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そうそうない  作者: 碧井 漪
32/43

32 2016年2月14日のこと

ガラガラ、ガッシャーン!


静けさの中、突然飛び込んで来た音に僕は驚き、ハッと目を開けた。


まだ温かな布団の中で、僕は壁の時計を見上げると、時刻は午前5時30分を回った所だった。


昨日の土曜日は、出勤した美和だけど、今日、日曜日は休みだと聞かされていた。


だから今日は久し振りに朝寝坊出来る日なのに────やれやれ、と僕は布団の中から抜け出して、台所への硝子戸を開けた。


「美和、何してるの?」


戸口に立った僕は、冷たいであろう台所の床に素足で踏み出すのを躊躇った。


「何でもない。うるさくしちゃってごめんね。」


キッチンマットの上には、焦げ茶色の細かな物体。


しゃがみ込んで掻き集める美和に近付いて、ようやくそれらが"チョコレート"だという事に気付いた。


テーブルの上に広げられたお菓子の本。


急に何故、お菓子作りなんて始めたのだろうと首を傾げながら、ハッと思い付いた事を口にした。


「今日って、美和の誕生日?」


「えっ?どうして?」


今の反応は違うな、美和の誕生日ではなさそう。


仮に今日が美和の誕生日だったとして、自分で自分のケーキを焼くなんて事は、頑なに誕生日を教えなかった美和のする事じゃない。


「手伝おうか?」


事情はよく分からないけれど、そうした方がいいような気がした。


「ううん、いい、いい。まだ朝早いし、元は寝てて。」


マットの上の細かな粒を広い集める美和を残し、僕は居間へ戻った。


布団を片付け、着替えてすぐ、掃除機を手に再び台所へ。


「これで吸った方がいい。チョコは手の熱で溶けるから。」


掃除機のコードをコンセントに挿し、スイッチを入れた。


キッチンマットの上に点在したチョコレートは、みんな掃除機の中に吸い込まれた。


「ありがとう、元。」


「どういたしまして。それで、何作るの?」


僕が掃除機のコードを巻き取りながら訊くと、「何でもない。」と美和は顔を合わせようとしなかった。


居間に掃除機を戻してわーさんを見ると、何故かわーさんの顔がとてもにやけて居るように見えて、それは美和がしようとして居る事をわーさんが知って居るからだ、なんて思えた。


もしかして、楽しい事なのかもしれない。


けれど、シンクに向かって黙々と洗い物をする美和の背中は、何かを作ろうとして失敗し、ガッカリして諦めてしまったように見えた。


何だかそれではつまらない、諦めるのはまだ早いと、僕は美和の力になれるならなりたいと思った。


僕は再びテーブルの上を見た。


開かれた本のページには、


【生チョコレート】とある。


これは知ってる。会社に勤めていた時に志歩理から貰った事がある。


僕は本を手に取って眺めた。


ふうん、材料はチョコレートと生クリームに無塩バターとココアパウダーか……


手順は刻んだチョコレートにバター、そして温めた生クリームを加えてチョコレートを溶かし、バット等、底の平らな容器に流し込んで冷蔵庫で冷やし固めた後、包丁で一口大にカットし、ココアをまぶして完成────と、簡単なんだな。


手伝いようもないか、と本をテーブルの上に置こうとした時、


僕の横をすり抜けた美和が、冷蔵庫の中に、パック入りの生クリームとバターをしまおうとしていた。


「どうしてしまうの?それ、使うんじゃないの?」


思わず言うと、美和は残念そうに


「使えなくなっちゃったの。チョコレートをひっくり返しちゃって

分量が足りないから……ドジだよね。」そう言って苦笑いした。


「ドジと言うか、それは……」


仕方がないよ、そういう事もある。


「ごめんね、朝から騒いで結局何も作れなくて────」「諦めるの?」


「えっ?だってチョコレートが無いから……」


「買って来る。どのくらいあればいい?」


この時間だと、駅前のスーパーは開いてない。でも大通り沿いにあるコンビニなら────「ううん、いいの。」


「何故?必要なんでしょ?」


「ううん、本当にもういいから。」


「…………」


「ごめんね。」


どうして生チョコレートを作りたいと思ったのか知らないけれど、簡単に諦めて欲しくないと思った僕は、


「他の物では駄目なの?」と美和に訊いた。


「他の物って?」


「チョコの代わりにココアを溶かしてみるとか。」


色が同じだから、作ってみたら案外何とかなるのではないかと思って提案したけれど、


「それだと、ココアペーストが出来るだけで、生チョコにはならないよ。」と、美和に言われてしまった。


素人考えではどうにもならないらしい。


それなら、と僕は、美和が閉じて抱えたお菓子作りの本の表紙を指差した。


「これは?作れないの?」


焦げ茶色のチョコレートケーキの写真。


傍らに白いクリームが添えられている。


「えっと、これの作り方は……」


美和が本のページを捲る間、何とか作れればいいと祈るような気持ちで見守っていた。


「……うん、これなら何とか作れるかも。」と美和は手にした本から顔を上げて言った。


「じゃあ、それを作ろうよ。」


本当は、“何の為に作るの?”と訊きたかったが、そうした所で、美和の機嫌を損ねてしまったら、“何の為”なのかが永久に分からなくなってしまうから。


ここはひとつ、作っている最中に訊き出すか、作り終えた後で美和が話してくれるのを待つしかない。


「本当にこれを作るの?元も?」


美和が僕に本を向けた。


開いたページには、表紙と同じチョコレートケーキの写真と材料、作り方が記載されていた。


【ガトーショコラ】かあ……


材料は、チョコレート、ココア、バター、卵、砂糖、薄力粉、とチョコレート以外は揃って居る。


「何とかなるんじゃないの?」


「元が言うと、そんな気がする。」


言われて僕は、またしても、かつての自分を思い出してしまった。


手を洗う僕の頭の中は、わーさんでいっぱいになった。


わーさんは、僕に向かって、さっき僕が言ったような『何とかなるよ』そんな風に言って、僕の不安をいつも軽くしてくれていた。


今度は僕が美和に向かって言って居る。


不思議だな、僕が誰かに対してこんな風に、わーさんみたいに言える日が来るなんて思いもしなかったよ。


ずっと誰とも関わらず、一人孤独に死を待つ暮らしを送って居る筈だったのに、あの日、わーさんの一周忌の前の日から、どんどん変わってしまった。


予想外だった。


戸惑いの連続だったけれど、今、僕は、美和と離れて暮らす事は考えられなくなって居た。


こうして居たい、わーさんが生きていたとしても多分、美和の事を追い出したりしなかっただろうと思うし……何故か、美和と暮らして居る今の方が、わーさんをより思い出して居るから。


濡れた手を拭いて、テーブルの方を見ると、美和が薄力粉とココアを合わせて(ふるい)に掛けていた。


「僕は何を手伝えばいい?」


「ええと、それじゃあ、ボールの中に卵を割ってくれる?黄身と白身を分けて。」


「分かった。」


僕はシンク横の調理台の上にあった卵のパックの前に、銀色のボールを二つ並べた。

卵を割り、黄身と白身に分けるだけ。


やった事はあるがしかし、上手く分けられるという自信はなかった。


けれど引き受けた以上、やらない訳にも行かず、僕は最初の一個を割ってみた。


コンコン、パカッ、という風に。


ただし割った卵の殻を通常通り左右には開かず、上下に開いた。


その両手に握る半分になった殻の中で、黄身を落とさないように、今度は左右に移動させ、白身だけを片方のボールの中へ落として行った。


お菓子作りの本によると、18センチのホールケーキが出来る卵の分量は三個らしい。


僕は何とか、三個の卵の黄身と白身を二つのボウルに分ける事が出来た。


ホッとする間もなく、美和に「はい、泡立て器。」と手渡された。


どっちを混ぜたらいいのだろう。


迷った僕は、本を覗き込んだ。手順通りなら先に黄身の方だと、崩れた黄身の入ったボールを取ろうとした。


すると美和は「あっ!元、そっちじゃなくてこっちをお願いしてもいい?」と、黄身ではなく白身の入ったボウルを僕の前に移動した。


「こっちって、後じゃないの?」


本の通りなら、白身を泡立ててメレンゲを作る作業は、黄身とチョコレートを合わせた後だ。


「ううん、元はこっちをお願い。卵黄とチョコレートは私が合わせるから。」


「そういう事なら。」


僕がメレンゲを作る間、美和は溶かしたチョコレートと黄身を混ぜた。


僕は泡立て器を持つ手を左右交替しながら、白身を泡立て、後少しで(つの)が立ちそうだという所で、思い出したように美和が、(あらかじ)め小鉢に入れてあったグラニュー糖を、予告なくボウルの中に一気に放り込んだ。


バサッ!


