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そうそうない  作者: 碧井 漪
19/43

19 2015年12月28日のこと

実家には、昨日の夕方前に着いた。



車は、実家の近所に新しく出来ていたコインパーキングに停めた。



門を潜ると、丁度通夜に出掛ける両親と妹夫婦に、一緒にどうかと誘われたが、運転疲れを理由に実家で一人、留守番する事にしたのは大正解だったと、今日思った。



葬儀後の精進落としの食事の席で、親戚達から酒を勧められた。



僕は葬儀後、車で帰るつもりだったから酒は断ったのだが「今夜も泊まって行きなさい。夕方に出たら、真夜中になってしまうわよ。」と母に言われ、少し考えた。



確かに、僕一人なら真夜中に家に着いたって何の問題もない。



だけど、一人で帰るのではないから考えてしまう。美和を実家に迎えに行かなくてはならない。



夜遅い時刻に、女性の実家に面識のない男が一人で迎えに行くと言うのは不審だ。知り合いだったとしても、家族はいい気がしないだろう。



美和を迎えに行くなら昼間の方がいい。夜中にバスは無いから、美和が実家を出て、バス停に行くと家族に言うのは不自然だ。



「ほらほら、元啓くん。」故人である伯父の従兄弟だとか言っていたおじさんが、ビール瓶片手にテーブルを挟んで立つと、トットットッ、僕のグラスにビールを()いでしまった。



隣に座る父の顔を見ると、


「一杯位、いいだろう?」と言う。



確かにこの席で断るのは難しそうだ。



美和、ごめん。明日の朝、こっちを発つから。



「それじゃあ・・・」と観念した僕は、持ち上げたグラスを呷った。



喉が渇いていたので一気に飲み干すと、「いい飲みっぷりだねぇ。ほら、おかわりだ。」と空にしたグラスに、再びビールを注がれた。



あーあ、失敗した。ちびちび飲むんだった。



グラスを掴んだまま、この後どうしようか考えて居ると、何故か僕が周囲の視線を一心に浴びている事に気付いた。



「あの、何?顔に何か付いてる?」左隣に座る母に訊くと、


「何も?」と首を振るが、ぎこちない。何故僕が見られているのか、理由を知って居そうだ。



僕は考えた。人から好奇の目で見られるような理由。



一番に思い当たるのは、僕がゲイだという事。しかし、その事を両親と妹夫婦は知っているが、親戚達は知らない筈。



いくら何でも、両親が『うちの息子、ゲイなんです』と自ら親戚中に触れ回るとは考え難い。



だとしたら?



この髪型か?美和には"カッコいい"と言われたが、それは真っ赤な嘘だったのか。



内心ガクリと肩を落とす僕は、ポーカーフェイスを保ちつつ、「少し失礼します。」とスーツの内ポケットに手を入れ、スマホを取り出し、電話がかかって来た(てい)で席を立った。



