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そうそうない  作者: 碧井 漪
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2 2015年8月29日のこと

自分の死を覚悟して一旦受け入れた彼は、あの時、愛している僕から離れたくない、このまま死にたくないと、死ぬ事に怯えてしまうのを怖れたんだ。



だから僕を遠ざけた。理由は、かき氷じゃなくても、何でも良かったんだ。



自分はもう死ぬって分かっていたから。



僕が傍に居たら、死にたくないって思いたくなりそうで、怖くて。



或いは、安らかに逝きたいのに、取り乱す僕の泣き顔なんかに見送られたくないと思ったのかもしれない。



ただ最後に僕とキスをした後、独り、そっと旅立ちたかったんだ。



それなのに僕は、キスしたいという彼の最後のささやかな望みに気付けず、叶えてあげる事が出来なかった。



こんなに長く、こんなに近く、一緒に居たのに、彼の愛を、彼の想いを何も理解出来ていなかった。



彼の死の間際、僕をわざと遠ざけた事に気付いたのは、彼の死後、半年以上経ってからだ。



余命が短いのが僕の方だったら、彼に看取られるのが僕の方だったら・・・と考えた時、ようやく分かった。



僕の中にある後悔は、薄れるどころか増すばかり。



どうしてあの時、急いでしまったのか。せめてキスしてから出掛ければ良かった、と何度も自分を責めた。あの時、どんなに急いでも、別れの時からは逃れられなかったのに。



彼がどれだけ怖かったか。



僕と離れて独りで逝かなくてはならないと分かった時、彼は怖さや寂しさを隠しながら、受け入れたんだ。ただ一度だけ、僕にキスをねだって。



彼が死を受け入れた事に、僕は気付けなかった。いや、気付こうとしていなかった。



だって、僕は常に彼の死から目を背けていたから。生きて欲しい、僕を残して死なないで欲しいと。



彼が死ぬという事を考えられないからと、僕はいつまで経っても彼の死へ対する考えと向き合えず、逃げていた。



お墓の話もそうだ。仏壇も。



僕も彼もそんなもの要らないと思っていた。でも、僕がここを離れるつもりはないという事を知った彼は、それならと、この家と墓を僕に守るように言った。



自分の死後、疎遠になった家族に遺骨を渡さなくてもいいように、この家の裏に小さな墓を建て、そこに埋葬する手筈を整えて。



『俺と同じ墓で良ければ、入っていいぞ』



仏壇もそうだ。元気な時は『掃除が大変そうだから』なんて言ってたくせに、


『形だけだから、置かせてくれ』


と、おそらく毛利の家族が訪ねて来た時に、僕がきちんと供養していないと思われるのが嫌だったのだろう。



今年の向日葵の種を蒔いた次の日、家に仏壇が届いた。



それを見て、何とも言えない気持ちになった。



彼の死後、僕はこの居間の隅に置かれた仏壇の前で彼を想い出し、涙を流し続けるのかと思ったら、居た堪れず、仏壇を避けるようになった。



彼は死ぬ、僕も死ぬ、それがいつかはっきりとは分からなくても、生き物は死から逃れられない。



二つの人生、重なる時間の中で愛し合い、先に愛が終わるか命が尽きるか、どちらが不幸かなんて比べられないけれど、片方が死んだら、愛も半分になってしまう。



僕の愛を独り占めして、あの世にみんな持って行ってしまったわーさん。



今、僕も、わーさんから貰った愛を胸にしまったまま、ただ生きている。






僕の愛は一日一日増え続けても、わーさんの愛は増えない。あの日から止まったまま、増えない。



それが寂しい。わーさんから貰う筈だった明日の愛、明後日の愛、一年後の愛、十年後の愛。



ははっ、都合良いな。十年後には僕も生きてないかもしれないってのに。



或いは、わーさんが心変わりして、十年後は僕を愛してなかったのかもしれないのに。



十年後もこの愛がまだ続いているのだと信じていた僕はおめでたいな。



愛も命もいずれ尽きてしまう。



それまでの辛抱だ。



この切なく遣る瀬無い気持ちと別れる日まで、あともう少しの辛抱だ。



そうだよね、わーさん。



「僕が死んだら・・・この家どうなるんだろう?」



この家は、家の前に広がる、結構広い畑と一緒にわーさんが買い取った。墓地用の土地もおまけにと付けられていたのも気に入ったと、かなり交通も生活も不便なこの土地に移住をしてしまったのは、二年九月前の晩秋の事だ。