やっと作った白くモコモコの泡は、グラニュー糖に一瞬で押し潰された。


プツ、プツプツ……


沈む砂糖の粒、(しぼ)む泡、見つめる僕の手も止まったまま。


「元、貸して。交代しよう。」


美和は僕が疲れて手を止めたと思ったらしい。違うのに。


「ううん、いいよ。もう少しだから待ってて。」


僕は再び、ボウルの中で泡立て器を(せわ)しなく動かし始めた。


カシャカシャカシャ、繰り返す金属音。


決して良いとは言えない音なのに、規則正しいと安心してしまう。一体どんなメカニズムなのだろう。


「元、メレンゲはもうその位でよさそう。後は合わせるだけだから貸して?」


そう言って美和は、僕の手に手を重ねた。


一々ドキリと意識してしまうのは僕だけで、僕と手を重ねても、体が触れ合う位、近くに居ても、何ともない様子の美和が少し憎らしくもあった。


美和は黄身にチョコレートを合わせたボウルの中に僕の作ったメレンゲを半量加えて混ぜ込んだ。


焦げ茶に白が所々目立つ状態の生地に、美和はココアと一緒に(ふる)った薄力粉を加えた後、溶かしバターを加え、残りのメレンゲを全て、さっくり混ぜ込んだ。


ケーキ型は無かったので、美和は牛乳パックを帯状に切った物で輪っかを作り、それにアルミホイルを巻き付けた物を用意した。


その型を、クッキングシートを敷いたオーブンの天板の上に置き、円の真ん中から生地を流し込んで、ようやくオーブンに入れる事が出来た。


ケーキが焼けるのを待つ間、朝食を作り、食べ始めた頃、焼き上がりを報せる音が響いた。


「ちょっとごめん。」と美和は箸を置き、椅子から立ち上がった。


オーブンを覗き込み、天板を引き出した。


同時に白い煙が立ち昇り、焦げた匂いが鼻をついた。


失敗したのかな、と思いながら、美和の横顔をこっそり見ると、美和はオーブンから取り出したケーキを僕に見せながら、


「ごめんね、失敗しちゃった。」と笑った。


僕の知る懐かしい笑顔に似ていた。



「折角、元に手伝って貰ったのに、こんな風になっちゃってごめんなさい。」


「それはいいけど……」


にこにこ笑って居るように見える美和だけれど、実はショックを受けて居るのではないかなと思う僕は、後でチョコレートを買いに行こうと考えた。


再び椅子に座り、箸を動かす美和は無言だった。


僕も、今はそっとしておこうと黙って居た。


そしていつも通り食器を片付けた後は、掃除洗濯、それから休憩。


「お茶淹れるね。」


「コーヒーにしない?僕が淹れるよ。美和は座ってて。」


時刻は午前十時前。朝食が早かったから、小腹が空いた。


今朝焼いて失敗したケーキを、美和はどこへ隠したのか分からない。


最初は捨てたのかと思ってごみ箱の中を見たけれど、そこにはなかった。


僕はコーヒーをハンドドリップしながら、思いきって訊いた。


「美和、今朝のケーキはどうしたの?」


「あれは────捨てたよ?」


「ごみ箱の中にはなかったけど?」


「……後で私一人で食べるから。」


「それはズルイな。」


「えっ?」


「僕も食べたい。」


「食べたいって、そんな……」


美和は困ったように俯いた。


「後で買い物行って作り直そうよ。本当は生チョコを作りたかったんだよね?」


「それは────」


「僕も手伝ったケーキ、食べてもいい?」


そう言ったら断れないだろうと思って、意地悪を言った。


美和は俯いたまま、ぼそりと言った。


「────美味しくないと思うよ?」


その台詞、昔僕もわーさんに言った憶えがある。


あの時、わーさんは、こう言った。


「『食べてみなくちゃ分からない』」


顔を上げた美和は、うんと頷き、戸棚を開けて、ビニール袋に入れられた今朝のケーキを取り出すと、テーブルの真ん中に置いた。


内側に汗を掻いている袋の口は輪ゴムで留めてあった。


円いケーキの上は真っ黒、下の方は焦げ茶色。


だけど、表面上部だけ削り取れば食べられそうだと思う。


包丁を持った美和に、「貸して」と僕は言い、焦げた表面を削ぎ落とした。


「美味しくなさそうだよ?」


いつになく否定的な美和。お菓子作りには自信がないらしい。


「大丈夫。食べられる。」


僕は包丁を十字に入れた。


四等分。


八等分が一般的だろうけれど、敢えてそうしなかった。


出した二枚のお皿に1/4ずつ取り分け、マグカップにコーヒーを注いだ。


お互いに椅子に腰を下ろしても、まだ不安そうな顔で居る美和に


「いただきます」と僕は言ってからケーキにフォークを入れた。


想像より少し硬いが、フォークで刺して口に運んだ。


もぐ、もぐもぐ……


甘さはまあ、丁度良い……と言うか、チョコの味がやや薄いのかな?床に落とさず、残ったチョコとココアで作ったみたいだから。


一口目を飲み込み、二口目を味わいながら、ちらと美和を見ると、


僕と同じくケーキを口に含んだ美和は、口をモグモグ動かしながら、あまり嬉しそうではない表情を浮かべている。


美味しくない?