あたかも、まだ会社員であるかのように。



もしかしたら、ゲイとバレたのではなく、会社を辞めた事を、母がうっかり、電話などで漏らした可能性もある。



ゲイで無職、45歳独身の男・・・それを両親は恥ずかしいと思って居るだろうか。



そうではないとしても、誰にも知られなければいいとは思って居るだろう。



親不孝の部類に入る息子でごめん。



トイレへ続く長い通路の途中で立ち止まった僕は、点灯させたスマホの画面を見つめながら、溜め息を一つ吐いた。



来るべきじゃなかったな。



ガラス張りで明るい通路、外に目を遣ると、よく手入れされた庭が広がっている。



広さは無いが、木々に囲まれた芝生の広場にベンチ、都心である事を忘れられる空間。



移住してから、僕はコンクリートで固められた街並よりも、緑溢れる静かな場所の方が、本来の自分に合っている事に気が付いた。



人の視線を浴びるのは苦手だ。複数から話し掛けられる事も。



一対一でのんびりがいい。



その時、何故か、わーさんより先に美和の顔が浮かんだ。



飲むんじゃなかった。夜中になっても、美和を迎えに行けなくてもいいから、一人で帰れば良かったと後悔していた。



ポンポン、そんな僕の肩を叩いた人が居た。



ハッとして振り向くと、


「どうしたの?元啓くん、ぼんやりして。」と、黒い着物を着た背の小さなおばさんが立って居た。



「あ、はい・・・」僕の名前を知っているこのおばさんは、誰だっけ?と考えていると、



「ねえ、突然なんだけど、元啓くんは、お付き合いしている人は居る?」と訊かれた。



この人達の言う"お付き合いしている人"と言うのは、"女性"が対象だというのを知っていた僕は、「居ません。」と答えていた。



しかし答えた後で、次におばさんの言いたい事が見えて来た僕は、しまったと思ったが、もう遅かった。



「知り合いのお嬢さんでね、独身の人が居るの。高学歴で美人さん、気立ても良くて、文句の付けようのない人なのよ。ただ、年齢が39歳でね?でも、元啓くん、訊いたら45歳だっていうじゃない?6歳差、丁度いいわよね?」



いやいやいや、突然何の話をしているんですか。



突然過ぎるでしょう。しかも葬儀の後でそんな話・・・



「折角のお話ですが、僕は───」「あら、こっちに来た。あの人よ。純子さん。」



おばさんの向こうから、楚々と歩いて来るのは、黒のワンピーススーツを纏った、すらりと細身で背は高く、美和と違って日に焼けていない肌は白かった。長い黒髪を後ろできちんと纏め、上品な顔立ちの女性だった。



しかし、純子と呼ばれた人は、足を止めなかった。



擦れ違う時に僕らに軽く会釈をした女性は、そのまま通路を歩いてトイレの方へ向かった。



先程おばさんの話した女性とは違うのではないかと思った時、


「あら、照れ屋さんね。さっきまで私に元啓くんの事を訊いていたのに。」とおばさんがにやりと笑いながら言う。



えええ?



