17 2015年12月26日のこと
今日は、降る雪が弱まった。
美和と二人、お昼過ぎから雪掻きを初め、三時間程で、裏の駐車場から車を道路に出せる程になった。
同じ集落のご近所さんだろうか、チェーンを着けたタイヤで、雪道を物ともせず、慣れた様子で車を走らせているのを雪掻きする間、時折見かけた。
「すごいな・・・」
ザクッ、僕が持っていたスコップを雪の小山に立てて呟くと、
「何が?」とすかさず美和が訊ねた。
僕は前の道路を走り去った車が消えたカーブの向こうに目を遣りながら、
「雪道でもあんなスピードで。」と言うと、
「ああ、別にこれ位なら普通、と言うか慣れちゃってるんだよ。傍から見ると危ないけどね。」
まるでここに何十年も住んでいた人のような口振りの美和。
美和の実家が同じ県内にあると知らされた今は、それはそう言うものなのかと素直に聞ける。美和の方が田舎暮らしの先輩だから。
じっと見られている事に気付いた僕は、
「そういうもん?」と言ってみる。
「そういうもん。」
そう返す美和の顔は、僕の顔を真似て眉を顰めていた。お互い可笑しくなって、あははと笑った。
「よーし。これ位でいいでしょ。明日まで、そんなに降らなかったら車で行けそうだね。」
スノーダンプの雪を払って、辺りを見回した美和は、僕の手からスコップを回収した。
見渡す畑は一面真っ白だったが、道路はそんな事もなく、確かにこれなら車で駅までと言わず、美和の実家や僕の実家まで行けそうだと思えた。
駅の方まで行く事が出来れば、高速まではそんなに遠くない。
駅まで車で行き、そこに車を停めて、切符を買い、荷物を抱えて実家まで行くのを考えたら、このまま車で実家まで行ってしまった方が楽かもしれないと考え始めた。
乗り換える手間が無い。帰りだって好きな時間に帰れるし、何より一番の理由は、美和を実家に送り届けられる事。
美和の事だから、駅で別れたりしたら、実家に行かずに、僕に黙って一人でこの家に戻って来てしまうかもしれない。それは危険だ。
心配だから念の為、美和に渡している合鍵を回収しておくか。
僕は家に入る前、屋根に積もった雪の厚さを確かめた。
越して来て最初の冬は、どの位で雪下ろしすればいいかも分からずに、雪が止んだらこまめに雪下ろししていたのを思い出した。
あの時だったら、『もうこんなに積もってる!』とか言って、慌てて屋根に上がっていたに違いない。
ここに来て四度目の冬、一人で迎えるのは二度目の冬───いや、一人ではないな。一人増えて二人になってしまった冬。
しかも相手は僕より若くて元気で、雪掻きも心得ている女だから、今までで一番楽な冬。
しんしんと降る雪の中、僕はもう一度、真っ白になった畑と家をぐるり眺めた。
パサ、パサッ、僕に当たる雪の軽い音だけが聞こえる静かすぎるこの場所で、今年も一人だったらどうだったのだろう。
寂しさと退屈を飼いながら、お迎えが来る日が待ち遠しいと暮らしていたのだろうか。
まだひまわりの盛りだったあの夏の日、ひまわりよりも元気な女が僕を訪ねて来て、今一緒に暮らしているなんて、一年前の僕には想像も付かない事で・・・
僕は天を仰いだ。厚い雪雲から絶えず舞い落ちて来る雪が目に入り、瞼を閉じて、その冷たさの中、懐かしい彼の顔を思い浮かべた。
信じられないでしょ、わーさん。僕もそうだよ。未だに信じられない。
ここで、わーさん以外の誰かと暮らす事になるなんて。しかも女とだなんて。
わーさんの他に、この家を気に入る人が現れるなんて。
本当に、人生って予想外な事ばかり起こるね。
来年の僕は、どうしているかな。
生きていたら、また、一人になっているかな。
「元ー!何してるのー!風邪引くよー?」
呼ばれ、ハッとして目を開けた僕は、声の方を見た。雪掻き道具を片付けた美和が玄関から顔を出し、手招きしていた。
「今、行くよ。」
「お茶淹れとくねー。」
「うん。」
来年の冬の事は、考えたくないと思った。
今は、今はまだ、一人でここに住み続ける勇気を出したくなかった。
もう少しこのまま、美和が飽きるまで一緒に居ても───いいよね?わーさん。
玄関に向かって、ザクザクと歩き出した僕の後ろで気配がした気がして、足を止めて振り返った。
だけど、何もない。
パサッパサッ、相変わらず白い雪に覆われただけのひまわり畑に向かって降り続ける雪が見えただけ。
わーさんが笑っていた気がしたんだ。
時折感じるわーさんの懐かしい気配は、不思議な事に、僕一人で暮らしていた時より多く笑っている気がして、それは美和が居て、賑やかなせいなんだろうかとも考える。
僕一人が仏頂面で黙々暮らしているよりは、確かに笑ってしまう場面が多いだろうけれど。
ザク、ザクザク、再び歩き出した僕の前に、玄関からひょっこり顔を出した美和が「もー!元、何やってるの?遅いー!お茶冷めちゃうよー!」と痺れを切らした声で叫んだ。
そうか、一人だったらこうして誰かの叫び声を聞く事も、怒られる事も、それからお茶を淹れて貰う事もないんだなと思った僕は、美和の尖らせた口を見てふっ、と密かに笑った。
夕食後、旅支度をした。
一泊の出張のようなつもりで居れば大丈夫だ、と億劫になりそうな気持ちを奮い立たせて。
美和も、ここへ来た時のリュックではなく、通勤用のトートバッグに着替え詰めている。その量は礼服を持って行く僕より少なく、不安になった。
美和は本当に実家に帰るんだよな?僕が東京へ行った後、僕に黙って、ここへ戻って来たりしないよな?
