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そうそうない  作者: 碧井 漪
37/43

37 2016年4月1日のこと

『いってらっしゃい。元が帰って来るのを待ってるからね』


そう言って、裸の美和は同じく裸で布団に包まる僕の胸に頬を寄せた。


気怠く満ち足りた体で僕は美和の細い体を抱き寄せ、『うん』とその耳元で囁き、耳朶を食んだ。


温い体温をまだもう少しの間こうして交換して居たかったが、『そろそろ行くよ』と決心して美和を離した。


『いってらっしゃい──────あのね、元……』


シャツを着ようとする僕の背中に縋った美和は、『もう一回だけ、して?』とねだった。


驚いて振り向いた僕が目にしたのは、泣くのを堪えて居るのか、目も頬も、耳まで真っ赤にした美和の顔だった。


美和も寂しがって居るのが分かって、僕の感じる寂しさが半分になった気がした。


『美和からしてよ』と、僕が言うと、


『いいよ』と返事をした美和が僕の上に跨って───────





…………違う!


そこで僕はハッと目を開けた。


─────これは全部夢だ。あの日、向こうを発った時の。


今、僕は東京の実家の自分の部屋の布団の中で目を醒ました所。


あれから美和の夢は何度か見た。


メールは毎日、電話は週末の夜だけ。


夢は数日置きに見るが、今朝のように事実と異なる夢では無かった。


「はぁー……欲求不満か?そういう齢でも無いのに。」


額に手を当て、溜め息を吐きながら、あの日の事を思い出した。






────「いってらっしゃい。元が帰って来るのを待ってるからね。」


勝手口の手前、抱き締める僕の腕の中で顔を上げ、目尻に涙を浮かべた笑顔で言う美和の顔をまともに見られなくなった僕は、顔を見られまいと美和の耳元に口を近付け囁いた。


「うん。」


温い体温をまだもう少しの間、こうして交換して居たかったが、


「そろそろ行くよ」と決心して美和を離した。


「いってらっしゃい──────あのね、元……」


靴を履こうとする僕の背中に縋った美和は、


「もう一回だけ、して?」とねだった。


驚いて振り向いた僕が目にしたのは、泣くのを堪えて居るのか、目も頬も、耳まで真っ赤にした美和の顔だった。


美和も寂しがって居るのが分かって、僕の感じる寂しさが半分になった気がした。


「美和からしてよ。」と、僕が言うと、


「いいよ。」と返事をした美和が僕の肩口を掴み、背伸びしてキスをしてくれた。


だけどそれは唇ではなく、顎に近く、それでも美和を見ると、僕と目を合わせられずに下を向いてモジモジして居た。


今ので満足したのかな?