そして今、この土地の名義人は、僕になっている。



「僕が死んだら───」



口にした途端、わーさんがそう言った時の顔を思い出した。



【俺が死んだら、俺の事は忘れていいから】



それを聞いたのは、いつだったろう。



ああ、思い出した。



今と違って、物凄く寒かった。二つ並べてくっつけた布団の中で身を寄せ合って。



そうだ、あれは移住したこの家で初めてしたパーティーの後。パーティーと言ってもこの寂しい家に二人きりのささやかなクリスマス、外は雪で物凄く寒くて、だけど僕達は妙に熱くて、まだ興奮冷めやらぬ中、今日はもういい加減寝ようと言って、布団に潜って軽くキスをした後だった。



「俺が死んだら、俺の事は忘れていいから」



その時の僕は、彼が『死んだら』なんて、どうしても考えたくなかった。だから、彼の声が小さかった事から、聞こえなかった振りをした。



「ん?よく聞こえなかった。何て言ったの?」



意地悪したな、と今は後悔している。



どんな痛みにも耐え、決して弱音を吐かなかった彼は、どんな気持ちで僕に向かって、そう吐き出してくれたのかと、一人になった今、ようやく冷静に考えられた。あの時の言葉を、ただ悔やむばかり。



あの時、僕が『うん』と言えば、彼は安心したかもしれない。



あの時、僕が『絶対忘れないから』と言えば、彼は苦笑したかもしれない。



僕はあの時、答から逃げて、取り返しのつかない事をしたんだ。



“彼の死”に対する”僕の考え”を伝えないまま、彼を死なせてしまった。



しかも独りで、あんな風に。



もう、取り返しのつかない事。どうにもならないのに、だからこそ、いつまでもあの時の後悔が僕から離れない。



思い出す度、胸が苦しくなる。だけど、忘れたくない記憶と共にあるから、これはずっと残る後悔だ。



死んでしまった彼には、僕の気持ちがもう伝えられない、どうやっても。



死んで欲しくなかったんだ。僕を置いて先に死んで欲しくなかった。



人はいつか死ぬ、それは知っている。僕もいずれ死ぬ。



だけどそれまでの間、彼の残した言葉の通り、彼を忘れられない僕は、この何ともすっきりしない想いを胸に抱いたまま生きるんだ。誰よりも愛した彼の記憶と共に。



夏の終わり。



綺麗だけど寂しく映る茜色に包まれて、キー、カナカナカナ、ひぐらしの声が響き始めた。



残暑の厳しい中、彼が亡くなって明日で丁度一年が過ぎようとしている。



繰り返す季節。彼がこの世に居なくなっても、また夏はやって来てしまった。



かき氷、その言葉を聞くだけで体が震える。



一年前の今日の僕が、今のように彼の死にきちんと向き合えていたら、もっと違った別れ方をしていたのかな。



考えてもどうにもならない。だからこそ考えてしまうのかもしれない。どう足掻いても解決出来ない事だから、いつまでもずっと忘れられないのかもしれない。



まだ苦しいな。いや、苦しくなくなる日なんてきっと来ない。彼と過ごした日々を思い出して涙を零さなくなる日は、僕の命が尽きる日だ。



「わーさん、わーさん、会いたいよ。化けて出て来てよ。」



古民家、だけど移住前に張り替えてまだ新しい畳の上に、Tシャツ短パン姿で寝転んでいる僕は、いつものようにわーさんの遺影を抱き締めて、泣きながらいつもと同じ言葉を繰り返した。



天国で安らかに、と願うべきなんだろうが、この寂しい田舎の村暮らしの僕の話し相手は、朝から晩までわーさんの魂だけだったから。しかもその魂も見えない上、空耳すらも届かなくて・・・それは多分、わーさんが天国で他の住人とワイワイ楽しく過ごして僕の事なんか思い出しもしないでいるからなんだと思うと、変な嫉妬心が芽生える。



僕は朝から晩まで毎日誰とも会わず、口も利かないってのに、わーさんだけずるい。僕の前に化けて出るより、天国で皆と楽しくやってる方がいいんだ。わーさんは人当たりが良くてモテるからな・・・と勝手にやっかんだりする僕は、本当にどうしようもない男に成り下がったと思う。



