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そうそうない  作者: 碧井 漪
3/43

3 2015年8月30日のこと

翌朝・・・



パン、パンパン、パーン!



何かを叩く音が聞こえた。



チュン、チュンチュン!



怯えた鳴き声を上げたスズメの飛び立つ羽音に僕は目を開く。



ここは、家だ。見上げている天井が明るい。朝・・・?



窓の方を見る。



そこはいつもと違う光景だった。開け放たれた窓、両脇に追いやられたカーテンは微風に揺れていた。



夜が明けてまだ間もない空の下、奥に一面のひまわり、手前に布団が見える。物干し竿に掛けられたわーさんの布団。



パーン、パンパンパン。パンパン。



シーツを剥がされた布団のブルーの地が見える。僕の布団は緑の地だ。



わーさん、布団干してくれたんだ。僕は干せなかった。わーさんが亡くなった後・・・え?



微睡んでいた僕はカッと目を見開き、飛び起きたと言ってもいい位の勢いで起き、開け放たれた縁側から黒いサンダルを突っ掛け、外に出ようとした・・・が、サンダルがない。



地面と干された布団の間から、黒いサンダルを履いた二本の脚が見える。



パンパンパン。



布団の向こう側をしきりに叩く音が聞こえて来る。



わーさんじゃない。一体、誰だ?



白くほっそりした脚。女・・・そうだ!



僕はゆうべの事を思い出した。



あの無礼な女だ。



よりによってどうして僕が大事にしてるわーさんの布団を干したりなんか───



他の事は許せても、わーさんに関する事は譲れない僕の頭には、カーッと血が(のぼ)っていた。



玄関に回ってスニーカーを履く余裕もなく、裸足で土の庭に飛び降りた。



パンパンパ・・・「何してるんだ!」



僕は布団叩きでわーさんの布団を叩く女の手首を掴んで止めた。



彼女は「見て分かりませんか?布団を干しているんです。いつから干してないんですか?カビてましたよ?」悪怯(わるび)れず言った。



分かってるよ、分かってたよ。けど、出来なかったんだ。



誰にも触らせたくなかったのに、何故あんたがこんな事・・・と僕は女を睨み付けた。



「とにかく、この布団には触らないでくれないか?」



「どうして?」



「どうしてもこうしても・・・やめないなら、警察呼ぶぞ?」



「布団干しただけで?」



「そうだ。」



僕は物干し竿から布団を引っ張り、反らせた胸に乗せるようにして、ヨタヨタ、縁側まで運んだ。



「折角干したばっかりなのに。」



彼女は不満そうに呟いたが、知るか。



わーさんの布団を勝手に干されて、怒ってるんだ。



僕の足の裏は泥塗(どろまみ)れになってしまったから、このまま縁側から家の中へ上がる事は出来ない。



玄関脇の水道で足を洗い、タオルで拭いてから家に上がらなくてはならないが、一旦、箪笥までタオルを取りに上がるのも不可能で───仕方がない。取り込んだ布団を窓辺に置いたまま、取り敢えず、足を洗いに玄関脇の水道へ歩いた。



ザーザー、ジャバジャバ。



まったく・・・何だって僕は、朝っぱらからこんな目に遭うんだ。



今日はわーさんの命日だって言うのに。



そうだ、一周忌。10時にはお坊さんが来る。早く支度しないと。



足を洗い終えた僕の所へ女がタオルを持ってやって来た。



忌々しい。



僕はその女の手なんか借りたくなかったが、黙って差し出されたタオルは僕の物だったので、僕はタオルを女の手から引ったくり、足を拭いた。その間、女は、さっき履いていた庭用の黒いサンダルを僕の横に揃えて置いて、一足先に家の中へ入った。



