───」志歩理が箱の中にブローチを戻して言った。


「美和の分はちゃんとあるから。」嘘ではない。美和にもある。


「志歩理にもホワイトデー。」と付け加えると、


「あ、そう…………ありがとう。」と志歩理に素直にお礼を言われて、僕も嬉しかった。


「いつも貰ってばかりだったね。」


「そんな事無いわよ。私の方がいつもあなたに助けられてた。会社だって、元啓とじゃなかったらここまで大きく出来なかったと思ってるわ。」


さっきまでの強気の態度とは一変、俯き気味の瞳を潤ませて言われると、調子が狂った。


「やだな、そんな風に思わなくていいよ。」


「今回の事も、あなたと美和ちゃん、二人に寂しい思いをさせて申し訳なかったと思って居るのよ?」


ああ、だからそれで、僕らの関係を気にして居ると言うのか、志歩理は。


「大丈夫。僕も美和も寂しくないよ。」


「それは、あなただけでしょう?美和ちゃんは寂しかったと思うわ。強い人だけどね。」


僕よりも美和の事をよく知って居ると言いた気の志歩理。"強い人"って、虫とか怖がらない所を言って居るのかな?なんて考えて居ると、


「美和ちゃんには本当にビックリさせられたわ。最初、あなたに一目惚れしたと鬼気迫ったように打ち明けられた時はね。」と志歩理は組んだ両手に顎を乗せて苦笑いした。


「それ、いつの事?」


「結婚式終わって、ハネムーン行って帰って来てすぐかしら?美和ちゃん、突然社長室を訪ねて来てね────」


「え?」


「『社長!一生のお願いです。どうか、木村元啓さんの事を教えて下さい!』って真剣に訴えられてね。理由を訊くと、元啓に『一目惚れしてしまいました!』ですって。」


その時の事を思い出したのか、志歩理は、あははと笑った。


美和が志歩理にそんな風に言って居たとは意外だった。


あの家に来る前から美和は僕を知って居て、僕の事を好きだった───なんて僕には冷静に考えられない。今にも顔が燃え出しそうだった。


「最初は正直、"またか"と思ったの。」


「え?"またか"って?」


「あなたの顔目当てで、一体何人の女が私に近付いて来た事か……」やれやれと、志歩理は溜め息を吐いた。


「僕の顔?」


「あなた外見はいいものね。中身はこんなだけど。」


「失敬な!」と言って僕は笑う。


「まあとにかく、何人女が近付いて来たとしてもあなたが相手にしない事は分かってたから。」


わーさんが居たから。仮にわーさんが居なかったとしても、僕はゲイだから。


「苦労掛けた?」志歩理が僕の防波堤になって居てくれた事なんて露程も知らなかった。


「そうねぇ……別に?」そうやって志歩理が悪戯っぽく笑う時だけは、僕より年下に思える。本当は同い年だけど、普段は僕より年上のような気持ちになってしまうのは、尻に敷かれて居るからかもしれない。


ゲイだからという訳では無いけれど、僕は威張り腐った男が嫌いだ。女を従えようとする男も。


男女同権を謳う社会のくせに、実はそうでもないって事を、僕も志歩理も分かって居る。


だから、この会社を立ち上げた頃、僕は志歩理の代わりに社長代理を務めて居た。


現在はそんな事も無く、どちらかと言えば女性社員比率の高いこの会社では、男性の方が立場が弱い。


それ位で丁度いいと僕も志歩理も思って居る。社会はどうあれ、せめて僕らの作った会社だけはという考えだった。


僕がここまでやって来れた事は、志歩理にも感謝しなければならない。


その思いから「色々ありがとう。」と口から零すと、志歩理は照れた様子で「やあね、やめてよ。それはこっちのセリフよ。」と言い出した。


僕の態度に腹を立てて居た志歩理はもう居なかった。


「今夜時間あるなら、うちでお夕飯食べて行か───あら、ごめんなさい。今の忘れて。」


「急にどうしたの?」


「いえいえ、何でもないわ。」


「気になるだろ?」


「だって、誘った瞬間のあなたの顔、物凄く嫌そうだったから。この後、美和ちゃんとデートなんでしょ?そうよね、だって用意した物、これから渡すのでしょう?頑張って!」


志歩理には色々お見通しで、僕はやはり恥ずかしかった。話を終わらせる為に「ありがとう。」と言った。


「どこで渡すの?」


「どこって、別に……」


「本当にただのお返しのつもり?美和ちゃん、待って居るんじゃないの?あなたから申し込まれるのを。」


「"申し込む"って何を?」ホワイトデーのお返しの真珠のネックレスを渡して申し込むもの?何?


「結婚。」


「は?」


「は?って何よ、その反応。まさか今更、"結婚は考えてないんだ"とか言い出さないわよね?そんな事言い出すなら絶交よ?」


「いや、まあ……申し込むと言うか、申し込まれた、けど……」


「何々、その話。」志歩理は身を乗り出した。美和のプロポーズを僕が志歩理に話してしまうのはどうかとも思ったけれど、この話をしないと僕の続けたい話にならないから、本日未明の話を志歩理にした。


「美和からプロポーズされた。エイプリルフールだって言って。でも実は0時過ぎてたんだ。」


そう言って僕が笑うと、志歩理も笑ってくれるかと思ったのに違った。志歩理は深い溜め息を吐いてこう言った。


「あー、本当に実行したのね、美和ちゃん。半分冗談のつもりだったんだけど……」と。


「え?冗談?」


「あっ、プロポーズは本物よ、本気。そうじゃなくて、美和ちゃん、あなたと本当に付き合って居るか自信が無かったみたいだから、言ったの、電話で。『こっちからプロポーズしなさい』って。『エイプリルフールなら断られても"嘘だった"よって言えるから』って。丁度こっちに来るって連絡貰った時にね、アドバイスしたのよ。」


「アドバイスって……嘘って───」女性は、嘘でプロポーズ出来るものなの?


僕には出来ない。例えエイプリルフールであっても『結婚して下さい』とは言えない。


美和はあのプロポーズを"嘘"にしたかった────訳ではなさそうだけど。


「元啓、早く美和ちゃんの事、安心させてあげて?」


「単身赴任中は無理。」


「そうね、それは申し訳ないと思って居るわ。」


「ちゃんと考えてる。だから簡単に言えないんだよ。言いたくない訳じゃない。まだ準備が───」


「用意周到なあなたの事だから、結婚準備が整い次第じゃないとプロポーズ出来ない事は分かってる。でもね、女は待ってるのよ。好きな人に強引に迫られる事を、実はね。美和ちゃんだってそうよ。だけど、相手があなたの場合、待って居られないわよって私が教えたの。もしも木村元啓を好きで居たいなら、甘えを捨てて、積極的に、かつスピーディーに。」