だけどそれでは物足りなかった僕は、美和の両肩を掴んだ。


美和は一瞬体を強張らせた後、おずおずと僕を見上げた。


僕が顔を近付けると、美和は顔を背けるのではないかと思ったけれど、実際美和は目を閉じた。


それはキスをしてもいいって事なのかと、許可を貰えたような僕は美和と唇を重ね、目を閉じた。


離した後、抱き合うと、益々寂しさが募ってしまう事は、お互い分かり切って居たのに。


もう行かなくては、と僕は手を離した後、美和に背を向け靴を履いた。


「元……」


「ここでいいよ。」僕について外に出ようとする美和を(とど)めた。


「うん、でも……」


「寒いから、いいよ。」


風邪を引かれたら困る。すぐに帰って来られない距離だから。


僕は募る寂しさを隠す為、無理に口角を上げて頷きながら、心の中でわーさんに【美和を頼みます】とお願いして居た。


「鍵、掛けてくれる?」


僕は振り返らず言って、勝手口を出た。


キィ、バタン。


北風に強く閉まるドアに鍵の掛けられる音を待って、僕は車に乗り込んだ。


わーさん、それじゃあ。


暗闇の向こう、お墓へ向けた視線はすぐ、黒い人影に遮られた。


「え?」


運転席のガラス窓を覗き込んだのは、コートを羽織った美和だった。


「なんで……」


急いで窓を開けた。


「気を付けてねって言うの忘れちゃって……」


美和の目が赤い。寒いからだけじゃないんだろうと思うと、胸がギュッとなった。


離れると分かってて、告白すべきじゃなかった。


でも─────お互い気持ちを明かさなくても、今夜の僕達は、共に切なくなる運命だっただろう。


窓から外に出した僕の手を、美和はギュッと握り、黙って大きく頷いた。


「いってきます。」


「いってらっしゃい。」


そう言って別れた。次に会える事をあまり期待せずに。


これが最後になるかなんて、僕にも美和にも分からない。だから、離れたくなかったんだろう。


それでも人は、何かを信じて人と別れる。小さな約束を胸に抱いて。


夜の高速を走りながら、僕が不安な分、美和も不安なのだろうと考える。


だとしたら、僕が不安にならなければ、美和も不安にならないに違いない。


眠気醒ましのコーヒーを買うために立ち寄ったサービスエリアで、美和に電話をかけた。


早く寝なさい、と言うと、まだ眠くないと、美和は僕が東京に着くまで起きて待って居たい様子だった。


「着いたら電話する。」


『うん、気を付けて』


苦笑いの僕は電話を切った後、温くなったコーヒーを飲むと、再びハンドルを握った。





実家に到着してすぐ、僕は二階の部屋へ向かった。


おかえりなさいと言う母の声も聞こえては居たが、返す余裕も無く、階段を急ぎ、部屋に入るとすぐにスマートフォンを取り出し、電話をかけた。


トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル…………


呼び出し音が鳴って居るけれど、美和は出ない。


間違えてかけてしまったかと、画面の文字を確認する。


【美和】だ、間違いない。


相手が電話に出るまでの時間が長くなると、要らぬ心配をしてしまう。


何かあったのかな─────いや、多分、眠ってしまっただけだ。或いは、着信音が聞こえないだけ……


それでも、急に何かあって一人倒れていたら────いや、美和は元気だし心臓発作とかそんなまさか……


一度電話を切った僕は、スマートフォンから家の電話番号を探し出した。


形だけと引いた電話は、どこかにかける事もなく、受ける事も年に数回、自治会の連絡網だけでだった。


番号は覚えて居なかったが、多分これであって居る────【0×××-××-××××】


家の電話の利点は、着信音が鳴る事。家族が居れば、本人以外が出てくれる事もある事。


もしも出なかったら、僕はどうすれば────あの家に美和を一人で残したくなかった理由が今になって牙を剥いた。


ああ……どうして反対しなかったのだろう。もしあの家に一人残した美和に何かあった時、僕は…………『はい、もしもし、元?』


「あ、えっ?」


『ご実家に着いたの?』


「着いた……けど、どうして携帯に出ないの?」


『え?携帯に電話してくれたの?』


「したよ。だけど出ないから────」とても心配した、とは恥ずかしかったので黙って居た。


『ごめんなさい。お手洗いに行ってて……』


「あ、ああ……そうだったの。」


それから少しの間、黙って居ると『心配してくれたの?』と訊かれた。


以前なら、それを知られるのは癪だと思って居た。


でも……「決まってる。」きっぱり言った。少し恥ずかしかったが。


『ありがとう。嬉しい。元も気を付けて』


「気を付けてって、何に?」意地悪を言ってみると


『色々』と濁された。


「色々って、何?」


『意地悪!』


「そうだよ、僕は意地悪だ。」


『だけど─────』


だけど、何だろう?