何だよ、急にしおらしくなったって、ゆうべの図々しさと今朝の身勝手な行動を僕は許していない。



早く出て行ってくれと言おうと、玄関を上がった僕は、この勢いを失いたくなくて、わざとドタドタ音を立てて廊下を歩いた。



僕は怒っていた。



でも、『布団干しただけで?』という女の言葉も一理あるなと思う自分もいた。



確かに、このままだったら布団はどんどん良くない状態になる。けれど僕は嫌だったんだ。



最期の時にわーさんが使っていた布団を、その時のまましまって置きたかったんだ。



正確に言うと、それをどうにも出来ない状態だった。僕は一年経った今でも、あの日、あの時にしがみ付いている・・・と、自分でも分かってる。



もう一年。長かったような、短かったような。今までの僕の人生の中で一番内容の薄い一年だったのは確かだ。



本当に一年経ったのだろうかって思う位、僕は時の流れなんてどうでもよくなっていたというか、明日、明後日、一年後、何をしようとか何をしているとか考える事が出来なくなっていた。



日々をただ過ごすだけ。



それなのに、ゆうべ現れた彼女に朝っぱらから振り回されて・・・久し振りに怒った。



怒るという感情がまだ僕の中にあった事に驚いた。まるで子どもみたいに、浮かぶ感情を素直に爆発させて、胸の奥底の澱みが少し外に流れ出て軽くなっていた。



縁側に置いた布団を眺めて、僕は何かに囚われ過ぎていたと気付く。



そして、それを破った彼女に立てた腹は治まっている。



もういい、もういいや。



布団を干したって干さなくたって、わーさんはこの世に戻って来れない。



何を拘っていたんだろう。



きっと怖かったんだ・・・認めるのが。



わーさんの時が止まった一年前から、僕一人でこの一年、今日まで歩いて来た事を認めてしまうのが。



わーさんが居なくても生きて行ける、それを認めたくなかった。



ふと、出汁の匂いが僕の鼻を擽った。



台所に、彼女の後ろ姿。



トントントン、包丁で刻む音、パタン、パタン、冷蔵庫を開け閉めする音。



勝手に何かを作っているようだ。



ピピーピピーピピー、炊飯器でご飯が炊けた音。



コンコン、カシャカシャ、カチッ、ジュワッ、ガタガタ。



玉子焼きかな。



別にいいけど。



僕は顔を洗い、歯磨きをして、髪を整え、礼服に着替えた。



布団を押し入れにしまい、開けていた窓と薄いカーテンを閉めてエアコンを点けた。



仏壇の水とご飯を取り替え、お線香をあげて手を合わせると、スッ、僕の後ろに正座する彼女の気配を感じた。



早く出て行って欲しい。特に今日はわーさんの命日だから、静かに過ごしたい。



僕は一日、ここを離れない事を心に決めていた。



昨年の今日、ここを離れた事を今も後悔している。



結局かき氷も間に合わなかった。



だから僕は今日、ここを離れない。



決意して立ち上がった僕に、「元啓さん、ご飯作ったんですけど、あの・・・」とさっきとは打って変わって自信なさそうに彼女が話し掛けた。


「いらない。」



僕は冷たく突き放す。それしか傍若無人な彼女に対抗する術を思い付かないからだ。



さっきからの僕は、小学生の子どものようで、少し恥ずかしい。



怒ったり、恥ずかしいと思う感情がある事、こちらへ来てからすっかり忘れていた。



僕は、僕という人間の器を、彼女に対する僕の態度から、ぼんやりと分かった。



傍若無人なのは僕の方。



ただし、ここは僕の家なのだから、そこへずかずか立ち入って来た彼女にも非はある。



長時間正座するのは足が痺れるから、お坊さんが来るまでの間は胡坐で過ごした。上着は暑いので後で着る。それまでに部屋を冷房で冷やしておく。扇風機も稼働して。



「どうぞ、冷たいお茶です。」



僕の後ろからそっと近付いて来た彼女は、丸盆に載せて、麦茶を運んで来た。



万が一の来客用にと用意して置いた麦茶グラスを茶托の上に載せ、まるでこの家の主人の如く、涼しい顔して僕の前に差し出した。



一体、彼女は何者というか何様なんだ?