・・・だけど、そんな気のない僕は、彼女の顔を潰さずに断る方法が思い浮かばず、「何かの間違いですよ。」と逃げ道を探していた。



「そんな事ないわよ。元啓くん、カッコいいもの。ここに居る女性の大半は、あなたの顔に見惚れてたわよ。」



うわわ、そんな事を言われても。



恥ずかしくなった僕は、何か理由を見付けてとっとと逃げれば良かったのに、まだその場に止まっていた、それが(あだ)となった。



トイレを済ませたのか、彼女が通路の向こうから僕らの方に戻って来る。



そうだ、僕もトイレへ逃げ込もう。



男子トイレに入ってしまえばいい。



「僕もトイレに・・・」とおばさんを振り切った僕は、早足で通路を通り抜けた。



途中、彼女と擦れ違ったが、何も言われず、やはりさっきの話はおばさんの作り話だったのだろうと、頷きながら、男子トイレのドアを押した。



トイレから出て、会場へ戻る足を止めた僕は、壁面のガラスに右手をつきながら、またぼんやり庭を眺め出した。



疲れたのかもしれない。



早く帰りたいなぁ・・・コツン、こめかみにひやりと冷たいガラスを感じながら、ふぅと息を吐いた時、


「大丈夫ですか?」と女性の声がした。



気配を感じて背筋を伸ばすと、さっきのあの"ジュンコ"と呼ばれた女性が、僕に白いハンカチを差し出している。



「あ、ああ・・・大丈夫です。つい、ぼんやりしてしまって。」



「お疲れのようですね。」



「お見苦しい所を・・・」はは、と苦笑い。恥ずかしい、逃げよう。



席に戻ろうとした僕が、一歩横に踏み出す前に、彼女が動いた。



「あのっ、少し外の風に当たりませんか?よろしければ、ご一緒に。」



彼女は僕の後ろに視線の先を向けた。



何かな?と振り向いて見ると、庭園に出られる鍵付きのガラス扉が目に入った。



"いいえ、結構です"と言えたら良かったのかもしれないが、


「はい。では少しだけ。」と言ってしまうのは、僕が志歩理に女性の顔を潰さないよう教育され続けたせいだろう。



カチッ、鍵を開けた彼女は、扉を開き、僕を先に外に促す。



『扉を開けるのは男の仕事よ?』と志歩理がここに居たら、駄目出しするだろう。



「ありがとうございます。」と僕が外に出ると、彼女も付いて来た。



外は寒かった。雪の中程ではないけれど、それでも、コートがないと体が冷える。



あまり長居は出来ない。と言うか、僕はすでに中へ戻りたかった。



見知らぬ女性と二人で庭園で、何を話せばいいのか、全く思い浮かばない。



仕事の話なら出来る。取引先の女性とは、仕事に関係する話や世間話をして済んだが・・・初対面の女性と何を話せばいいんだ?



故人とはどのようなご関係ですか?と訊くのも今更だし。



何も言えず、少し開いた口から、ただ白い息を吐き出していると、


「元啓さんは、どうしてご結婚なさらないのですか?」といきなりストレートに訊かれた。



ゲイなので、とは、今は明かせないと思った。親戚が集まっている。どこで聞かれてしまうか分からない状態。



なので、「ご縁が無くて。」ははっ、と苦笑いして見せると、


「こんなに素敵でいらっしゃるのに。」と言われた。



いやいやいやいや、僕なんて!と全力で否定したかったが、それをやると中学生に見えてしまうだろうと我慢した僕は、


「そんな事、ありませんよ。」と、自分の中に変なダメージを受けながら、大人のつもりで返した。



「理想が高いのですか?」



理想?ああ、相手に求める条件って事?



そんなの、考えた事が無い。好きになった相手の全部が僕の理想だ。



わーさんの顔を思い浮かべていると、その周りに美和がチョロチョロし出す。



オイオイ、何で美和が出て来るんだよ。



「理想なんて───」ありませんよ、そう言おうとして(とど)まった僕は、


「今、移住して田舎に住んでいるんですが、そこは夏になると虫が多くて。ですから、理想的なのは、ムカデなどを躊躇わず踏み潰せる女性でしょうか。」と続けた。



そんな女、僕は知らない。美和以外。



「ムカデを踏み潰す人、ですか・・・」彼女は少し黙った後、「そうですか、元啓さんにはすでにそういう方がいらしたのですね。大変失礼致しました。」と僕に頭を下げた。



「え、いえ、そういう意味では・・・」



何故だろう、美和の事を誤解された?



いや、でも、美和と暮らしているなんて事は一言も漏らして居ないのに、どうして彼女に分かってしまったのだろう?



もしかしてこれが、志歩理の言う"女の勘"というものなのか?