「それ、何か違う気がするけど……」


「実際、美和ちゃんは変わったわよ。女の子女の子してたけど、今じゃ髪も服も男の子みたいにさっぱりして、メイクだってほとんどしてないでしょう?」


「よく知らないけど。」


「ENTに居た頃は違ったもの。」


「違うって、どう……」訊ねた時、コンコンとドアがノックされた。


「はーい。」と志歩理が返事をすると、ドアが開き、泰道が顔を覗かせた。


「お茶、冷めちゃうから。こっちに運ぶ?」


「あ、はいはい。今行くわ。」


「うん。」泰道はドアを閉めた。白いエプロンが似合って居る所が憎めない。


志歩理にこき使われて居る印象は無い。泰道は好きでやって居そうだなと思った。"尽くす夫"なのかもしれない。


「志歩理はしあわせそうでいいね。」


「あら、あなたもね。」


「そう見える?」


「見える。」と志歩理がにっこり笑うと、"しあわせそうな僕"が肯定されたようで嬉しかった。


「ありがとう。」


「でも、これからよ。今夜が勝負じゃない?」


「今夜が勝負って?」


「プロポーズするなら、それなりの場所でしないとね。」


プロポーズ、って……そんな、まだ──────だけどここで話を終わらせるには……


「うん。」と返事をして、志歩理が「それじゃあ、リビングに戻りましょう。」と立ち上がるのを待った。





リビングに戻ると、美和は陽が落ちた窓に向かい、立って居た。


その背中に「何か見える?」と志歩理が声を掛けると、美和はバッと振り返り、恥ずかしそうに「ええ、すみません……」と握って居たカーテンを放した。


「見晴らしだけはいいものね。後で元に夜景の綺麗に見える場所に連れて行って貰ったら?」


志歩理はおそらく、ホテル高層階の部屋から見える夜景の事を言って居るのだろう。


志歩理が想い描いて居るだろうロマンスを想像してしまった途端、僕の顔が火照り出したのが分かって、慌てて口元を手で覆った。


僕に出来る訳ない、そんな事。


美和と合わせられない視線を彷徨わせて居ると、部屋の隅のアンティークボードの上に並べられた、大小様々な形の写真たてに辿り着いた。


話題を変えようと「志歩理、あれって結婚式の写真?」と写真たてについて訊ねると、美和がハッとして、写真たてを隠すように移動し、


「泰道さんがお茶を淹れて下さったんです。冷めない内に────」と僕と志歩理をソファーに座らせようとした。


「うん。」と僕は返事をしつつ、つかつかと美和の前に進んだ。


身構える美和の背中に隠された一番大きな写真たてを掴んで引っ張った……が、すぐさま反対側を美和に掴まれ、僕は中々その写真を見る事が出来ない。


大きな額の中に収められて居るのは、結婚式の集合写真。


おそらく美和も写って居るから、僕に見せたくないのだろう。


「見せて。」僕が言うと、美和は首を横に振った。


そこで、


「僕のアルバムは見たくせに?」と言うと、写真たてを引っ張る美和の腕の力が弱まった。


「ありがとう。」と僕は写真たての中の写真に顔を近付けた。


一人一人が小さな顔の集合写真。この中のどこに美和が居るのか、探すのに一苦労だ。


「美和はどこに写って居るの?」と訊くと、俯きながらまた首を横に振る。


僕らのやり取りを見兼ねたように志歩理が


「もういいじゃない。座って。お茶飲みましょう?」と促した。


美和は素直に志歩理に従いソファーに座ったが、納得行かない僕は、その場に突っ立ったまま、写真の中の美和を探した。


余りに必死な僕の姿を憐れに思ったのか、少しして志歩理が「確か……紺色のドレスだったわよね?美和ちゃん。」と教えてくれた。


「……はい。」僕の耳にも辛うじて聞こえた美和の返事は、仕方なくといった風だった。


そんなに過去の写真を見られるのが嫌なの?僕の写真は見たくせに……と、僕は紺色のドレスを纏った女性を探した。


前から三列目の、左から二番目の女性が美和に似て居る。だけど、この写真の女性は髪が長かった。


肩の出るドレスに薄手のショールを巻いて、メイクもきちんとして居た。


「これ、美和?」と思わず大きな声を出してしまった。


ソファーに掛けた美和を振り返ると、美和は俯き、膝の上で拳を握り締めて居た。


今とは別人のような美和の写真。僕の知らない女性みたいで、だけどこれが美和だと言われたら僕は、今美和がこの写真と同じ恰好をしても好きなままだろう。


しかし、以前の僕だったら避けて居ただろう姿の美和。


僕は自分が外見だけで人を判断して居るとは思って居なかったが、実はそうだったんだと初めて気付いた。


女性というものはこうだと勝手に決め付けて、苦手意識を持って居たんだ。


よく知れば、もっと多くの女性と上手く話せたかもしれない。


志歩理だって女性だった。そう、志歩理と長年付き合って来れたのは、気心が知れて居たからだ。


ちらと志歩理を見ると目が合って、「何よ?何か言いたそうね。」と鋭い。


「いや……何でもない。」


僕は写真たてをアンティークボードの上に戻し、静かに美和の隣に腰を下ろした。


気まずそうに美和は、僕とは目を合わせてくれないまま、出されたお茶を飲み、お菓子を食べ、志歩理から出されるたわい無い話に小さく相槌を打って居た。


そんなに嫌だった?僕が美和の過去を知ろうとするのは。


隠しておきたい理由が何かあるとか?


────理由?


あの写真の中に、実は好きな人でも居たとか?


当時の美和の事は何も知らない。あの家に来る前の美和の事、知りたいような、いや、知らない方がいいのかな……


お茶を飲み干すと、トイレに行きたくなってしまった僕は、


「すみません、お手洗いお借りします。」向かいの泰道に言い、席を立った。


志歩理と美和はまだ話し中だった。


用を足し、リビングに戻る廊下で溜め息を吐く。


他人の家に長居するのは苦手だ。


志歩理一人ならまだいい。けれど泰道と美和も居て、何故だか気を遣ってしまう事に疲れて居た。


パタンとリビングのドアを閉めると、一同がハッとした顔で僕を見た。


僕もハッとして、おそらく、僕の良くない話をして居たのだろうと想像出来た。


さっきまで座って居たソファーが、僕が座るのを拒んで居るかのよう。


ああ、もう帰りたいな。何なら一人でここから抜け出したい。


美和は志歩理とまだ話があるようだから、「帰ろう」と僕からは切り出せない。


「あの、さ、志歩理。僕用事があるから先に失礼していいかな?」


「用事?何の?」


「あ、さっき会社に忘れ物したから取りに……帰りにまたここに寄るよ。」


「会社に忘れ物って元啓、何を忘れたの?ヤス。」と志歩理が泰道を見ると、すぐさま泰道が


「俺が取りに行きましょうか?」とにこりと笑って僕に訊いた。


「あ、いやいや、大した物じゃないんだ、けど……」


「ふぅん……」顎に手を当てた志歩理が漏らすと、


「私もお(いとま)します。」と美和が立ち上がって「お茶ごちそうさまでした。それから志歩理社長、くれぐれもご無理なさらないで下さいね。」と志歩理に向かって深くお辞儀をした。