『だけどね、大好きだよ!』


少し上擦った声で言われ、思い切って言ってくれた事が伝わった。


「僕も……大好きだよ。」


この時は、"好き"より"大好き"の方が言いやすかった。


美和が先に"大好き"と言ったから、僕はあくまでそれに返したと取られるようにと考えた、と頭の中で暴れ回る羞恥を抑える言い訳をしながら。


『まだ切りたくないけど……元、明日会社だから切るね』


「美和こそ、明日幼稚園でしょう?」


『そう、早出なの』


「だったら早く寝ないと。」


『うん……そうだね』


美和の少し沈んだ声に僕も同じ気持ちだと分かる。




まだ、繋がって居たい。




次はいつ会えるのか。生きて居るのに会えない切なさ、遠い昔に味わったそれを僕は今再び思い出して居た。


だけど考えても仕方ない。明日は迫って来る。


「おやすみ。」"会いたい"の代わりにそう言った。


「おやすみなさい。」美和も"会いたい"と思ってくれて居るかもしれない。


電話を切った僕の胸の中に、甘く苦い痺れが広がる。これを"切なさ"と呼ぶ事くらいは僕も知って居る。すぐにはどうにも出来ない事も。


もう一つ溜め息を吐いた僕は、脱いだコートをハンガーに掛けて部屋を出た。


すると、「わっ!」僕の部屋の前に立って居た母と、正面衝突しそうになった。


「良かったわねぇ……」と母は洟を小さく啜り、赤い目を伏せた。


「ええと、何が良かったの?」まさか、もしや、電話を聞かれた?とそれを確かめるべく訊くと、


「美和ちゃんの事よ。いつから?」と返された。やはり、聞かれていたらしい。


「いつから、って……」


「ああ、ここは寒いから、テーブルの所へ行きましょう。お茶を淹れるから。ご飯は、食べた?」


「軽く。」


「シチュー温めるから。」母はいそいそと階段を降りた。


僕はトイレを済ませ、洗面所で手と顔を洗った後、ダイニングへ向かった。


「座ってて。すぐだから。」とキッチンから母の声。


僕が椅子に座って間もなく、母はお茶と一緒に、白い湯気が立ち昇るシチューの他にサラダ、パンをトレーに載せて運んで来た。


「いただきます。」


僕は先にサラダを平らげ、その後で、湯気の落ち着いたシチューとパンを交互に食べた。


「ごちそうさま。」


温くなったお茶を啜る僕に、母はテーブルの上に置いた湯呑みを両手で包みながら、


「あなた、美和ちゃんとの結婚はいつ頃を考えて居るの?」と切り出した。


「ぐ、ゲホッゴホッ……!」僕は噎せ、吐き出したお茶で辺りを濡らした。


"結婚"?


「大丈夫?はい、ティッシュ。」


「何、突然。」


僕は口の周りとテーブルの上をティッシュで拭きながら、泳いでしまう目を止められなかった。


「あなたや私達はいいけれど、美和ちゃんとご両親はきちんとして欲しいと思うでしょうから。」


「きちんと……」


「私とお父さんはね、結婚とかそういうのしなくてもいいって考えられるけれど、美和ちゃんの方は女の子だし違うでしょうから。お式だってして欲しいでしょうし……ただ元啓がどう考えて居るのかと思って。」