「僕にはわーさんだけなのに。何か言ってよ。」



仮に今、空耳で『俺の事は忘れて』と聞こえたって、そうは出来ないくせに。



ジージー、ジージー。カナカナ、カナカナカナ・・・・・・



あの日と同じ声で、セミが鳴いている。



僕一人になったこの家の居間からは、昨夏と同じく、午後の陽射しに輝く畑一面の向日葵が見える。



毎晩、眠る前に反省会。



布団に潜って、暗い天井を仰いだ後、「今日もごめんなさい。」仏壇に戻したわーさんの遺影に詫びて、せめて夢に出て来てと願って目を閉じる。



このまま、明日、目を開けられなくてもいいよ。



わーさんの居る所へ行けるのなら今すぐ行きたい。僕はこの世界に未練はないから。



わーさん、寂しくない?



寂しいなら、僕を連れて行っていいんだよ?



そうしてよ。僕は、わーさんの傍に行きたいよ。



一人で生きて行く事に、何の意味があるのかって毎日考えてる。



ご飯食べるのも、風呂入るのも、寝るのも、ただただやってるだけで、いつやめたっていいって、お盆を過ぎてからずっと思ってる。



わーさんと一緒だったから生きたかっただけだ。



だけどわーさんはもう居ない、この世に居ない。



死んであの世で一緒に居られるなら、僕は今すぐ死ぬよ。



だって、会いたいんだ。



本当は寂しくて、辛いんだ。



もうずっと笑ってない。だって、わーさんが笑ってないのに、僕だけ笑えないよ。



二人で食べた最後のカレーの残りが、まだ冷凍庫に入ってるんだよ。



それを食べたら、二人の思い出も永久になくなってしまう気がして食べられない。新たなカレーも作れない。



二人で生み出したカレーの味。



最後に、死ぬ前に、あのカレーを食べようと思うのに食べられない。



だからまだ死ねてないってだけの日々なんだ。



僕が生きる意味は、もうない。



意味ない、一人では。



今年45になる僕。これから一人で、生きる意味を見つける気力は、すでにない。






りーりーりーりー。



虫の声だけの静かな夜。



ここは都会で暮らしていた時の音はしない。



静寂が日常音だ。



ガタッ、ガタン。



それを破る音が玄関の外から聞こえた。



この気配・・・わーさん?



似ていた。彼が畑から戻って来た時の音に。



そんな訳ない、僕以外の人間ならそう思うだろう。こんな夜更けに、隣家まで一キロ以上ある場所でも、よもや死人が訪ねて来たなんて、よっぽどのホラー好きでもない限り、期待しないだろう。



けれど僕は、僕だけは、わーさんだと思った。



帰って来た。いや、迎えに来た?



わーさんが居なくなって明日で一年、ようやく僕を迎えに来たんだ。



僕は布団から飛び起き、灯りも点けず、廊下を裸足で駆け抜けた。



玄関の古い格子戸は、木の枠に年季の入った硝子を嵌めた、昔ながらの引き戸。鍵は長くない棒状の金属を、二つの戸の重なる部分に空けた小さな穴に差し込んで回しているだけ。



外出する時は、主に勝手口から。玄関から出る場合は、格子戸に付けられた金具を戸当たりの丸い金具に引っかけ、南京錠を掛ける古くからのやり方。



ガチャガチャ、サンダルを突っ掛けた僕は黙って玄関の内鍵を開けた。



疑いたくなかった。外に立つ相手は、絶対にわーさんだと。



万が一違って命を落とす事になっても、それはそれでわーさんが僕を天国に呼び寄せる為の手段なのだと考えた。それなら喜んで、という所だ。



今の僕には、訪ねて来た相手がわーさんじゃない方が地獄だった。



カラ、カラカラカラ。僕は迷いなく玄関の引き戸を開けた。



わーさん!



・・・・・・あれ?



わーさんじゃ、なかった。



そこには、見知らぬ男が立っていた。



山歩きの恰好で、大きなリュックを背負ったまま。着ているジャケットが蛍光グリーンだった事もあり、おそらく年下と判断した。



元々暗いが、被っている帽子のつばのせいで、相手の顔は鼻と口しか見えない。



不審者?