志歩理は、ふぅと息を吐いてから、「分かりました。」と立ち上がり、「元啓。」と僕を見た。


笑って居ない真剣な志歩理の目に怯みそうになって「うん?」と惚けた返事をすると


「分かって居ると思うけど、美和ちゃんの事、大事にしなさいよ?」と志歩理は僕の顔を指差して言い放った。


昔よりビシッと言えるようになったのは、大勢の社員の前で何度も話して居る成果だろう。


すっかり社長の顔をして居る。僕などでは到底敵わない。


「ああ。」と返事をして、「行こう。」美和を促した。


玄関で「お邪魔しました。」と美和が言ったので、僕は黙って居た。


「美和ちゃん、体に気を付けて……って私が言うのも変だけど、とにかく元気で。元啓に何か嫌な事されたら私に言いなさい?倒しに行くから!」


「あ、はい……」


まったく、志歩理は、美和が返事に困るような事を言うなよ。


しかしそうなったら、志歩理は本気で僕を倒しに来そうで怖い。


「大丈夫、俺が止めますから。」


泰道は僕らに気を遣ってか、そう言ってくれたのだが、


「そんな権利、あなたにないわ!」と志歩理は泰道を突っ撥ねる。


まるで反抗期の女子中高生のような志歩理の態度。どっちが年上だか分からない。


「はいはい。」と泰道は志歩理の肩を支え、宥める。その姿を微笑まし気に見て居た美和が、


「お二人は私の理想の夫婦です。いつまでもおしあわせに。」と言った。


うんうん、綺麗に纏めてくれたと安心して帰ろうと思った瞬間、


「それじゃあ、次は美和ちゃんね。元啓、結婚式には私達を一番に招待してよね。何なら仲人も頼まれてあげるわ。」とか言い出した。


「えっ、あの私、そういうつもりでは────」


「志歩理、気が早いよ。」


「どこがよ。結婚は勢いも必要よ?それにこの二人なら文句ないじゃない。」


「いや、それはさ、お二人にも考えがあるから……すみません木村さん、美和さん。悪気はないんで許して下さい。」


「何よ、悪気って。いい話なのに悪意がある訳ないでしょう?何を言ってるの、あなたは。」


何だか雲行きが怪しくなって来た。


「気にしないで行って下さい。いつもの事ですから。」と泰道は苦笑いしながら、彼に殴り掛かろうとする志歩理の両手首を掴んで止めて居た。


「それじゃあ、僕らはこれで。今日はお邪魔してすみませんでした。志歩理、また会社で。」と、僕は振り返る美和の背中を押して玄関の外へ出た。


「あっ、ちょっと、元啓─────」バタン。


美和と二人、同じタイミングで、ふぅと息を吐いた後、顔を見合わせた。


「志歩理社長、大丈夫でしょうか?」


美和は志歩理の名を口にすると、丁寧な口調になる事が分かった。癖なんだなと分かる。


「泰道が居るから大丈夫。」


「はい。それで、忘れ物って……」


ああ、そうか。そうだった。"忘れ物"とは、帰る為に吐いた嘘だという事を美和はまだ知らない。


「大した物じゃないから明日でもいいよ。」と誤魔化して、車に戻り、乗り込んで時刻を確認すると18時過ぎだった。


夕飯食べて帰ろうか───どこに寄ろうかと考えて、真っ暗になった空を見ると、さっき志歩理が言って居た事を思い出した。


『夜景の綺麗な場所に連れて行って貰ったらいいわ』


夜景の綺麗な場所とはつまり……いや、いやいやいや、他にも夜景の綺麗な場所はある。


別にホテル高層階の部屋へ行かなくても────と、ハンドルを握ろうとした手が、上着の内ポケットに入れたままの長細い箱に当たった。


そうだ、これ、まだ美和に渡して居ない。


これとは、宝飾店で買った"ホワイトデーのお返し"。


いつ、どこで渡そう。


いつ────今夜だ。


どこで───それが問題だ。どこで、どこでにしたらいい?


夜景って、夜景ってホテルの他にどこで見たら……そうして焦る僕の脳内が真っ白になる中、美和が言った。


「私も会社の中に入っちゃ駄目?」


「会社……えっ?」


「セキュリティー上、部外者立ち入り禁止?」


「いや、別にそれは問題ないけど────」美和が社内機密を知った所で、悪用したりしないだろう。


志歩理だって、美和が社内に立ち入る事を拒んだりしないと思う。


「一緒に、入ってもいいの?」


どきん!


「い、いよ……」


「わーい、やったぁ!元、ううん、社長代理、ありがとう!」


「やめろよ……車、出すよ?」


「はい!」


声を弾ませ、嬉しそうな美和。


誰も居ない会社に立ち寄る事が、そんなに嬉しいのだろうか。






やがて着いた会社の駐車場に車を停め、車から降りるとすっかり寒くなって居た。


四月の東京の寒さはそれ程でもないと思って居たが、夜となると別で、日によって寒暖差もあった。


「今夜は寒いなぁ。」


持って来ていた上着を二人して着込むと、僕は「早く中に入ろう。」と美和を促した。


パチッ、パチッ、廊下の灯かりを点けながら、誰も居ない会社の中を美和と二人で進む。


今朝来た時とはまた違う雰囲気。


ヒタヒタヒタと廊下を歩く。


そんな中、「ちょっと怖い。」と言って、美和が僕の手を握った。


僕よりは少し温かい美和の細い指を軽く握り返し、


「お化けが出るって?虫より見えないお化けが怖いの?」と訊いた。


「虫も苦手だよ?」


「嘘だ。あの家に来た時、平気でムカデ踏み潰してたじゃないか。」


「実は、元が刺されちゃいけないって思って必死だった。」


「そうなの?」


「嫌いになった?」


「何でそうなる?」


「虫くらいで騒ぐ女は嫌いかなと思って。」


「別に……」そんな風に思って、強い人間を装って居たの?僕の為に?


何だか美和がいじらしくて、僕はまた少しだけ強く、美和の手を握った。


"嫌いになった?"だって?


まだ分からない。


この先、僕の知らない美和に出くわした時、僕は美和を"嫌い"になるだろうか?


「まだ分からない。」


「え?何?聞こえなかった。」


「何でもない。独り言。」


「元も独り言、言うの?」


「言うよ。」


美和にもまだ美和の知らない僕が居る。


その僕と初めて出逢う時、美和は僕を好きになれるかな?


人には色々な顔がある。


恋人同士だからと言って、相手のすべての顔を好きかと訊かれたら、必ずしも"すべて"とは言えないだろう。


僕にも美和にもお互いの"嫌いな顔"がある筈だ。


お互い様、そう思えなくなった時、相手のその顔を許せなくなってしまうのだろう。


完璧なんてある方が稀で、でもそれはきっと窮屈で脆い気もする。


完璧ではない方がいいと言う人は、そういう風に考えて居るからかなとも思う。


【社長室】


扉の横の機械にカードを翳すと、ピッ、ピーッと高い音がして鍵が開く。


厳重にするのは貴重品の為ではなく人の為。


金庫には会社の通帳や現金が確かに入って居るが、それを盗まれたって会社は傾かない。


怖いのは"人"だと言う。


突然社外の人間が侵入して、社員及び志歩理に危害を加えたら……と特に泰道が心配して居た。


志歩理も可能性はゼロではないと、セキュリティー強化の為の設備投資を検討して居る。


彼女にとって大切なのは社員の命だそうだから。


人は裏切る、だけど志歩理は裏切られたとしても、裏切ろうとはしない。相手を信じて、騙されても騙し返すような事はしない。


そのせいか、不思議と志歩理の周りに悪い人間は寄り付かなくなった。


「元、あのね───」そう言った美和と視線が交わった時、


ブブッとポケットの中のスマートフォンが震えた。


取り出して画面を確認する。志歩理からメールだ。何だろう?と開いて見ると……


【プロポーズするのはいいけれど、社長室で変な事しないでね!早くホテルに移動しなさい!】


「はあーっ?!」


思わず大きな声が出た。


気付いた美和が、「どうしたの?」と僕の手にするスマートフォンの画面を覗き込む。


慌てて僕は画面を胸に押し当てながら、「何でもない。業務連絡。ここに居て。ちょっと電話して来る。」と、廊下へ出た。


志歩理に発信しながら男子トイレへと急ぐ。


個室に入り、鍵を掛けた。ここなら美和は入って来られない。


トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル……まったく、志歩理は僕が美和に対して"変な事"をするとでも思って居るのか?