見ると彼女は喪服まで着て、数珠を持ち、目を伏せている。



これではまるで僕の方が弔問客だ、と訳が分からなくなりながら、出された麦茶を呷った。



丸盆を下げた彼女は、再び僕の後ろに正座した。



そして、振り向いた僕に向かって丁寧にお辞儀した後、顔を上げ、その目に涙を浮かべながら、黙って『御佛前』と書かれた香典袋を二枚差し出した。



一つは志歩理から、もう一つは『岩沢美和』と書かれている。



彼女がここに来た理由、それは志歩理に頼まれて・・・ならば分かる。



僕は志歩理からの香典を受け取り、彼女の物は返した。



すると彼女は勝手に仏壇の引き出しを開け、その中に香典袋を収めてしまった。



「かっ・・・」勝手な事をしないで下さいと言う言葉を飲み込み、「帰って下さい。用事は済んだでしょう?」と、僕は感情を抑えながら言った。



「いいえ。」



彼女はそれから、だんまりを貫いた。



僕が何を言っても出て行こうとしない。



お坊さんが帰っても、彼女は僕の後ろに控えたまま。



結局、夕方までそうしていた。朝は食べたのか知らないが、昼も食べず、出て行こうともせず、彼女が何を考えているのか分からない僕はもう、彼女の事で頭を悩ませるのをやめた。





大事な今日という日。わーさんの命日なのだから、わーさんの事を考えよう。



陽が落ちて暗くなり、畑の黄色が見えなくなっても僕は仏壇の前にただ座っていた。



彼女はカーテンを閉めたり、灯かりを点けたり、台所で何かしたりと忙しなく動き始めた。



訪ねて来たのも夜だった。彼女は夜行性なのか?



いや、今朝早く布団を干していた事考えたらそうとも言えない。



布団・・・また僕の怒りが再燃し始めた。



彼女がゆうべ訪ねて来なかったら、僕がこの家に上げなかったら今、こんな怒りは感じていない筈なのに。



僕とわーさん、二人の家に、どうして僕は得体の知れない女を入れてしまったのだろう。



まさか居座るなんて思いもしなかったからと言い訳している暇があったら、何とか出て行って貰う方法を考えよう。



くん、くんくん・・・



何か香ばしい香りがする。珍しくスパイシーな香り。



これは、もしかして!



僕は台所へ駆け込んだ。



コンロの前に立っている彼女の肩を掴んで退けると、火に掛けた鍋の中を覗き込んだ。



くつくつくつ・・・



カレーだ。



まさか、とシンクの中を覗き込むと、空になったプラスチック容器。蓋に貼られたテープ記載の日付けは一年半前の物。



嘘だろ・・・と冷凍庫を開ける。



ない!



ない、どこにも。



わーさんと作り、冷凍しておいたカレーがない。



食べられずにしまってあった最後のカレー。



それを・・・彼女が勝手に解凍して、鍋の中に今入っていると言うのか?



「あ、これ。傷む前に食べた方がいいと思って。いくら冷凍でも一年半も過ぎてるからもう食べないと。」



また悪怯れずそう言い放ち、カチッ、火を止めた。



やっぱりこれは、わーさんと作った最後のカレーに間違いないと分かった途端、ガラガラと音を立てて、僕の足元は崩れて行くようだった。



布団といい、カレーといい、どうして彼女は突然やって来て、僕とわーさんの想い出を一つ、また一つと潰して行くのか。



本当に腹が立った。



「出て行ってくれ!もう沢山だ!」



僕は怒りに任せて彼女を怒鳴っていた。



彼女は怒鳴られたのにも拘わらず、平然と「カレー食べましょう。」と、皿にご飯をよそい始めた。



それはわーさんの皿だった。



「ふざけるな!これは、このカレーは食べちゃ駄目なんだよ!」



僕は、彼女が皿を持つその手を思い切り叩いた。



叩いた瞬間後悔した。床に落ちたら、皿が割れると。



ゴトッ!