まあ、確かに美味しいと言ったら言い過ぎかもしれないけれど“美味しくない”と言う程ではない、と思う。


二口目を飲み込んだ僕は、コーヒーを一口飲んで、三口目を口に含みながら、


この沈黙に耐えられなくなった。


「美味しいよ。失敗じゃなかったね。」


そう言うと、美和は一度合わせた視線を、テーブルの上に落として、


「ううん、ごめんね。失敗だよ。美味しくない……無理して食べないで。」と言った。


落ち込む美和を見たくない僕は、


「僕は美味しいと思うけど。要らないなら全部僕が食べてもいい?」と言って、残りのケーキが載っている皿を引き寄せた。


「えっ、ちょっとそれは────」


「駄目なの?」


「駄目じゃないけど、でも焦げ臭いからやめた方がいいと思う。」


確かに、焦げた部分は削ぎ落としたけれど、まだ焦げ臭さは残っている。


こういう時は否定すると却って不自然だから肯定する。その上で、自分の思っている事をしっかり伝える。


「確かにまだ少し焦げた臭いは残ってるけど、僕は気にならない。甘さも、甘過ぎなくて丁度いい。」


「無理、してない?」


「無理してるように見える?してない。それに頑張って作った物だから、更に美味しいと思えるんだよ。美和は違うの?」


「それは、そうだけど……」


決め手に欠ける説得だった。うーん、このチョコレートケーキに何かを足して美味しくなるとしたら────「そうだ!思い出した。」


「何を?」


「生クリーム!」


「えっ?」


「確かあったよね?本の表紙に載ってたケーキの写真にはクリームが添えられてたよ?」


美和は本を持って来て、


「これの事?」と僕に見せた。


「そう、これ。生クリームでしょ?」


「多分。」


「生チョコ作る分の生クリームは、後でチョコと一緒に買って来るから、今使っていいかな?」


生クリームだけあっても生チョコは作れないから。


美和は冷蔵庫の中から取り出した生クリームを泡立て、本の写真のように、お皿の上の焦げ茶のケーキに白いクリームを添えた。


「本に載ってるのみたいだよ。」うんと近付いたと思って言うと、


「そうかな?」美和が少し笑って椅子に座った。


「今の、先生が燥いだ子どもをあしらうみたいだった。」


クリームだけを掬って食べたフォークを、口の中から引き抜いた美和が訊いた。


「じゃあ、元は子ども?」


クスクス笑いながら、美和は硬いケーキをフォークで切った。


「何だか、そんな気分になったよ。」


「そうですか、元啓くん。ケーキは美味しいですか?」


調子に乗ってるな。でも、いいか。ずっと笑ってる。


「美味しいですよ。美和センセイ。」


「それは、よかったです。」


そのまま、ずっと笑っていて。


「なあに?元。ニヤニヤして。」


「え?ニヤニヤしてた?」


「してたよ。ねー、わーさん。」


美和は仏壇に向かって話し掛けた。


「してないと思うけど。」


「してるよ。」


まあ、どっちでもいいけど。


10時半過ぎ。買い物に行って帰って来たら丁度お昼頃になる。


「食べたら行こうか?」


「どこに?」


「チョコレート買いに。」


そう言うと、美和は「えっと、チョコレートってわーさんの?」と、変な事を言い出した。


「わーさんのチョコって、なんで?」


「えっ?────あ、わ、私のチョコかあ……そうね、そうだった。」


美和は残りのケーキを頬張り、コーヒーで流し込むと、「支度しなくちゃ!」と慌ただしく立ち上がり、お皿を洗い始めた。


何だろう?また何か隠してる。


朝からコソコソしてた。僕に知られたくない事がある。それは何か分からないけれど、詮索したら泣かれるなら、しない方がいい。


僕が空にしたお皿とマグカップを取りに来た美和に「ごちそうさま。」と言うと、「ありがとう。」と言われた。


これもまた、何の“ありがとう”か分からないけれど、振り返って見た仏壇のわーさんが頷いて居るように見えたので、僕はもう一度、ご機嫌な美和の背中とわーさんを交互に見た後、出掛ける支度をしようと台所を離れた。





スーパーに着くと、美和の謎だった行動の一部が理解出来た。


『Valentine's Day(バレンタインデー)


スーパーの店頭、目立つ特設コーナーに掲げられた看板と棚にビッシリ陳列されたチョコレートの数々。


一昨日来た時は気付かなかった、というか、小学生の女の子達が集まり、騒いでいた場所だったから近付かなかった。


昨日、美和が買い物したいと来た時、僕は近くの書店に寄っていた。


生チョコを探すと、都会と違って売ってない。“生チョコ風”ならあった。


その臙脂の正方形の箱を僕は一つ手に取り、違う棚の前に立つ美和に見せに行った。


「美和、これはどうかな?“生チョコ風”だけど。」


「これ?えっと、どうして?」


「誰かにあげるつもりで生チョコ作ろうとしたんでしょう?帰って作ってもいいけど、もし失敗しちゃったらの保険に────」


「あ、うん……そうだね。」


美和は手にしていた板チョコレートを棚に戻し、「元の言う通りだよ。また失敗しちゃうといけないから、やめとく。」と、苦笑いを浮かべて、売り場から離れた。


何それ。僕が余計な事を言ったから?


僕は美和を追い掛け、捕まえた。


振り向かせた美和の瞳は濡れていた。


「失敗すると思って言ったんじゃない。気を悪くしたんなら謝る。ごめん。だから手伝う。一緒に作ろう。」


俯いた美和の目から透明なしずくが落ちた。


僕の心がズキンと痛んだのはきっと、泣かせた事に対する罪悪感ではなく、チョコを作って渡したいと思う相手が居ていいなあというものだろう、多分……


大切に想う相手の為に何かを作る。


僕には、もう出来ない事。


「作っても、渡せないからいい。」


「それは僕も同じ。そうだな、美和が作らないなら、僕がわーさんに作ろうかな。」


「えっ?元が一人でチョコ作るの?」


「そう。いけない?」


「いけなくない。私も一緒に作ってもいい?」


涙を拭った美和が訊いた。


「もう泣かないなら、いいよ。」


「はい!泣きません!」


にこりと笑いながら美和は、揃えた右手を斜めにおでこに当て、僕に敬礼した。




それから僕らはチョコレートと生クリームの他に、夕飯に食べたい物を買って帰った。


箱入りの生チョコは買わなかった。


『絶対成功させる!』と美和が意気込んで。


家に着くと13時前だった。


お昼の後は、いよいよ生チョコ作りの時間。


チョコと生クリームは倍の量買っておいた。これなら一度失敗しても大丈夫だ。


本の通りに進めると、まず、分量のチョコレートを包丁で刻んでボウルに入れる。


生クリームを沸騰させないように温め、バターを加える。


それをチョコレートのボウルにゆっくり注ぎ、チョコレートが滑らかになるよう混ぜる。


バット等、平らな容器にシリコンペーパーを敷き、その上にチョコレートを流し込み、後は冷蔵庫で冷やし固める。


固まったら、サイコロ状に切り分け、ココアパウダーをまぶして完成だ。


うん、簡単だったな、さっきのガトーショコラよりは。


美和が冷蔵庫にバットを入れた後、


「失敗しなかったね。」と僕が広げた右手のひらを掲げると、


「うん、ありがと!」美和は頬を緩め、振りかぶった手のひらで、僕の手のひらを叩いた。


その後で、


「でも、まだ分からないよ?」と小さく言いながら肩を竦めた美和が何だか可笑しくて、僕は笑ってしまった。


「わーさんは、チョコ好きだった?」


「僕よりは食べてたかも。会社で貰って来たお菓子とか、食べてくれてた。」


好きだったのかと訊かれると、本当はどうだったのかなと思った。


わーさんはお菓子好きだったのかな?


食べきれなくて、捨てるというのは好まなかった彼の事だから、実は無理していたのかもしれないな。


「生チョコ、わーさんにも食べて貰おうね。元が、愛を込めて作ったんだから。」


「ふっ、何その''愛を込めて''って。」


「元がチョコ混ぜてる時、そう見えた。」


それを言うなら美和だって、と思った僕は、


「美和は誰への愛を込めたの?」と訊いた。


「私?私は────内緒。」


「志歩理じゃないの?」


「もー!違うって何度も言ってるでしょう?」


美和は軽く握った拳で、構えた僕の手のひらをポカポカ叩いた。


「渡しに行かないの?遠い?」


「近いとしても無理だよ。相手は私が好きで居る事、知らないもん。」


美和の好きな相手は既婚女性らしい。


「気持ちを伝えるつもりはないの?」


「ないよ。」


「その相手以外は好きになれない?」


「分からない。」


「いつか出逢えるかも。その人以上に愛せる人に。」


「元は?元はわーさん以上に愛せる人に出逢えそう?」


「僕はもういいんだ……後は死ぬだけの人生だから。でも美和はまだ若いから、これからきっと────」


「私も、もういいの。その人だけを愛していたいから。」


「それって、一生結婚しないって事?」


「そうなるかも。」


「一生一人で過ごすつもり?」


「ううん、一人じゃないよ。元が居るでしょう?」


「僕?」どうして僕?と思った。


「元がわーさんを想って居る限り、私は二人を見守る為にここに居るから。」


「え?美和の言った意味が分からないんだけど……」


「だから、元がわーさんを好きな内は、私ここに居るから。」


「よく分からないけど、えっと────つまり、僕がわーさんを想って暮らす内は、美和がこの家で暮らすと言う事?」


「うん。」


「どうして?それは美和にとって何の得にもならないじゃないか。」


「そんな事ないよ。だって、私ここに居たら、その人の事、ずっと好きで居られるから。」


「たったそれだけの理由でここに居るの?」


「違うよ。一番の理由は、元とわーさんと暮らしたいからだよ。」


「僕とわーさん?────わーさんは一緒に暮らせてないけど。」


「そう?私は三人で暮らしてるなーって、いつも思ってるよ?」


何が“三人で暮らしてると思ってる”だ。そう言えば僕が喜ぶとでも思ったの?


そんな訳ない。美和はわーさんに会った事もないのに、一緒に暮らしている気になるなんて、何だか腹が立ってしょうがない。


「勝手な事────」言わないで、と続ける前に、ドンドンドン!勝手口のドアを叩く音が響いた。


「木村さーん、荷物でーす!」


地元訛りのある男性の声が外から聞こえ、僕の頭の中に、いつもの宅配業者のおじさんの顔が浮かんだ。


「はい、今行きます。」


大きく返事をして勝手口に向かう。


玄関にはチャイムがあるが、勝手口にはない。


しかし、僕らが普段出入りに使うのは勝手口ばかりで、雪も片付けてあるのは車の置いてある勝手口の方。


だから、以前から顔見知りの宅配業者はみんな勝手口から荷物を届けてくれる。


チャイムがあった方がいいのは、あまり使用していない玄関より勝手口の方かもしれないけれど、あればあったでチャイムは鳴らすだけになって、何の用事か、誰なのか、声を掛けてくれなくなるかもしれないから、このまま、少し不便な方が、誰が来たのか分かりやすくていいのかもしれない────と思ったりもする。


とにかく今の僕は小さな事ですら、変化を望まなかった。


美和はどうなのか分からないけれど、僕はここでひっそりと、このままの暮らしを続けて居られればそれでいいと思って居る。


このままでいい、便利じゃなくても、隠された何かを知らなくても。


今のままを変える方が怖かった。


「こんにちはー。今日はこれ一個です。」


差し出された荷物は、60サイズの発泡スチロール製の箱。


何だろう?誰からだろう?