「考えて居ない訳ではないけれど、まだそこまでは、美和と話して居ないよ。」


結婚─────男同士だった僕とわーさんが成し得なかった事。女性を好きになれない僕の中には今まで無かった言葉。


志歩理に言われて帰っただけで、まさか美和とこんな風になるなんて僕自身全く想像して居なかったから。


一番戸惑って居るのは母より美和より僕だろう。


いざ結婚となると、ただ当人同士、婚姻届を役所に提出するだけでは済まない事が分かって来た。


「もしそうなったら、私達は協力するから、何でも遠慮無く相談して頂戴ね。」


「ありがとう。」





母とのそんな会話から半月経って、今日は四月一日金曜日。時刻は午後七時を回った所。


僕は社長室の中に居た。美和と電話するのは、それまで通り週末だけ。


お互いの生活を思っての事だ。


年度末の僕は残業続きで帰りが遅かった。美和は美和で忙しそうだった。聞くと、幼稚園は春休みだったが、共働き家庭の園児を預かるべく、職員達は交替で出勤するという。


志歩理は一昨日の水曜日に退院して、現在自宅療養中。


例年なら四月の第一月曜日に行って居る入社式を来週金曜日に延期し、志歩理はそれに出席する事になって居る。


万が一に備え、僕も入社式を終えるまでは出社する事になって居た。


椅子から立ち上がると、窓辺に立った。


闇の中に点在する無機質な灯かりを、何年も見慣れたそれらを、懐かしくもなく眺めて居ると、コンコン、社長室の扉がノックされた。


「はい。」と返事をして、窓から離れる。


入って来たのは秘書の芝本さんだった。


「失礼します。入社式についての最終確認の書類なのですが、こちらの部分がまだ────」


今日も帰るのが遅くなるな……心の中で溜め息を吐いた。


美和は明日休みだと聞いて居たので、帰ったら電話しようと思って居たけれど、それは難しそうだ。


仕方ない。


「分かりました。後は僕が確認します。先に帰って下さい。お疲れさまでした。」


「ではお願い致します。お先に失礼致します。」


「お気を付けて。」


「はい、失礼致します。」芝本さんは社長室を出て行った。


彼女の仕事ぶりは真面目で、一つ一つ丁寧だった。


目の付け所が僕とは違う。女性だからなのか。


僕の気付かない点を彼女が補い、彼女の気付かない点を僕が補う。



まあ、上手くやれて居る方だと思った。


だからと言って、この会社に仕事に未練はない。


僕の年齢の男なら、大半の人が何らかの仕事をして居る。


仕事をしたくない訳ではない。ただ単に、東京より田舎で暮らして行く事の方が、僕には案外向いて居たという事に気付いただけ。


「帰りたい……」机に向かい、溜め息と共に呟いた。


美和はどうして居るだろう。


今、僕の気持ちは、美和と離れた日より大分落ち着いて居た。


"心配"と言うより


"会いたい"だった。


会いたい、この腕に抱き締めたい……それからキスも─────と、そこで今朝の変な夢を思い出した僕は、途端に恥ずかしくなった。


キスの先なんて、美和はまだ知らないだろうし、期待しても居ないだろう。 僕だってそんな、美和とそんな事になろうなんて考えた事も……って、今朝の夢を見た時点で、無意識の内に考えて居たのかもしれない。


女に欲情するのが普通の男─────いや、すべての女にと言う訳では無い。芝本さんを見ても何も感じなかった。


美和はどうなのかな。


僕はずっと、美和が女性を好きなのだと思って居たから、男の僕に欲情するなんて考えた事も無く、想いを確認した今も、僕の見た夢のような事をしたいと考えたりしない……だろう?


もし"したい"と言われたら─────半月前、母に言われた"結婚"の二文字が浮かぶ。


結婚したら、それはあって当たり前の事になる。だけど、僕がゲイと知ってて好きになった美和なら、そういう事は実は望んで居ない事も考えられる。


ああ、分からない。僕はどうすれば良いのか。正しい答えは何なのか。美和に訊くと言ってもそんな事を訊いたら、僕がそんな事ばかり考えて居る人間に思われてしまうかもしれないから訊けない。


今まで付き合った男性とはどうだったか思い出す。


えーと、えーと……初めに、僕から仕掛けた事は、無かったかもしれない。


至ってしまえば、僕は相手を攻める方だったけれど、先手では無かったな……誘ったり誘われたりは、わーさんとは半々。わーさんは僕の気分を察して声を掛けてくれる人だったから。そしてとても優しかった。


はっ、何を思い出して居るんだ。そんな事、どうでもいい。さっさと仕事を終わらせて帰ろう。


書類に目を通しながら、溜め息をまた一つ。


今夜、美和に電話出来なくて良かったのかもしれない。


少し寂しいけれど、また今朝のように変な夢を見てしまうのは良くない。







帰宅したのは22時半頃。


母には19時半頃『今日も遅くなる。先に寝てて』と連絡した。その時『出来るだけ早く帰って来て』と言うので、何かあるのかと訊いたら『ううん、何もない。言ってみただけ』と少し様子がおかしかったが、まあ父が居るから大丈夫だろうと電話を切った。