皿がひっくり返ってキッチンマットの上に落ちた。



「熱っ・・・!」



わーさんの皿は割れなかったようだ。



慌てて皿を持ち上げると、彼女の足とキッチンマットの上に白いご飯が乗っかっていた。



炊き立てらしいご飯からは、白い湯気がもうもうと上がっている。



「あつっ・・・」言いながら彼女は足の上にあるご飯を取り払おうとしない。



見兼ねた僕は、熱々のご飯を手で払い落し、彼女を風呂場へ引っ張って行って、シャワーの水を彼女の赤くなった足の甲に掛けた。



「馬鹿、何ですぐ動かなかった。」



「悪いのは私だから。」



厚かましいくせに、急にしおらしくなる。



訳が分からない、女という生き物は。



悪いのは僕だ。



皿を叩き落としたせいで、彼女は足の甲を火傷した。



肌色のストッキングの上からも赤くなっているのがよく分かる。



何をやっているんだ僕は。



早く出て行って貰いたかっただけなのに。



怪我を負わせてしまった今、僕は彼女に強い事を言えなくなっていた。



キュッ。



シャワーを止め、タオルで彼女の火傷した足をそっと包んだ。ストッキングが貼り付くといけないと思い、僕は脱ぐよう促した。



やっぱり赤い。肌色の薄膜が取り払われた足の甲を見た僕の罪悪感は増した。



「足、ごめんなさい。」



「私こそ、ごめんなさい。」



空になったわーさんの皿がテーブルの上にある。彼女が着替えに行っている間、その皿を見ていたら、



『そんなに怒らなくてもいいじゃないか。彼女と仲良く、カレー食べなさい』



僕の振り向けない背後、遺影のわーさんがそう言っている気がした。



カレー・・・最後のカレー。



これを食べたら、後は死んでもいいやって思ってたカレー。



きっかけがなかった。だから今までズルズル生き続けてた。



いつ死んでもいい、なら、いつ食べてもいい。



今日食べよう。丁度、彼の命日だし、もう一度冷凍なんて出来ないし・・・うん。



遺影を振り返ると、わーさんがにっこり笑った気がした。



僕はカレー皿にご飯をよそい、カレーをかけた。



わーさんの皿は自分が使おうと、彼女に自分の皿を用意した。



着替えて台所に戻って来た彼女の足に、ガーゼで包んだ氷を括り付け、椅子を勧めた。



「いただきます。」僕が言うと、彼女は


「カレー、食べちゃっていいんですか?」とまた今更な事を言い出した。



「もういいんだ。どうしようもないだろ?女性には辛口だと思うけど、解凍した責任取って残さず食べてね。」



「はい・・・!」



意気揚々と食べ始めた彼女は、だんだん顰め面になりながら、水を大量に飲み、それでも何とか最後まで食べきった。



彼女の顔は涙と鼻水で酷くぐちゃぐちゃで、そういう僕も同じだった。



カチャ、カチャンと、ほぼ同時にスプーンを皿の中に置いた。



「ごぢぞうざまでぢだ。」手を合わせてぐすんぐすんと洟を啜る彼女。そんなに辛かった?



「ごちそうさま・・・」僕も倣って、普段はしないが、今夜は手を合わせてみた。



僕が使ったわーさんのカレー皿の中にはスプーンだけ。



わーさんと一緒に作った最後のカレー、食べちゃった。



さよなら、わーさん。



でもね、待ってて。



僕、死んだら必ずわーさんに逢いに行くから、それまでわーさん天国で一人だけど、僕もここで一人頑張るから、新しい恋人なんて作らないで待っててよね。



ふと見合わせた顔は、お互い思わず吹き出してしまう程、見ていられない顔になっていた。






今日は朝から何も食べていなかった。



お腹は膨れたが、心には小さな穴が開いたみたいな感じがする。



彼女が皿を洗う背中と冷凍庫の扉を交互に眺めて、僕は台所のテーブルに頬杖をつきながら、ぼんやりしていた。



これで良かったんだよな、と思う僕と、あーあ、食べちゃったなあ、と思う僕。



コトッ。



僕の目の前に湯呑みが置かれた。わーさんのだ。中身は緑茶、アツアツで湯気が立ち昇ってる。



彼女が腰にぶら下げた白タオルで手を拭きながら、もう一つの湯呑みをコトッと置いた。それはわーさんとお揃いの色違い食器棚に入っている僕の湯呑みではなく、来客用の紺地に白水玉の湯呑みだった。その事に僕は少しホッとしていた。