印鑑を()した伝票の送り主の名は【虎越志歩理】だった。


「お世話さまでした。」


「ありがとございまーす。」陽気な声を出して伝票を受け取ったおじさんは、ドアを丁寧に閉めて立ち去った。


「誰から?」


僕の右腕を掠めてひょっこり顔を出した美和に僕が「わっ!」と驚くと、


「そんなに驚くなんて怪しい。誰から?」ニヤニヤと伝票を覗き込んだ美和が次の瞬間固まった。


「志歩理からだよ。」


一応告げた。


「……うん。」


浮かない顔。


志歩理に関する事になると、途端に挙動がおかしくなる美和。だから僕は美和の好きな人というのは志歩理なのではないかと考えてしまうんだ。


そうしたら辻褄が合う。


ここに来たのだって、僕が志歩理の友人で、遠く離れても時々志歩理の話を聞く事が出来るから。


「中身、チョコレートみたい。」


ぼそりと美和が言った。


「そう……美和にあげるよ。」


大好きな志歩理からだから喜ぶんじゃないかと思って言ったのに────「酷いね、元。」と言われてしまった。


「酷いって何で……」


「だって、志歩理社長から貰ったのにそんな風に言うなんて。」


僕にとって志歩理は親友だと思っているけれど、それ以上ではないって事が、美和の言葉から分かってしまった。


美和にとって志歩理は、僕が志歩理を想う以上に大切な存在なんだ。


美和は僕より志歩理が大切。


それなのに、志歩理が僕にばかりプレゼントを寄越すから寂しかったのだろう。


そんな中、届いた志歩理からのプレゼントを僕がぞんざいに扱ったと感じて怒ってるんだ。


そうか……美和は僕より志歩理の事が大切なのか。


分かって居た事とは言え、今は知りたくなかった。


美和がこの家で僕と暮らすのは、志歩理の事が好きだから。


僕の事を『人として愛してる』と言ってくれたのは、心から愛する唯一の人・志歩理の親友だからに過ぎない。


少し複雑な気持ちを無視して、


「一緒に開けよう。」と美和に告げると、


美和は「うん」と小さく頷いて、僕の後に付いて来た。


台所のテーブルの上で開けた発泡スチロールの箱の中からは、茶色の平たい長方形の紙箱が二つと手紙らしき白い封筒が三通出て来た。


封筒の表書きは、志歩理の字で『元啓へ』と『美和ちゃんへ』、もう一通は男の字、おそらく虎越泰道のものだろう『木村さんへ』というものだった。


何だか嫌な予感がした。


志歩理が手紙を寄越すのは分かるとして、何故虎越泰道が手紙を僕に書いたのかと。


いい報せである確率は低いと思った。


僕は手紙より先に茶色の箱の蓋を、それぞれ開けた。


「チョコレートだ。」


予想通りだが、それが生チョコであった事は予想外だった。


もう一つの箱は、色とりどり、様々な(かたど)りの一口大のチョコレートの詰め合わせだった。


焦げ茶、アイボリー、赤、ピンク、抹茶に橙のチョコレートの上には、金粉、ピスタチオ、胡桃(くるみ)にアーモンド等が散らされて居た。


「わあ!」と声を上げたのは美和。


「綺麗。食べるのが勿体無い。」


「そんな事言わずに食べようよ。お茶がいい?それともコーヒー?」


「紅茶!」元気よく返した美和に、僕は思わず笑って、


「はいはい。」と、やかんに水を入れ、コンロに掛けた。


「ポット用意します!」


ふざけた様子で敬礼する美和。それを見て居たら、さっき、わーさんの事を言われて腹が立った事は、このまま言わないでおこうと思った。


言ってもよかったけれど、言った所で僕の気持ちが治まるかと言えばそうでもない。


僕とわーさんの過去の想い出は、美和であっても踏み込んで欲しくないという気持ちがどこかにある。


美和と過去を語ってしんみりしても、僕はちっとも嬉しくないから。


今、僕は美和と暮らしてる。


わーさんの事を忘れた訳では無い。


思い出したくないのとは少し違うけれど、美和がわーさんの話をして、会いたかったと言われる度、僕は切なくなる。


僕だって、美和とわーさんを会わせたかったよ。


今だって、美和の言う通り三人で暮らせて居たら、わーさんは僕と二人で暮らすよりもっと退屈しなかったかもしれない。美和が居ると何もない日も楽しいから。


きっと僕は、美和に嫉妬してるんだ。


美和ならもっと、わーさんを笑わせる事が出来ただろうと。


それと、後悔してしまうんだ。


どうして僕は、もっとわーさんを愛せなかったのかと。


足りない気がして居る。もっと愛せたのではないかと思えてならない。


美和のようにただひたむきにわーさんを愛したかった。


もう出来ない。それがつらい。


「元。紅茶淹れたよ。」


「え?あ……ごめん。」


美和に続いて、僕も椅子に腰を下ろした。


「ぼんやりさん。なんて、ごめんね。お菓子作りに付き合わせちゃったから、疲れたんでしょう?」


「いや、そんな事ないよ。楽しかった。」


「そう?それなら良かった。」


「うん。まだ仕上げが残ってるけどね。」


「そうだね。この後、固まったチョコを切って、ココアをまぶす作業があるね。」


「あ、入れ物考えてなかった。」


「入れ物?」


「そう。ほら、これみたいな。」


そう言って、僕は生チョコの箱を指した。


「箱はあるよ。」


「え?」


「小さいけど、スーパーで売ってたから買っておいたの。でも……」


「でも、何?」


「渡すつもりはないから。」


「どうして?箱買ったのに?」


「買ってみたかったの。」


「渡すつもりはないのに買ってみたかったって何故?」


理解出来なかった。


「チョコもね、作ってみたかっただけなの。ほら私、人を好きになった事がないから、普通の女の子みたいに好きな人に食べて貰える事を考えながらチョコレートを手作りしてみたかっただけなの。」


“好きな人に食べて貰える事を考えて”の(くだり)は理解出来たが────「諦めないで、志歩理みたいに送ったら?」


「ううん、いいの。」


「よくないよ。」


「元には分からない。両想いだから。」


ふてくされたように言って美和は俯いた。


「何?その言い方。」


さっき飲み込んだ怒りも同時に湧き上がって来て、僕はテーブルをバンと叩いて居た。


美和は肩をびくりと揺らして、僕の顔をそうっと見た。


「ごめんなさい。」


美和に謝られてハッとした。


だけど、侮辱された僕が謝るのは変だと、「もういいよ。この話はやめよう。」と切り上げた。


もういい。美和の好きな人の話はしない。だって、訊いたって教えてくれないし、そうやって、泣きたいような顔を僕に見せるだろう?


生チョコを付属のプラスチックピックで刺し、口に放り込んだ。


モグ、モグモグ。さほど硬くない。


しかし見た目はクールなキューブ形なのに、食べると結構甘かった。


美和にも勧めた。


「いただきます。」


生チョコを一つ食べた美和の頬が緩むのを見て、僕はホッとした。


「もっと食べて。こっちのも。」


「うん。」


さっき僕が脅かしてしまったせいか、萎縮したようにも見える美和は小さく頷き、“勿体なくて食べられない”と言っていたチョコをつまんだ。


僕は悪くないと思いながらも、罪悪感は募るばかり。


吐きそうになった溜め息を堪えて、僕も適当なチョコレートを一つ口に放り込み、舌の上で転がした。


しかし、生チョコと違って舐めているだけでは大して溶けなかった。


歯を立ててみるが、びくともしない。


チョコレートより先に僕の歯の方が折れそうで、考えなしに口に放り込んでしまった事を後悔した。


会話も出来ず、気まずい空気の中、僕はテーブルの上に放置したままの志歩理からの手紙の封筒を開けてみた。


すると、それは手紙ではなく、カードだった。


【元啓 お元気?美和ちゃんと仲良く暮らしてる?私は元気よ。たまには電話頂戴ね!