心外だ。


『もしもし?』なぁに?と言って居るように聞こえる。


"もしもし?じゃないよ。何なの?このメールは?"と言いたい所をグッと堪え、


「何か用?」と穏やかな声で訊いた……つもりだった。


『あら、怒ってる?邪魔したかしら?』


「邪魔って何の事?」


『そんなに怒らないでよ』


「怒ってないよ。」


『嘘!……イイトコロだった?ごめんなさいね?』


「だから、さっきから何?何が言いたいの?」


『あなた達の事は応援したいけれど、会社で"いかがわしい事"はしないでって言いたいだけ』


「安心して。志歩理が想像して居るような事はしないから。」


『私が想像して居るような事って?』ニヤけた声で訊き返す志歩理に愛想が尽きた。


「もう切るよ。」溜め息交じりに言うと、


『しょうがないじゃない。あなた達の事を考えて居る時にセキュリティーメールが届いたんだから。気になっちゃうでしょう?』


「"セキュリティーメール?"」


『業務時間外に開錠されると私のスマホに届くのよ、セキュリティーが解除されたっていう通知がね』


「へぇ、そうなの?」


『そうよ。滞在時間も出るんだから。忘れ物持ったら、すぐに出てよね。あとはホテルでゆっくりしなさい!』


「だからさっきから何なの?そのホテルって……」


『ホテルはホテルよ。あなたも大人なんだから分かるでしょう?』


嫌な言い方をするなあ。


「ホテルとは宿泊施設だね。ああ、そろそろ夕飯食べろって事?」


僕はわざとはぐらかした。


すると志歩理は更に続ける。


『それもそうだけど違うわよ。あのねぇ、元啓。親友として言わせて貰うけどね、女は金品貰ったくらいじゃ満足しないんだから。言葉だけでも駄目。態度で示して!』


「態度って、どんな?」それは知りたい。僕の今までの相手は皆男性。男心は想像出来ても女心は永遠に分かりそうにない。


『そんなの自分で考えて、と言いたい所だけど、今日のお見舞いに免じて特別に教えてあげるわ』


付き合いの長い僕だからこそ、ムッとせずに聞けるけれど、と思った時点で少しムッとして居るのかな。


「それはどうも。」と言うと、


『あなたの場合、強引さが足りないわ。少し乱暴なくらい、グイグイ押しなさい。あ、くれぐれも社長室ではやめてね?』


「グイグイ押すって何?」


『積極的になってって意味よ。美和ちゃん、内心焦れてるでしょうね。あなた、迫るタイプじゃないものね。と言うか、昔から年上に甘えたいタイプじゃないの。美和ちゃんは年下、しかも女の子。だから男で年上のあなたがリードしてあげないとね!』


「グイグイ押す=リードになるの?」


『いえ、それはあなたが上手にやって頂戴。とにかく、社長室では駄目だけど、迫ってあげないのも駄目!』


"迫ってあげないのも駄目"って、何それ…………志歩理の妄想に付き合って居られない。


「それじゃあ、もう会社出るから。」


頼まれたって長居したくない。"変"な想像をして居るのは僕じゃない。志歩理じゃないか。


入退室時刻を知られて、後であれこれ詮索されるのもつまらない。


即刻退散しよう。


『頑張ってね!』


何がだよ、と思いつつ


「ああ、それじゃあ!」と電話を終わらせた。


折角だからと用を足してトイレを後にした僕は、社長室へ急いだ。


「ごめん、お待たせ。」


しかし、中へ入ると美和は居なかった。


どこかに隠れて居るのかと、机の下やキャビネットの中を覗いて見たりしたが居ない。


まさか、中々戻らない僕を心配して社長室を出たのか?


よもや男子トイレに居たとは考えて居なかっただろう。


僕は社長室を出て、隣の部屋を覗いた。灯かりは消えて居る上、セキュリティーも掛かったままだった。カードキーを持って居るのは僕だけだから、他の部屋に入るのは難しい。


エレベーターも動いた形跡はないから、美和はまだこの階に居ると思う。


となると、女子トイレの中に居る可能性が高い。


その前で僕はしばし待ったが……美和は中々出て来ない。


人けのない会社の廊下は思ったより冷え込んだ。くしゃん、くしゃみを一つした所で、「美和、美和ーっ!」僕らの他に誰も居ないから、叫んでも恥ずかしくない。


カツン、コツン……


暗く冷たい空気の中を響くのは、僕の足音しかない。


世界で一人ぼっちになってしまったような感覚に陥る。


わーさんだけじゃなく、美和まで僕の傍から居なくなる怖さに襲われ────吐き気がした。


「美和っ……!」


思い切り叫んだ。


すると、


ドン、ドンドン、ドンドン、と鈍い音が響いた。


鉄扉を叩く音。廊下の突き当たりの扉、緑に光る非常口のライト……ドン、ドンドン!


まさか?


と思いながら、灰色の扉に駆け寄り、ノブを捻ってドアを押す。


「あっ!」


扉の隙間から美和の声がした。


完全に開いた所で、ようやく美和の姿を確認出来て、僕はホッとするのかと思ったのに、意外にも湧き出た感情は違うものだった。


「馬鹿っ!こんな所で何やってるんだ!」


思わず怒鳴ってしまった。


「ごめんなさい……元を探しにここに出たら、扉が閉まって開かなくなって……」


非常口の構造は僕も詳しく知らないが、おそらくここの非常口は、一旦外に出てしまったら、外からは開かなくなる構造だったのだろう。


「戻ろう。」


「ごめんなさい。」


引っ張った美和の手は冷たくなっていた。全体的に赤いのは、冷たさと、それからドアを叩いた事によるものかもしれないと思えた。


「どこに居たの?」


「ああ……ちょっとね。」


怒鳴った手前、トイレの中で電話して居たとは恰好付かず、言い出せなかった。


「私も、心配したの。ごめんなさい。」


「それは、悪かった。」


すると美和は、繋いで居た手を解いた。


えっ?怒った?


振り向くと「ちょっと、お手洗い行ってもいい?」と美和は女子トイレの近くで言った。


「ああ、うん。社長室片付けて来る。」


美和は女子トイレ、僕は社長室へそれぞれ向かい、再び廊下で落ち合った時はお互い無言で、視線も合わせず、何だか気まずいって程気まずくは無かったけれど、何を話したら良いのか分からなくなって居た。


どうしてこうなったんだっけ?


