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そうそうない  作者: 碧井 漪
15/43

15 2015年12月20日のこと

12月20日、日曜日の朝は、この冬一番寒いのではないかと思える程だった。



目覚まし時計のアラーム音が鳴り響いた。



ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ・・・毎朝聞き慣れている音だが、長時間聞くのは苦痛な音。



ぼんやり目を開くと、まだ暗い。



夜と間違えそうな、朝4時半。



こんな時間にアラームを掛けて、起きるならまだしも・・・



「うー・・・ん。」



もぞもぞ、美和は布団の中から手を伸ばして、いよいよアラーム音を止めるのかと思いきや・・・違った。



美和は寝返りを打って、頭からすっぽり布団を被った。



オイオイオイー!



腹が立った僕は、一度起き、少し離れた位置で眠る美和に向かって手を伸ばし、掛布団ごと美和の体を揺すった。




「美和、起きろ。目覚まし、止めて。」



僕が止めた方が早い気がするけれど、それじゃあ、いつまで経っても美和は非常識な時間に目覚ましを掛け続け、一向に起きない、を繰り返すだろうから。



これが朝7時以降ならまだ許せる。さすがに朝5時前の目覚ましは、未だに好きになれない。



「みーわってば!」



「んー・・・?」



ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ!



段々怒って行くかのようなアラーム音に煽られるように、僕の揺さぶりも大きくなった。



掛布団の上から美和を揺すっていると、ようやく美和が目覚まし時計に手を伸ばし、バシンと叩いた。



音は一度止まる。しかしスヌーズ機能とやらの付いている目覚まし時計の為、裏にある小さなスイッチをOFFにしないと、数分後には再び鳴り出してしまう。



「美和、それじゃあ駄目だよ。ちゃんと止めて。」



僕の二度寝に影響する。



かと言って、布団の中から両足を出すのが億劫だった。すごく寒いから。



今だって、布団から出ている上半身が冷えてしまった。早く布団の中に戻りたがっている。



僕は美和を再び揺すった。



「美和、美和ってば!起きるつもりで目覚まし掛けたんだろ?」



「・・・はっ!そうだった!」



もぞっ、動いた美和は掛布団を捲った。僕の手は折られた掛布団に巻き込まれ、引き抜いた、その時、



美和が僕の方に身を捩りながら起き上がった。



ふにゃり、


テニスの軟球より柔らかな物が、引っ込めようとする僕の右手の平を掠めた。



「あ!」と美和が声を出した。



瞬間、


「え?」と言いながら、柔らかな物を見た僕は、僕の手に触れたそれが何か判明して戸惑った。



美和の胸だった。



「ごめん!」



謝ったのは美和だった。それで美和の顔を見ると、美和は横を向いていて、僕の方を見ていなかった。



気まずさを感じても、言いたかった言葉を先に美和に取られてしまった僕は、何も言えなくなっていた。



「起こしちゃってごめんね!」



そう続けた美和は、バサッ、慌ただしく掛布団を畳み、その勢いで敷布団も片付けた。



ピッ、エアコンを点けた後、美和は居間から隣の箪笥部屋へ移動した。



僕は右手を見つめた。



これって、セクハラ・・・かもしれない。



男が嫌いな美和の心を、一応男の僕は、傷付けてしまった?



しかし、触ろうとして触ったのではない事を美和も理解している筈。僕が気にする事ではない。



事故だ。



事故だけど、うーん・・・謝った方がいいかな。



嫌われたら、出て行かれて、あの約束も果たして貰えなくなってしまうから。



二度寝の事をすっかり忘れて、僕は右手をどの位そうして見つめて考えていたのか、



ジャーッ、台所からの水音でハッと我に返った。



時計を見ると、まだ5時前。



段々暖まって来た居間で、僕は布団から起き出した。



布団を畳み、着替えた。



ふあーっ、髭を剃ろうと思って立った洗面台の鏡の前で大欠伸(おおあくび)



まだ眠いよ。ゆうべだって、いつもと変わらない時間に寝たんだから。



はーっ・・・交換条件の”デート”は疲れる。







ゆうべ、『明日のデート、楽しみー!早起きしてお弁当作るからね!』とウキウキしている美和に違和感を覚え、



『デート、した事ないからそんなにはしゃいでるの?』と訊いてみた。



美和の好きな人は女性、しかも既婚者・・・二人で出掛けた事が無いのかもしれない。



『うん、初めて』



『へー。でもさ、これってデートって呼ばないんじゃないの?』



『え?デートでしょ?だって辞書には異性と待ち合わせて会う事って書いてあったよ』



『待ち合わせてないし。というか、異性?同性同士だとデートって呼ばないの?』



『さあ?とにかく、私はどっちもないから。元はあるの?』



『両方あるよ』



『へえ・・・異性って、どんな人と?』



『志歩理だよ。プライベートで呼び出された事がある』



『なあんだ。志歩理社長かぁ』



『何で嬉しそうなの?悲しそうな顔するかと思ったのに』



『あー、元。私の好きな人が志歩理社長だって思ってたんでしょう?違うからね!そりゃ、志歩理社長は素敵だけどさっ、ち・が・うから。私の好きな人は、うーん・・・そんなにカッコ良くないから』



『まあ、確かに志歩理はカッコいい女だよな』



『うんうん』



『なーんて、見た目だけだよ。志歩理はああ見えて、実は弱くて可愛い女だよ』



『可愛い・・・かぁ』



『うん』



『元も志歩理社長みたいな人なら、結婚してもいいって思った?』



『うーん・・・思わなかったよ。わーさん居たし。それに、志歩理は、そういう関係になってもならなくても特別である事に変わりないから。実の家族より家族みたいな感じかな』



『ほー・・・いいね、そういうの。私の事もそう思ってくれる人が欲しい』



『美和はこれから見つかるよ。若いんだから』



『おじさーん発言』



『悪かったな、おじさんで』



『うそうそ、思ってない。元、わかーい!』



『わざとらしいぞ。ほら、明日、早起きするなら早く寝ろよ』




『わわっ!そうだった。つい話が弾んでしまった』



『弾んでもないけど』



『もー、つれないなぁ』



『いいから。電気消すぞ?』



『わわっ、待って待って・・・はーい、いいよー!』



パチッ───






“デート”か。久し振りだな。



わーさんと最後に出掛けたのはいつだっけ。



ここへ越して来てからは、出掛けたりしなかったな。



ただ二人で居られれば、それで良かった。



どこへ行こうなんて考られなかった。僕らが向かっているのは、限りある命の時間の終わる瞬間だと思っていたから。



いつまで・・・そればかり考えて、考えないようにして、それでも頭の中から消えなくて、そんな僕の気持ちをわーさんは分かっていたのかもしれない。



僕を見る時、本当は痛くて苦しかったかもしれないのに、ただ穏やかに笑って、僕の手をやさしく握ってくれたわーさん。



本当はもっと、どこかに行きたかったかもしれないのに。



今になって後悔しても遅い。生きている内に、わーさんとあちこち行っておけば良かった。



わーさんの為にというか、僕の為に・・・なのかな。



僕は仏壇にあるわーさんの写真を撫でた。



今日、美和と水族館に行って来るね。



やっぱりわーさんと行きたかったなぁ。



手を合わせた後、台所を覗くと、美和はまだお弁当を作っていた。



暇を持て余した僕は、畳に掃除機をかけた後、押し入れの中からフリースショールを取り出し、車に積み込んだ。一応敷物も。



すうっ、息を吸うと、鼻の奥を冷気に刺激され、吸うのをやめると、口からふわーっと白い靄が顔の前に漂った。



ふと、車の上に、チラチラと白い物が舞っているのに気付いた。辺りを見回すと、周囲の景色を霞ませる、雪だ。この前も降った。



この先の山の方は、もっと沢山降っている。



ここは麓だからまだマシな方だけど、それでもやっぱり寒いなと、僕は冷たくなった指先をギュッと握り、勝手口から家の中へ舞い戻った。



「元。外、寒かった?車に何を積んだの?」



ふわあと、僕の首筋を暖かな空気が擽る中、美和に訊かれた。



「寒かったよ。敷物積んだ。」



僕は、動かし難くなった唇を動かして答えた。



「そっか、ありがと。」と美和は、鼻歌交じりで詰めたお弁当箱をバッグに入れた。



「よしっ!あと、お茶だけだ。水筒水筒。」と、やっぱりもう少しかかりそうだ。



僕はトイレに行った後、二人分の分厚いダウンコートを車の後部座席に積んだ。



今日の目的地は、ここよりは南だけど、海に面した場所だから、寒い事には変わりないだろう。



「お待たせ、準備出来たよ。」



そう言って、大きなバッグを持って勝手口を出て来た美和が、勝手口の鍵を掛けようとした。



「待って、忘れ物した。」



僕は家の中に戻り、戸締りと火の元を確認した。そして箪笥からわーさんのマフラーを取り出した。



「行って来ます。」



仏壇のわーさんに言ってから、勝手口でスニーカーを履いた。



外に出た僕と入れ替わりで、美和が家の中に入って行く。



「忘れ物?」



「うん。」



僕は先に車に乗り込み、エンジンを掛けた。



暖機(運転)に丁度いい時間。



フロントガラスが凍り付いてる。



ウォッシャー液を出し、ワイパーを動かした。山へ続く細い路面と裏の空地は共に霜が()り、白くなっている。



はあっ、吐く息も勿論白い。



ヒーターを強くした。



そうして僕が車に乗り込んで五分経った頃、ようやく美和が助手席に乗り込んだ。



「鍵掛けた?」



「掛けて来た。」



「忘れ物って何を持って来たの?」



美和の忘れ物だと持って来たのは、布製の手提げバッグ。美和の手作りなのか、チューリップのアップリケが付いている。



「へへへ、これは秘密。」



美和は一体、何を持って来たんだろう?見ると、どうも平べったい物のようだ。



「チケット持った?」



「あっ、忘れた!」



「何してんだよ。」



「取りに行って来る!」



「その手提げ、置いて行けば?」



「やだ!だって、元、中見る気でしょう?」



「見ないよ。」



「すぐ戻るから、待ってて!」



「はいはい。」



別に一人で行ったりしないよ。僕が行きたい訳じゃないから。



ちらとお墓を見た。



これは、僕があのお墓に入る為の第一歩。



簡単じゃないんだな。家族として認められない人と一緒にお墓に入るのって。



日本でも同性婚が認められていれば、僕は今、こんな思いをしなくて良かったのに。



夫と同じお墓に入りたくないという妻が居るそうだけど、贅沢だ。



嫌なら別れておけばいい。



どんなに好きでも家族と認められない者達からすれば、嫌いなのに別れずに一緒に居るという人は馬鹿だと言いたい。



死んだ後の事は選べない。生きている内の事は選べる。



死んで一緒に居たくない人と生きている内に一緒に居る、考えただけで勿体ない。



どうせなら、生きている内に好きな人と一緒に居た方がいい。



死んだらどこへ行こうと関係ない。




そう考えたら、僕はわーさんと同じお墓に入りたいと拘る事もないんじゃないかと思いそうだけど、でも、僕は好きだから、生きている内も死んでからも、彼を愛して居るから、傍に居たいんだ。



死後の世界を100%信じている訳ではけれど、もしもそれが本当にあった場合、信じずに準備をしていなかった僕は、わーさんの許へ無事辿り着けないのではないか、と考えてしまうと、備えあれば憂いなしと言うから。



死ぬ前に準備万端整えておかないと、死んでからは何も出来ないんだから。



バタン。



「はあ、はあ、はあ、お待たせ!」



助手席に乗り込んだ美和の手には、剥き出しのチケットが二枚、握り締められていた。



「戸締り・・・」「OK!行こう!」美和はそう言って咳込んだ。



僕は車から一旦降り、美和が後ろに積んだバッグの中から水筒を取り出した。



「はい、お茶。トイレ済ませた?そんなに急がなくても、これだけ早かったら渋滞に巻き込まれないと思うから。」



「でも、分からないでしょ?」



「あんまり早いと、水族館、開いてないでしょ?」



「えーと、どうかな。」美和は手にしたチケットを眺めて、「あっ!10時からだ・・・」と呟いた。



「10時か・・・微妙だな。今、5時過ぎ。普通に行って三時間。渋滞無かったら、早く着き過ぎかも。」



「うーん、そっか。どうする?」



どうすると言われても、ここまで出発準備しておいて今更、家に戻るのも面倒だから───「ここに居ても仕方ないから、行くか。」



「うん!」



嬉しそうに笑って頷いた美和は、膝の上にあった手提げを胸に抱き締めた。



やがて車が高速道路に入ってから、美和が言った。



「お腹空かない?朝ご飯食べずに来たから・・・おにぎり作ったけど、食べる?」



「んー、僕はいい。美和、食べれば?」



「んー、私もまだいいかな。」



「珍しい。食いしん坊のくせに。」



「えー?私、そんなに食いしん坊じゃないよ?」



「嘘つけ。相当食べるじゃないか。」



「あー、量ね。それって食いしん坊になるの?大食いじゃなくて?」



「それは知らないけど、食べたいなら、食べていいよ。」



「んー、じゃあ、そうしようかな。」



結局、美和はおにぎりを食べた。二つも。



その食べっぷりを見ていたら、僕も少し空腹を覚えたので、


「一つ頂戴。」と言うと、「おかかと鮭と梅干し、どれがいい?」と訊かれた。



「おかか。」



「おかか・・・は、これね。」



はい、と渡されたおにぎりは、アルミホイルが半分剥かれて、食べやすくしてあった。



もぐ・・・おかかだ。丁度良い塩加減。海苔もベチャベチャしてない所は合格。



一見大雑把に見える美和は、案外細かい所まで気を配る人間だった。



幼稚園教諭という職業柄なのだろうか。一々世話を焼くのを厭わない方。



美和は結婚して子どもを産んだら、いい母親になりそうだ。



女が好きと言う美和に、そんな日が来るのか分からないけれど。



一般的な男からすれば残念なポイントはそこだろう。



美和はブスでもないし、細身でスタイルも悪くない。胸は無いけど。



性格はさっぱりしてて、明るい方。



時々寝坊するけれど、体力はある方。



女嫌いの僕と暮らせているのだから、女々しくないと言えばそう?