追伸 美和ちゃんと二人で食べてね!】


これだけ?と僕はカードを裏返した。


何もない。単なるバレンタインチョコか……志歩理は昔からそうだった。義理がたいと言うか何と言うか、イベント事を大切にする。確かに、そう言った事を嫌う社長より、好む社長の経営する会社の方が活気があるように思う。


経営者として、志歩理は凄いと思う。普段から各所に気を配って、会社を良い方向へ導く事を怠らない。


プライベートも仕事も妥協しないから、今の志歩理があるのだろう。


ふと顔を上げて美和を見ると、便箋を広げて手に持ち、食い入るように見つめて居る。


何が書かれているのか気になったが、訊かないでおこうと思う。


代わりに僕は、もう一通の封筒を開いた。


中身は、三つ折りの白い便箋だった。


ゆっくり開き、目を通した。


お世辞にも綺麗とは言えないが、丁寧に書かれた泰道の字からは、真剣な想いが伝わって来た。


途中、その内容から、気持ちが急いて、流し読んでしまった為、二度、三度と読み返した。


「元?元の方には何て書いてあるの?」


志歩理の事が大好きな美和には伝えない方が良い気もしたが、泰道の望みを叶えるには、美和にも伝えて協力して貰わなければならない。


「美和の方は?」


教えてくれないだろうと思いながらも訊いてみると、


「交換。」と、意外にもあっさりと美和は志歩理からの手紙を開いて、テーブルの上に広げた。


それに気を取られている僕の手から、美和はサッと泰道の手紙を抜き取った。


しまったと思う反面、却って良かったかもしれないと思う自分に気付いた。


志歩理の事が大好きな美和にとってはつらい話だろうから。


僕だってつらい。


長年、共に戦って来た親友が病に臥して居る報せなど聞きたくはなかった。


泰道の手紙によれば、志歩理は今、病に冒され入院して居ると言う。


癌の再発かとヒヤリとしたが、そうではなく、


突然の眩暈、酷い耳鳴りに難聴を伴い、近くの病院を受診した所、大学病院を紹介され、即入院となったらしい。


元々過労気味だったと言うから、病気の事はなくても入院は避けられなかっただろうと、泰道の手紙にはあった。


病名はまだはっきりしないとの事だが、突発性難聴、或いはメニエール病である可能性が高いらしい。


仮に志歩理がメニエール病だと診断された場合、今の仕事量を一人でこなし続けて行くのは厳しいと、医師に告げられたそうだ。


「それで、元はどうするの?」


泰道からの手紙を最後まで読んだらしい美和は、開いたままの便箋に視線を落としながら、小さな声で僕に訊いた。


「うん……」


泰道の手紙の最後に、彼が僕に望む事が書かれて居る。


それを伝える為に書かれたと分かる僕は。迷って居た。


「私なら大丈夫だから、行って来て。」


顔を上げて美和は、僕の顔を真っ直ぐ見つめながらそう言った。


【木村さん、どうかお願いします。少しの間だけでもいいので、志歩理の代わりに会社を引っ張って行って貰えないでしょうか。志歩理を助けて下さい。】


泰道の望みは、僕がENT社に戻り、一時的に社長の代わりをするという事だった。


随分前の事だが、僕は志歩理の代わりに社長代理として表舞台に立っていた事もあるので、仕事についての不安はない。


しかし、それを引き受ける事は、すなわちここを離れて、この家に美和を一人にしてしまうという事。


年末の葬儀に呼ばれた時と同じだ……いや、それより長く家を空ける事になる。


志歩理の事は心配だし、助けたい。でも……


出来ない────と思った。


けれど声は発せず、俯いた僕に向かって、美和が言った。


「行った方がいいよ、元。私なら……実家に行けばいいんでしょう?」


ここから幼稚園に通うのは、車がなければとても不便だった。


日に何本もないバスの停留所まで歩き、帰りも同じ。そしてバスが来るまでの待ち時間が長いから、通勤時間は車で通うより倍近く掛かる。


「本当に、実家で暮らすつもり?」


訊きながら感じたのは、美和より僕の方がこの家から離れたくないという事。


「一人でもここに居たいけど、ダメなんでしょう?」


それは駄目だよ。


「うん。」


「分かった。行って来て。」


そうは返事をしても、僕は進んで行きたい訳じゃない。美和だって行って欲しい訳じゃないだろうに、それでも僕にそう言ったのは、志歩理を想っての事。


自分より僕より、志歩理を優先させる所、本当に志歩理が好きなんだな。


「分かった。」


皆が僕に志歩理の力になれと願っているなら、そうしようと思う。


わーさんも生きてここに居たら、多分そう言う。


『行って、志歩理ちゃんの力になって。俺は一人でも大丈夫だから』


美和と同じだ。二人は僕の事、それほど必要としてないよね。


この家を離れる事を、わーさんと離れる事を、それから────美和と離れる事を寂しいと思うのは僕だけなんだと、胸の奥が静かに、そして冷たくなるのを感じた。


美和の手から泰道の手紙を受け取った僕は、「電話して来る。」と立ち上がった。


居間にスマートフォンを取りに行き、コートを着込むと、車の鍵を持って勝手口から外に出た。


雪は静かに降り続いていた。それほど多くはないが、明日にはまた雪掻きしなくてはいけない位になるだろう。


ザク、ザクザク……


駆け込んだ運転席で、僕は大きく息を吐いた。


握りしめたままのスマートフォンの真っ暗な画面を見つめる。


志歩理を助けたくない訳ではない。


でも、志歩理が僕に助けて貰いたいと思って居る訳でもない。


僕がわざわざ行かなくても、何とかなるのではないかと思う。


【志歩理には内緒でこの手紙を書いて居ます】


【どうかお電話下さい。ただし、すぐには出られないかもしれません。】


それは、入院した志歩理に付き添って居るからと窺える内容で、そうまでして僕に知らせたのは、よっぽどの事だと考えると無下に出来ず……僕は泰道に電話をかけた。


彼の手紙にあったように、長くコール音を鳴らしてみても、出なかった。


病室に居て、着信音を切って居るから気付かない可能性もあるが、しかし彼はおそらく僕からの電話を待って居るだろうから────


僕は一旦車から降り、フロントガラスに積もる雪を手で払った。


パサ、バサ、バサッ!


雪が落ちる。


白い息を吐き出す僕の鼻が少し痛くなって来た所で車に戻り、エンジンを掛けた。


濡れて赤くなった手を、カーエアコンの送風口に当てて温めて居ると、助手席のシートの上で、スマートフォンがブブブと動き出した。


【着信 0×0-××××-××××】


画面に表示されたのは、僕がさっきかけた泰道の番号だった。


急いで握り、電話に出ると『木村さんですか?』と、しばらく聞かなかった泰道の声が響いた。


「はい、木村です。」


つい堅くなってしまう事に苦笑いして、『虎越です。ご無沙汰しています』と決まり文句を聞いた後、


「早速ですが、志歩理、さんのお加減はいかがですか?」危うく旦那に向かって呼び捨てにしてしまう所だった。


泰道はどうも焼きもちやきらしい事は志歩理からちらと聞かされて居た。


志歩理に近付く男性には、未既婚問わず、泰道が眼を光らせて居るらしいから、志歩理も大変だと同情する。


まあ、それだけ愛されて居るという事か。


夫婦仲が良くて、羨ましい事だ。


『志歩理の事ですが────』


言い難いと言わんばかりに言葉を切った泰道は、僕が「はい」と返事をすると、洟を啜って、また話し出した。


『今、入院治療中です。本当は具合が悪くてすごく不安な筈なのに、それを表に出すと仕事復帰が遅くなると思って、このままだと、完全によくなる前に退院したいと言い出しそうで心配なんです』


「そうですか。仕事の事以外、他に気になる事はありますか?」


『いいえ……“私にはそれしかないから”と────もし、入院した事でこの先仕事が出来なくなったらとそればかり考えてしまって居るようです。だから、木村さんが以前のように、志歩理の代わりに社長を務めて下さったら、志歩理も安心して治療に専念出来ると思うんです』