まだ彼女をここに置くと決めた訳ではない。寧ろ今すぐ出て行って欲しい。これ以上、僕とわーさんの想い出を壊すような事をして貰いたくない。



カレーの事は、食べてしまった今もまだ少しの後悔が胸に引っ掛かっている。



「カレー、ごちそうさまでした。」



「・・・・・・」



「カラかったけど美味しかった。」



お世辞だろうけど、不味かったと言われたら救われない。



返事をしない僕に、


「大事にしてたカレーだったんですか?」と訊いた。



「うん・・・」



ごめんなさい、と謝って来るのかと思いきや、


「分かります。おじいちゃんがそうだったから。」と言い出した。



「おじいちゃん?」



別に彼女のおじいちゃんに興味が湧いた訳ではないけれど、まだ熱い湯のみを両手で包み、茶柱に視線を落とす彼女の顔つきは、何か憑き物が落ちたみたいにスッキリして、でもしんみりとも取れるものだったから。



「うちの実家、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしてて、おじいちゃんとおばあちゃんは仲が良くも悪くもないって夫婦で、おじいちゃんはいつもおばあちゃんの料理に文句ばっかり言ってて、何を食べても”当たり前の味だ”って、褒めた事が無かった。でも、おばあちゃんが病気で亡くなってからは、何を食べても”不味い”しか言わなくなって、冷凍庫におばあちゃんが作った最後のひじきがあったんだけど、三年も前のだから、処分しようって話になって、そうしたらおじいちゃんが怒って、”俺が死ぬ時に食べるつもりなんだから触るな!”って・・・おじいちゃんはおばあちゃんを”当たり前”に”愛して”たんだって、気付いて、それからは皆でおばあちゃんの味を再現しようって頑張って・・・だけどまだおじいちゃんからは”不味い”としか言われないみたいだけど。」



ははっと笑った彼女の顔が、一瞬歪んだ。



左足を気にする素振り。



僕はハッとした。そうだ、さっきガーゼに巻いてくくった氷・・・



テーブルの下を覗き込んで、椅子に座る彼女の足を見ると、すでにガーゼは外されていた。



おそらく氷は融けてしまったのだろう。彼女自身でガーゼを外したんだ。



火傷の患部は赤くなっていて、痛々しい。



「ガーゼ、どこにやった?」



頭をテーブルの上に出してから訊ねると、


「もう平気です。」と微笑む彼女。



平気な訳ないだろう。僕にも経験があるから分かるが、足の甲の皮膚は薄く、少しの火傷でも物凄く痛い。



彼女の場合、火傷した面積が広いから、靴下だって履くのは辛い筈。



それもこれも、僕のせいだ。



だから今夜も彼女を追い出せない。



「僕が平気じゃない。」



このまま彼女を追い出したら、きっとわーさんにも嫌われる。



『元はそんな冷たい人間じゃないだろう?』とか、わーさんは言って、僕の代わりに彼女の火傷に薬を塗ったりとかしちゃいそう。



分かってる、悪いのは僕だから。



ガタン。



椅子から立ち上がった僕は冷凍庫を開けた。



ぽっかり、空いてしまったカレー容器の定位置。



いつか、いつか、いつか食べると先延ばしにしていたそれは今日で、その今日はわーさんの一周忌。



『これで良かったんだよ』と、わーさんなら言うと思う。



分かったよ、カレーの事はもういいよ。



僕は冷凍庫の中にある小さなジェル状の保冷剤を二つ引っ掴んで扉を閉めた。そして、流し台の上の布巾掛けに干されたガーゼに気付き、手に取ると、まだ湿っているそれに保冷剤を包み、椅子に座る彼女の前に跪いた。