そうだ、合鍵!
美和から回収しておかないと・・・
「美和、荷物それだけ?」
「うん。下着とかだけ。パジャマとか実家にあるから。」
「そ、そっか・・・」うーん、これは美和の言う事を信じた方がいいのか?
だけどやっぱり気になる僕は、
「美和、あのさ・・・」と切り出した。
「何?」
「鍵、合鍵、返してくれないかな。」
「えっ?」
美和は目を見開いたまま、固まった。
「美和?どうした?」僕は広げた手のひらを、美和の眼前で上下に振った。
ハッとした美和は、
「あ、鍵、何で?」と、トートバッグの端を握り締めて訊き返した。
一瞬、気絶したのかと思った。
「何で、って・・・」言い難い。"信用してないの?"って言われそうで。
「私の事、実家に帰して、二度と戻って来られないようにしたいの?」
思ってもない事を言われて、僕は驚いた。
「何でそうなるんだよ。違うよ。美和の事信用してない訳じゃないけど、一人でここに戻って来たら心配になるから。それで言ったの。別に追い出すつもりなら、家の鍵ごと替えるから・・・」
家の鍵を替えるとは、咄嗟に思い付いて付け加えた言葉。
合鍵を持たせたままの美和が出て行ったとしても、鍵を替えるつもりはなかった。
取られる物もないし、第一美和は、僕の所から何も持って行かないような気がしていた。
黙り込み、動かなくなった美和は、俯いて、トートバッグを握り締めていた。
「美和、怒った?」
最近の美和は、益々遠慮しなくなった。気に入らない事があると、容赦なく怒り出す。
美和の左肩に手を乗せた僕は、首を傾け、美和の顔を覗き込んだ。
目をぎゅっと瞑り、下唇を噛み締めた表情が見えたのは一瞬、すぐにバッと目を開き、覗き込む僕に向かってべーッと赤い舌を出した。
ビックリした僕は、背中を引いて、覗き込む姿勢をやめた。
「びっくりした。」そう言ったのは僕ではなくて美和だった。
「え、何が?」"びっくりした"は僕の台詞だ。美和は何に驚いたと言うのか。
「私、ここに帰って来てもいいの?」
僕はさっき美和に対して"戻って来たら"と言った。
美和は"帰って来ても"と言った。
だから不安になったんだ。僕よりも、この家を自分の家のように言うから。
僕はこの家に"帰って来る"。だってわーさんが居るから。
美和は違うから"戻って来る"と言ったのに、美和は、すっかりここを自分の家のようにしてしまっているのだな。
だからなのか?合鍵を返せと言った僕に、一瞬だけど悲しそうな表情を見せたのは。
「帰って来ちゃダメ。」
「え・・・?」また固まる美和に僕は、
「僕が帰って来るまで、美和もこの家に帰らない約束をしてくれるなら、鍵は持って居ていいよ。」と譲歩した。
「ほんとに?鍵、持って居ていいの?」
「いいよ。だけど、一人で帰って来るなよ?」
「うん、うん、ありがとー、元!」
嬉しそうに瞳を潤ませた美和は、僕に向かって両手を伸ばし、飛び付いた。
「えっ?」
さっき、美和の顔を覗き込んだ時の不安定な座り方のままだった僕の背中は仰け反り、どたっ、肩から畳の上に倒れ込んだ。
ゴチン。畳とは言え、打ち付けた後頭部は痛い。軽い眩暈を覚えた。
そのすぐ後、ずしりと僕の上に何かの重みが掛かった。
何だ?とずれた眼鏡を直しながら確かめると、僕の胸の上に、美和の頭があった。
その美和の両手はぐるり、僕の胴体を包んでいる。
何でこんな体勢に・・・ドッドッドッ・・・僕の心臓は、変な音を立てている。
熱い、重い、美和はどうして僕に乗っかっているんだ?と分からないでいる僕の声は、
「お、押さえ込み?」上擦った。
「寂しいなーと思って。」
「え?」寂しい?