志歩理から仕事を取り上げたからと言って、何も残らない訳ではないけれど、社員想いの志歩理の事だ、社長不在の会社の事を心配にならない訳がない。


癌の再発ではなかった事は不幸中の幸いだったけれども、現在、志歩理が病気で苦しんで居る事には変わらず、僕も何か力になりたいとは思う。


美和はどうだろう。


美和もやはり志歩理を助けたいと思うだろう。特に、憧れの人なのだから。


だから、僕が泰道の願いを叶えなければ、志歩理を助けなければ、美和は僕を薄情な人間と思うだけでは済まず、すごく恨むだろう。


僕の選ぶ道は初めから一つしか無さそうだ。


仮に二つあったとしても、僕は一人だ。一つしか選べない。


迷う時間も無い。


「僕でよければ、そちらに行きます。」


そう返事をすると、泰道は『えっ?』と驚いた声を出した。


「あれ?そういうお話では無かったですか?」


僕が志歩理の代わりに社長を務めるとは、聞き違いだったのか?と訊き返すと


『いえ、そうですそうです、その通りです。まさかこんなにあっさり引き受けて下さるとは思ってなかったので……』と僕を説得する自信が無かった事を窺わせた。


「あっさり、でも無いですけど、志歩理との付き合いは長いし、僕に手伝える事なら手伝います。」


『あの、でも、美和さんはいいと言ってくれたのですか?』


どうして美和がいいと言ったかなんて言い出したのか。


「仮に美和が駄目と言ったら、どうなるのですか?」


『いや、それは────』


「何でしょう。はっきり言って下さらないと、気になって、お引き受け出来ません。」


美和は反対してないし、僕も引き受けるつもりだったけどそう言ってみると、泰道は慌てた。


『いえ、それは困ります!実は、志歩理から、木村さんには絶対言うなと言われた理由の一つが美和さんの事なんです』


美和の事?


志歩理は美和の何を気にして居ると言うのだろう。さっき見せて貰った美和宛の手紙も【お元気ですか?】とか【頑張ってますか?】等、特段変わった内容のものでは無かった。


何があると言うのだろう。


僕の事より美和の事を言われるのが気になるのは、どこかおかしくなってしまったからだろうか。


「志歩理には黙って居ますから教えて下さい。」


そう言うと、泰道は教えてくれた。


僕が志歩理の許へ行った場合、美和が過疎地のこの家に独りで残されてしまう事を、志歩理は心配して居るらしい。


「そんな事はしませんよ。」


美和をこの家に独り残すなんて、僕には出来ない。


『えっ?じゃあ?』


「美和は、こちらが地元なので、この家では暮らさず、実家に帰るそうです。」


『それはそれで申し訳ないです』


しかし、仕方の無い事だ。


僕はいいとしても、美和は実家から幼稚園に通うとしたら、車ではないから少し大変になるだろう。


だけど、美和がいいと言うのだから、志歩理と泰道は気にしなくていい。


「気にしないで下さい。美和もそう言うと思います。」


そう言った僕こそ気にしてしまうけれど、美和が実家に戻るのは、この家で僕と暮らすよりは快適な筈だろう……ある一点を除いては。


ある一点とは────結婚の話を持ち出される事。


『それでは、いつ頃、こちらにいらして頂けますか?』


「準備が整い次第、またご連絡します。」


『分かりました。本当にありがとうございます。木村さんのおかげで、志歩理も治療に専念出来ます。それではお待ちして居ます。失礼します』


泰道は、安心したような声で感謝を述べて電話を切った。電話口で何度もお辞儀して居ただろう泰道の姿が目に浮かんだ。


彼は純粋でいい人過ぎるからな。毒がないから、志歩理のようには上手く立ち回れない。


けれども、そこが彼の長所、且つ、志歩理が惚れ込んだ所でもあると僕は思う。


二人の間に子どもを授かる事は叶わないが、それでも夫婦仲良く老いる事が出来るというのは、誰からも羨ましく思われる“しあわせ”なのだと思う。


僕とわーさんのように、ならなければいいな。


いつまでも二人仲良くあって欲しい。


僕と美和の分も、志歩理達が“しあわせ”になればいいと思う。


僻んだりしないよ。多分美和もそう願ってる。


だから僕を行かせるんだ、美和は。


自分は色々我慢してまで、志歩理を想って居たいんだ。


美和の事は羨ましいと思う。


全力で片想い出来るなんて、いいなあ。


少し切ないけど、それが恋の醍醐味だから。


電話を終えると僕は、雪がパタパタ落ちて、薄いグレーに覆われて行ってしまうフロントガラス越しに、わーさんのお墓を眺めて居た。


積もって行く雪に遮られ、わーさんのお墓がだんだん見えなくなった時、急に不安になった。


わーさんのお墓が見えなくなったからというだけではない。


それまで見えていたわーさんのお墓は雪に埋もれてしまって居て、それは毎日雪掻きをしなかったせいでもある。


今まで毎日雪掻きしなかったけれど、それはいつでもすぐに出来るという安心感からの怠慢で、しかし今度雪が積もったら、すぐに雪掻きしたいと思っても出来ないからの放置になる。


僕は車から降りた。


そして、お墓へ向かって、膝下までの雪に少し足を取られながらも一直線に進んだ。


はあ、はあ、はあ……


僕は白く雪を被ったお墓の雪を両手で払った。不思議と冷たさは感じない。


お墓を見つめたまま、手を合わせた。


ここを離れる事、わーさんに相談しないで勝手に決めてごめんね。


家とお墓を守ると誓っておいて、ここを離れる事になるなんて。


わーさんはきっと、反対しないって思ってる。でもそれは僕の勝手な思い込み。


現にわーさんの声は聞こえない。


怒ってないにしても、寂しいよね、きっと。


死んでしまったから離れてもいいなんて考えた訳じゃないんだ。


本当はここにずっと居て、わーさんの事を忘れずに────なんて、こんなに近くに居たって、お墓にこんなに雪が積もるまで何もしなかった僕に、言う資格ないよね。


本当に、ごめんなさい。


僕はわーさんに深く頭を下げた。


しばらく頭を上げられなかった。


離れてしまう事が申し訳なくて。


仮に『いいよ、気にしなくて』とわーさんの声が聞こえたりしたら、もっと切なくなる。


ごめんなさい。


遣る瀬無い。


苦しくなるよ。


会いたい。


でも会えない。


離れたくない。


だけど離れる。


矛盾してる。


でも生きて居られる。


だから変な感じがしてしまうんだ。


この世で生きて行くと、辻褄が合わない事が、想像を上回る。


その度、迷い、悩み、模索しながら進むしかないと、選択を後悔したりもする人生を、僕はまだ終えられない。


自ら終わらせたいなんて考えた事もあったけれど、今の僕にはそれが出来ない。


まだ、誰かに必要とされて居るみたいだから。


ドン!