「足、触るよ?」



「いいです。あの、もう平気なので気にしないで下さい。」



「出てくまでは僕が大家だから、言う事聞いてくれないと困る。」



「え・・・出てくまでって・・・」



「足が治ったら出て行って。それまでは居てもいいから。」



「本当にいいんですか?ここに住んでも。」



「仕方ないでしょう?一応、明日皮膚科へ連れて行くから───」「やったぁ!わーいわーい、嬉しいー!」





僕とわーさんの想い出を壊さない事を約束させ、その晩、今朝彼女と揉めたわーさんの布団を貸す事にした。



それと言うのも、


「ゆうべ、このお布団借りました。」彼女がけろりとした顔で告白したからだ。



「・・・・・・」



カレーといい、布団といい、僕が大事にしまい込んでいた物を、彼女は勝手に引っ張り出して、適切な使い方をしようとする。



分かるよ?カレーは食べる物、布団は干して寝る物、だけど僕はそれが出来なかったんだ・・・しなくても困らなかったっていうのもあるけど。



人に尋ねる前に、勝手に判断して即行動、そういう所が男より顕著だから、女という生き物が苦手なんだったと再認識した。



とにかく布団は二組しかない。



すでにゆうべ使っているのなら今更騒ぐ事ではない・・・しかし、こういうのって普通、彼女の方が嫌がるんじゃないか?



亡くなった人の使っていた布団なんて。しかも一年も干してないから、彼女の言う通りカビているだろうし。



「あのさ、布団・・・こういうの普通、使いたくないものなんじゃない?」



「カビとかダニですか?それは干して何とかしたいですけど駄目なんですよね?」



「いや、それは───」もういいよ、と今更言うのも何だか・・・



「シーツ、洗ってあるのを使わせて貰いましたし、大丈夫です。」



【大丈夫だって】



その言葉、実は好きだった。



わーさんもよく、僕が不安そうな顔を見せてしまう度、言ってくれた魔法の言葉。



これでいいんだよって、背中を押してくれる。温かく包んでくれる。



「明日、天気が良かったら・・・」布団干していいよと言いかけて、彼女のガーゼを巻いた足が目に入ったので、そうだ、わーさんの布団を干すのは僕の役目だ、と口を噤んだ。



「え?何ですか?」



「何でもない、て言うか、ここで寝る気?」



仏壇のある部屋。



僕の隣に敷かれた布団。



「はい、ゆうべもここで休ませて頂きましたし。」



全然気付かなかった。



それは、彼女が僕より後に寝て、僕より早く起きたからなんだろう。



遠足前夜の子どもみたいに、わくわくした目を見せる彼女には、これ以上何を言っても無駄な気がした。



「もういい?電気消しても。」



「はい、いいですよ。」



パチン。



ポフッ、ポスン。



僕以外の気配が隣にあるのはそう、一年振り。



誰かの隣で眠る事は、もうないんだって思ってた。



それが男でも女でも、誰かとこんな風に・・・



彼女が男だったら、わーさんは嫉妬してくれたかな。



でも彼女は女だし、しかも男に興味のないレズビアンというから安心だ。



若くて健康な女・・・には違いないけれど。



わーさんが望んでた、僕の結婚相手。



僕にそんな気はない。彼女の事も、好きになれそうにない。



彼女だって僕を好きにはならない。



だからわーさん、安心してね。



しばらくして僕は口を開いた。



「ねぇ、まだ起きてる?」



「はい、何か?」



「わーさん、ええと、仏壇の彼の事、どう思う?」



「ワイルド系イケメンですよね。日に焼けて健康的で、すごくいい人そう。」



それは彼が元気な時の写真だからだ。



僕も忘れていたけれど、元々彼はサーフィンをやっていたから、体格も良く、日に焼けて、豪快に笑う姿は男女関係なく惚れてしまう位・・・でも、病気になってからの彼は、笑顔は変わらなかったけれど、体は以前より痩せ細り、肌は白く、薬のせいで髪も抜けて手拭いをずっと巻いてた。