すぐに泣いたり、拗ねたり、癇癪を起したりしない。



ねだられる事はあるけど。



「はい、お茶。」



「ありがと。」



僕がおにぎりを食べ終えるのを見計らった美和が、水筒のコップにお茶を注いで手渡した。



お腹も満たされ、道も空いてる、順調だったけれど、「一つ問題がある。」



「え?何?何が問題?」



「・・・早く着き過ぎる。」



「あ、なーんだ。」



「なーんだ、って言うけど、どうするの?中に入れずに外で待ってたら絶対寒いよ?」



「そうだねぇ。車の中で待ってる、とか?」



「つまらない。」



「確かに。あ!じゃあ、海をお散歩しよう。」



「嫌だよ、寒い。」



「そっかぁ・・・どうしようか・・・」



家を出るのが早過ぎなんだよ。



張り切るのは分かるけれど。



しゅんとなった美和は黙り込み、忘れたと言って持って来た手提げを胸に抱いている。



「それ、何入ってるの?」



「元、怒るから教えない。」



「は?」



「着いたら教える。」



そう言われても気になる。



「怒らないから、教えて。」



「嘘。怒るもん。」



「だったら何で持って来るの。」



「どうしても、持って来たかったの。」



「じゃあ、僕が怒ったって気にしなければいいじゃないか。」



「そうだね。」



そう言って、美和は手提げの中からA4ファイル位の大きさの物を取り出した。



運転中なので、ちらちらとしか見れないが、ふと見た、次の瞬間、


高速を走っていると言うのに、僕は危うくブレーキを踏みそうになった。



「な、なんで・・・!」



「だって、一緒に来たかったんだもん。」



絶句した僕の目に入ったのは、わーさんの遺影。



「だからって、仏壇から持って来ないでしょ。」



「ごめんなさい、勝手に持ち出して。」



「もういいよ。今更。」



僕だって今朝、確かに思ったよ?



わーさんと一緒に水族館に来たいって。



だけどさ・・・これ、持って来ちゃう?



そう考えていたら急に、ふっ、と笑いが込み上げ、止まらなくなった。




「馬鹿。」



「え?」



「馬鹿だよ、美和は。」



「え、うん・・・ごめんね。」



「いいよ、もう。僕もわーさんと一緒に来たいと思ってたから。」ありがとうと続けようか迷っていると、



「ありがと、元。」美和はまた、僕の言おうとする言葉を取った。



似ているのかな、僕と美和は。



美和はどちらかと言うと、わーさんに似ていると思っていたのに。



【あんまり飛ばすなよ?】



不意に、わーさんの気配を感じた気がした。後部座席に。



バックミラーをちらと見る。乗っている訳はないのに、一緒に居る気がした。



もしかするとそれは、僕だけじゃなくて、美和もわーさんと一緒に行きたいと思ってくれているせいかもしれないなと、感じた。



二人から一緒に来て欲しいと乞われたわーさんは『はいはい』と仕方なく付き合ってくれたんだ。



三人で”デート”しよう。今日は、目一杯、楽しもう。



僕はわーさんの笑顔が見たい。でもそれは叶わないから、せめて僕が笑って、その笑顔を天国のわーさんが、若しくは今ここに居るかもしれないわーさんが見ていてくれたらいい。



「早く着き過ぎたっていいか・・・」



「え?」



呟いて僕はアクセルを踏み込んだ。



ナビ通り一般道に降りると、朝の通勤時間と被った為、少し混雑していたが、”さざんなみランド”方面へ向かう車は僕ら以外無くて、ガラガラの一本道を、本当にこっちでいいのかと思いながら進むと、ゲートが見えて来た。



まだ開園前で閉ざされた入園口を横目に、駐車場案内看板に従って車を進めた。



時刻は8時30分過ぎ。日は上っているが薄曇りで弱い。



駐車場に着くと、自動発券機の黄色と黒縞のバーの前に車を停める。



まだ開いてないか、と一応運転席の窓を開けて、機械の上に掲げられた営業時間のボードを確認しようとすると、



『発券ボタンを押して下さい』



人工的な女性の声で言われ、僕はその通りに丸いボタンを押した。



ビビッ、と裏の黒い駐車券が発行された。



それを取った後、上がったバーの先へ車を進める。



広いアスファルトの上に、白線で囲まれた夥しい数の駐車スペースがあった。



「停め放題だね。」



「ははっ、これ一台しかないよ。」



「確かに。」



「どこ停めようか。」



「そうだね・・・あんまりあっちに停めると、帰りが大変そうじゃない?」



「まあね。じゃあ、この辺でいい?」



「いいよ、どこでも。」



僕らの他に、駐車場に停まっている車は、と見渡すと、端っこの方に一台だけ見つけた。



どこでもいいと言われて迷うのも変な話。



車を停めると、エンジンを切る前に「これからどうする?」と美和に訊いた。



「そうだねぇ、どうする?」



僕と顔を見合わせた美和が首を傾げた。



「お弁当、食べようか。」



「え?いいけど、でもそしたらお昼は───」



「園内にレストラン位あるだろ。」



外から見ると、リニューアルした”さざんなみランド”は水族館に遊具も併設された規模の大きな遊園地だと分かる。



「あると思うけど・・・」



「お弁当、持って歩くのも大変そうだから。」



「確かに、広そう。こうなってるとは思ってなかった。」



「そっか。じゃあ、食べて、時間までその辺散歩する?寒そうだけど。」



「え?いいの?!行く行く、散歩に行く!」



お弁当は1/4残した。頑張ってみたけれど、全部は食べられなかった。



「作り過ぎ。」



「確かに。わーさんが居たら丁度良かったね。」



「そうだけど。」



僕は、残った玉子焼きを一切れ、口の中に押し込んだ。



「元、もういいよ。無理しないで。」



美和は、まだおかずが残るお弁当箱に蓋をした。



もぐもぐもぐ、ごくん。



それから、お茶を飲んだら、トイレに行きたくなった。



「トイレってこの辺・・・」あったかな?



大通りのコンビニまで、車で一旦戻ろうかと考えていると、



「駐車場の端っこにあるの、あれそうじゃない?」と美和が小さな建物を指さした。



「行ってみようか。」



「うん。私も行きたかったんだ。」



ダウンコートを着込んで向かったそれは、男女別になった公衆トイレだった。



決して綺麗とは言えないトイレだったが、あって良かった。



しかし、傍目からトイレと分かる標識を付けておいてくれたらいいのに。



美和より先にトイレから出て来たらしい僕は、一旦車に戻った。



想像よりかなり海風が強く、遮る建物も何も無いから、体感温度は相当低い。



散歩しようなんて言い出した事、後悔してる。



歯が、ガチガチ言い始めた僕は、車から取り出したフリースショールと、わーさんのマフラーを取り出した。




僕はマフラーを首にグルグル巻いた。長いんだ、わーさんのマフラーは。



少し動きにくくなったけれど、風が遮られて、あったかい。



そうして僕がマフラーを首から肩に掛けて巻き終わった時、美和が戻って来た。



「マフラー?私も持って来れば良かったかなあ?」と言うので、元々美和に渡すつもりだったフリースショールで美和の背中を包んだ。



「ありがと。でも、元が寒いよ。」



「僕はわーさんのマフラーがあるから。」



「それ、わーさんのなんだ?あったかそう。」



胸がちくんとした。



助手席からわーさんの写真の入った手提げを取った美和を見たら、もっと、これではいけない気がして、僕は巻いてあるマフラーを解いていた。



「元?どうしたの?マフラー取っちゃったら寒いよ。」



僕は取ったマフラーを、黙って美和の首に巻いた。



「元、これ、いいよ・・・私、こっちのフリースあるから。」



「いいの、これで。マフラー外したら、散歩、やめるから。」そう脅して、僕は両手をダウンコートのポケットに突っ込み、海に向けて歩き出した。



「あっ、待って!」美和が付いて来る。



駐車場の向こうにあった海が目前に迫って来る。



水平線が視界一杯に広がった時、風はさっきより強くなったように感じた。



雲の間から覗き出した日の光が、穏やかな海面の上をキラキラ揺蕩う。



繰り返し繰り返し、飽きる事無く。



永遠の時がここにあるのだろう。



僕らの手に入れられない永い時間は、ここにあるもの達にとっては当たり前の時間なんだ。



人ってちっぽけだな。



高々80年生きて、死んだ後に墓がどうのと、拘る僕は何なんだという気にもなって来た。



僕はどこに埋葬されたって、わーさんの許へ行く。



それでいい筈なのに、一体何が不安だと言うのだろう。



ギュッ。



「え?」



見ると、僕の左腕は、美和の人質に取られていた。



「風あって、寒いねー。」



「うん。美和、腕、返して。」



「やだ。」



「重い。」



「それでも、少しだけ貸して。」



「レンタル料、一分500円。」



「ええー?高いよ。」



「嫌なら離して。」



「分かった。後で払うよ。」



そう言っても払う気ないだろ?



まあ僕も、本当に貰う気はないけど。



女嫌いの僕が美和を平気なように、男嫌いな美和も僕を平気なら、それはそれで嬉しい事だ。



僕を否定しない相手と、一緒に居るのは苦じゃない。



僕を否定する事と言うのは、すなわち、わーさんを好きでいてもいいと認めてくれない事だ。



僕がゲイである事は変えられない。と言っても、今はわーさんだけ。



他の男にはときめかない。最愛を知ってからは。



つまりこういう事なんだろう。



運命の人、最愛の人に出逢ってしまったら、もう二度と恋は出来ない。



その人以上にときめく相手が現れないから。



恋が愛に変わったら、その愛を失わない限り、恋する事は無い。



恋をして結婚して愛を得たら、二度と恋のような果敢なく脆い気持ちを欲しがらなくなる。



戻れない、最愛を知ったら、それより淡い恋の心には。



もっと、もっとと先へ進んで、一番深い愛を手に入れたくなる。



それがしあわせなんだと、思っている。



恋より愛。



その愛を失ったら、どうなるかなんてみんな考えない。考えたくないから。



僕は、この愛を手離したら、新しい恋を得られるかもしれない。



だけど、僕はわーさんとの愛を手離したくない。どんなに寂しくても、この過去になったと言われてしまいそうな愛に、縋って生きたい。



僕の人生最大だと思う程膨らんだ気持ちだから。



今は萎んで、再び大きく膨らむ事はない気持ちになってしまったけれど、それでも、僕はこの萎んだ風船のような愛を捨てたくない。



「元は、しあわせだよね。」



美和はいつの間にか、左手にわーさんの写真を持って、僕に見せて訊いた。



「しあわせだよ、僕は。」



わーさんが死んでしまっても、まだ僕はわーさんを愛しているから、しあわせなんだ。



「首も貸して。」



「首?」



ふわっ、


美和は解いたマフラーの半分を、僕の首に巻き付けた。



「苦しいよ。」



「苦しいよ。愛だもん。」



「え?愛・・・?」



苦しいって言ったのは、マフラーの事だけど?