美和にはメールを送っておいた。


【今日は残業で電話出来ない。また明日】と。社長室から電話出来ない事も無かったが、誰に聞かれてしまうか分からない所で話したくなかった。家であっても母に聞かれてしまわないように、細心の注意を払って居た。


この時間ならまだ電話しても良さそうだけど、一度電話しないとメールしてしまった手前、電話は出来ないな……


声を聞けば会いたくなってしまうのに、何故電話したいのだろう────今は、忘れてしまう方が楽なのではないか。


二階に上がり、部屋に入ってコートを脱いだ。スーツを脱ぎ、ワイシャツ、パンツ、靴下姿のまま風呂場へ。


あ、着替えを持って来るのを忘れた。まあいいか、二階で着替えよう。


長目にシャワーを浴びて出ると、脱衣籠の上に、僕の下着とパジャマが用意されていた。


母が気付いて出してくれたんだ。


着替えた僕は灯かりの点いているダイニングへ顔を出した。


「母さん?着替え、気付いてくれてありがとう。」


キッチンからは温かい湯気が漂う。この匂いはカレーだ。


寝る前に食べると、翌朝胃がもたれるから、食べずに寝ようと考えて居たけれど、鼻を擽るこの香りに、負けたお腹がグーッと鳴った。


「母さん、やっぱりカレー、食べようかな。」


キッチンの灯かりの下、コンロに向かって立つ母の背中に声を掛けた。


「もう少し待ってて。」


返って来た声は母のものではなく、その声を聞いた途端、僕の心臓はドクンと大きく鳴った。


「───美和?」


首元で結んだ白いエプロンの紐を揺らして振り返ったのは、やはり美和だった。


ダイニングチェアから立ち上がった僕は「何でここに……?」と訊きながら、キッチンに立つ美和に近寄った。


「元のお母さんから誘われて来ちゃった。驚かせようと思ってて、黙ってたの。ごめんなさい。」


「あ……」と僕は、開いてしまう口を右手で覆った。


「カレー、出来たよ。テーブルに運ぶね。元、座って。コーヒーとお茶、どっちがいい?」


「コーヒー……」


「了解。」


美和はカレーをテーブルに運んだ。


その後に付いて椅子に腰を下ろした僕に、不自然な程ニコニコ笑い掛けながら美和が口を開いた。


「カレーの気分じゃなかった?ごめんね、私、お母さんに『何が食べたい?』って訊かれて、『カレー』って言っちゃったの。だってどうしても元のお母さんの作ったカレーが食べたかったんだもん。」