背は僕より低く、細身だ。



ナイフでも突き出されない限りは、何とか勝てるかもしれないと、後ろ手にシダ箒を持ち、右足を一歩前に出した。



「こんな時間に、何か御用ですか?」



いつ死んでもいいとは思ってたけど、せめて明日、わーさんの命日までは生きようと考えを変えた僕は、箒を握る手に力を籠めた。



すると男は突然、


「ここに、住まわせて下さい。何でもします。お願いします!」帽子を取り、深く頭を下げた。



この男・・・じゃなかった、女?



声が高かった。男とは思えない声だ。



髪は短髪、だが、上げた顔は小さく、男にしては瞳の大きな、多分・・・女だった。



「誰?あんた。」



岩沢美和(いわさわみわ)と申します。木村元啓(きむらもとひろ)さん、お願いします。私をこの家に置いて下さい。」



僕の名前をすらすら言って、再び頭を下げた不審な女。



もしやストーカーか?



ストーカーだとしても、僕はこの女に面識がない。



どこかで関わった憶えもない。



移住前の記憶を辿っても、仕事以外で女と親しくなったり、恨まれたりする憶えはなく・・・



「何故、僕の名前を知っているんです?」



つい、昔のような口調になった。



「はい。私は先日、ENT社を退職しました。」



ENT社と言うのは、僕の大学時代からの友人、畠山志歩理、今は虎越だったか、とにかくその志歩理と共に立ち上げた会社で、移住前、僕は社長の志歩理の右腕で、副社長を務めていた。



しかし、イワサワミワという社員に憶えはない。



「僕は、君の事を知らないが。」



「はい。私は木村副社長が退職された後、採用されて入社しました。」



女は、取り出した財布の中から名刺を取り出して僕に見せた。



確かに【ENT社 総務部 岩沢美和】とある。総務部は若い女性が多く、主に事務仕事をする部署だ。



「ENTの・・・そうなんだ。それで?」



「六月の志歩理社長の結婚式で木村さんをお見掛けして、それで私、木村さんの事───」「待った!」



僕の事が『好きになってしまいました。一緒に暮らして貰えませんか?』と来るのか?



押しかけ女房・・・しかし、生憎だが僕は女に興味を持てない。



勿論他の男にだって。



僕の身も心も、生涯、わーさん一人に捧げたんだ。







「僕は誰とも付き合う気が無いから。」ゲイだと明かすか迷ったが、初対面の女性に明かす義理もないと思った。



「はい。私もです。」



「は?」



「木村さんはゲイですよね。社長から伺っています。私はレズビアンです。同じです。同性が好きな者同士で。」



「レ、レズ・・・同性が好きな者同士って・・・」社長から伺ってるって、志歩理、何故僕がゲイだって事、彼女に教えたんだ?



「お願いします。私、ここに住むと決めて来ました。他に行く所なんてありません。何でもしますから、どうか、ここで一緒に暮らさせて下さい!」



岩沢美和という女は、地面に頭が付きそうな位、体を折り曲げてお辞儀した。



物凄く体が柔らかい。



僕の体は固い方だから、凄いなと感心する。



いや、そんな事はどうでもいい。



次の言葉を発せずにいた僕が下を向くと、足元に不穏な気配を感じた。



チロチロチロ、玄関の戸を開けたままだったから、外からムカデが這って、玄関の中に入って来てしまった。



うわっ、この虫苦手だ。



しかし部屋の中に入ると厄介だから、殺虫剤、ええと洗面台の下だ。



走って取りに行こうとした時、


「やあっ!」気合を入れる掛け声と共に、彼女の右足がダンッと玄関のたたきを強く踏み付けた。



ブチッ。



彼女のスニーカーに踏まれたムカデは、ペチャンコになった。



「あ・・・凄いね。虫とか平気なんだ。」



「昔、噛まれた事があって、物凄く痛くて大変でした。家の中に入ると厄介ですから。」



「あ、そうなんだ・・・」



「その箒、貸して下さい。」



女は受け取った箒でスニーカーの裏を擦った後、たたきの上で潰れたムカデをパパッと外に掃き出した。



そして、ガラガラ、ピシャッ、ガチャガチャ、と玄関の引き戸を閉め、鍵まで掛けた。



「あの、ちょっと、何してんの?」



「今晩から、よろしくお願いします。」



「待って、待て待て、何を言って・・・」



「とにかく、疲れていますので、今夜はここに泊めて貰えませんか?道も真っ暗で、バスもとっくに無くなってますし。」



だったら車で駅に送る・・・と言いそうになったが、この時間だと・・・生憎、最寄り駅へ行っても電車が無い時間だ。



駅前に宿もない。田舎だから。



かと言って、野宿は危険だ。夏だから凍死する事はないだろうが、女だし、放り出して何かあったら僕のせいになる?