美和は海を見つめて言った。



「人を愛するって、綺麗な事ばかりではないよね。どちらかと言うと、汚い、醜い、苦しい、そんなものを乗り越えた先にある、決して楽とは言えない道で、欲する限りその道はまだ続いてて、いつまで歩いたってゴールは見えない。」



ゴール、かあ・・・ゴールなんて無いよ。多分、愛には。



「それって、愛された事のない人の語る愛じゃないか?」



「そう言われればそうとしか言えない私だけど、元を見ててもそう思えるよ?」



「僕が?何故。」訊き返しながら、”苦しい”、”楽とは言えない道が続く”と言う所は納得していた。



「何故、そう思うの?」重ねて訊いた僕に、美和はただ横顔を微笑ませるだけで、明確な答えを返してはくれなかった。



波打ち際に向かって一歩一歩と踏み出す美和に、ついて行くしかない僕は、マフラーに唇を埋めて考えながら歩いた。



美和は女───だから、愛についての捉え方が僕と違うのは、止むを得ない。



美和も愛されたいって思ってたんなら、こんな田舎に逃げて来ないで、もっと人の多い場所で自分の考える愛とやらに見合う人を見つけて恋愛すれば良いんだ。



「そろそろうちに居るのが飽きたなら、出てってもいいよ?」僕はじっと海を見つめる美和の横顔にぶつけた。



僕と暮らして居たら、恋愛出来ないだろう?お墓の事は、業者に委託すればいいだけの事だし、美和を家に置いておく理由は特にない。



大来名駅近くには単身者用のアパートがあって、幼稚園まで徒歩で通える。不便な場所にあるあの家に居座る必要なんかないのに。



美和が出て行った後、僕が再び一人で暮らすと考えたら、とても静かに感じてしまうだろう、それと少し退屈になるだろう・・・なんて、どっちを望んでるんだよと苦笑した。



言葉通り、美和が出て行って一人になったら、僕はまた、昨夏のような喪失感を味わうんだろうか。



わーさんと美和では比べ物にならないけれど、それでも少しは感じるんだろうな。



増えてしまった茶碗一個分、箸一膳分、ハブラシ、タオル、エプロン、庭のサンダル、麦わら帽子、そんな位だろうけど。



くるり、振り返った美和は、


「やだ!出てかなーい。行くとこないもん。仕事もあるし、家賃安いし、絶対居座る。」と僕に向かってあっかんべーをした。



子どもか。



思わずくすりと笑うと、


「良かった。元が笑って。」美和は笑いながら、突然ボロボロ涙を零した。



僕はギョッとした。



“出て行け”と言ったからからか?でも、美和自身”出て行かない”と宣言したばかり・・・



何で泣いてるの?



悲しくなかったら嬉し涙?分からない。



「美和、今って、悲しい、嬉しい?」



そう訊くと、赤い目の美和は「両方」と言いながら、涙を拭った。



その仕草に、どきりとした僕は、


「僕が笑って嬉しいのかと思った。」と思わず言ってしまった。



「それもあるけど、出てったら?って言われて、ほんとは悲しかった。」



ああ、そうなのか。悲しいのか。あの家を出る事は美和にとって───



しかし、僕が『出て行け』と言ったって、簡単に出て行く美和ではないのに。



だけど傷付いたんだな。ごめん。



「そんなに田舎暮らしが気に入った?」



「好きだよ。今まで生きてきた中で、あの家が一番。」



僕の頭の中に"最愛"の言葉が浮かんだ。今まで生きて来た中で一番・・・か。



美和はまた、海を見た。水平線の彼方を探しているような、遠い目をして。



僕も海を見た。



ここは確かに海の筈なのに、


目の前に広がっているのは、家の居間から見ているひまわりのなくなった畑。土しかない。殺伐として、冬を迎え、厳寒の中、静かに降る雪に覆われ、ただ真っ白な景色になる。



ここには面白く刺激的なものは何もない。ただ季節がゆっくり変わるのを、都会に居た頃より、肌に強く感じられるだけ。



まるで服を着ていない、裸の身に沁み入るような季節の空気。



夏は暑く、冬は寒い。



そんな当たり前の事に「暑い」「寒い」と一々ぼやかなくなる位、体の一部のように自然になった季節の移り変わり。



例えば明日かに都会の暮らしに戻ら無ければならないとか考えたら、確かに嫌だな。



今の僕を取り巻き、過ぎる時間は長い日も短い日もある。



耕す時は長く感じ、収穫の時は短く感じる。



その日の気持ちによって、時を感じる長さが全然違う。



美和が来るまでは、長く感じた。先も見えなかった。いや、先の事を考えるのを放棄していた。



今は、毎日短く感じる。昨日はこれをしたから、今日はこれをやって、明日はあれだと忙しない。



二人分だからだ。短く感じるのは。僕が一日に使える時間を二つに分けるから。



わーさんが旅立った後、しばらくは、これからずっと一人の時間をどう過ごそうかなんて考えられずにいた。



この暮らしに飽きたら、いつ死んでもいいなんて思っていたけれど、



美和が来て、そうは言っていられなくなった。



あれこれうるさい美和を早く追い出して、静かに楽に一人で暮らそうという考えは、だんだんなくなっていた。



「あの家で良ければ、飽きるまで居れば?」



「そうさせて貰う。」



美和の返事に、何故か僕はホッと息を吐いていた。



男ではないし、女とも意識させない美和とだったら、ただの人と人同士。



深く関わらない同居人。入れてくれる家賃と食費と光熱費の五万円は、食費とガソリン代に消えるけど。



もし、美和が男だったら、天国のわーさんが嫉妬するかもしれなすから、女で良かったのかもと最近は思ったりもしてる。



(はた)から恋人や夫婦に見えてしまうのは煩わしいが、それを一々否定して回り、疲弊するなんて無駄な事だ。



恋人同士に見えても、実は、恋愛も友情も成立しない間柄。お互いに同性愛者と分かっているから。



齢が離れすぎているから、妹と言ったら語弊があるだろうが、まさに兄妹、本当の妹より喧嘩しない妹、そんな感じだ。



「そろそろ行く?」



そう美和に言われて、僕がポケットから取り出したスマホを確認すると、開園5分前だった。



もうそんなに経ったんだ。



「そうだね、丁度時間だから行こうか。」


と答えると、美和は自分に巻いているマフラーを外して、僕の首に巻き付けた。



そして、


「冷えちゃったから、走ろう!よーいドン!」


美和はいきなり走り出した。




きゃあきゃあ言いながら、僕からどんどん遠ざかって行く美和。



「えっ?!何、突然。」



冷えて固まった体を動かすのは簡単じゃない。



発想が20代だ。僕はもう40代。



付いて行くのはキツイ。



わーさん、とんでもない女が居付いたよ。



「困るよね、ほんと。」



【いいんじゃないか?賑やかで】



「そうかなぁ?」



呟きながら走る僕の頬は、いつもより緩んでいた。







ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ・・・車で埋まり始めた駐車場の端を横切り、入園口に着いた時には、額にうっすら汗を掻いていた。



「ゴホッ、ゴホゴホ!」



口の中が乾燥して咳込む僕の背中を、美和は摩りながら「元、大丈夫?」涼しい顔して言った。



急に走らせておいて、それはないよ。



「平気・・・」痩せ我慢もいい所。男の、と言うか、40代の意地かな。



「あれ?あれあれあれ?チケットここに入れた筈なのに・・・」



美和は肩から提げているバッグの中を探りながら慌てている。



「どうした?」



「うーん、チケット、確かここに入れた筈なんだけど・・・」



僕はわーさんの遺影の入った手提げを預かり、美和にゆっくり探して貰ったが・・・「ないって?車に置いて来た?」



「ううん、違うと思う。確かにここに・・・」



「ここには入れてないと思う場所にあったりするもんだよ?」



「そうだね・・・」



「落としたって事はない?」



「ないよ。だって・・・!」美和はハッとして、「そうだ!ポケットに入れたんだった!」と、ダウンコートのポケットの中をゴソゴソ探り、中からクシャクシャになった二枚のチケットを取り出した。



「もー、どうして入れた場所忘れちゃうかな?」



「ごめーん。チケット、初めから元に預けておけば良かったー・・・」



ざわざわ、ガヤガヤ、入園口が混雑し始めた。



チケットを買う為の列も延びている。



「とにかく、チケットあったんだから中に入ろう。」



「うん、そうだね。」



美和も混雑し始めた周りを見てそう言った。



恋人同士でも家族でも夫婦でもない僕らは今、二人並んで、水族館のある遊園地に入ろうとしている。



どんな会うに見えても、僕は僕、美和は美和だ。



恋人でも家族でも夫婦でもないけれど、まだしばらくは隣に並んで歩く事になったのは確かだ。



そうして、入園口前に二列になって並ぶ最後尾に美和と僕が続くと、やがて辿り着いた入園ゲートの左右に立った係員が、チケットの半券回収と、手荷物の検査を行っていた。



手荷物・・・僕は自分の手にしている物を見た。



美和の手提げ、中身はわーさんの遺影。



ええっ?!これを出すの?



焦った僕は、二枚のチケットを手に並ぶ、隣の美和の肩を掴んで訊いた。



「美和、これ、持ったまま中へ入れないんじゃない?」



「え?これ・・・って、わーさんの事?大丈夫だよ。」



わーさんじゃなくて遺影。



「だってこれ・・・これは駄目って言われるんじゃ・・・」



『こちらでお預かり致します』なんて言われたら嫌だ。



わーさんの遺影を預けて美和とレジャー施設に入って遊ぶなんて、何か違うと思うから。



どうして家から持ち出したんだよ、と今更ながら美和の行動が恨めしくなる。



「こちらのお手提げの中身を、拝見してもよろしいですか?」



いつの間にかゲートに辿り着いていた。



僕が胸に抱えてしまっていた手提げを、係の女性がやんわり見せてと促した。



断る理由が見つからない。



見せる位なら列から離脱しようかとも一瞬考えたが、後ろには大勢が並び、隣の美和はと言えば、僕の事など気にもせず、自分のショルダーバッグの中身を反対側の係の男性に見せている。



「あ、えーと、はい。」観念した僕は、どうぞと手提げを開き、中身を見せた。



係の女性は、僕の臍の辺りで開いてしまった手提げの中を覗き込んで確認した。



彼女はわーさんの遺影を見ても嫌な顔をせず、


「はい、ありがとうございます。ではどうぞ、いってらっしゃいませ。」にこりとして僕を園内に送り出した。



え?いいの?遺影ですよ?持って行っても?


と振り返りながらも足は前に進み、入園ゲートを無事潜った僕を待ち構えていた美和が、


「ね?大丈夫だったでしょ?」と何事も無かったかのように笑う。



まったく・・・気が気ではなかった僕を知らずに。



美和が勝手に持って来るからいけないんだぞ!と言いたかったけれど、やめた。



美和の横顔があまりに楽しそうだったから。



つまらない事を言いたくない。無事、入園出来たんだし。



「最初にどこ行く?」



「どこでもいいよ。」素っ気なく言ってしまうと、少し怒ったように美和は、


「元に訊いてない。わーさんに訊いてるの。」と手を当てた耳を、わざとらしく僕の持つ手提げに近付けた。



だから、わーさんじゃなくて写真だって。答えてくれる訳がない。



「え?何々?まずは乗り物に乗ればって?それから水族館でイルカショー?了解しました!」




耳に当てていた手を額に移動し、敬礼のポーズを取った美和は、僕の顔を見て、


「元、行こう?まずは乗り物ね。ジェットコースター!」と言って、僕の左手を掴んで引っ張った。



内心、ええっ?と思いながら、賑わう人達の中を、美和に手を引かれて歩く僕の胸は躍り、頬はだんだん緩んで行った。



ざわざわざわ、がやがやがや・・・人波の中を歩くのは久し振りだった。



移住して三年、都会っ子だった僕は、自分でも驚くほど、田舎の暮らしにすっかり慣れていたんだと思い知った。



人の多い場所がこんなにも居心地悪いなんて・・・どうしていいのか分からなくなる。



向かって来る人を避けながら、ふらふら歩く僕の手を、


「こっちだよ。」美和がぎゅっと握った。



「あ・・・えっ?」



「付いて来て。」



にこりとする美和は先生の顔、僕は園児か?