この後、どうするつもりだったんだっけ?


会社を出て、駐車場に停めた車の中、エンジンを掛け、ハンドルを握りながら考えた。


ええと……確か"夜景"だったな。


ホテル?いやいや、海?いや、ええとええと……


考えれば考える程、頭の中は真っ白になって行く。


そうだ、美和本人に訊いてみよう。


「これからどうす────」ブーッブーッブーッ、美和の膝上のバッグから振動音が聞こえて来た。


そのバッグから取り出したスマートフォンの画面を見て「あ、お母さん。」と美和は一瞬僕と視線を合わせ、電話に出た。


「はい、もしもし。あ、はい。今は会社の駐車場です。はいそうです。はい、はい。これから帰ります。はい、それじゃあ。」


え?"これから帰ります"?


スマートフォンを膝の上のバッグにしまった美和は、「お母さん、元が帰って来るの待って居るみたい。」とにっこり微笑んだ。


えっ、母さん?


今日に限って"待ってる"だって?そして何故、僕ではなく美和に電話をしたんだ?


これからどこか、美和を夜景の見える所へ連れて行って、それで、これを渡さなくてはならないというのに。


上着の胸ポケット、気に入って貰えるかどうか分からない贈り物。


「でも、美和、このまま帰っていいの?夜景を見に行かなくてもいいの?」


「夜景?あ、夜景ならさっき非常階段の上から見えたよ。遠くに明かりがいっぱい見えて、また東京に来たんだなぁって思えた。」


「それで……夜景はもういいの?」


「うん。」


なんて欲のない。


「帰ろう?」


「分かった。」


志歩理みたいに高級ホテルの最上階の部屋から夜景を眺めたいとか、美和は思わないのかな?うーん。


さっき見た写真の中の美和は、僕の苦手な、ごく普通の女性に見えた。


まさかだけど、僕の好みを意識して、それに合わせようとして居るとか?


それだったら、本来の美和じゃない事になる。僕が好きになった美和は作られた美和という事になる。


実家に向かう中、助手席の窓の外を眺める美和に訊いた。


「どこか行きたい所とかなかったの?」


「あったよ。」


「どこ?」


「会社と志歩理社長のおうち。」


「他に。」


「他には無いよ。」


「遠慮しないでいいよ。明日、昼までならどこか行けるよね?」


「ううん。もういいの。」と美和は首を横に振った。


もういいって、何それ。母さんとは出掛けて、僕とは出掛けたくないって?


口を開いたら、そんな不満が飛び出しそうで、唇を強く引き結んだ。


夜景が見えて、二人きりになれる場所で、用意したこれを渡すという僕の計画は、美和の一言で無に帰した。


僕は一人で思い上がって居たのかもしれない。


"誰の事も好きになれない"と言って居た美和。


それでも僕を"好き"になり、"結婚して下さい"と求婚してくれたけれど、"結婚したい"="好き"とは限らない。


あの家で暮らし続けるには、結婚した方が"簡単"或いは"妥当"?


美和が打算的な女だとは思って居ないが、打算以外、僕が選ばれる理由が分からない。


美和は、最初に僕の見た目を"好き"になったと言った。


中身を知って好きになった訳ではない。


いや、最初から中身を知って居れば、僕の事など好きになる筈がない。


齢の差なんて感じないと思って居たけれど、それは僕の思い違いで、実はあるんだ。


"結婚"についての価値観が多分、美和と僕では違うんだ。


僕が一生する事ないと考えて居た"結婚"。


わーさんと"結婚"出来なくても、一生傍に居る誓いを立てた。


僕にとって"結婚"とは、式を挙げる事や入籍する事ではない。


けれど多くの人にとっての"結婚"は、そういう事の方が大切であったりする。


美和もそういう考えだったら、僕は美和と"結婚"しない方がいいのではないかと思えた。


するとまた一つ、美和と進める未来への道が閉ざされた気がした。


カサッ、ふと気付いた胸ポケットの中の包みが、とても軽く感じられた。まるで空っぽになったかのように。


意味のない贈り物になるかもしれない。いや、ただのホワイトデーのお返しと思えばそれでいいのだけど。


僕は期待し過ぎて居たんだ。一人ではなくなるかもしれない未来に。


心の中の孤独が居なくなる日を待って居たんだ。


しかし、それは間違って居た。


たとえ"結婚"したからといって、永遠に孤独にならない保証なんて、どこの誰がしてくれる訳でも無い。


人は孤独からは逃れられない、死ぬまで。そう、永遠の愛より沢山あるのは、死ぬ瞬間までの孤独────心の中にある寂しさは、愛する人と一緒に居たって、完全に消えてはくれないって事、今思い出した。