「元のご飯食べられないから。」
ああ、何だ、ご飯か・・・
「それは寂しいって言うんじゃないだろ。」
「じゃあ、何て言うの?」
「ええと・・・」食いしん坊の美和に言ってやれる言葉が見つからない。
美和の呼吸を近くに感じるせいか、変に緊張して、頭の中が真っ白になる。
「元の音がする。どきどきどきって聞こえる。」
そう言って美和は、僕の体の上から動こうとしない。かと言って、振り落とすのも何だか・・・しかし重い・・・はーっ。胸が圧迫される。
美和は何かを考えているのか、黙っていた。僕はもう少し付き合ってやろうと、じっと我慢した。
久し振りだな。人の重みってこんなだったっけ。
ドッドッドッ、心臓の打つ速度は少し緩やかになった。でも、美和の頭が乗っているせいか、いつもより強く心臓の音を感じる。
僕は生きてる、まだ。
わーさんは死んでしまった。
二度と僕の胸の音を聞いてくれない。こうして僕の上に乗っかって、抱き締めてもくれない。
悲しいんじゃないよ、寂しい。
生き別れなら悲しいのだろうけれど、死に別れだから寂しい。
"悲しみ"は他のもので埋められる。他のものを代わりに出来るのが悲しみ。幾つか抱えられるもの。
時が過ぎれば、終わりに出来るのが悲しみだ。
"寂しさ"は他のもので埋められない。他のものを代わりに出来ないのが寂しさ。一つしか抱えられないもの。
いつまでもどこまでも、果てなく続くのが寂しさだ。
美和は生き別れだから"悲しい"、僕は"寂しい"だ。
でも、美和は『寂しい』と言った。好きな相手に二度と会えないと思って居るなら"悲しい"ではなく、"寂しい"になるのかな。
寂しい僕と、寂しい美和の心臓の音が重なる。
静かな雪の夜、二人だけの古い家の中で。
あるのは二人の体温と、それぞれの抱える寂しさだけ。
違う寂しさを抱えて、こうして抱き合ったら、少しは寂しさが減るのかな。
思い付きの仮説を実証してみようと僕は、僕にしがみ付いたままの美和の体に、そっと腕を回してみた。
お互い、異性に恋愛感情を抱かない者同士だから出来る事、と家族のような気持ちで美和の背中を包んだ腕に力を籠める。
ずしっ、さっきよりも重く感じる美和の体。
触れ合っている部分はどんどん熱が籠もり、汗ばみそうだった。
「美和、嫌じゃないの?」
僕から触れられるのは嫌なのではないかと思っていた。
美和からはよく触られたけど。
僕からはそうしない。
「元は?嫌じゃない?」
「僕は、別に・・・ただちょっと・・・」
「ちょっと、何?」
「重い。」正直に言うと、美和は怒るかなと思ったけど、さすがに肋骨辺りが痺れて来たから。
「あ・・・ごめん!ごめんね、元。」
美和は、サッと横に転がって、僕の上から退いてくれた。
今度は畳に抱き付く恰好の美和を、寝転がったまま見た僕は、軽くなった体に"寂しさ"を覚え、左手を美和に向かって伸ばした。
広げた手のひらを仰向けにして畳の上に落とすと、うつ伏せの美和の左手が伸び、その僕の手のひらの上に重ねられた。
天井を仰いだ僕は目を閉じ、そのまま指も閉じて、重なる美和の手を包んだ。
僕は、帰りたくなっていた。
ここに、家に居るのに、変な感じだ。
さっさと行って、早く帰って来たい。
美和も同じ気持ちみたいだから。
ここに、早く帰って来たい。
不思議だけど、朝起こされて、送り迎えさせられて、怒られて、心配させられて、それで、僕の作ったご飯を「美味しいね」と言って、おかわりする美和と、忙しないそんな暮らしを、また送りたいと考えて居た。