園内マップ片手に僕の手を引っ張って歩く美和。



これでは本当に先生と大きな園児に思えて恥ずかしかったので、僕はずいっと一歩前に出た。



美和の隣に並んで距離を縮めると、少しは恰好が付いただろうか。



気の小さい僕は、目立つよりも目立たない方を選んだ。ここでの僕らはカップルに見られる筈だ。



ベタベタしたくはないが、よそよそしいのも却って人目を引くだろう。



美和が嫌ではないのなら、僕は別に手を繋いだって構わない。



美和は家族みたいなものだから、変に意識したりしないし。



(はぐ)れて迷子になって呼び出される事を考えたら、これはこれで合理的だ。



手を繋いでいれば、離れられない。迷子になんてならない。



ぴゅうと風が吹いて、掠めた頬は寒さを感じた。けれど、左手だけ温かかった。



手袋を嵌めるよりそう感じるのは、美和の体温を与えられているからだろう。



あったかいな・・・こうして誰かの熱を感じているのは。



わーさんが亡くなった時、僕はもう誰とも肌を重ねないんだと、底知れぬ寂しさを胸に抱えた。



それが今、こうして覆されている。



人生は不思議なものだ。



僕は思わず、きゅっと強く美和の手を握ってしまうと、歩くスピードを緩めた美和が、どうしたのと心配そうに僕の顔を見た。



握る手に力を籠めた理由を上手く説明出来ない僕は、「今、どこに向かっているの?」と訊いて誤魔化した。



なーんだという顔をして美和は



「さっきも言ったでしょ?一番初めはジェットコースターって相場が決まってるのよ!」と腕を伸ばし、立てた人差し指を進行方向にえいっと突き出した。



その元気さはどこから来るのかと苦笑いした僕が「はいはい、ジェットコースターでも何でもいいですよ。」と言うと、



「早く行こう!」今度は美和が、笑顔のまま、繋いでいる手にきゅっと力を籠めた。








ジェットコースター・・・侮るなかれ。



二人で乗ったのは最後尾。



最悪だった。



先頭との差が激し過ぎて、前はよく見えないし、揺れるし、酷く酔ってしまった僕は、朝食代わりに食べたお弁当を吐きそうになっていた。



トイレから出ると、美和が植込みの向こうに立っていた。



ベンチに座っていればいいのにと近付くと、美和の周囲のベンチはカップルや家族連れで見事に埋まっていた。



美和の持つバッグの中にレジャーシートを入れていた筈。ここでは敷けそうもないから、



「広場とかないの?」とマップを眺めていた美和に訊くと、



「あ!元。具合どう?大丈夫?」とマップから僕の顔へ視線を上げた美和が言った。



「・・・平気。」



まだ少し気持ち悪いが、それよりも、子ども騙しのジェットコースターで一人だけ具合悪くなってしまった事が恥ずかしくて、平気ではなくても平気な振りをしたかった。



「無理しないで。ごめんね。私が乗ろうって言っちゃったから。」



庇われると、僕の情けなさが際立つ。



「平気だって言っただろ?それより、立ちっぱなしもなんだから、シート敷いて座れる所に移動しない?」



それなら、と美和の連れて来られたのは、遊園地内の乗り物の列。



「また・・・」乗るの?と呑み込んだ僕に、



「もう一個だけ、乗ってもいい?ほら、あれ!」と美和は、目の前に聳え立つ巨大な観覧車を指さした。



あれに乗るって?



確かにジェットコースターよりはマシだけれど・・・結構並んでる。



「私が並んでるから、元はあっちのベンチに座って休んでて?」



そんな訳には行かないよ。みんな並んでいるのに、一旦列から出て、順番が来たら戻るなんてよろしくない。



「いいよ、別に。」



「そう?無理しないでね?」



それを言うなら、ここへ来た時点で無理してる。



意識していないとはいえ、一応女の美和と、クリスマス前の日曜にレジャー施設に出向くなんて。



志歩理に見られたら、弄られるだろう。



くっつけたがる可能性が高い。



生憎、美和は僕より志歩理が好きなんだよ。残念だったな。



はっ・・・僕は何の妄想をしているんだ。



ガヤガヤ、周囲の喧騒が戻って来た途端、



ぴたっ、頬にひやりと何か貼り付いた。



「えっ?」



びっくりして、見ると、背伸びした美和が僕の頬に冷たい缶コーヒーを貼り付けている所だった。



「冷たいのがいい?あったかいのがいい?」



美和の右手にはもう一つ、同じ缶コーヒーが握られていた。




僕の頬に貼られた缶コーヒーは冷たかった・・・とすると、美和の右手の缶コーヒーは温かいのだろう。



冷たいのを差し出されているから、ここはそのまま冷たい缶コーヒーを選んだ方が良いだろうけど・・・海風の中でこれを飲んだら、もっと体が冷えそう。



しかしそれは美和も同じ。



やはり僕はこっちの冷たいのを──



「はい、元はこっちね。あったかい方。」



迷って、返事の出来なかった僕に美和は、右手に握っていた缶コーヒーを握らせた。



温かい。



私はこっち、と美和は冷たい缶コーヒーの蓋を開け、先にゴクゴクゴクと飲み始めてしまった。




残されたのは温かい缶コーヒーのみ。



僕はこっちで良かったけど、美和だって冷たいのより温かい方が良かったんじゃないの?と見ていると、案の定、美和は肩を竦め、まだ中身の残る缶を両手に握り締めたまま、笑顔の消えた状態で、少し開いた口からは白い息が漏れていた。



見るからに寒そう。



見兼ねた僕は、美和の両手から冷たい缶コーヒーを抜き取り、代わりに開けていない温かい缶を持たせた。



「えっ?何?」と驚く美和から斜め上に視線を移した僕の口の中には、冷たいコーヒーが流れ込んで来た。



うわ、思ったよりずっと冷たかったな。



だけど止めずに、空になるまで一気に呷った。



喉を通り、胃に辿り着くまでの道程は全部冷やされ、ふわーっと口から、コーヒーの匂いのする綿雲が沢山出て来た。



「元、冷たい方が良かったの?ごめんね。」



「違うよ・・・寒っ!」



「じゃあ、どうして──」



「美和が寒そうだったから。」



「そん・・・」突然言葉を詰まらせた美和は怒った?と僕は恐る恐る美和の顔色を窺った。



「美和?」



「馬鹿だね、元は。やさし過ぎるよ。私の事なんて気にしなくていいのに。」



「それを言うなら美和の方だろ?僕に冷たいのを寄越せば良かったじゃないか。」



「だって、元がどっち欲しいか分からなかったから両方買ってみたの。」



それで温かいのと冷たいの、両方用意して、僕の反応を見て決めたって訳か。



何だか美和の気持ちがよく分かった。



僕も、わーさんが具合悪くなったら、同じ事をしそうだと思えたから。



ありがとう、そう言おうか迷ったけど、そればかり言ってるから、美和も聞き飽きただろうと、人前でもあった事から省略した。



やがて、並んでいた列の先頭になり、僕らの目の前に、黄緑色の観覧車のゴンドラが下りて来た。



係員の手によって扉が開かれ、中から降りたカップルと入れ替わりに、美和と僕はゴンドラの中へ乗り込んだ。



バタン、ガチャッ、と音が響く中、美和と僕は対面に腰を下ろした。



ゴンドラは、大きく揺れる事もなく、ゆっくり高度を上げて行く。



徐々に広がる視界。



てっぺんへ昇るにつれ、遠くまで見えるだろう景色を想像しながら、静かになった美和へ目を移すと、



膝の上でぎゅっと両手の拳を握り締め、窓の外を見つめる表情は硬かった。



「美和、どうした?お腹痛いとか?」



ここでお腹が痛くなったら最悪だ。一周するまで降りられないから。



「ううん・・・」



「じゃあ、何でそんな元気ないの?」



「ちょっとだけ、怖い。」



「え?」



怖い?



僕は耳を疑った。ジェットコースターであれだけ平気な顔をしていたのに、どうして観覧車が怖いって?



もう一度美和を見ると、目をパチパチさせながら、スニーカーの踵は浮かせ、つま先だけゴンドラの床に付けている状態で、膝がカクカク上下に揺れていた。



「美和、美和、大丈夫。怖くないよ。今日は風もなくて揺れないし、一周十分も掛からないって───」



「苦手なの。この網みたいなの。」



そう言って美和が指さした床を見ると、なるほど、透明な床板の外側に、目の大きな網が張られている。



素材はガラス?つま先で軽く叩いて見ると違うみたいだ。分厚いプラスチックかな?



「割れないよ。そういう風に出来てる。」



「分かってる。そうじゃないの。網が苦手なだけで・・・昔、そういうのが張られたつり橋を渡った事があって、その時も怖くて・・・」



虫も平気で潰す美和に怖いものがあったとは意外だった。



「そっか。高所恐怖症なの?」



「違う・・・網が苦手なだけで・・・」



確かに。この網の上を直接歩いたら、今履いているスニーカーの先から半分まですっぽり落ちてしまうだろう大きさの穴。



それが怖いと思ってしまう原因なのかな?網目が小さかったらそんな不安もなかった?



ゴンドラの床の構造までは見ずに乗ってしまったからな・・・今更、どうしようもないけれど、折角の景色が見られないのは勿体無いな。



「元・・・隣、座ってもいい?」



震えた声を出す美和は別人のようで、僕は思わず「いいよ。」と返事をした後、「僕がそっちに行くから、動かないで。」と、そっと腰を浮かせた。



本当は好ましくない。二人が同じ椅子に並んで座るのは。重量バランスが崩れて、ゴンドラが傾いてしまうからだ。



しかし、今の状態の美和にそれを言うのは酷だと思い、黙って僕は美和の左隣に静かに腰を落ち着けた。



途端、美和が僕の体にしがみ付いた。



面食らった僕が背を仰け反らせてしまうと、ゴンドラがギギッと傾いた。



いかんいかん。バランスが悪い中、体を動かすと、ゴンドラが揺れてしまう。



「平気だよ、美和。こっちの腕、離して。」



美和はしがみ付いた僕の右腕をゆっくり離した。僕はその腕で美和の背中を包み、美和の右腕を掴んだ。



「ほら、これで大丈夫だろ?」



「うん。」



美和は僕の胸の辺りに頬を寄せ、じっと固まっているから、その表情は見えない。



落ち着いたかどうか確かめたくて、つい、


「落ちる時は一緒に落ちるから。」フォローにならない事を口走ってしまい、すぐに後悔した。



「うん。ありがと・・・海、綺麗だね。」



言われて視線を窓の外に向けると、



ちょうどてっぺん辺りで、さざんなみランドの外をぐるりと囲う、穏やかな海が見えた。




ランドから少し離れた方に、砂浜も見える。



冬だから砂浜に居る人は少ない。それでもウインドサーフィンを楽しむ人が結構居るのだと、沖へ動く色とりどりのセイルやボードを見て、わーさんを思い出した。



向こうの椅子の上に置いたままの手提げの中に、わーさんの写真が入ってる。



わーさんと海近くの水族館へ来た夢を見たのは、わーさんが海好きだったからなのだろうか、なんて思うと切なくなった。



もう一度、死ぬ前に二人で海へ来れば良かったな、なんて今更だよ。



目が潤み、洟を啜りたくなったけど我慢した。



美和が大変な時なのに、わーさんを思い出している場合じゃないよな。



だけど、どうしてだろう。



一人で居た時より、美和と一緒の時の方が、わーさんの事を思い出してしまう。



もしかして、僕の見た夢のように、本当に美和の中にわーさんが入っているとしたら?・・・なんて、そんな映画みたいな話、ある訳ない。



でももしも、じっと動かず僕に身を預けている美和の中身がわーさんなら・・・そんな事を考えてしまう僕は、試しに美和の体を掴む手にぎゅっと力を籠めた。



美和は黙ったまま、ぴくりとも動かなかった。



中身がわーさんの訳がない。もしもわーさんなら、美和の中身は自分だと、僕に打ち明けるだろうし。



「ごめん。」



僕は謝って、強く握ってしまった手の力を緩めた。



身代わりを求めている訳じゃないのに、どうして僕は、美和の中にわーさんを見てしまうのだろう。



死んだ人は生き返らない。そんな事、分かっていても、もしもそんな魔法があるのなら、使ってみたいと思うのは、世の中に僕だけじゃない筈だ。



会いたいな、わーさんに。



会ってどうする訳でもないけれど。



こんな風に抱き締めたいだけなんだろうか。



僕らの上に影が差した。



ゴンドラは間もなく到着する。そのアナウンスも聞こえて来た。



もう平気だろうと僕は美和を抱き締めていた腕を緩めた。



そして向かいの座面にある手提げに手を伸ばすと、



美和も同時に伸ばしたようで、二人一緒に持ち手を掴んでいた。



「これは僕が・・・」と言うと、


「うん。」美和が譲ってくれた。



そうして、係員の手により、外からガチャッと開かれた出口から、動き続けるゴンドラを降り、乗り場を後にした僕達は、観覧車裏から続く、少し静かな通りを並んで歩いた。



アトラクションを背にして歩いて行くと、建物や木々の隙間から見える海から、風が吹いて来る。



朝よりは冷たさを感じなくなった風が、僕らの髪と右手の手提げを揺らして通り過ぎる。



太陽は南の空に昇り、そろそろ正午近い事を知らせている。



まだ、そんなにお腹は空いていなかったが、さっきから黙ったままの美和が気になり、



「お昼、どうする?お腹空いたんじゃない?」と声を掛けると、


「少しだけ。どうする?食べに行く?」と美和は、ランド入口付近に固まっている建物群に目を向けた。



「僕はどっちでもいいよ。」



「うーん。じゃあ先にお昼食べちゃう?そうしたら、水族館に入って、午後のイルカショー見られるよ?」



「じゃあ、それで。」



美和が来たいと言ったんだし、僕は美和のプランに合わせるつもりでそう言った。



「元、無理してない?」



「何で?」



無理してる、程でもない。ジェットコースターは計算外だったけど。



「楽しい?」



楽しいかと訊かれると、素直に楽しいと燥ぐ気持ちは僕の中に無かった。



楽しくないとは言わないけど。



「そこそこ。」と返事をすると「そっか・・・」と残念そう。



別に僕は楽しくなくてもいい。



美和が楽しいならそれでいいのに。



「僕の事は気にしなくていいから。美和が楽しいならそれでいいから。」



「ごめんね。」



そこは”ありがとう”の方がいい。



無理矢理付き合わせているとでも美和は思っているのだろうか?