わーさんと暮らす間も、寂しさはあった。


美和ともきっとそう。相手が誰であっても、僕の心の中から寂しさは完全は消えてくれないんだ。





「元、元?どうしたの?着いたよ?」


肩を揺さぶられて気付いた。


家の近くの契約駐車場。いつの間にか着いて居た。どうやってここまで帰って来たのか憶えて居ない。


「疲れちゃった?」


美和は僕の肩に触れ、そして顔を覗き込んだ。


美和は僕を心配してくれて居るのだろうと思うが、何故か素直にそう認めたくなかった。


本当は、僕の事なんてどうでもいいのではないか、なんて穿った見方をしてしまうのは、拗ねて居るからではない。


家に戻ると、台所で僕らを待って居たのは父だけだった。


「ただいま、母さんは?」


「疲れたって、さっき寝たよ。食事、まだなんだろ?何にする?」


そう言って父は総菜のパックをテーブルに並べた。


「食べてないの?」さっきと量が変わってない気がした。


「食べたさ。でも余ったんだ。」


「母さんも食べた?」


「少しな。」


「食欲無いって?」


「いや、昼間食べ過ぎたんだと。」


「熱とか無い?」


「ああ、平気だ。」


「そう……」なあんだ、と思いながら、だったら何故、僕らの帰りを待って居るというような電話を美和に寄越したのだろうと少し恨めしくなる。


「お父さん、私がやります。」


「ああ、うん。じゃあ美和ちゃんにお任せしようかな。」


「はい。」


「美和、先に着替えよう。父さん、後はやるからいいよ、休んで。」


「分かった。」父さんは寝室へ行った。


僕らも二階へ上がり、着替える為、それぞれの部屋へ入った。


上着を脱ごうとすると、内ポケットの包みが引っ掛かり、僕はそれを机の上に置いた。


もし母から電話が無かったら今頃、これを渡して────なんて、僕がただ美和にプロポーズ出来なくなった言い訳を母からの電話のせいにしようとして居る。


それは母さんのせいではない。美和のせいでもない。


ただ僕自身に魅力が無かったというだけなんだ。人として、男としても。


結婚なんて無理だ。そうだ。あんなに大好きだったわーさんとだって、もし男同士結婚が認められていたとしても、結婚出来なかったかもしれない。


僕が『結婚して下さい』と申し込んだとしても、わーさんが『いや、俺はただ一緒に居たいだけで結婚までは考えてない』と言われて居たかもしれない。


嫌いだから、ではない。どちらの責任が大きいかと考えた方が、結婚に対して尻込みすると思う。


わーさんと僕だったらわーさん。


美和と僕だったら僕。


単純に、年上という観点から見なくてもそうなる。美和と僕なら僕の方が責任は重い。


お互いの気持ちが確かだとしても、"結婚"を"制度"として考えてしまうと冷静になれる。


仮にゆうべのプロポーズ通り、美和に押し切られて"結婚"する形になったとして、僕はそれでいいけれど、後々美和に弊害が生じるのではないかと思う。


現実問題、僕の両親はおそらく、美和と結婚する事に反対しないだろう。しかし美和の両親は、20歳も年上の僕との結婚を快く受け入れはしないだろう。


そして、美和自身、あと20年もすればじじいになった僕との結婚生活に嫌気が差して『結婚するんじゃなかった』と言う可能性が、美和と同年代の男より高くなる……と思う。


浮気される前に別れたいと思う派の僕は、結婚には向かないのかもしれない。


僕の"結婚"願望は、どんどん萎れて行った。


志歩理の言うように、夜景の見えるホテルで食事でもして居たら、これを渡した勢いに任せて美和に"結婚"を申し込んで居たかもしれない。


そうならなくて良かったんだ、と一人着替える間、冷めて行く気持ちに向き合えた。


溜め息を吐き出して僕は、ダイニングへ向かった。


そこにはすでに着替えてエプロンを付けた美和が、まるで僕の嫁であるかのようにキッチンに立って居た。


本当に美和の心があったなら、こうなってもいいとは思うけれど。


いや、これは夢だ。いずれ消え去る夢に過ぎない。


僕が結婚して離婚したら、それこそ親不孝。


このままでいい。このまましばらく、美和が僕に飽きてあの家を出て行くまでの辛抱だ。


「元、手は洗った?」


「あ、いや、まだ。」


「じゃあ、ここで。」と美和はキッチンへ僕を促した。


並んで立つと腕がぶつかる。僕より背の低い美和を見下ろすように視線がぶつかると、美和がふふっと笑って、瞬間、僕は一人じゃないと、この場が急に暖かくなったように感じる。


しかし、一人になる。いつか一人になる。その時、次の恋を見つける自信が今の僕にはもう無い。


最後の恋にしなければいいと分かって居ても、それでも、今の僕には美和とわーさんを超える人を簡単に見つけられるとはどうしても考えられず……


ザーザー、キュッ。


バサッ、ゴシゴシ。


ハッとして見ると、美和が僕の両手をタオルで包んで拭いて居る所だった。


「元、疲れちゃった?」美和はタオルで包んだ僕の手に視線を落としたまま訊いた。


「疲れ……」疲れてないよ、と普段なら言っただろうけれど、気力の無くなった僕は「……た。」と答えて居た。


「そうだよね、疲れたよね。」美和は肯定した。また園児になった気分だ。


『うん、せんせい、ぼくつかれたよー』なんて甘えられたらなあ、と考えた途端、恥ずかしくなった。


情けない、自分がこれ程までに愚かだったとは。


「先に座ってて。今、運ぶから。」


「いいよ、僕も手伝う。」


「本当に運ぶだけだから大丈夫。コーヒー飲む?」


眠れなくなるかな。いや、今夜はもう眠れそうにないから飲んでも飲まなくても変わらないか。


だったら、酒の方がいいな。何も考えずに眠れるかもしれない。


「酒にしようかな。ワインどこかにあったかも。」


「ああ、それならお母さんがさっきワイン買って、冷やしてあるよ?」


美和が冷蔵庫からスパークリングワインを持って来た。


僕はグラスを二つ取り、美和に「飲む?」と訊いた。


「飲む。」と言ったのは意外だったが、そう言えばいつも美和は僕の誘いを断らない。


僕の事が好きだから?それはいつまで?


10年も暮らしたら、僕には素直に同意しなくなるかも……なんて、僕は妹夫婦を思い浮かべてしまった。


初々しかった二人も、今ではハァと大きな溜め息で誤魔化したくなってしまうような二人となった。


結婚して年月を経ると、誰しもそうなるのかと思うとまた憂鬱になる。


何だか"結婚"を意識した途端、マイナスイメージしか湧いて来ない。


向かい合った椅子に美和が腰を下ろすと、「乾杯しよう?」と言った。


ただ「うん」と返事をした僕は、栓を開け、美和のグラスにワインを注いだ。


自分のグラスに注ぐ時に、「私が」と出された美和の手を「いいよ」と断った。


美和は少し残念そうな顔を見せたけど、すぐにグラスを取り、僕のグラスへと近付けた。


乾杯なんて気分じゃなかった。


夜景とかプレゼントとかプロポーズとか、考えて居た事全部が駄目になって、やはり少しはガッカリして居るのかもしれない。


だけどこれで良かったんだ。僕の口から"結婚"なんて言い出さなくて、良かった…………


それから何杯飲んだか、とにかく気付くとワインボトルは空になって居た。


「ふわぁ……眠い。」


「あっ、ちょっと、元─────」


ふわふわする。


火照った体から徐々に熱が抜けて行く。





『ほら、元。こんな所で寝るなよ。立てるか?』


────ああ、わーさん。だって疲れたんだよ。肩貸して。


『また甘えて。しょうがないなあ。よいしょっと』


────僕だってたまには甘えたい。


『いつもじゃないか。ほら、足元気を付けて』


────そうだね、僕はいつも甘えてるね。


『ははっ、そうでもないさ。ほい、布団。横になって』


────どっち?本当は僕が甘えない方がいいんでしょう?


『いや?甘えたい時に甘えさせてやれるのが俺の特権だから』


────じゃあ、僕が他の人に甘えたら?


『甘えられるものなら、甘えてごらん?』


────僕がわーさん以外の人に甘えても怒らない?


『本気なら怒らない』


────本気なら、って?


『その人を愛してるなら、いいよ』


────愛って何?甘える事?甘えさせる事?


『その人としたいと思える事、全部が"愛"だよ』


────じゃあ、例えばその人を苦しめる事も?


『うん、多分ね』


────そんなの"愛"って言わないよ。



『俺は苦しくても、元と一緒なら乗り越えられたよ。元は?』


────僕は、僕は…………


『人生の苦しみも悲しみも、愛する人と一緒だから乗り越えられるんだよ』


────じゃあ、その人を失ったらどうすればいい?


『それは難しい質問だな』


────失くすのを分かってて手に入れようとするのは間違ってるでしょう?


『…………』


わーさんは答えてくれなかった。


困ったような笑顔で、僕をそっと抱き締めた。


────もうさ、いっそそっちに行きたいよ。


「駄目。」


────えっ?