「いい人、だったよ。」



「会いたかったなぁ。」



男に興味なくても、イケメンとか好きなの?とは訊けなかったけど、彼女は本当にわーさんに会いたそうにそう言った。



「もう会えないけどね。」



言わなくてもいい言葉を吐き出したのはどうしてなのか、自分でもよく分からなかった。











水族館の巨大水槽の前、大きなエイが悠々泳ぐ姿を見るわーさんの横顔に、僕は見惚れていた。



イルカショーの始まる時刻が近付き、小さな水槽が並ぶ展示場に移動した僕らの周りから人けがなくなり、わーさんと手を繋ぎたくなった僕はそっと、彼の手に手を近付けた。



きゅっ。



僕からではなく握られた手は、随分小さいと感じた。



隣に立つわーさんの顔を見ると、あれっ・・・そこにあった筈の顔がない。



『元、早く行こう?イルカショー始まるよ?』



声を辿ると、わーさんの背は縮んで・・・というより、不思議な事に、わーさんは彼女の姿に変わっていた。



でも、声はわーさんだ。



イルカにはしゃぐ彼女の姿。でも中身はわーさん・・・もしかして、彼女の体を借りて、僕に会いに来てくれたのかと考えてしまう。



お昼はカレーを食べた。彼女の体を借りたわーさんは、辛口で大盛りのビーフカレーをペロリと平らげた。



その豪快な食べっぷり、昔のわーさんそのものだった。



食後、海まで行こうとわーさんと並んで歩く。わーさんは彼女の体の中に入っているから、手を繋いでも、腕を組んでも人目が気にならない。



いつでも、どこでも、くっついて歩いていい。時にはキスなんかしても蔑まれない、男女のカップルならば。



彼女の姿のわーさんに人前でキスしてみたかった。でも、それってわーさんにキスした事にならないんじゃないかと考え直して、キスは、わーさんの姿に戻ってからにしよう・・・なんて考えて。



二人で砂浜にある流木に腰を下ろして、水平線に沈んで行く夕陽を見つめた。



僕を見る彼女の姿のわーさんの目は潤んでいた。僕は、わーさんにキスしたいなと思った。



でも、中身はわーさんだけど、まだ彼女の姿だし・・・元の姿に戻ってからと我慢した。



『楽しかった、今日は、元とデート出来て』



わーさんと彼女の声が重なる。



僕も、と答える前に、後ろの夕陽と水平線がぐにゃりと歪み、丸い渦になって、景色と共に彼女の姿のわーさんも呑み込まれて行く。



僕は叫んだ。



『わーさん、わーさん待って!行かないで!』



ハッ!



僕は目を開けた。



熱い・・・全身汗びっしょりだった。



ゆっくり身を起こすと、



「おはよーございます!」僕に元気よく挨拶した彼女はすでに着替えていて、布団を畳み始めた。



朝から元気だな。僕は朝は苦手で、一時間位、ぼんやりしてしまう。



「おはよ・・・」



さっきのは夢か・・・そうだよな。わーさんの魂が彼女の中に入っている夢なんて、どうして見たんだろう。



現実の彼女は彼女だ。彼女の中にわーさんの魂が入っているなんて事は有り得ない。



でも、布団といい、カレーといい、わーさんならそうしたかも・・・なんて考えが一瞬過る。



いやいや、違う!



わーさんが彼女をここへ導いたのかなんて思いそうになってしまったけれど、そんな小説みたいな事、ないから。



ここに住みたいと、彼女が一体どんな目的でやって来たのか知らないが、本当に何もない田舎、都会暮らしに慣れた彼女は『もう都会に戻りたい』とすぐに根を上げる事だろう・・・




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