仮にそうだとしても、折角ここまで来たのだから、美和一人でも目一杯楽しんでくれないと意味がないと思えてしまう。



「わーさんが楽しいって。外に出られて。それも、わーさんの好きな海だし。」



美和があんまり萎れているから、元気を出させたくて、止むを得ず、僕より説得力のあるわーさんを引き合いに出してしまった。



「ほんと?」



美和は素直に取ってくれた。



“えー、そんな事ないでしょ”とか言われてたら、ちょっと悲しかったと思う。



「うん。だからもう一度、わーさんと海に来ていれば良かったなと、さっき思ったよ。」



またうっかり、思っていた事を漏らしてしまった。



「そうか。そうだったんだ・・・ねえ、元。ご飯食べる所、混んでるみたいだからさ、あそこ、あのベンチまで行って、少し休まない?」



美和が指したのは、階段を下りた広場の先の、建物が途切れて海が見える部分。脇にベンチがポツンとあって、誰も座って居なかった。



広場自体、不思議な位、人が居ない。



アトラクションから離れているせいか、それとも海風が強過ぎてお弁当を広げるのには適さないからかな、なんて考えた。



ベンチに腰を下ろして海を眺めると、耳を掠める海風の音は、ピュービューなんて可愛いものではなく、ビュウビュウ!と耳朶を削ぎ落さんばかりの音だった。



なるほど・・・この中ではとてもお弁当を食べる余裕は無いなと妙に納得する僕に、



「はい、元。おにぎり。お弁当の残りだけど。」美和はバッグの中から、アルミホイルに包まれたおにぎりを取り出し、僕に手渡した。



ええっ?持って来たの?



おにぎりは、ひんやり冷たくて、ベシャッと潰れている。



「ありがと・・・」



そのあまりに無残な姿になったおにぎりを、受け取る以外の正解を見付けられなかった僕が、それを手のひらで包むと美和はにこりとした。



美和は、取り出したもう一つのおにぎりのアルミホイルをビリビリ剥がすと、カプリと思い切りよく齧り付いた。



冷たいだろうに、そんな事は気にせず、モグモグモグと口を動かしている美和。



おにぎりを口にするか、僕が迷う間に食べ終えた美和は、クシャッとアルミホイルを丸めてバッグに放り込んで立ち上がると、



「あ、コーヒー残ってたんだ。冷めちゃったけど、どうぞ。」とバッグから取り出したさっきの缶コーヒーをベンチにコンと置いて、引き換えに僕の脇に置いた手提げを掴んだ。



「あ・・・!」



美和は手提げの中からわーさんの写真を取り出し、両手で額縁をしっかり掴んで、頭の上に掲げた。



そして、海のよく見える位置に移動し、


「わーさん、見て見て!海だよ!ここ、すっごいよく見えるでしょう!」と(はしゃ)いだ声を上げた。



何してるんだよ、美和。



呆気にとられた僕は、ベンチに腰を下ろしたまま、動けずにいた。



いや、動こうとしてなかった。



何故だか、美和の隣に、背の高いわーさんが寄り添っているように見えた。



穏やかな微笑みを浮かべ、美和と一緒に海を見ている。



そんな光景が浮かび、涙が滲んだ。



「元、元もおいでよー!こっち、海がよく見えるよー!」



美和が僕を呼んだ時、隣に立って居たわーさんが僕に向かって手招きしたように感じた。



僕はおにぎりを置いて立ち上がり、一歩ずつ、美和の隣に佇んで微笑むわーさんに近付いた。



あと一歩でその手に触れると思った時、ふっ・・・とわーさんの姿は消えた。



「わーさん・・・」



呟いて、今のは幻だったと僕が我に返った時、美和は僕にわーさんの写真を向けた。



「ほら見て、元。わーさん、笑ってるでしょう?一緒に来て良かったね!」と言い出した。



わーさんが笑っているだなんて、そんな訳ないのに。



多分、僕が泣き出しそうな顔をしてしまっているせいなんだろう。



一緒に来たかった。海にもう一度。わーさんが生きている内に。



後悔の涙を落とした僕の背中を、美和は強く叩いた。



「元、早く食べちゃって!わーさん、水族館に行きたいって。一緒にイルカショー、見に行こう!」



観覧車の中とは別人の如く、いつも通りに戻った美和は、僕をベンチに促した。



再び手提げ袋の中にわーさんの写真を戻し、「トイレ行って来るね!」と言うので、



「僕も行くから待ってて。」と言うと、「女子トイレ、混んでるから先に行くね。水族館前で待ち合わせしよう。」と美和は広場のベンチに僕を置いて、一人で行ってしまった。



はああ・・・何だか疲れた。



僕はベンチに深く座り、冷たいおにぎりと冷たい缶コーヒーを飲み終えると、手提げを持って立ち上がった。太陽の光に輝く海をちらと振り返った後、水族館の方へと一人向かった。



ザワザワザワ、ガヤガヤ・・・



さっきとは打って変わって騒々しい。大勢の人が行き交う中、トイレを済ませた僕は、水族館の入口はどっちだ?と【水族館入口】と書かれた案内看板の矢印を頼りに、ウロウロ歩いていた。



一人だったら絶対に来なかったであろう場所。



長年の友人である志歩理に誘われたとしたって来なかっただろうに。



交換条件とは言え、僕は美和に甘いのかもしれないと思い始めた時、



「元ー!こっちー!」叫ぶように大きな声で、階段の上から呼ばれた僕は、ぎょっとしながらようやく美和の姿を見つけ、ジロジロ周囲に見られていて恥ずかしかったので、急いで階段を駆け上がった。



「はあ、はあ、はあ・・・恥ずかしいから大きな声で呼ぶなよ。」



「あ、ごめーん。だけど元が、あっちに行っちゃいそうだったから。」



「まったく・・・」



突然人前で叫ぶなんて、若いからなのか?これが同い年の志歩理なら、携帯を鳴らして僕を呼び留めるだろう。



「じゃあ、行こう?」と言うと、美和はいきなり、僕の腕に自分の腕を絡めた。



「は?」



何故、腕を組んだ?



そう言いたくて美和の顔を見ていると、



「あ、これ?今ねクリスマス限定で、カップルで入場すると、ツリー型のベルが貰えるんだって。白い硝子製で、かわいいの!」と言われた。



「ベル?」



「そう!ほら、あれ!」



二階にあった水族館の入口付近に立って居る看板に、クリスマスツリー型のベルの拡大写真があった。



粗品が欲しいって?くだらない。



「別に、腕組まなくても・・・」



チケットを見せる時に言えばいいんじゃないか?



『カップルです』



・・・そう宣言して入場するのも変な感じだな。




「今だけ、ねっ?元、お願い!」



何故そんなにあの粗品のベルに拘るのか分からないが、まあ、欲しいと言うのなら仕方ないか。



「じゃあ、ほら、腕が重いから、早く入ろう。」



「やったあ!ありがとう元!大好き!」



“大好き”って、また軽々しく言ってくれたな。



そう言えば、女の”かわいい”、”大好き”は、口癖みたいなものだって、どこかの誰かが言っていたのをふっと思い出した。



そうか、そうだったんだ。



今まで美和が僕に”大好き”と言っていたのは、深い意味はなく、口癖のようなものだったのか。



なんだ・・・今まで美和に"好き"と言われる度、色々考えてしまった僕は馬鹿みたいだ。



そうだよな。本当に好きだったら、軽々しく「好き」なんて言えないものだって、僕は知ってる。



美和も多分、志歩理とこうしていたら、”大好き”なんて口に出来ないだろう。何とも思ってない僕にだから言えるんだ。




なんだ・・・そうか。僕もただ、美和に利用されているだけって事だ。お互い様だ。



少しは好かれているのかと自惚れそうになったけど、レズである美和が僕を好きになるなんて、ある訳ないな。



僕だってそうだ。美和を好きになる事はない。



妹みたいな、とは少し違うけれど、家族みたいな感じには違いない。



勿論、一番はわーさん。美和は、他に家族と思う相手が居ないから二番目にはなるけれど。



実際、血の繋がった両親と妹とはもう、僕から家族と思ってはいけないような気もしている。



何もなければ連絡しない、それがお互いの暗黙のルールになっている。



次に連絡が来るのは、葬式の時だろう、そんな感じだ。



チリン。



途端に暗くなった中で、高く澄んだ音が響いた。



ハッとして見ると、美和が僕の目の高さに持ち上げたそれを振り、チリチリ、音を鳴らした。



「ベル・・・貰ったんだ。」



「うん、ありがとう、元。」



「どういたしまして。」



もういいだろうと僕は美和の腕から自分の腕を引き抜いた。



「あっ・・・!」



美和は驚いて、絨毯張りのフロアに、チリリン、硝子製のベルを落とした。



「割れなかった?」



「うん、平気。」ベルを拾い上げた美和は、顔の横でチリンと鳴らして、バッグにしまった。



「順路通りに歩けばいいの?」当たり前の事を口にした僕に、



「うん。」と美和は答えた。



時々スポットの灯かりが点在する通路の両脇に、小生物の展示された小さな水槽の前をゆっくり、美和と僕は並んで歩いた。



特にこの生物が見たいという拘りはなさそうな美和。僕も同じだ。



水族館自体、何年振りだろう。



順路通り、まばらな観覧者の中を進むと、



魚の泳ぐ水の中に潜っているかのように見せる長いトンネルを通過し、大水槽と呼ばれる、大きなエイやサメと一緒に食卓でおなじみの魚が群れで泳ぐ、天井までの大きな水槽のある広場まで辿り着いた。



「わー、すごいねぇ!おいしそうだねぇ!」



何だよ、その感想。食いしん坊。



僕はクッ、と笑いを堪えた。



まあ確かに、食べられる魚ばかりだからな。



一匹一匹は小さいけれど、群れで泳ぐと迫力あるな。水の中を素早く移動するその身は、キラキラ光を跳ね返して美しかった。



「あ、ねえ見て!あれ一匹だけ群れから逸れてる。」



「ほんとだ。」



「疲れちゃったのかなぁ?」



「さあ?」



(はぐ)れ者に目が行くのは、僕らが世間一般から外れているからなのだろうか。



同性しか恋愛対象に見れなかった僕は、みんなと同じように、異性を好きになってみたいと考えた事も無かったとは言わない。



でも無理だった。どうしても好きになるのは男だった。



女と一緒に居たいと思えなかった。志歩理と美和以外は。



何故なんだろう。女性らしい女性は苦手?



いや、違うな。



僕を男と意識しない女なら平気なんだ。



志歩理は僕を恋愛対象として最初から見ていなかったし、美和もそうだ。レズだと宣言したから、僕は安心したんだろう。



女とそうなりたくない、というか、わーさん以外と恋愛したくない。



例えばわーさんにそっくりな男が目の前に現れたとしても、僕は好きにならないようにする。



わーさんを裏切るような事はしないんだ。



まあ、そんな男、現れる訳がないし、現れたとしても、わーさん以上に僕を愛してくれる訳がない。



仮に、そういう僕好みの人が、僕を物凄く愛してくれたとしたら・・・その時、僕はどうなるのだろう?



好きになってしまう?



いや、いやいやいや、そんな心配は要らない。



あとは死にゆくだけの僕の前に、そんな相手が現れる確率は宝くじが当たるより低い。



宝くじは買わないから、絶対に当たらない。



という事は、絶対に誰も好きにならない。



良かった。安心した。



僕の気持ちは揺らがない。わーさんが生き返らない限り。



「元、そろそろ行こう?イルカショーが始まるって。」



僕の手を、一回り小さな美和の手が、きゅっと握った。



あれ・・・この感覚、どこかで───前にわーさんと・・・え?もしかして僕の手を握っているのは美和じゃなくて、中身はわーさんなの?