同じ会社に勤めていたという事もあり、無下には出来なそうだ。



ここの住所を教えたのは、志歩理に間違いなさそうだし───まったく・・・仕方がないな。



「じゃあ、一晩だけ。明日の朝には出て行って下さい。」



「ありがとうございます!」



ぱあっと表情を明るくした彼女は、僕の後に付いて「お邪魔しまーす」とスニーカーを脱ぎ、家に上がった。



トタッ、トタ、ギシッ、ギシ・・・この廊下を歩く足音が誰かと重なるのは久し振りで、これは現実なのか?と変な感じがした。



「お腹、空いてる?」



社交辞令を言うと「はい」彼女は遠慮を知らない返事をした。



まあ、素直な人は嫌いじゃない。僕が素直になれないからだろうか。



わーさんもどちらかと言えば素直な返事をする人だった。



多分それは、僕の奥に引っ込めた本音を引っ張り出そうと試みてたのかもしれない・・・なんて考えたりする僕は、やっぱりひねくれてて、素直じゃない。



「お茶漬けか、カップラーメン位しかないけど。」



「あの、汗を流したいので、先にお風呂お借りしてもいいですか?」



「ああ・・・どうぞ。」



「ありがとうございます。」



「お風呂場、そっち。タオルとかある?」



「はい、大丈夫です。」彼女はお風呂場へ入った。



素直と言うか、厚かましい?ほぼ初対面の男の家に押しかけて、取り敢えず泊めてくれと言える、僕は女性のこういう所が苦手なんだったと思い出す。



上辺ではニコニコしながら、腹の底で自分の利になる事ばかり考えている。



自分以外の人間、特に男を利用して、自分が快適に暮らす事ばかりを願っている身勝手な女という生き物。



志歩理も女だったが、そういうのをあまり感じなかったから上手くやって来れたんだな。



志歩理は元々不器用な人で、社会の隅にでも何とか居られればいいというような生き方をしていた。



『あなたと上手く仕事をやって行けるのは、あなたが私の事を女と思ってないからじゃない?まあ、子ども産めないから、女じゃないって言われればそうかもしれないわね』



過去、志歩理も癌になり、子宮を摘出した。



それが原因なのか、当時付き合っていた男と別れた志歩理は、外見も男らしく変え、しばらくは仕事一筋で頑張っていた。



数年後、志歩理は別れた男と再会したが、男の方は家庭を持っていた。



その頃だ。僕がわーさんと、ここへの移住を決めて退職を願い出たのは。



男は離婚したが、結局、志歩理とは一緒にならず、その後、遠方の実家へ戻ったそうだ。



志歩理とは半年に一度位、連絡を取っていた。御中元や御歳暮の度に。



やがて志歩理に新たな恋人が出来た。



碧易商事の部長と肩書もそこそこの男で、バツイチ。



前の男より志歩理と釣り合うじゃないかと思った。



しかし僕は、前の男の不器用な所が、志歩理と似ていて、実は気に入っていた。



どちらにしても決めるのは志歩理だからと、僕は志歩理の報告をただ聞くだけの役だった。



『あのね、驚かないで聞いて欲しいんだけど・・・』



遠く離れていた昔の男と二年の時を経て、二度目の再会を果たし、そこで結婚を決めた、というおめでたい報告を受けたのは、昨年十二月。



その時、わーさんが八月に亡くなった事を話すのはやめようと思っていたけれど、僕とわーさん宛に結婚式の招待状を送るからという話になり、止むを得ず話した。




『そうなの・・・そうだったの』



電話口で志歩理は泣いているようだった。いや、絶対に泣いていただろう。志歩理は泣かなそうに見えて実は涙脆い。



志歩理も患った事のある癌という病で死んだわーさんの気持ちが分かるのか、『うん、うん・・・』と小さく頷きながら聴く志歩理、全てを打ち明けた後、嫌な気分にはならなかった。