「お誘いしてごめんなさい、元啓さん。寒いですから、戻りましょう。」



「はい。」



それから会場に戻った僕らは、軽く会釈して無言で別れた。



席に戻った僕に、父と母は、


「随分戻って来なかったな。」


「どこに行ってたの?」と訊いた。




「ああ、ちょっと外で酔いを醒ましてた。」



「たった一杯で?」



「あまり飲まなくなったから。」



「彼は飲まない人だっけ?」



何気ない、母の"彼"という言葉が胸に刺さった。



母が、わーさんの事を気に掛けてくれる事は嬉しかった。



でも、彼はもう居なくて、その事実も両親に伝えられなくて、


僕は、ぐっと奥歯を噛み締めた後、


「最近、飲まないんだ。時々ワイン飲む位。」とだけ答えた。




「そうなの。あ、ねえ、今日も泊まって行くでしょう?」



「うん。ビール飲んじゃったしね。明日の朝、発つよ。」



「お正月までゆっくりして行けないの?久し振りに家族で年越ししましょうよ。」



急に欲を出したのか、母は僕にそうせがんだ。



母の気持ちも分からないではない。ただでさえ親不孝な僕なんだから、一人ならそうするべきだ。



だけど、あの家に帰りたいと願う美和が居る。それに、わーさんの傍を長く離れたくもない。



「折角だけど明日帰るよ。雪が凄くて、屋根の雪下ろししないと家が潰れちゃうかもしれないから。」



「まー・・・随分な場所に移住したものねぇ。そう・・・」



残念がってくれる気持ちをくれて、ありがとう。親不孝でごめんね。



昔より、僕と家族の距離は縮まって居る気がした。








実家に戻ると、父も母も妹夫婦も疲れたのか、あまり喋らなくなった。



元気だったのは妹夫婦の長男と次男。小四と小一のやんちゃ盛りで、帰宅するなり、実家のリビングダイニングの中を走り回った。



プチン、と切れたのは僕ではない。子ども達の母親である妹だった。



「こらーっ!あんた達、静かにしなさいっていつも言ってるでしょっ!ほら、パパと先にお風呂入って来て!」



妹が子ども達を叱る声は、昔の母の声よりも大きいと、僕は驚いた。



「はーい。」



しぶしぶ返事をした二人は、妹の旦那に促され、風呂場へ向かった。



「ほら、ひまも行って。」



「やだ!ひま、ママとはいる!」



元気な声で抵抗したのは、妹夫婦の末子で僕の姪、幼稚園児の日葵(ひまり)



今日は幼稚園の制服を着ている。チェック柄のプリーツスカートに紺の上着。普段付ける赤いリボンは外したと言っていた。有名デザイナーが手掛けたという制服は、親戚の間で、可愛いの着てるねと評判だった。