僕は、目の前の美和の中に、わーさんが入り込んだのかもしれないと、本当に一瞬そう思ってしまった。



そして、


「わー・・・」僕は思わず声を出してしまった。



瞬間、足を止めて振り返った美和の顔を見てハッとして、「美和!」と少し大きな声を出して美和との距離を一歩縮めた。



大小、色とりどりのクラゲの水槽の集まるコーナーからは、人けが無くなっていた。他の通路を歩く人もいない。イルカショーが始まったのだろうか。



「どうしたの?元。」



美和のその目は僕を心配する目だった。わーさんと同じ。



『どうした?元。トイレか?』



本当にわーさんが美和の中に入ってる訳がない。




けれど・・・もしも、万が一わーさんだったら、僕は今日という日を待ち望んでいたんだろう。



死んでしまった愛する人が、別の人間の体を借りて戻って来る。別の人間の中に魂だけ入っている事に気付かれたら、その瞬間、魂は体の中から抜けて、死後の世界へと戻ってしまう───そんな、どこかで見たかもしれないSF物語を僕は引いてしながらも捨てきれない。



もしも、美和の中にわーさんの魂が戻って来ているなら僕は・・・



「美和、ごめん。ちょっとだけ体、貸して。」



僕は美和の背中を押し、円形になっているクラゲコーナーへ促した。



ライトアップされた水槽の中のクラゲは、赤になったり紫になったり青になったり、その色付きの影が僕らを照らす中、「元?」と僕の顔を見上げる美和を正面から抱き締めた。



わーさんとは違う美和の体。背は小さく、肩も腕も胴体も細くて、非力な僕でさえ、強く締めたら壊れそうに思う華奢な女の体。



体格の良かったわーさんが、こんな小さな体に入っているとしたら、さぞ窮屈だろうけれど、それは魂だから、自由に変形出来るんじゃないかとか考えたりして。



美和は声を上げなかった。ただ黙って、僕が抱き締めても抵抗しなかった。美和は男嫌いの筈だ。一応男の僕が、突然長く抱き締めたら、気持ち悪いと脛を蹴飛ばし、逃げ出すだろう。しかしそうせず、じっとしている。



それで僕は、本当にわーさんなんじゃないかと益々錯覚して、


「わーさんなの?そうなの?」と幻想的な空間だったからなのか、ここが現実世界という事を忘れていた。



「『そうだよ、元。俺は今日一日、元とのデートを楽しむ為に美和ちゃんの体を借りたんだ』」



わーさん!



やっぱりそうなんだ。声は美和だけど、中身はわーさん・・・と、僕はここで美和の背中に回した手に握る手提げの中の存在を思い出した。



「だったらこの写真、持って来なくても良かったんじゃないの?」



「『この体にずっと入り続けているのは難しいから、疲れたら写真に戻るんだ』」



「え?そうなの?」



何か変だと感じた。



僕は思い付いた質問をぶつけた。



「わーさん、あのさ、わーさんの初恋の人の名前を教えて。」



「『初恋?あー・・・随分昔だから忘れたな』」



「相手の性別はどっちだった?男?女?」



「『男・・・』」



違う───わーさんの初恋の相手は・・・



僕は、ふーっと大きく息を吐き、美和を抱き締める腕を緩めた。



中身はわーさんじゃなかった。完全に美和だ。



僕がいきなり抱き締めたからいけなかったが、わーさんの魂が入った振りをしてなんて頼んでないぞ。



美和は僕に付き合っただけなんだ。責めるべきじゃないとも思ったが、わーさんの事となると僕の心は制御が効かなくなるらしい。



「からかったのか、僕を。」



「何の事?」



「わーさんの振りしただろ。憐れな僕の妄想に付き合ってやろうとか考えてくれた訳?」



自分でも嫌だと思う言い方をした。美和をわーさんと勘違いして抱き締めてしまった恥ずかしさのせいもあって、口が止まらなかった。



「憐れなんて思ってない。わーさんの振りをしたのが、元の気に障ったんならごめんなさい。」



「どういうつもりかって言いたいの!」



僕は馬鹿だ。自分のした事を棚に上げて、美和を糾弾する事なんて出来やしないのに。



「・・・夢を見たの。」



「夢?」



「元と水族館に来る夢。私はわーさんの中に居た。」



「・・・え?どういう事?」



「最初は自分の体かなって思った。目の高さも同じだったし。でも、元の態度が違った。私に対するものと全然。それで気付いたの。デートしているのは私じゃないって。わーさんだって。そこで、元の夢の話を思い出して、目が醒めた。」



「僕の夢の話?」



「私の中に入ったわーさんと水族館でデートしたって話。」



「あ・・・そう言えばそんな夢・・・見たんだっけ?」だから既視感があるのか?



「私の体はいつでもわーさんに貸すって言ったでしょう?」



確かに、美和とそんな話をした憶えはある。



でも、そんな夢の話だけでここまでする?



───美和ならするかも。お節介おばちゃんとまでは言わないけれど、人の為とあらば張り切ってしまうタイプのようだから。



それに、美和が僕とデートする夢を見てしまったんなら、それは僕が話した僕の夢がきっかけになってしまったのだろうから。



「ご・・・」ごめん、と謝るのも恥ずかしくて俯くと、


「私、デートするの初めてなの。わーさんに感謝しないとね!」と、美和は僕の手から奪った手提げを抱き締めた。



「あ!僕のわーさんだぞ!」



「へへーん。こっちまでおいでー!」



美和は僕から逃げ、僕は美和を追い掛けた。



薄暗い通路を抜けたその先は、眩しく陽が射す屋外だった。




風は冷たいが、光が溢れて、視覚的には暗かった室内より暖かく錯覚・・・でも寒い。



「わあっ!」



歓声を上げる人々の視線の先にはプールがあり、その上には、紅白柄の大きなボールが紐で吊るしてあった。



ザバッ、水音を立てて空中に舞う黒い三日月。



イルカ?



くるくると回転しながら水の中へ落ちるまで、逆光で分からなかった。



パチパチパチ・・・小さな拍手が聞こえるここは、ステージとプールがよく見えるよう、円形に造られた階段状の観客席の一番上に続くスロープの入口。



「イルカショー、見るの?向こうへ行く?」



観客席は後ろへ行く程埋まっていて、席に余裕があるのは水しぶきのかかる最前列だけだと言うのが遠目にも分かった。



「ううん。ここでも十分じゃない?」



パチパチと拍手をしながら美和は僕に横顔を向けている。



さっきはあんなに見たがっていたくせに。



少し疲れたのか、元気のない顔にも見える美和。



僕が余計な事をしてしまったせいだろうか?



だとしたら・・・



僕は美和の手を掴んで、スロープを上がっていた。



立ち見の観客も一杯だった。



隙間を縫って、一番奥の右端に辿り着いた。



「ほら、ここなら見えるだろう?」



美和を柵の方へ押し出すと、「うん。」と美和は少し僕を振り返り、またステージを見た。



プールを泳いでいたイルカの姿はどこかに消え、代わりに、台の上に乗ったアシカかオットセイが芸を披露していた。



パチパチパチ、小さな拍手の中、席を立つ人が徐々に増えて来た。



ぽつぽつ席が空く頃、美和が手を乗せている柵の下の最後席に座っていた幼稚園位の子どもが「ママー、もうすぐおわり?」と隣の母親らしき女性に訊ねた。



「そうね、もうすぐ終わりかな?」



「ええー?もういっかい、イルカみたかったー。」



「えー?でも、帰りのバスの時間がもうすぐだから、また今度ね。」



「やだー、イルカー!」



「じゃあ、お土産買って行こう。ね?」



「おみやげ?いいけど・・・」



「じゃあ、終わったら行こうね。」



「うん・・・」



母親は女の子を宥めた後、ガサガサ、荷物を纏め始めた。



その他の観客らも、終わりが近い事を察知したのか、次々席を立ち、ショーが終わる頃には、1/2の席は空いていた。みんな、イルカ目当てだったのか。



まあ・・・あんな大きな体で、水の中のから空中へ飛び出すんだから、よく考えたら凄い事だ。僕には出来ない。



芸をする方もそれを教える方も、根気が必要だ。諦めたら出来ないだけ。



諦め───かあ・・・



僕は諦めていないつもりだったけれど、わーさんは諦めていたのかな。生きる事。



余命宣告されたら、生きる事はもう諦めなくちゃいけない・・・なんて事は無いけれど、張っていた気がプツリと切れてしまう。



僕はわーさんが生きる事を諦めていると思っていた。だから、一人、死を考えないようにしてた。



そうであって欲しかったのかもしれない。



余命僅かと知っているわーさんに”死にたくない”と思っていて欲しいとは、僕はどうしても願えなかった。



死にたくない中で迎える死の時はどんなに辛いかと思ったからだ。



『もういいよ』



そう言われていたらホッとしていただろう過去の僕は、本当にわーさんを愛していたと言えるのだろうか。



美和ならきっと、どんな時も諦めないでいるだろう。



そして辛いなら、一緒にそこへ飛び込んでくれようとするだろう。



諦めないという気持ちは、上辺だけだった。



ただ、別れの日に怯えて目を背け続けた。



僕が臆病者だって事、わーさんはとっくに知ってた。



嫌いになっただろう、多分。わーさんは僕を愛しながら逝ったのかと・・・僕が勝手に思いたかっただけだ。



もういいよって、だからあの時、僕がかき氷を買いに行くのもみんな分かった上で、


『かき氷が食べたい』と言ったのだとしたら───



僕は、わーさんについて来てあの家に移り住んでも、何一つ、彼の痛みを和らげる事が出来なかったんだと気付くと、今まで何をやっていたんだろう・・・と絶望的な気持ちになった。



「・・・元、元?顔色悪いよ?大丈夫?」



僕の頬を、美和が揃えた指先で擦った。



ハッとして上げた視線の先をステージに向けると、アシカも飼育員も居なかった。



見下ろした観客席にも誰一人居ない。



いつの間に・・・



「ショー、終わったの?」



「うん、さっき。」



「ぼんやりしてた。教えてくれれば良かったのに。」



「わーさんとお話ししてたのかなって思って。邪魔したくな───」「違う。そんなんじゃないよ。僕にはそんな資格なかったかも。」



あの家にも勝手に住み続けているだけ。お墓だって勝手に───



わーさんはもう、僕を愛してない。そう思えたら、ガクン、膝の力が抜けて、その場にしゃがみ込んでいた。



「元!大丈夫?!」



「何でもない。ほっといて。」



冷たい両頬を、温い物が上から下に伝い落ちた。頬より冷たいのは僕の心の中だ。氷より冷たい。もう血が通ってないんじゃないかって位。それでもいいよ。止めてもいい、臆病過ぎた僕の心臓なんて。



馬鹿だな僕は。本当に馬鹿だよ。



とっくに、冷めていたんだ。わーさんは。



だから僕なんかに看取られたくなかったんだよ、最期を。



そうだよ、そうなんだよ。



諦めた僕なんか、わーさんの傍に居なくても良かったんだ。



寧ろ居ない方が───「元、こっち!」



美和が僕の襟首を掴んだ。僕は立ち上がらず、ドッと地面のコンクリートに左膝を打ち付けた。



痛い・・・



何するんだよという気力もない僕は、ただ美和の手を振り払った。



「いっ、たっ・・・!」



美和の声に顔を上げると、美和は右頬を押さえていた。



どうやら、振り払った時、僕の手か美和の手が美和の頬に当たったらしい。



じっと見てしまうと「ごめんね、平気。大した事ない。」そう言って、手を離した美和の頬は赤くなっていた。



何も言えない僕に対し、美和は黙って取り出したハンカチで、僕の目の下を拭った。



「嘘つき。」



「え?」



「嘘つきだ。美和もわーさんも。」



「え?わーさんが嘘つきってどういう事?」



美和はわーさんの写真を手提げから取り出して、僕に向けた。



「愛してなかったでしょ。わーさん。死ぬ前、僕に愛想が尽きてたんでしょ。」



「わーさんがそう言ったの?」



「言ってない。でも、そんな気がした。死ぬ前、わーさんは僕を愛してなかったって。」



「そんな事、絶対ない!」



「あるよ。誰も僕の事なんか愛したくない。臆病で、上辺だけの僕なんて誰からも愛されない。」



「・・・愛して欲しいの?なら、私が愛してあげる。女としてじゃなく、人間として。私は元を愛してる。大好きだよ、私は元と暮らせてしあわせだって思ってる。私がこんなにしあわせなんだから、恋人だったわーさんはもっとだよ。わーさんはあの家で、安心して死ねたんだって私は思う。元に愛されたまま逝けたわーさんが羨ましいって、ずっと思ってる。」



「僕を愛してるって、何言って───」



「信じてくれないの?じゃあ、元、キスしよっか。」



「え?」



美和がそう言った後、唇が迫って来た。



えっ、ちょっと、わあっ!こんな所で・・・やめろー!