ふいに、背中に大きな衝撃を感じた。


痛いなと思って振り返ると、美和が僕の腰に腕を回し、がっちり抱き付いて居た。


「何してるの……?」


「へへっ。わーさんに焼きもちやかせたら、出て来てくれるかなーって思ったの!」


僕のウエストをきゅっと締める美和の腕をよく見ると、コートを着て居ない。


「こんな事位で、わーさんは焼きもちなんてやかないよ。それより、コートも着ないで、風邪を引くじゃないか。」


僕は、雪を吸い込んで冷たくなった美和の手を解きながら振り向き、美和と視線を合わせた。


「馬鹿だから、風邪引かないよ。」


「そんな事言って────」「ごめんなさい、元。私、余計な事を言っちゃったみたい。」


「余計な事って、何?」突然そう言われても、美和に言われた余計な事とは、何の事だか分からなかった。


「『行って来て』なんて言っちゃって、ごめんね。」


「何故、それが余計な事なの?」寧ろ、気を遣ってくれたのだと思って居た。


「元の気持ちも考えずに、ごめん……元が決める事なのに────」


謝りながら、美和は僕の背中に顔を埋めて洟を啜った。


「泣いてる?」


「ううん、泣いてないよ?」


明らかな涙声で返されてもな。


「……寂しい?」


僕はゆっくりわーさんのお墓に視線を移しながら訊いた。


「どっちでもないよ。」


強い声で返された。


“どっちでもない”とは、どっちなの?と考えると、多分、僕と同じだと思った。


「僕は、寂しいよ。」


美和は黙った。そしてまた僕のウエストに腕を回したので、


「家に入ろう。」と、再び美和の手を解こうと手を重ねると、


「元は、あったかい人だよね。」と言った。


美和の手は雪に触れた僕の手よりも冷たかったので、


「今だけ、そう感じるんだよ。」と返すと、美和はクスクス笑って「違うよ。」と言った。


「違うって、何が?」


「あったかいって、体温の事じゃないよ。」


体温……ハッとした。


「家に入るよ!これ以上、体を冷やしたら大変だ!」


慌てて僕は今度こそと解いた美和の手を引き、さっき踏み分けた雪道を戻った。


勝手口を入り、それぞれ靴を脱いで居ると、くしゅんと美和が大きなくしゃみをした。


「風邪引くよ?お風呂入る?」


「ううん、大丈夫。」


「大丈夫じゃないよ。コートも着ないで!」


「そうだね、ごめんなさい。」


「熱いお茶淹れるから、そうだ、手をお湯に浸けたら、少しは温かくなる。」


「もう元!これ位大丈夫!私の方が田舎暮らしは長いんだから。」


「それとこれとは関係ないよ。」


雪国育ちだって、長時間、雪の中にじっと立ち尽くして居たら、風邪を引くかもしれない。


「それよりね、聞いて元。」


台所で手を洗った美和は、冷蔵庫の前で手招きしながら言った。


「何?」


すると美和は、冷蔵庫の中からバットを取り出し「ほら見て。固まったみたい。」と嬉しそうに言った。


「それで?」


「それで?じゃないよ。これから、これを賽の目に切って、ココアをまぶすの。」


ああ、そうだった。しかし待てよ?


「早過ぎない?まだ固まってないかもしれないよ?」と僕が言っても、


「もう大丈夫そうだよ?それに、手が冷たい内の方が、チョコ触っても溶けなくて良さそうでしょ?」と聞かず、美和はまな板と包丁を取り出した。


まだ早いかもと言う僕に、平気だと包丁を構える美和。


「せーの!」掛け声と同時に、平たい茶色の塊にスッと入れられる鋭い刃先。


「あ、少し曲がったかなぁ?」


見ると、確かに真っ直ぐではない包丁。


「いいんじゃない?」多少誤差があっても。


「そうかなぁ?」美和がゆっくり引き上げた包丁には、刃の両側にベッタリとチョコレートがくっついていた。


「わ!どうしよう!」


一見固まったように見えていたチョコレートの塊は、実はまだ柔らかく、固まっていなかった。


「どうしようったって……くくっ!」


眉尻を下げ、口をへの字に曲げた美和の情けない顔を見た僕は、思わず吹き出した。


可笑しい。腹を抱えて笑った。


「もー、なによぅ、そんなに笑わなくてもいいでしょ。」


「だって、あは、ははっ、ははははは……」


ふと見つめ合うと、急に胸が重苦しくなった。


明日、多分────僕はここを発つ。


わーさんの居るこの家としばらくお別れだ。


いつの間にか自分の家のようにここに住み着いてしまった美和を追い出し、僕は志歩理の元へ行く。


「明日、行くよ。志歩理の所に。」


「うん。」


「今夜荷物纏めて、美和も、明日からここへ帰るんじゃなくて、実家へ行ける?」


「分かってる。」


美和は下唇を噛んで俯いた後、あのね、と顔を上げた。


「元が帰って来たら、私もここに帰って来てもいい?」


やっぱり美和はここを自分の家だと思ってるんだな。厚かましいな、ははっ。


「居候じゃなかったの?」僕の唇の端は、また上がってしまう。


「そうだよ、居候だもん。追い出されても出て行かないんだよ?」


美和もにこりとして僕に言った。


「じゃあ、居候くん、包丁貸して。」


「はい。」


美和から受け取った包丁で、グニャグニャのチョコレートを切り分ける……のは無理だった。


諦めた僕は、包丁にべったりこびり付いた生チョコレート?を左手の人差し指で(こそ)げ取って口に運んだ。


パクッ……うん、甘いな。


舌の上で蕩けたチョコレートは、僕の口の中いっぱいに広がった。


包丁を見ると、まだチョコレートは残って居た。


僕は包丁の刃を下から親指と人差し指で挟んだまま、スーッと刃先へ移動した。


すると、指にチョコレートが沢山付いた。


僕の親指に付いた分を舌で舐めると、それを見て居た美和が、


「あ、元ずるーい!私も食べたい!」と言い出した。僕は手にして居た包丁を美和に渡そうとしたが、美和は首を横に振り、


「そうじゃなくて、その指のチョコ、いいなあって。」


「指のチョコ?え?」


僕はまだ人差し指の先に残るチョコを見た。


「貰ってもいい?」


「貰うって、え、何故これを────」


チョコならここにいっぱいある。まだ切り分けていないだけで……ぱくん!


事態を把握出来ない僕は、目を(しばたた)かせた。


僕の人指し指は、見事に食べられて居た、美和に。


美和の口の中の温度は僕に指先より熱く、更に美和は舌で僕の指先を舐めたので、チョコがこびり付いて居る感覚は無くなった。


美和は僕の人差し指をまだ唇で挟んだまま、僕の顔を見上げた。


真っ直ぐ、真剣な瞳を美和に向けられた僕は、次の言葉を失い、慌てた。


何故慌てたかって?それは急に心臓が騒ぎ出したから。


どきん、どきん、どきんと、何か悪い病気ではないかと不安になる位、強く速く打ち続ける僕の心臓。


息苦しさに堪えきれなくなって、目を逸らし、人差し指を美和の口から引き抜いた。


「美味しかった。」


明るい声でそう言った美和を見る事が出来ずに僕は、まだ右手に持ったままだった包丁を洗う為、シンクに近付いた。


こびりついたチョコレートをお湯で溶かしながら洗い、布巾で拭いた後、バタンと冷蔵庫の扉を開閉した音に気付いて振り返ると、何も無くなったテーブルの上を、美和が台布巾で拭いていた。


まな板はいつの間にかシンクの調理台に移動されて居る。


僕は包丁とまな板をシンク下の収納戸棚へしまった。


「さて!」と元気よく発した美和の顔を、ようやく見た僕に、美和が続けた。


「明日の支度、しないとね。」


「うん、そうだね……」と僕は言いつつ、


ニコニコしながら二度三度頷いた美和を見てしまったら、今頃になって、急に『行く』と決めた事を強く後悔するようになった。


それから、家を空ける為の支度をあれこれして居る内に、夜になった。


冷蔵庫の整理をし、冷凍に出来る食材は調理をしてから冷凍した。


夕食を済ませた後、美和がお風呂に入って居る間、僕は仏壇の前に腰を下ろした。


わーさんの遺影をどうしよう、持って行こうかと一瞬考え、


いや、やはりこのまま、わーさんにはこの家で留守番して貰おうと決めた。


「ごめんね。僕が家を空ける事になって寂しい?」


ぽつり訊いたって、わーさんからの返事がないのは分かって居る。


何かの答えを期待して居た時期はもう過ぎて居た。


この家を離れない、そう思って居た僕が、この家から一時的にでも離れる事を考えられるようになるなんて、とまだ自分で自分のした決断を信じられないで居る。


僕は変わってしまったのかな。年を重ね、時と共に。


わーさんの事を忘れた訳ではない。一人勝手に縛られていた想いから、解き放たれたような感覚も少しある。


離れたくなかったけれど、離れてみる。


そうする事で見えて来る事があるかもしれない、と考えられたのは、年末に、僕よりもこの家に残る事に固執した美和の姿を見て居たせいもあるだろう。


わーさんは待って居てくれる。そして美和も────?