妹は「高いだけよ」と母の隣で零しながらも、満更でもない顔をしていた。



子どもが三人も居ると、生活費が掛かって大変だろう。



食事に衣服に通学費。



小学生の内は良いだろうが、高校・大学となると、家が一軒建つと言われる位だから、この先の妹夫婦の生活設計は、かなり厳しいものになると予想される。



どうか僕より先に死なないでくれよ?何かあって、僕に子ども達を頼まれても困るから。



そんな事を考えていると、いつの間にか、妹も日葵も居なくなっていて、リビングは静かだった。



「元啓、お茶入ったわよ。」



キッチンから、母が僕を呼んだ。



「ああ、うん。」



キッチンの方を振り返ると、僕の前に父が歩いて来て言った。



「元啓、ハンガー。」



どこから持って来たのか、父は僕にハンガーを手渡した。



「ありがとう。」



受け取り、上着を脱いでネクタイと一緒にハンガーに掛けると、再び父が手を差し出すので、


何だろう?と見ると、父は僕の手からパッとハンガーを取って、リビングを出て行った。



「元啓。泊まる部屋、二階より一階の私達の部屋の方がいいでしょう?」



母が、ダイニングテーブルの上に、湯気の立つ湯呑みを並べて訊いた。



「え?あー・・・」おそらく、僕と妹の部屋は妹達家族が使うのだろう。そこへ僕一人入って行くよりは、両親の部屋で寝た方が良い気もするが、何だかそれは恥ずかしく、


「ここじゃ駄目かな?」とリビングの床を指さした。



「ここ?板の間で寒いわよ。」



「いや、僕は寧ろここがいいと言うか・・・」



「変わった子ね。」



久し振りに聞いた、母のその言葉。



僕が我が儘を言うと、"困った子"とは言わない。"変わった子"と言うのが僕の母のスタイル。



だから、人に"変わってる"と言われても、聞き流してしまえるようになった。



そして母が"変わった子"と言う時は、大抵許してくれる時だ。



僕は今夜、リビングで眠ってもいいと、母の了承を得た。



戻って来た父と三人でお茶を啜った。



何年振りかも忘れてしまう位の言葉少なな時間。



飲み干した湯呑みの底を見つめながら、わーさんの事を訊かれないのが、実は寂しかった。








風呂上がり、妹夫婦と両親に、全員分の寝床を用意して貰っている間、何故か僕が日葵の相手をさせられる事になった。



さっき、風呂から上がった僕が新聞を読もうと、リビングのソファーに腰を下ろすや否や、


「おにい、日葵の髪、乾かしておいて。」突然、妹からそう頼まれた。



「え?僕が?」



「昔、私の髪、乾かしてくれたでしょう?」



そんな事あったかな?と考え込んだ僕の前に、ドライヤーを握った日葵を一人残して、妹はパタパタパタと二階へ上がって行ってしまった。



あいつー・・・



しんとしたリビングに日葵と二人きりになると、頭にバスタオルをグルグル巻いたままの日葵が、僕にドライヤーを差し出して言った。



「おじちゃん、ひまりね、どらいやあ、あついからきらいなの。それでね?あした、ふわふわしたいから、みつあみして?」



僕がドライヤーを受け取ると、日葵は小さな八重歯を見せて笑った。



"ドライヤーは熱いから嫌い"かぁ・・・そうは言っても、日葵の髪は肩甲骨がすっぽり隠れる位まである。髪を乾かさずに寝たら、風邪を引いてしまうだろう。



美和先生なら何て言うかな、と考えた。



「乾かしたら、三つ編みしてあげるよ。」



「えー?」




「乾かさないと、ママ怒ると思うよ?三つ編みも出来ないよ?いいの?」



「うん、じゃあ、やって!」



「ドライヤー掛けていいの?」



「いーよ!」



「了解。」



僕は日葵の頭に巻かれたバスタオルを解いた。水を吸ったバスタオルの重量はかなりある。首が痛くなっただろう。だけど「重い」と文句を言わない所を見ると、日葵は妹のこの乱雑さに慣れている事が分かる。



いくら大変だからって、もう少し余裕を持てないのかな・・・なんて言ったら『おにいは子どもが居ないから、そんな呑気な事を言って居られるのよ!』と怒られそうだから言わないけど。



ブワーッ、僕はドライヤーをあまり近付け過ぎないようにして日葵の髪を乾かした。そして、



「ヘアゴムある?」と日葵に訊いた。



「あるよー、ここに。」と日葵は手首に掛けたヘアゴムを二つ、僕に手渡した。



懐かしいな、わーさんも手首にヘアゴムをいくつか掛けていた。



『一つしか使わないのに、どうして三本も付けてるの?』と訊いた事がある。



『シャンプーした後に風呂に置き忘れるんだ。一々取りに行くのが面倒だから』



何、その理由・・・外したらすぐに手首に付ければいいのに、と内心笑った記憶がある。



日葵の髪を梳かした僕は、髪を一つに縛った。



三つ編みを何に使うのかと美和と話したのを思い出す。



運動会の準備の最中だ。



まさか、姪の髪を結う時に使えるとは思わなかったよ。



美和がこれを知ったら『ほーら、三つ編み、役に立ったでしょう?』と得意気な顔をするに違いない。



髪の束を三つに分けて、こっちからこう、今度はこっちから、と編み始めると、日葵が



「おじちゃん、おじちゃん。」と僕の手をペチペチ叩いた。



「何?」



「あのね?かみのけ、まんなかではんぶんこして?ひま、にほんがいい。」



「二本って、三つ編みを二本するって事?」



「うん!」



ヘアゴムは二本しかない。



僕は電車やバスで見かけた三つ編み女学生の後ろ頭を一生懸命思い出した。



確か───根元は縛らず、三つ編みをしていた、かも・・・?



という事は、このまま頭の真ん中で分けて、それぞれ三つ編みをすればいいって事か。



もたつく僕に、日葵は


「おじちゃんって、ママのおにーちゃんなの?」と、親戚一同の前でも繰り返した質問をまた投げ掛ける。



「え?うん・・・」



それどころではない僕が生返事をしていると、


「なんでー?」と日葵が頭を動かして言う。



僕は必死だった。何とか分けた日葵の髪を指の間に挟み、振り向こうとする日葵の頭を押さえながら、


「何でかなー?」と精一杯惚けて、受け流した。



だって、その根元を縛らずにする三つ編みは、簡単なように見えて、難しかった。



根元を縛らず始めた三つ編みは、髪が滑ってすぐ編み目が緩んでしまう。



そして、半分に分けた筈の髪まで巻き込んで、分け目の関係ない、ぐちゃぐちゃな仕上がりになってしまった。



駄目だ、これでは。



「日葵、もう一回やってもいい?」と訊いた瞬間、ぐらり、日葵の頭が、大きく前に傾いた。



え?