───ぶちゅっ。



僕は避け切れなかった。わーさんの唇を。



美和は僕の唇に、わーさんの写真を押し付けた。



少しして離した後、


「熱いキスしちゃったね。」と言う美和に、


「何て事するの!」と僕は怒った。



「だって、夢の中でわーさんと元、キスしてたから。」



「夢は夢だろ。これは写真じゃないか。」



「そんな風に言わないでよ、元。居るよ、わーさん。きっと一緒に居るんだから。だから、私達に夢を見せたんだよ。一緒に水族館に来る夢。」



「そんな、事・・・」ある訳ない、何故かそう言い切ってしまいたくなかった。



わーさんが居た頃の僕は、そんな事、現実に起こらないなんて一笑に付していたが、一人になった今は、お化けでもなんでもいいから出て来て欲しいと非科学的な事を願う人間になってしまった。



お化けでもいい、一緒に居られるなら。わーさんが寂しくないなら、ここに居てよ。成仏してと願ったのは嘘じゃない。それが楽ならそうして欲しい。



でも、寂しいのは嫌だ。僕もわーさんも。



「わーさん、楽しかったって言ってるみたい。ほら、笑ってるよ。」



わーさんが笑っているのは元々だ。笑顔の写真を選んだんだから。



でも、確かにいつもより笑って見えた。



午後の陽射しの中で、僕と美和を交互に見ながら、わーさんは笑っていた。



「わーさんは元を愛してるよ。私が保証する。」



美和に保証されてもな・・・でも、嬉しかった。



『愛してる』



その言葉は、ひとりぼっちになったと感じる心をそうじゃないと包んでくれる。



僕は───ひとりじゃないのかもしれない。



落ち着きを取り戻した僕に、


「お腹空いたでしょ、元。何か食べに行こうか?」と美和が切り出した。



「うん・・・いいよ。」



空腹はそれ程感じ無かった。けれど、美和がそうだろうと思って同意した。



夢の中ではカレーだった。辛口の大盛り。



美和に辛口は無理だろう。大盛りは出来そうだけど。



美和が大盛りカレーを頬張る姿を考えながら立ち上がった。



その時、美和が僕を振り返った。僕は美和と目が合った途端、堪え切れず吹き出してしまった。



「ははっ、はははっ・・・」



泣いたり笑ったり忙しい僕を見て、きょとんとした美和は、やがてにっこり微笑んだ。



その顔がとても綺麗で懐かしかった。



美和はわーさんみたいに笑い、僕を愛おしむような目を向ける。



どきん、僕の胸が鳴る。



どきどきどき・・・絶えず高鳴る。



やがて、僕の右指先をちょこんと抓み、引っ張って先を歩く美和の細いうなじを見ながら、僕は変な気持ちを味わっていた。



「うーん。どうしようかな。」



「何が?」



水族館を出て、入園ゲート付近に林立する建物に囲まれた広場で美和が顎に手を当て呟いた声を、僕の耳は奇跡的に拾っていた。



ワイワイ、ガヤガヤ、お昼は過ぎた筈なのに、レストランとフードコートは沢山の人で賑わっていた。



ここは陽も当たるし、海風が遮られて暖かい。さっきのような、直接海風に晒される日陰も多かった広場には、こっちの広場を知った誰もが行きたがらないだろうと思ってしまう程、ぬくぬくしていた。



「美和は何が食べたいの?」



「うーん・・・何でもいいんだけど、どこも混んでるよね。」



「そうだね。」



正直苦手だ。こうしている間にも、レストラン前には、順番待ちの列が延びている。



ガラス張りのフードコート内をちらと覗いて見ると、点在するテーブル席はどこも一杯のようで、どんぶりの載ったトレーを持って右往左往する人達の姿も何人か見られた。



「元、お腹空いた?」



「いや、そんなには。」



「じゃあ、ここを出て、食事しようか?」



「え・・・出るって、もういいの?」



美和は、ここに夕方まで居るつもりかと思ってた。



「いいよー。元、疲れたでしょう?」



疲れた、って、それはさっき僕が泣いたりしたから?



恥ずかしいと思う僕は、「疲れてないけど。」と言ったけれど、説得力は無い。



「無理してる。」



僕の鼻を人差し指で押し、くすっと笑う、その仕草は・・・わーさんと同じだった。



チカチカ、途端に陽の光を感じた僕の目が眩んだ。



パチパチ、瞬きしていると「おみやげだけ、見てもいい?」と美和は水族館グッズを販売しているショップの中へ入って行った。



美和に続いて僕も店内に足を踏み入れると、



「いらっしゃいませー。」と女性の明るい声が響いた。



レジはそれ程混んでいない。



美和は箱入りお菓子が山と積まれた一角に立って、どれにしようかと悩んでいる。



ぐるりと店内を見回した僕は、ある物を発見し、陳列棚に近付いた。



懐かしいな・・・とひっくり返した置き物は、水時計。



砂時計のように中央を括れさせた仕掛けの中を、赤や緑、青色を着けた水が、水より比重の軽い透明油の中を、舌に向かって泳ぐように、ポタポタ落ちて行く。



水時計、油時計、ウオータークロック、オイルタイマー、呼び名は様々だが、原理は同じ。



単純な作りなのに、僕は昔から何故かそれに惹かれた。一つも持っていないけれど。



置いてある品を見ると、ほぼ三分計のようだ。



カップラーメンを作る時に位しか使用しなそう。活用頻度は低い代物。



一つ終わると、もう一つ、やめられず、ひっくり返してしまう。



トポトポトポ、トポトポトポ・・・



何度も何度も、終わりのない三分間が繰り返される。



「お客様、そちらお買い求めになられますか?」



声を掛けられ、ハッとした僕は、買う気は無かったのに、目の前で青色のしずくが落ち続ける水時計を手に取り「これにします。」と振り向いた。



「ありがとうございます。」



え?と驚く僕の手から水時計を受け取ったのは女性店員ではなく、美和だった。



右脇には、緑色のウネウネした形状の長いぬいぐるみを挟み、手にはお菓子の入った箱、そして僕の手から奪った水時計を左手に持っている。



「だ・・・」騙したな?



美和はにやりと笑ってから、くるり、僕に背を向けた。そして、すぐ近くにあったレジカウンターの上にそれらをどんどんどんと置き、


「ください!」と財布を手に持った。



「あ、美和・・・!」水時計は要らない、と言おうとした時、



「7020円になります。」二人がかりで袋詰めされたそれらを前に、美和は代金を支払った。



「ありがとうございましたー。」



「行こう、元。」



立ち尽くしていた僕を促した美和は、ショップの自動ドアまで大きな袋を抱えて歩いた。



買わなくて良かったのに・・・



その時、レジ前に陳列されている物に気付いた僕は、


「これ、ください。」それが入った袋をパッとカウンターに載せ、「1296円です。」と財布から千円札を二枚を出した。



「駐車券をお持ちですか?」



「あ・・・あります。」



「先程の方とご一緒ですか?」



先程の方?・・・ああ、美和の事か。僕がこんな物を買うから不審に思ったのかな?



「そうです。」これは美和にです。僕のではありませんとばかりに言うと、


「では、先程の金額と合算してサービス券をお出しします。」と僕はお釣りとレシート、そして駐車券とサービス券を受け取った。



「ありがとうございます・・・」



なんだ・・・美和と一緒に来たのか?と訊かれたのは、別に僕がこれを買う事に対して不審がられていたからではなかったのか。



駐車券、ね・・・



美和は自動ドアを出る前に僕が居ない事に気付いて振り返り、「元ー?」と呼んだ。



「今行く。」



カウンター上の袋を持つと「ありがとうございましたー。」二人の女性店員の揃えた声に見送られ、僕は小走りで美和に追いついた。



ショップを出ると、人目が気になった。



大きな袋を抱えるように持つ美和と手提げと小さな土産袋しか持っていない僕はアンバランスで・・・



「持つよ。貸して。」



「え?いいよ。元、疲れてるのに。これは私が買ったんだから、私が持つの!」



いや、それでは僕が恰好付かないからって言いたいのに。



それならば・・・



「美和、それなら、これも持ってくれる?」



僕は大荷物を抱える美和に、更に僕の持つ手提げと土産袋を持つよう頼んだ。



「え?・・・いいけど。」戸惑いながら美和は、僕の差し出す手提げに片手を伸ばした。



その瞬間、僕は美和から荷物を奪い取る事に成功した。



さっきはやられたからな。仕返しだ。



ぱちくり。



瞬きした美和を横目に、僕は退園ゲートに向かって急いだ。



「あっ、ちょっと元ー!ずるいぃー!」



美和は僕と交換した小さな袋を持って追い掛けて来る。



思わず、ふっと笑ってしまった。



こんな悪戯なんて、昔、妹にもしなかったよな・・・と。



「あー、待って待って、元ー!」



呼び止める美和の声に、ゲート前の僕は足を止めて振り向いた。



少し走ったから、背中と額に汗が滲んでいる。



熱い。



はーっ、はーっ、呼吸を整えていると、僕に近付きながら美和が顔の前にスマホを構えた。



えっ?



パシャッ。



微かに聞こえたシャッター音。まさか、写真を撮られた?




こんな恰好で?



僕は自分のなりを見た。



走ったから髪は乱れ、汗で額に貼り付いた状態。頬は多分赤くなり、両手に何だか分からない細長い緑のぬいぐるみの入った袋を抱えて、不意打ちの顔で・・・多分撮られただろう写真。



僕は美和のスマホを取り上げて、画像を消去しようと考えた。



・・・が、美和は腕を伸ばし、「あ、元、そのまま!角度あっち。そう、そっちを背にして、せーの!」



パシャッ!



インカメラに切り替えたスマホで二人の写真を撮った。



「ちょっ・・・何で撮るの!」



「だって、記念に。」



「撮ってどうするの。」



「志歩理社長に、おみやげと一緒に送ろうかなって。」



「何故僕との写真を・・・」ハッとした。やはり美和の好きな相手は志歩理?それともENT社の誰か?



やきもちを焼かせたいとか、そういう事なのか?



いや、僕では力不足だろう。



そんな事考えていると、



「よろしければ、撮りましょうか?」と美和より少し年上と思われる男性が声を掛けて来た。



「え?あ・・・」



見ると、彼の後ろに同じ年頃の女性が立って居る。彼女の手にはコンパクトカメラ。



観光地でよくある、『撮るから撮って下さい』のようなあれかな?



「お願いします。」答えたのは美和だった。そして自分のスマホを彼に手渡した。



確かにこの状況では僕も断れない。



「お願いします。」と僕も答えると、


スマホを構えた彼に「こちら側、水族館を背にして撮ると、逆光になりませんよ?」と促され、


「はい。」と答えた僕と美和は水族館を背に並んで立った。僕らの間にはおみやげのぬいぐるみが袋から顔を覗かせている。



おみやげが主役みたいな感じだ。



「んー、もう少しくっついて下さい。」



ええ?と思いながらも、僕らの前を通過しようとしていた人がわざわざ足を止めてくれているので、僕は急いでおみやげ袋を足元に置くと、美和と体をくっつけた。



「はい、撮りまーす!」



さっきより遠いので、彼の声はかろうじて届いたが、シャッター音までは聞こえなかった。だから、いつ撮られたのか全く分からな

い。



美和と動き出そうとすると、


「念の為、もう一枚。」と今度はグッと僕らに近付いた彼が、僕と美和をもう一度撮影した。



今度はシャッター音が聞こえた。



「ありがとうございます。」と美和は、彼の差し出すスマホを受け取り、撮影された画像を確認している。



「あのう・・・いいですか?」



僕の右側に女性の気配。



見ると、撮影してくれた彼の連れの女性が、僕に向かってデジタルカメラを差し出していた。



「あ、ああ、はい。」



僕は彼女からカメラを受け取り、さっき彼が僕らにしてくれたように、水族館を背に並んだ彼と彼女を撮影する事になった。



こういう時、撮影を任されるのはどうして男なんだろう、と考えてしまうが、今はどうでもいい事だと、僕はレンズ越しの二人に集中した。



遠くから、そして近くから、数枚の写真を撮った。



今は便利だ。撮ってすぐに画像が確認出来る。気に入らなければ消去して、記憶媒体の容量を確保出来る。



僕が学生の頃は、皆フイルムカメラを使用していて、現像するまで撮影画像はすぐに見られないのが常だったから、失敗しても分からない。そして撮影枚数には限りがある。24枚とか36枚とか。しかし一度撮った画像を消去することが出来ない為、むやみやたらに撮れない。一風景一枚、そんな感じで撮影画像を想像しながら撮っていた。



カメラに向かってにっこり笑顔を向ける二人は、傍から見ればしあわせそうな恋人同士。指輪をしていないから、まだ夫婦ではないと思われる。



「これでいいでしょうか?」



「はい。ありがとうございます。」



撮影した画像の内の一枚を見せて、僕は彼女にカメラを返した。



二人は僕らに軽くお辞儀をして、腕を組み、水族館の方へ歩いて行った。



僕は二人の背中を見て思った。



これから二人は、結婚式で永遠の誓いを交わして、病める時も健やかなる時も、共に手を取り歩んで行くのだろう。



しあわせになって欲しいとは思う。



だけど、永遠の愛なんてない。



あると言ってしまえば、それはただ苦しいだけのものになる。



僕のように一人残されて、寂しさの中、それでも延々と相手を愛し続けて行けるかなんて、今の彼らに問うても答えられないだろう。




今僕が感じているのは、誰しもが知らなくていい感情。



それを僕より先に知っていた人達からすれば、僕なんてまだまだだと笑われそう。



しあわせを齎すだけではない。愛は苦しいものだ。



手に入れてしあわせだった分、失ったと感じると、不幸にさえ思えてしまう。



一人では元々持っていなかったもの。



一人になって、愛を失ったのではなく、元々に戻っただけと思えばいい───だけどそうなれない。



一人は寂しいんだ。二人で居る事の素晴らしさを知ってしまった僕には。



「元。行こう。じっとしてると冷えちゃう。」



僕の左腕に、美和が右腕を絡ませて言った。



僕は美和が左手に握るおみやげ袋を「頂戴」と貰って出口を見ると、今の時刻に出て行く人は居なかった。入口から入って来る人達は結構居るけれど。



お昼過ぎ、帰るにはまだ早いと言われそうな時刻。



「もういいの?」本当に出てしまってもいいのか、僕は美和がまだ満足してないんじゃないかと不安になって訊くと、



「おみやげ買って、写真も撮ったし、いいよ。」と僕の腕を締め上げながら笑う。



美和、痛いよ。重いし。



「あ!その前に・・・」



「何?」



「トイレ行っておこう?」



「そうだな。」



「女子トイレ混んでて待たせるかも。」



「いいよ、別に。」



「貸して。おみやげ私が持ってるから。」



このぬいぐるみを持ったまま用を足すのは難しそうだと、


「じゃあ・・・」僕は美和におみやげ袋を預けた。



美和の言った通り、女子トイレは混雑しているようで、ガラガラだった男子トイレから出て来た僕は、風が強いからなのか、パラソルの抜かれた丸テーブルと白椅子を横目に、座って待つ程でもないと立って居た。