「それは分からないか。美和がどうしようと僕には関係無いからな。」


独り言を呟いた後、カタッ、僕の背後でした音に振り向いた。


「お風呂、どうぞ。」


美和の来ているパジャマ代わりのスウェット上下は、裏地がフリースのあったか仕様。美和がみかん色で僕は紺色のお揃いで買った物。


以前より大分伸びた美和の襟足からは、今夜は水が滴って居ない。珍しい。


でも、美和の首に提げたタオルはかなり湿って居るようで、「うん。」と返事をした僕は、洗面所からタオルを持って居間に戻ると、今度は美和が、わーさんと話して居るようだった。


戸を開けず、聞き耳を立てて居ると、


「私がどうしようと元には関係無い、だって、ねぇー……分かってたけど。」


だんだん暗くなる声に、僕はここで美和の前に出て行けないと思い、手にして居るタオルをぎゅっと握り締めた。


「人の気も知らないで、ね?わーさん。」


美和は僕に不満なんてあまり無いのかと思って居た。どちらかと言うと、僕が美和に振り回されて居る方だと思って居たのに、美和はそうは思って居なかったと言う事を実は僕に言いたいのだろうか。


確かに、今回の事は、僕が志歩理の所へ行くと決めた事で、僕がこの家に戻るまでの間、美和に実家に行って貰う事になってしまったから、申し訳ないとは思うけど。


僕はお湯に浸かりながら考えた。


美和の不満は何だろう?僕に対して?それともこの家に住めなくなった事に対して?


僕の事が嫌い……ではないとしたら、


美和は、僕以上にこの家に住むのが好きなだけかな?


もしも僕が『一人でここに住んで居てもいいよ』と言ったら、美和はどうするだろう?


『元が戻るまで、しっかり留守番するね!』


────いや、おそらく『車がなくて不便だから、実家に行く』と言うだろうな。僕ならそうする。


こんな不便で寂しい山奥に一人で住みたいと思う25歳の女性はそうそう居ないだろう。


いくらこの家が好きだと言ったって、夏ならまだしも、冬だから、特にここは都会より厳しい環境で、男の僕でも雪掻きなど楽ではないと感じる。この家に女性一人で暮らすのは、本当に大変な事だと思う。


僕が先に死んで、この家に美和を一人にしたらと考えると、そうなる前に、どこか暮らすのが楽な移住先を見つけて欲しい────と、その時、僕の脳裏にわーさんが甦った。


わーさんが病気である事、移住する事を僕に打ち明けた、あの雨の夜の事。


僕は一緒に死んでもいいから、わーさんと離れたくないと必死だったあの日。


わーさんの気持ちを考える余裕は無く、例えあったとしても気付けなかっただろうわーさんの気持ちが、今は少し分かるような気がした。


僕の事が大事だったから、死後、独りになった僕を心配する方が嫌で、遠ざかろうとしたんだね。


でも結局僕は、わーさんの望みを聞かず、付いて来て、一緒に暮らした。


わーさんが死んで、僕はずっと苦しんだ。


それは、わーさんの気持ちを、二度と確かめる事が出来ないからだ。


僕がわーさんと同じ立場にならなければ、永遠に分からない気持ち。


今も寂しい。わーさんに会えない事は。


だけど、すぐにそっちへ行こうとは思わなくなって居た。


僕はまだここで、わーさんを想いながら暮らせる。


その力は、美和がくれた。


片方向の愛は、苦しくない寂しくないものではないけれど、手離したらいけない、大切なものだって事を教えてくれた。


僕はまだ、こっちでわーさんに片想いを続ける。


美和は『元のは両想いだよ』と言うけれど。


風呂上がり、台所に寄ると、シンク横の調理台に向かう美和の背中がギクリとしたのが分かった。


「何をしてるの?」と聞くまでも無かった。


右手には包丁、そして調理台の上には、まな板の端がちらと見えた。


そろりと顔だけ振り向いた美和が訊いた。


「えっと、お水?」


「うん。」


「待って、今用意するから。」


「急がなくていいよ。」


僕は椅子を引き、腰を下ろした。


気付かない振りをしようかなと思ったけれど、ガサゴソ、美和が隠すのに苦労しているみたいだから、そんなの今さらだと思って、


「手伝おうか?」とは、隠さなくてもいいようにと言ったのだけれど、


それには答えず、美和は水を汲んだコップを、僕の前のテーブルにコトンと置いた。


美和は再び僕に背を向け、包丁を握った。


それを見ながら僕は、水をごくんと飲み込んだ。とても冷たい。


「……元も、手伝ってくれる?」


美和は握っただけの包丁ごと振り向いて、僕に訊いた。


「いいよ。」


コソコソ秘密にされるより嬉しかった。


立ち上がり、美和の隣へ行こうとすると、美和の方がこちらにまな板を持ってやって来た。


昼間と同じく、テーブル上で、二人の手による生チョコ作りが始まった。


今度こそ固まったチョコを賽の目に切り分け、ココアパウダーをまぶして、ついに完成。


「出来たね。元、手伝ってくれて、ありがとう。」


小さな箱にきっちり詰めた生チョコに蓋をして、美和は微笑んだ。


「いえいえ。」


たったこれだけの事だったけれど、朝から夜まで掛かってようやく完成した手作り生チョコには、小さな感動を覚えた。


世の女性達が、バレンタインだ手作りチョコだと騒ぐのは、こういう事だったからなんだと、少し分かったような気持ちになった。


大変だったけど、目標達成の充足感がそれを上回る。


「もう一箱あるの。元が詰めて。」と、美和は何故か僕に、余った空箱を手渡した。


どうして僕が?と想いながらも、チョコがまだ沢山残って居たので、折角だからやってみようと、僕はその小さな箱に、少し不揃いなチョコを一つづつ詰めて行った。


最後の一つ、その空間に入る大きさのチョコを選び、パズルを完成させる時のような気持ちで詰めると、それまで静かに見ていた美和が拍手し始めた。


何だか恥ずかしい、と僕が手早く箱の蓋を被せると、美和は「じゃあ、渡して来て。」と言った。


「渡す?誰に?」


「それは勿論、元の“最愛の人”にだよ。」


────最愛の人、


振り向くと、そこにはいつもと変わらぬ笑顔を見せる彼の写真があった。


両想いだったのに、今は片想いの気分。


でも、離れて居ても、きっとわーさんは、僕の事を見守ってくれて居る、今はそう信じて居られた。


「渡すって、これを?」


一応訊いてみると、


「そう、わーさんに。」美和は何度か頷いた。


……ええと、渡す?


わーさんに、どうやって?


「ほら、早く!手で持ってたら溶けちゃう!」


「え?あ────」


美和は僕の背中をぐいぐい押して、わーさんの仏壇の前に移動した。


「渡すって、ここに供えるって事?」


「“供える”じゃなくて“贈る”んだよ?ここに、元のここにある気持ちをね、わーさんに“届ける”の。」


言いながら、美和は自分の胸と、僕の胸に手を当てた。


とくんとくんと鳴る心臓。


心はここにあると言われるけれど、実際考えているのは記憶があるのは頭の中だ。


心は心臓にない筈、なのに、大切な人の事を想うと、胸は熱くなったり苦しくなったりする────だから、心はここに、胸の奥にあると、誰もが錯覚してしまうのだろう。


人は死んで魂になっても、心は消えずに、天国から、生きて居る人達を見守るなんて信じないと寂しさを堪えられなくて。


僕もそうだ。


何度もわーさんの遺影に話し掛けては、返事の無い事に、益々寂しさを募らせたりして、情けない。


亡くなった人に何を求めたって返っては来ないのに、馬鹿だな。


けれど、美和の言うように、“贈る”なら、出来るかもしれない。


届かない、かもしれない。


それでもと思って、わーさんの写真の前にチョコの箱を置いたのは、届かなくても、返事は貰えなくても、僕の気持ちはここにあって、いつも、いつまでも、わーさんを想って居ると、僕は僕の前に示したかったのかもしれない。改めて、僕の一番大切な人はわーさんで、会えなくなっても、離れても、それは変えられないって思った。


好きだよ、わーさん。


いつもね、いつまでもね、


僕はわーさんの事を好きで居られて、しあわせなんだ。


わーさんから、何の言葉も返って来ないなんて拗ねてごめんね。


わーさんだって、返せるものなら僕に返してくれてるよね。


だって、そういう人だった。どんな時も、喧嘩してたって、僕の事を無視しなかった。


「わーさんに、贈れた?」


いつの間にか、僕の隣に立って居た美和は、胸の前で手を合わせて居た。


そうされるのは、何だか嬉しくて、


「ありがとう。」僕は自分でもビックリする位、素直にお礼を述べて居た。


「ううん、私の方こそありがとう。一緒にチョコ作ってくれて。」


僕は45年生きて来て、初めて、バレンタインの手作りチョコはいいものだと知れた。


好きな人へ込めた想いが、そこから止め処なく溢れて、キラキラ光って見えた。



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