今の、わーさんの声じゃなかった。


目の前にある顔を確かめようと目を開くのに、ぼんやりして、よく見えない。


「駄目って、なんで?」掠れた僕の声が聞こえた。


「私に甘えていいから。うんとうんと甘えていいから。お願い、ここに居て!」


耳に届いた美和の声で、僕はハッと我に返った。


「美和……僕────」


「元、辛かったんだね、疲れちゃったんだね。ごめんね、私ずっと何もしてあげられなくて。」


布団の上に横たわる僕の濡れた目を指で拭いながら、美和はボロボロ涙を零した。


僕の涙より、自分の涙を拭ったらいいのに。


僕の上に影を落とす美和の目から、ぽつ、ぽつと、しずくが落ちる。


僕はそれを頬で受けながら、美和の濡れた頬に手を伸ばした。


「ごめん、ごめんね!」


美和が僕の頬を濡らした事に気付き、慌てて僕の頬を袖口で擦った。


「いいよ、僕こそ色々ごめん。」


布団の上に仰向けで眺めるのは、二階の僕の部屋の天井。


ダイニングテーブルで酔い潰れた僕を、美和はここまで運んでくれたのだろう。布団まで用意して。


寝惚けた僕は、美和をわーさんだと勘違いして甘えたんだな。


恥ずかしくって、本当にそっちに行きたいよ、わーさん。


「あー……情けない。」


本当に、美和にプロポーズしなくて良かったと思った。


もういい、こんなみっともない自分をこの先美和に見せ続けてまで生きたくないと思った。


あの家に帰ったらもう、同居は解消しよう。


寂しくたっていい。無様な姿を見せ続けて幻滅され、いつかを迎えるのを待つ位なら、いっそ今、別れた方がいい。


「お水、持って来る?」


「いや、いい……自分で────」ふらりと立ち上がると、ヨロヨロヨロ、足に力が入らなかった。


そのままよろけた僕は、部屋の壁に頭をゴンと思い切り─────ぶつけたのは、僕の体と壁の間に入った美和の方だった。


「いたた!」


「美和!何やってんだ!」


びっくりして、思わず大きな声が出た。


「元は大丈夫?どこもぶつけてない?」


そう言って僕の肩を撫でる美和。


「な……んで、なんでそうなの?美和もわーさんも。僕の事なんて心配しなくていいんだよ!」


「心配じゃないよ、愛して居るんだよ。」


僕の肩を撫でて居た美和の手は、いつの間にか僕の頭に移って居た。


「違う、こんなの愛じゃないよ。美和は誤解して居るんだよ。ただ僕が、先にわーさんに死なれて可哀相になっただけなんだよ。」


「違うよ、愛してるよ。元の事、愛してる。」


「嘘だ。嘘だよ。じゃあ、何?愛って何?」


「それは────」


ほら、答えられないじゃないか。僕を愛して居ないからだ。


美和はきっと多分誰も愛した事が無いから、簡単に"愛してる"なんて言えるんだ。


「もういいよ、もう────」


「私の愛は、一生、元の傍に居る事だよ。」


「えっ……?」


「私が元の傍に居る。好かれてなくても迷惑でも、一生。そう決めてあの日、あの家に行ったの。」


「何を言って…………」


「元から離れる日は、私が死ぬ日。今でもそう思ってる。」


「"死ぬ"って、嫌だよ、そんな、美和が"死ぬ"なんて、簡単に言うなよ!」


「簡単に言ってる訳じゃないよ。私だって生き物だもん。いずれ死ぬよ。」


「嫌だ、嫌だっ!若いくせに僕より先に死ぬなんて許されない。」


僕は目の前の美和の体を強く強く抱き締めてしまう。


「はいはい。」


美和はそんな僕の背に腕を回し、背中をポンポンと宥めた。


駄目だ駄目だ駄目だ、絶対。


美和が僕より先に死ぬなんて絶対駄目だ!


「大丈夫だよ。死ぬなんて"そうそうない"から。」


「"そうそうない"って、何で……絶対って言ってよ。」


「"絶対"はいくら何でも無理。"そうそうない"だよ。」


美和に押し切られ、むーっと剥れた僕は、美和の頬を両手で包み、睨んだ。


耐え兼ねたようにふっと吹き出した美和。


僕は両手を美和の背中に回し、そのまま美和の肩に顎を乗せた。


好きなのに、僕はこんなに美和を欲しいと思って居るのに、美和は違うから、そうやって"死ぬ"とか簡単に口に出来るんだよ。


美和を強く抱き締める僕のムカムカはまだ治まらなくて、多分、美和は痛いだろうと思いつつも、この両腕の力を緩められなかった。


反対に美和は力を抜いて居るのか、その体は僕の動きに合わせてユラユラ揺れた。


美和の言う"愛"が何か、僕には分からないまま。


だけど僕はこのまま、温かい美和の体をずっと離したくないと思うようになってしまった。


ただ、これでは都合が良過ぎると我に返り「ごめん。」と美和の体を離した僕は一人、部屋を出た。


トントントン、階段を下りた。トイレで用を足すと、洗面台へ向かい手を洗った後、そのまま両手で掬った水をバシャバシャと顔面に叩き付けた。


ダサい、恰好悪い、拗ねて、卑屈で、子どもっぽい、最低最悪。


恥ずかしさから、考え付く限りの悪言を並べ立ててみたけれど、そんな事では、僕の気持ちは一向に治まらなかった。


情けない。何やってんだ、大人のくせに。


ふわぁ……瞼が重く、欠伸も止まらない。そうだ、今日は疲れた。もう寝てしまおう。


それで明日の昼、美和をあの家まで送って行く。


夜までに僕はこっちに戻って来て、しばらくの間連絡を絶てば、美和も僕の事なんか構わなくなるだろう。


忘れられた頃にあの家に戻り、美和には新たな家を探してそこへ移って貰おう。


僕は一人、あの家で夏を迎え、わーさんの想い出と生きて死のう。


それでいいよね、わーさん。そうしたらもう、あんな果ての無い寂しさに襲われる事も二度と無い。


しかし本当に無様だな。いざとなれば怖くなるなんて。


だけどね、この恐ろしさは、愛する人を喪った事のある人間にしか分からないんだよ。


どれだけの痛みかなんて人に話せない位、本当に起き上がれもしなくなる位のダメージ。


見えないその傷口から実際に血が溢れたら、二十分と持たないだろうと思える程の。


たった数年、寂しさを紛らわす為に美和と結婚しようと考えるのは愚かな事だ。


そうだ、良かった。解決した。


こぶしを握り締めながら、暗い階段をゆっくり上がる。


僕の一生には、"愛"も"結婚"も無くていい。


失いたくないなら、手に入れなければいい。


あの家に戻ったら、夏を迎える前に美和に言おう。


『さようなら』と…………





僕が一階から二階の部屋に戻ると、美和の姿はすでに無かった。


妹の部屋に戻ったんだ。そうだよな……さっき、あれ程乱暴に抱き締めたのだから。


ほっとしたような、少し悲しいような、複雑な気持ちだった。


もういい、寝よう。疲れた。何だか散々な一日になってしまった。


いい事ないな……


着替えた後、灯かりを消して布団に潜り込んだ。


あー、眠い。


ふあーっと大きな欠伸をし、ゴロンと寝返りを打つと、


ふにゃっ?


膝が、何か柔らかなものに触れた。


ん?何だこれは?