今まで、彼の死を、彼の親族以外、誰にも話していなかった。



志歩理は親族でもわーさんの友人でもないけれど、わーさんの死を悼んでくれた。



やっぱり志歩理の事は、女であると思う前に、大切な友、親友だと感じた。



志歩理から結婚式の招待状が送られて来たのは四月。すぐに出席を丸で囲み、返送した。



志歩理と虎越泰道の結婚式は今年の六月に行われた。久し振りの都会は、長く暮らした筈なのに、とても居心地が悪かった。



田舎で何も無くて退屈で不便なあの家に早く帰りたいと思う日が来るなんて、と苦笑した。



披露宴のひな壇に並ぶ、不器用な二人の晴れの姿を微笑ましく見ながら、いつまでもおしあわせに、と心から願った。



男と女で愛し合えば、例え子どもが望めなくても結婚出来る。



男と男で愛し合っても、子どもは勿論、結婚すら出来ない。



死んだら他人だ。内縁とも認められない。



だから墓と仏壇が必要だったんだ。死んだ後、周囲に引き離されない為に。



男同士のカップルに認められた権利なんて何もない。



夫婦、その言葉にどれだけ沢山の権利が詰まっている事か。



僕達がなりたくてなれなかった関係。公的に認められ、保障された関係。



生まれ変わったら・・・ゲイにならないで済むならそうしたい。



来世でわーさんと出逢ったら、すんなり結婚出来る性別同士がいいと思ってしまう。



結婚式か───あの時、彼女、岩沢さんもそう思ったのだろうか。志歩理と虎越くんを見て。



異性同士なら結婚出来る、祝福される、社会的に認められる。



レズビアンと告白してくれた彼女も、僕と同じように同性に対して報われない想いを抱いた事がある・・・だからって僕の所に押しかけて来る理由にはならないが。



第一、僕が同性愛者だと、どうやって見抜いた?



志歩理に訊いたのは結婚式の後でだろう。



志歩理以外の会社の人間に、僕はゲイだと気付かれていない筈だが、噂にでもなっていたのか?



とにかく、志歩理のせいには違いない。彼女がこの家を訪ねて来るには、僕の住所を唯一知る志歩理から聞くほかないから。



この時ばかりは、志歩理の事を恨んだ。彼女に余計な事を言わないで欲しかったと。



お風呂から出て来た彼女は、腰の隠れるTシャツをノーブラで着ていた。



下も穿かず、肩に提げた白いタオルで短髪をガシガシ無造作に拭く姿は、とても普通の女とは思えなかった。



恥じらいはないのか?



本当は男だったりするのか?



いや、でも、彼女のTシャツの胸の先は、左右、ツンと不自然にとんがっている。男ではこうはならない。



背も低く、体も細く、声も女だが、態度は男?



女が好きだと言うし『体は女、心は男』と言うやつか?