「母さんの?何で?うちのは特に普通で隠し味とかも入れないよ?」


「この味で元が大きくなったのでしょう?だからね、私、木村家のカレーの味、どうしても知りたかったの。」


何だかそう言われると、僕が子どもの頃のアルバムを見せるのと同様、恥ずかしいものだと思えた。


カレー一つで、僕に色々考えさせる女は、美和が初めてだよ。


そっか……もしかしたら、わーさんもこの味、知りたかったのかな。僕もわーさんが子どもの頃に食べて居たカレーを味わえるならそうしたいと思うから。


「いただきます。」


「はい。」


スプーンで掬ったカレーライスを口に運んだ。


うちの母のカレーの味。美和と一緒に作った。そしてここは僕の実家のダイニング。


美和はまるで僕の奥さんになったみたいで、決して嫌とかそういう訳では無いけれど、何だか違うな……と僕は半分程食べたカレー皿の中にスプーンを置いた。


「どうして来たの?母さんに呼び出されて仕方なく?」


僕の視線を避けるように美和は下を向いて、「元に黙って来てしまって、ごめんなさい。」と小さな声で言った。


「怒って居る訳じゃないよ。そうじゃなくてわざわざここまで来た訳を知りたくて。」


「元のお母さんに誘われたのと、志歩理社長が退院されたからお見舞いに、それから元にお話があって……」


「僕に話って何?」


「後でもいい?お部屋に行ってから話したい……えっと私、コーヒー淹れて来るね。」


向かいの椅子から立ち上がった美和は、再びキッチンへ行ってしまった。


ダイニングテーブルに一人残された僕は、もそもそと残りのカレーを平らげた。


コーヒーマグを二つ、トレーに載せて戻って来た美和は「どうぞ。」と一つを僕の前に置いた。


向かいに腰を下ろした美和は、黙ってコーヒーを啜った。


話って何だろう。早く聞きたいような、そうでないような。


視線を合わせないままの美和をちらと見ながら、僕は温かいコーヒーを啜りながら、ぼんやりしてしまった。


呷ったカップのコーヒーが無くなった時、ハッとして見ると、美和の姿は無く、キッチンの灯かりも消えて居た。


僕はカップを洗い、洗面所で歯を磨いた。その後で二階の自分の部屋へ戻ると、布団が敷いてあった。でも一組だけ。美和は居ないし、美和の分の布団も無い。


美和はどこに寝るつもりだろう。この部屋は物置になって居るから狭くて、布団二組は敷けない。


あっ、そうかと僕は隣にある妹の部屋の存在を思い出した。


おそらく、美和は妹の部屋に居るのだろう。


話があると言って居たけれど、それをしないまま寝るの?


半月振りに会ったのに、今夜は電話も出来なかったのに、もう少し話したいと思うのは僕の我が儘?