手を伸ばして掴んで見ると「きゃっ!」美和の声がして、びっくりした僕は飛び起きて灯かりを点けた。


「え、え、え?」


灯かりの下、布団の上に身を起こして居たのは。パジャマ姿の美和だった。


「元、急にお腹掴むからびっくりした。」


「びっくりしたのはこっちだよ。何故僕の布団の中に居たの?」


「だって……」


「だってじゃないよ。てっきり隣の部屋で寝たのかと思ってたから。」


「だって元が寂し……ううん、私が寂しかったから。」


「えっ?」


「枕と掛布団持って来たの。ここで一緒に寝てもいい?」


よく見ると、僕のとは柄の違う掛布団と枕があった。しかし敷布団は二組敷けないから一つしか無いまま。


「狭いから。」


「嫌?」


「嫌とかじゃなくて、敷布団一枚では足りないから。」


「私は平気、どこでも寝れるから。」


「そういう事じゃなくて……くしゅん!あー……」暖房点けていないから冷える。


「元、早くこっちに来て。」


美和に促され、僕は布団に潜る事になった。


美和は僕の枕の隣に枕を並べ、出て行く気配は感じられない。


あの家で毎晩一緒に寝て居た時より近い。


物凄く近い。顔に吐息が掛かる程。


ハッとして、美和から顔を背けた。


「どうしたの?」


「いや別に。」


「こっち向いて、元。」


「寝よう。灯かり消すよ。」


パチッ。再び灯かりを消して布団に潜った僕は、美和に背を向けた。


「こっち、向いて。」


「…………」


「ねえ、元。お願い。」


「嫌だよ。酒臭い。」


「あ……私?そんなにお酒臭い?」


「違う、僕の方が沢山飲んだ。」


「私も飲んだよ?だから平気。こっち向いて。」


それでも向かない僕の背中に、美和がくっ付いた。


そして言った。


「ここが、世界で一番、私の好きな場所。」


えっ?ここが"世界で一番好きな場所"?


僕は閉じて居た瞼を開いて部屋の中を見回した。


現在物置になって居る、かつての僕の部屋。広くは無いし、勿論新しくも無い。


美和が好きなのは、あの家じゃなかったの?まあ、あの家の方がこの部屋よりもっと古くて崩れそうではあるけれど。


何だか裏切られた気分になった僕は、一体どういう事なのか確かめるべく美和の方を向いた。


「ここが一番なんて冗談やめて、ちゃんと行きたい場所教えないと怒るから。ここじゃないよね?どこ?正直に言って。」


意地になって居る訳では無い。こんな何もない部屋が一番と言われるのは納得行かないから。


「じゃあ、教えたら、元が連れて行ってくれるの?」


「いいよ。どこ?」


「それじゃあ言うから、目を瞑って。そう……それで腕をこう開いて。」


「何故腕を?」


「いいから!はい、目を瞑って。」


「……瞑ったよ?」


言われた通りにしたのに、行きたい場所を中々教えてくれない美和に、とうとう痺れを切らした僕が、


「何?どこ?」と目を開けた瞬間、どしんと、美和の頭が僕の胸にぶつかった。


えっ?また……この体勢。


「美和の行きたい場所ってどこ?」


「ここ。ここだよ。私が世界で一番行きたい場所。」


「ここって、だからどうして僕の部屋なの?」


「違う。元のお部屋じゃなくて……元の腕の中!」


きゃあ、と恥ずかしそうに燥いで僕の胸に顔を埋める美和を見て、僕の頬もまた熱くなってしまった。


何だこれ。夢?


「ここに、ずっと居たいな。」


胸に近いせいなのか、美和の言葉が胸に響いた。


トクン、トクン……熱い、胸も耳も熱い。


"ずっと"は無理、だけど「居ればいい。」と言うと、


「嬉しいな。」と美和は僕の胸に縋ったまま離れずに────


トクントクンと鳴る僕の胸の音が、だんだん大きくなってしまって居る事に、美和は気付いただろうか。


ああ、夢なのかな……でも現実なら、もしも美和が、ずっと僕の傍に居る事を望むなら、僕があの家に戻っても美和を追い出すのをやめて、二人で一緒に暮らして行けるのかもしれない……という淡い期待が頭を掠める。


だけど……




「明日、帰るね。」美和の声が僕の胸に冷たく刺さった。




ほら、その程度なんだ。美和にとっての"好きな場所"とは。僕ばかりが美和と離れたくないと強く願ってしまうんだ。


僕ら二人の間には、初めから"もしかして"の"未来"は無かったんだ。そうなんだよ─────


「うん。そろそろ寝よう。」


ほんの数分も無かった。そうして、腕の中に居る美和の背中を、僕が撫でて居たのは。


「おやすみなさい。」


「うん、おやすみ。」


灯かりを消して潜った布団の中、僕は美和に背を向けた。


これでもう最後かもしれない。美和に"おやすみ"を言って、一緒の部屋で眠るのは。


二人で潜った布団の中が、さほど温かく感じられないのは、僕の心が冷めきって居るからだろう。


美和との心の距離は、実際の距離よりも遠く離れて居る事に、やっと気付いた。


わーさんと別れた日に似た寂しさが、僕の胸を埋め尽くす。


罰かな、罰なのかな、これは。わーさん以外の人と暮らした罰。


涙が込み上げ、美和に向けた背中が震えた。


ああ─────ぐすっ、小さく洟を啜った時、


「寒いの?元。」僕の異変に気付いてしまったらしい美和が、


僕の背中をゆっくり摩った。


「や……やめてくれないか、もう。疲れてるんだ。一人にして欲しい。」


「あっ……ごめんなさい。」


美和は手を引っ込めた。


コチコチコチコチコチ、と時を刻む音が耳を打つ中、


「隣の部屋に戻って。」と美和に突き付けた。


「えっ?」美和は驚いた声を上げた後、


もそもそと掛布団を丸め、隣に置いた枕も回収し、


「ごめんね、疲れてるの気付かないでお邪魔しちゃって。おやすみなさい。」


努めて明るく言ったのだろうと分かって、少し罪悪感を持ったけれど、でも、


「……おやすみ。」と僕が低く放つと、


「…………」美和は無言のまま、僕の部屋から出て行った。


胸の中をザクザクと刃物で切り付けたような気分だった。


美和もそうだったかな……突然、こんな突き放し方ないよな。


でもこれで目が醒めただろう。僕を"好き"と言って居たのは勘違いだと。


僕が本当はやさしくない人間だって分かれば、美和が思い込んだ僕のイメージも壊してくれるだろう。


これで良かったんだ。


ぎゅっと握る枕がどんどん湿って行く。


「は……っ……!」


嗚咽が止まらない。声を殺して泣いた。


僕は馬鹿だ。生まれつきゲイなのに、女性を愛せる筈が無かったのに、寂しさを埋められて、それで"好き"になったように錯覚して……だけどそれは本物の"恋"でも"愛"でもなく、まだ何か分からないままモヤモヤして居る。



美和もそう。人を"好き"になった事のない彼女は、僕の見た目に惹かれ、"好き"だと思い込んで、その感情に囚われ、今までずるずる一緒に暮らしてしまっただけなんだ。



今はお互い居心地が良かったのかもしれない。でもこの先、それが続く保証は皆無だ。



これ以上、傍に居たら、お互い駄目になる。勘違いしたままの感情に囚われて、二人共あの家から抜け出せなくなる。



僕だけでいい。寂しいあの家に残されるのは。美和は自由に、僕以外の人間とちゃんとした"愛"を育めばいい。




酷い僕の事は忘れていいよ。


僕も忘れるから───────




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