僕は咄嗟に日葵の肩を掴んで、日葵のおでこがリビングのラグマットに直撃するのは免れた。



「日葵?寝ちゃったの?」



すーすー、目を閉じた日葵の体からは力が抜けて、くたりとなっている。



「疲れたんだな。」



僕は下手くそな三つ編みを解いて、日葵の手首にヘアゴムを二本掛けると、横向きに抱き上げ、そろそろ布団も敷けたであろう二階の部屋へ運んだ。








リビングに敷いた布団の中で僕は、懐かしい天井を仰いで居る。



しかしこの家も大分古くなったなぁ。階段の軋みも大きくなっていたし。



それでも、この家は暖房を切っても暖かかった。



夜中、明け方と、気温が下がり今より寒くなるとしても、僕の暮らすあの家程にはならないだろう。



外には雪もつららもないこの家。気密性が高いから、あの家みたいに隙間風も入って来ない。



大学卒業後、就職しても、しばらく厄介になったこの家。長く住み、住み慣れているのは、この家の筈。



なのに───



夏は暑く、虫も出るし、冬は寒くて、何もかも雪に埋もれてしまう、何年も暮らした訳でもないあの家が、この家よりも僕の家だという感覚が、こんなにも強かっただなんて改めて知る。



実家の居心地が悪い訳じゃないけれど、帰りたい。



わーさんと美和と、あの古く何もない家で眠りたくなった。



美和は今頃、どうしているだろう。眠ったかな。



僕が今日帰らない事を、さっき、実家に戻ってから美和に連絡した。




「ごめん。今夜は帰れそうにない。」



今から発つとそっちに付くのは夜中になってしまう事、そして酒を飲んでしまった事を言い訳のように付け加えると、


『うん、分かった。ゆっくりして来ていいよ』と美和が言った。



"ゆっくり"って何?僕は美和も早くあの家に帰りたいものだとばかり思って居たけれど違ったのかと、それとも怒ってしまったから嫌味なのかと、僕は美和の答えをどう取ったら良いのか考えた。