「お風呂、ありがとうございました。あ、石鹸とシャンプー拝借しました。」



「あ、ああ、それは別に・・・」今更だよ。



じっ、と視線を感じた僕は、一度ちらりと彼女の顔を見た。



彼女は、やっぱり僕を見ていた。



白い頬、黒い瞳、首も細くて滑らかで・・・何だか妙な感じがした。この家に若い女性が入るのは。



僕は彼女から逸らした視線の先を、仏壇の遺影に移した。わーさんは少し照れたような笑いを浮かべているみたいに見える。



「あのう・・・」



ハッとした僕は、「何?」と訊ねた。



「お仏壇にお線香上げてもいいですか?」



「え?」



「よろしければ、なのですが。」



気を遣って言っているのなら、別にいいよと思った。



突然ふらりとやって来て、風呂貸して、一晩泊まる?まではまあ・・・いいけれど、義理でわーさんに線香上げるとか言われたくなくて、



「知らない相手に線香上げなくていいよ。」と断った。



「直接お会いした事はありませんが、あなたの愛した方ですよね。でしたら・・・」



「馬鹿にしてるの?男が男を愛するなんて気持ち悪いみたいに思ってる?男女だったらいいの?墓も仏壇もないと、愛してたって証明にならないの?」



葬式や法要をしたくないから言ったんじゃない。



寧ろしたいよ、堂々と。僕が女だったら、わーさんの正式な妻だったら、彼女の言葉一つ、卑屈に受け止めずに済んだのに。



分かってた。今の発言は、彼女のせいじゃない。



今、僕の頭の中に思い浮かんだ、わーさんのお兄さんと妹さんのせいでもない。



二人は昨年この家を訪ねて来た。わーさんが亡くなった後、葬儀の案内を送ったからだ。



わーさんの病気の事をご家族は知っていた。



しかし、わーさんが亡くなったと報せてすぐには来なかった。葬儀後、半月程経って、秋風の中、二人は焼香にやって来た。



その時、わーさんのお父さんはすでに亡くなっていて、お母さんはご病気で入退院を繰り返していると聞かされた。



わーさんは生前、あまり家族の話をしなかった。それでも僕は、わーさんのお父さんが亡くなっている事だけは知っていたけれど。



わーさんのお骨を持って行くと言う話は出なかったが、お兄さんの方は僕にお骨を守らせたくはないと、口にはしなかったが、何となくそう思わせる様子だった。



僕はお兄さんにわーさんが遺した家族への手紙を渡した。僕はその手紙に何が書かれていたのか知らない。



二人は僕に深々とお辞儀をして帰って行った。以来、何のやり取りもしていない。



今、僕が彼女にぶつけた言葉は、あの日、わーさんの兄妹に吐き出せなかった胸の内も含まれている。



八つ当たりもいい所だ。



なのに彼女は、


「分かっています。だからこそ・・・せめて、手を合わさせて下さい。」と仏壇の前に正座し、わーさんの遺影を見た後、目を閉じ、両手を合わせた。



突然の訪問者の行動に、僕は苛立ちを隠せなかった。



僕とわーさんの愛の事なんて、何も知らないくせに。



「何なの?いきなりやって来て、人の家に土足で踏み込むような事・・・」



土足で踏み込んだのは、家と言うか心にだけど。



「あなたに会いたいと思って来ました。出来たらあなたと暮らしたいと。」



「・・・はっ?」



「あなたは愛する人と死に別れ、私は生き別れです。私の生き別れた相手には家庭があり、旦那さんの転勤で彼女は遠くに行ってしまいました。もう二度と、会う事が叶わないのは、あなたも私も同じです。志歩理社長からそれを聞かされて、益々あなたの傍に

居なければと思いました。」



「な、何を言って───」



「あなたが寂しいと思う時、私が傍に居ます。代わりに、私が寂しい時、あなたが傍に居て下さい。」



【俺が寂しい時、いつも元が来てくれる。だから、元が寂しい時は俺に言って。すぐに抱き締めるから】



わーさん・・・



橋を思い出して涙が滲んだ涙を元啓はこっそり手で拭った。



「僕は寂しくない。明日、出て行って。」



彼女は、分かりました、そう言うと思っていた。



「嫌です。」



え?



「ここに住む事に決めました。よろしくお願いします。あ、そうだ。ご飯、何か適当に頂きますね。」



「何、ここに住む事に決めた、って。そんな事、出来る訳ないでしょう?」



「出来ます。家賃、食費、光熱費はきちんと払います。」



彼女の申し出に、僕は動揺していた。



「払うってどうやって。会社辞めたんでしょう?」



「就職決めて来ました。9月から大来名駅近くの、おおきな幼稚園に勤めます。」



「・・・は?幼稚園?」



「だから、よろしくお願いします。」



「だから、という接続語はおかしいです。」



「おかしくありません。」



「警察呼びますよ?」



「警察呼んで、私が逮捕されたら満足ですか?あなたが心から望むならそうして下さい。」



心から望むって、この女、頭おかしい・・・



彼女はそれから勝手に冷蔵庫を(あさ)り、電子レンジで温めたご飯の上に、漬物と鰹節、そこへお湯を掛けて、しゃくしゃくしゃく、スプーンで掻き込んだ。



何だ、これは。悪い夢だろうか。



そうだ、夢だ。何だかとても頭が重い。



明日はわーさんの命日。一周忌だ。



わーさんの親族は来ないけれど、僕一人でもきちんと供養する。



僧侶も呼んだ。お墓も掃除済みだ。



花だって活けて、お供え物もある。



新盆の時と変わらないと言われればそうだけど・・・でも、明日は特別な日。



頭のおかしい女に付き合っている暇はない。



悪い現実だったとしても、今夜はもうどうしようもないのだから、寝るしかない。



「僕は寝ます。火の元と戸締りの確認だけお願いします。」



「はい。」



まったく・・・返事だけはいい。



元啓は布団に潜り、目を閉じた。



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