確かに時刻は23:45だから、もう眠いと思う。


だけど────


コンコン、僕は妹の部屋をノックして居た。


……返事が無い。もう眠ってしまったのかな。


今夜は諦めよう。明日の朝、話が出来たらそれでいい────「元?」


妹の部屋の前で振り返ると、美和が立って居た。さっきとは違ってエプロンを外し、パジャマにカーディガンのみの姿。


もう寝るだけという雰囲気の美和に、僕は"話って何?"と切り出せず、


「こっちで寝るの?」と妹の部屋を指差して訊いた。


「うん。」


「おやすみ。」


「待って、元。少し話してもいい?」


部屋に戻ろうとした僕の袖を引っ張った美和が言った。


「え、うん。いいけど……」


返事をした僕は、美和に、妹の部屋に引き入れられた。


パタン。


入った部屋の中は僕の部屋より整理され、広さは十分だった。


こっちの部屋なら、二人分の布団が敷けるのに、と一組敷かれた布団を見下ろしながら考えてしまい、慌てて首を振った。


美和がエアコンを点けた。けれど、まだ部屋の中の空気はひんやり冷たいまま。


「元、こっち。」


美和は掛布団を捲った布団の上へ僕を誘った。


「えっ?」思わず変な声が出てしまった。


「寒いからお布団の上で話そう?」


「あ、ああ……うん。」


別にいやらしい想像をした訳ではない、と平静を装った僕は、美和の座る布団の上に胡坐を掻いた。


「はい、これ掛けて。寒いから。」


バサッと美和が僕の背中に掛布団を掛けた。


「いいよ、僕は。美和が掛けたらいいでしょ。」


「駄目。元が風邪引いたら困────くしゅん!」


「ほら、美和の方が。」と僕は美和の背中に掛布団を掛けようとしたその時、


「じゃあ、こうして。」いきなり美和は、僕の胸に、抱き付いた。


「何、急に。」驚いたけれど、嬉しかった。


僕以外の熱が、僕の胸の奥を熱くする。




「ずっと、こうしたかった。」




僕にギュッとしがみ付く美和に言われて気付いた。"僕もこうしたかった"────と。でも言葉に出来ない。


その代わりに、美和の頭に手を乗せ、髪を撫でた。


少しすると、部屋も温まって来て、


「あのね、元……お話があります。」


そう改まって発した美和は、僕の胸から離れ、きちんと正座した。


何だろう、怖いな……と思う僕の目を見つめる美和が口を開いた。


「木村元啓さん。」


「はい。」


「私と結婚して下さい。」そう言って、美和は膝の前に両手をつき、お辞儀した。


えっと……"結婚"って?どうして急にそんな話を、と僕は突然の話について行けず、言葉が出なかった。


しばらく沈黙の続く僕らの間を、コチコチコチコチ、時計の秒針音だけが取り持った。


「美和、あの顔を上げて。」


美和は顔を上げず、黙って居た。


「YESかNOでお答え下さい。」


そんな風にクイズ番組の司会者如く訊かれて、答えたくなる話ではない。


一体どうしたんだろう。うちの両親、もしくは美和の両親に何か言われたのだろうか。


可能性が高いのは僕の両親。母が僕らの仲をしつこく訊いたのかもしれない。


「何を焦って居るのか分からないけれど、こんな風にする話じゃない。」


「そうだよね、ごめんね。」と美和は笑い、


「実はね、嘘なの。」と言った。


「"嘘"?」何が?


「"結婚して下さい"って言ったのは、"嘘"。元、今日は何の日でしょう?」


「今日?」


「知らないの?エイプリルフールだよ。一年で一回、嘘を吐いてもいい日。」


「エイプリルフールは知ってるけど……それじゃあ、今のって"嘘"なの?」


嘘のプロポーズ、か。虚しくなるな。でもそれは、僕だけじゃなく美和もかなと、少し曇り始めた美和の表情を見て思った。


「そう、嘘だよ。だって四月一日だから────あっ、嘘っ……!」


美和は両手で口を覆い、時計を見つめて固まった。


見ると、時計の針は12と2を指していた。


「もう四月二日だね。」僕がぼそりと言うと、


「そう、だね……えっと、今私が言った事は全部忘れて下さい。」と美和が広げた両手の平を体の前でバイバイと振った。


「"全部忘れて"と言われてもね。嘘で言うような事ではないからね。」僕がちくりと言ってしまったのは、"結婚して"が"嘘"だと言われて傷付いたからなのか。


しかし、まさかと思うが、そんな事をする為にわざわざ東京までやって来たのか?


「ごめんなさい。本当に……」


僕を試すような事を言わせてしまう位、美和を不安にさせて居たのだとしたら、反省すべきは僕の方なのだろうが……まあ、僕がゲイだった事もあって、特に不安が募ったのかもしれない。


"結婚"を考えて居ない訳ではないけれど、だけど今すぐどうこうって話は出来ない。


胸の前で両手を組む美和の肩が震えて居るのは、寒いからではなさそうだけれど、


「ほら、震えてる。寒いんじゃないの?」と掛布団で包んだ美和の体を、布団の上に倒して、僕も隣に寝転んだ。


「疲れたでしょう?もう寝た方がいい。」


「あのね、元、"結婚"の話は"嘘"だけど、会いたかったのは本当だから……!」


「分かった。」


ポンポン、ポンポンと、いつか美和が僕にしてくれたように、僕は美和の背中を布団の上から叩いた。


「まだ、眠れない。」


美和は掛布団の端を持ち、僕の体の上に掛けた。


そうして僕らは向かい合い、一つの布団に包まって居た。


部屋の中はもう十分暖かかった。


なのに、美和は「寒い。」と言って僕の体に身を寄せた。


もうエイプリルフールは終わったよ?


だけど僕も「寒いね。」と美和を、両腕の中に収めて言った。


すると美和は「あったかい……」と呟いた。


とくんとくんとくんと、僕の胸の音なのか、美和の胸の音なのか分からない響きが、肌を重ねた部分から広がって行く。


この時僕は、初めて美和ともっと深く触れ合いたいと強く感じた。


でも、このまま僕の体の奥にある激しいうねりに僕と美和を巻き込ませたら、きっと美和を壊してしまうかもしれない───僕は唇を噛み締めた。


一緒に居るのに、切なさに似た気持ちが込み上げる。もどかしさもある。何だか美和に上手く僕の気持ちを伝えられて居ないような気がして。





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