もしもの話だけど、美和は僕と同じように今日、あの家に帰りたいと思って居て、でも今日は帰れないと告げられ、実はがっかりして居るのを隠していたのだとしたら───



「ごめん。僕も今日帰りたかったんだけど。」



思わず謝ると、


『うん、私も。でも大丈夫。たまには親孝行しないとね!』


いつもの明るい声で、美和が本音かもしれない言葉を吐き出した。



実家で両親と過ごす事が親孝行か・・・まあ、美和の方はそうかもしれないけれど、僕の方は違うものになってしまうのではないかと思いながら、



「ありがとう。明日の朝、こっちを発つから。」と言うと、


『気を付けて帰って来てね』とやさしい声が返って来た。



何だか調子が狂う。膨れられても仕方のない内容の連絡だったのに。



「分かった。それじゃあ、明日。」



『うん、明日ね』







さっきの、美和との会話を思い返していた布団の中の僕は、丁度頭の上の方に置いたスマホを、伸ばした手で探った。



どこだどこだ?・・・あった。



僕は手にしたスマホを仰向けの顔の前に翳し、電源ボタンを軽く押して点灯させた。



明るくなった画面の上を指でなぞり、液晶画面に表示させたのは、スマートフォンアルバムの中のわーさんの画像。



【気を付けてな!】



移住前、いつもそう言って、僕を送り出し、待って居てくれたわーさん。



わーさんと美和は全然違う人間なのに、時々、中身が同じなんじゃないかと錯覚したりもする。



性格が似ているのかな?いや、わーさんはあんなに大雑把じゃなかった。



もっと細やかで、柔らかかった。



わーさんと結婚出来るなら、結婚していた。



ただ・・・仮に彼と結婚出来ていたとしたって、こうして離れ離れになってしまう日は、出逢う前の孤独を再び手にする日は、永遠に避けられなかったけれど。



出逢う前の孤独かぁ・・・あの日、わーさんと別れた日以降に感じた孤独は、彼と出逢う前の孤独とは違うものだと言える。



彼を知る前の孤独なんて、孤独とは呼べない程度のものだったと、今は知っているから。



スッスッスッ・・・僕はただ、指を動かし、画面を送っていた。



今、こうして、胸の中に波立った寂しさを消す術は無いのに。ただ僕の気持ちが落ち着くまでどうしようも無い事は分かっている。何も出来無い歯痒さもまた、焦りを生むだけ。



一人で眠るのは慣れていた筈なのに、どうしてこんなに喪失感が消えないのだろう。



ああ、そうか・・・美和が居たから、僕は一人の寂しさを感じなくなってしまったんだ。



美和が突然やって来た、あの日から───



「ふっ、ははっ!」



笑いながら、ふと指が止まる。



僕が美和に対抗して撮った、美和の変顔画像。



気を抜いた僕の顔ばかり盗み撮りする美和に対して僕も、美和の失敗した料理や、だらしなく脱ぎ散らかした服の様子、寝ぐせの直っていない後頭部、それから・・・美和の無防備な寝顔を撮っていた。



「変な顔。これ傑作。」



あはは、ははは、笑い涙が込み上げる。



明日の夜にはまた見られる、珍しくもない寝顔。



だけど、今夜は何度隣を見てもそれはなくて、いつの間にか当たり前になってしまっていた美和との二人暮らしのありがたみを知った。



わーさんの居なくなってしまったあの家。一人だったら、いずれ寂しさに耐え兼ねて、この実家に逃げ込みたくなる日が訪れていたかもしれない。



でも僕はまだ、あの家で、二人で暮らして居たい・・・わーさんを忘れないまま。



美和、どうかもう少し居てよ。あの家に。僕が死んだらすぐに出て行っていいから。



美和が来てから初めて気付いた。僕は一人で暮らし続ける事に、すっかり自信を失っていたのだと。



一人だったら、約束をしていなかったら、怖くて戻れなかったかもしれない。



雪に閉ざされた僕以外誰も住まないあの家には、寂しさが満ち溢れている。



古いあの家にあるのは、彼の最期のあの日の記憶。僕の中に強烈な後悔を引き起こす。



僕が苦しくなった時、手を差し伸べ、時には抱き締めてくれる相手。



男ではないから罪悪感を感じない。



美和も、僕に対してそうなのかもしれない。僕が女ではない所がいいのだろう。



互いに恋愛には発展しない僕ら。



傍から見たら或いはそういう関係に誤解されてしまうかもしれないから、家族に同居している事は明かせなかったけれど・・・美和は、どうしたかな。



僕と暮らしている事を家族に話したのかな。それとも正直に、自分がレズビアンである事を家族に話して・・・いたら、実家に居られなくなってしまうかもしれないから、それは話していないかもしれないな。



やっぱり僕らは親不孝なんだよ。異性を好きになれない子どもと言うのは、異性を好きになって結婚した親には異世界の生物なんだ。



「異世界の生物・・・」



僕は再び、美和の変顔画像を見てプッと吹き出した。



「親不孝な僕らだけど、不幸ではないよな。こんな変な顔で笑える位、しあわせだ。」



しあわせだよ、僕は。わーさんと離れても、まだそう思おうとしている。



ううん。本当の僕は不幸なのかもしれないけれど、わーさんに貰ったしあわせがまだ心の中に残っているから大丈夫。



明日、そっちに帰るね。美和も一緒に。



僕は、滲む視界をゆっくり閉じた。




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