ああ、そうか。同時にではなく、交替で行けば美和におみやげ袋を持たせなくて良かったかもしれない。考えてみれば、こうして女性と二人で遊びに出掛けた事なんて無かったから。



それにしても、レジャー施設の入出場ゲート付近で、40半ばの男が一人、ぼんやり突っ立っているのは、あまり好ましい光景ではない。



しかし、他にどうしようもないと僕は手持無沙汰で俯き、スニーカーの先を見つめながらちょこちょこ動き、半回転程した所で、



「・・・何してるの?」不意に背後から声を掛けられ、びくりとした。



そっと振り向いて見ると、当然だが美和だった。



無意識の行動を見られた僕の頭の中は、恥ずかしさのあまり真っ白になり「ぼんやりしてた。」正直に答えるしかなかった。



すると、美和は少し笑って「待たせてごめんね!」と僕の背中を手のひらで叩いた。



痛いな!



「押すなよ。」



「押してない。」



べーっ、と舌を出した美和は、おみやげの大きな袋を抱えて、先にゲートに向かって走り出した。



小学生だ。こんなやり取り。でも嫌いじゃない、楽しかった。



ふと、手提げの中のわーさんの存在を思い出し「わーさんもやりそう。」と思わず呟いた。



『待たせたな。ほら、行くぞ、元!』



そう言って、大きな手で僕の背中を押すわーさんの笑顔を思い出してしまい、また涙が込み上げそうになった。



愛されなくなっても、愛されていた記憶は消えないよ。



もう二度と、僕に触れては貰えなくても、僕は忘れないから。



愛を失ったとか、寂しいとか、そんなの僕の心次第。



美和が言ってくれたように、わーさんが僕を愛したまま逝ったのなら、わーさんも寂しい筈。



僕らは共に寂しくて、いつかまた会いたいと願っていると信じたい。



今日は不思議な日だった。



美和と来ている筈が、わーさんと来ていると、度々錯覚してしまった。



デートというより、三人で歩いた、そんな感じだった。



まあ、それは僕だけで美和は違うかもしれない。



ゲートを出て、車に戻ると「楽しかった。元は?」シートベルトを締めながら美和が僕に訊いた。



「まあね・・・」



「疲れた?ごめんね。帰りの運転、大丈夫?」



「じゃあ、代わってくれるの?」



「えっ・・・それは無理。だって、免許ないから。」



「簡単だよ。こうしてエンジンを掛けて、これがアクセルでこっちがブレーキ。ハンドルは右に回すと右に曲がって、左に回すと左に曲がる。」



「そういう事じゃなくて!」焦ったのか、美和はほっぺたを赤くして大きな声を出した。



向きになる美和が面白くて、僕はぷっ、と吹き出した。



「ぷっ・・・くくく。美和に運転させる訳ないだろ。まだ死にたくないよ。それに今、二人いっぺんに死んだら、誰が僕をお墓に───」



僕はそこで口を閉じた。



今はこんな話、しない方が良かったか。



「分かってる。お墓の事でしょう?交換条件だもんね。今日のデートと。」美和の話し声は、さっきとは変わって淡々としていた。



「・・・うん。」僕は美和の顔を見ずに頷いた。



自分で言い出した事とは言え、燥いだ余韻をぶち壊してまで、今言う必要があったのかと後悔していた。



助手席で口を噤んだ美和は、思っているだろう。



"そんなにお墓が大事なの?"と。



現世で結ばれなかった僕らは、死後位、一緒に居たい、そう思ってしまうんだ。



けれど、わーさんも美和と一緒の考えだったらと思うと、心がひやりとする。




同じ墓に入る事に拘らない考え。



そりゃあ、死んだ後、骨を同じ場所に埋葬したからと言って、それが一緒に居るという事には決してならないんだろうけれど。



「車、出すよ?」



「うん。」



不安だからなのかな。



この先、知らない道を走るのと同じように。



最後に行き着く先は皆同じ───"死"なのに。



僕は弱いから、何かに縋ったまま死にたいのかな。その何かがわーさんのお墓って事なのかな。



分からないんだ。わーさんが僕にお墓を遺した理由が。



僕の寂しさを募らせたいと思った訳じゃないだろうけれど、もしも僕の為にお墓と仏壇を遺したと言うのなら、僕は少し、わーさんを恨みたくなってしまうよ。



だって、会いたくなってしまうから。仏壇やお墓の前に立つと、必ず思い出すから。



そうして欲しいと生前言ってくれていたら納得出来るけれど、そんな事は一言も言わなかったどころか、一人で移住し、一人で死のうとしていたわーさん。



死後に関しての手配だって、僕の知らない所でてきぱきと決め、今もまだウジウジ決められないでいる僕とは大違いだ。



僕の方が先に死ねば良かった。そうしたら、こうして悩むのは僕じゃなく、わーさんだった筈。



だけどわーさんはどちらかと言うと悩むタイプじゃない。美和のように、サクサク決めて、それをやり遂げたらもういいやって、それまでの過程とか振り返らない。



僕もその方がお得な生き方だとは思うけれど、全く出来ていない。



あの時こっちを選べは良かったかなって、思う事ばかり。



僕が先に死んで、わーさんがまだ生きていたら・・・と考える。



一人暮らすわーさんの元へ、美和が訪ねて来て、同居する事になった。



性格の似ている二人は仲良く暮らし、いずれ結婚しようと誓い合う───『美和ちゃん、俺は元が死んだ時、この先どうなる事かと不安だった。でも、美和ちゃんと出逢えて、俺の人生まだまだこれからだなって思ったよ。過去は忘れて、俺と未来を歩んで欲しい』



『私も。女の人しか好きになれないと思ってたけれど、わーさんに出逢えて変わった。これからは、わーさんと二人で生きて行きたい。よろしくお願いします』



二人は結婚・・・のちに子どもが生まれたりして───「わーっ!」



「元、どうしたの?」



美和に肩を掴まれた僕は、ハッと我に返った。



考え事をしていた。しかし、運転には問題なかった。



さざんなみランドから続く高速に乗る前の道、後続車も対向車もない状態。



「何でもない。ラジオでも聴く?」



「どっちでも。」



答えた美和の横顔をちらと見ると、疲れたのか、普段の笑みが消えていた。少し不機嫌そうにも見える。まだお昼を食べていないからなのかな。



「お腹空いた?」



「ううん。さっきおにぎり食べたし。」



美和の胃袋は、おにぎり一つだけでは足りないんじゃないか?



後で、高速のSA(サービスエリア)に寄ればいいかな。



高速道路に入ると渋滞もなく、車はスイスイ進んだ。



カーラジオから流れる、女性パーソナリティーの高く澄んだ声は、悪くない声だが、少しテンポが速く、ぼんやりしていると数語聞き逃してしまいそうだった。



運転しながらの僕の耳が拾った言葉は『恋と愛の違いは何ですか』というリスナーの質問だった。



恋と愛の違い・・・ねぇ。



そんなのは、誰かに言われた言葉で分かるものじゃないって。



感じ方は人それぞれ。恋の定義、愛の意味がこうと聞かされた所で、実感出来なければ納得出来ない。



大体、人に語る程多く恋愛している人の説く話なんて当てにならないと僕は思う。



例えば、不特定多数と付き合って数々の別れを経験した人と、たった一人としか付き合った事のない人の話、どちらを聞きたいか。



恋はたった一人と付き合っても分かるかもしれないけれど、愛は何人と付き合っても分かるものじゃないと思うよ。



僕だって、時々分からなくなる。さっきみたいにわーさんの愛を疑ってしまったりして。



ああ、恥ずかしいなあ。美和の前であんな風になって。



それに、今日の僕は普段と全然違うと自分でも分かる程、変だ。



美和の中にわーさんが入っているなんて、錯覚したり・・・



「ねえ、元。」



「な、な、何?」



「あのね、さっきの事、気になってるの。訊いてもいい?」



「さっきの事って、何・・・」



どきどきどき。



「わーさんの初恋の相手って、どんな人だったの?」



「・・・え?わーさんの、ハツコイ?」



ハツコイって、初鯉じゃないよな。ええと・・・



「わーさんの初恋の相手って、男の人じゃなかったの?」



「ああ・・・さっきの話か。」



ようやく思い出した僕は、


「メスだって。」と答えた。



「メス?」




「神社の境内で震えていた、白い子猫の・・・メスだったらしい。」



「え?わーさんの初恋って、子猫ちゃん?」



「そう。」



わーさん本人から聞かされた話だった。



美和は『猫は初恋にならないよ』と言うかと思ったけれど、


「そうなんだ。かわいい初恋だね。」とすんなり受け入れた。



わーさんの名誉の為に、というか、僕が話したかっただけかもしれないけれど、


「わーさんは、昔、ゲイじゃなかった。女の人とも付き合ってた・・・らしい。」と打ち明けた。




「え・・・?」



「バイっていうのとも違うかな。わーさんはモテてたから。だけど、結局女性とは上手く行かなくて、そんな時、声を掛けられたのが、昔の同級生の男だったんだって。それから、その人と付き合うようになって、何人目かで僕と付き合うようになった。わーさんは来る者は拒まず、去る者は追わずって感じだったみたい。でも僕とは10年以上続いててさ、『俺達、その辺の夫婦より夫婦らしいよな』って言われた時は、本当に嬉しかった。」



「愛だね。いいなぁ。」



「そう言ってくれるのは美和だけだよ。こんな話、誰にも言えない。気持ち悪いって言われるだけだ。」



「私はそうは思わない。愛は、男女間だけに生まれるものじゃないって思ってるから。」



同性を好きな美和から聞かされても、あまり説得力ないよ。



ただ、ハッとさせられた。生まれるという言葉。何も生み出せないと思っていた同性同士の間にも生み出せるものがあったのかと。



「生まれる・・・かぁ。本当に生まれて良かったのかなって思う位、愛かもって思う気持ちに苦しんだりもしたけれどね。」



「分かるよ。何となく。」



「分かるの?まだ一人しか好きになった事ないのに?」



「馬鹿にしないでよ。そういう元は、何人好きになったの?」



「さあ、何人だったかな。今までの好きなんて気持ち、全部吹き飛ばしてしまう位、わーさんの魅力は凄まじかったからね。」



「へぇー、それはご馳走様です。」



「あっ、訊き逃げ。まだこれからなんだからな。帰り道、わーさんの魅力をたっぷり聞かせてあげよう。」



「えー?」



くすくす、美和は笑いながら、それでも僕の話すわーさんの魅力に耳を傾けてくれた。



話している内に、僕の心の中は、ぽかぽか温かくなっていた。



僕がどれだけわーさんを愛しているか、わーさんに愛されていたか、美和に話す事で再確認出来たからだろう。



途中、サービスエリアで食事とトイレを済ませ、家の近くまでわーさんとの思い出を延々と話してすっきりした僕は、家の裏に車を停めた途端、



「あー、僕はしあわせだ。」なんて事を言ってしまった。



昼間は落ち込んでグダグダになっていたのを忘れ、帰り道の車内で延々昔話を話した僕に、美和はさぞかし呆れただろうと思っていたのに、


「良かった。元が元気になって。私もしあわせだよ。」


やっぱり、わーさんの魂が乗り移っているんじゃないかと思う美和の笑顔に、救われた気分だった。



時計を見ると、18時手前だった。



海も寒かったが、それ以上に寒い。



エンジンを切ったらすぐに家に入らないと。



「僕が荷物持って行くから、美和は勝手口開けて、灯かり点けておいて。」



「了解。」



バタン、バタンとドアの音が響く。美和は勝手口に走った。僕は後部座席から、手提げとおみやげ袋、その他の荷物を引っ張り出して、ドアを閉め、ロックした。



勝手口の扉を抑えている美和の前を通過し、先に家の中に入った僕は、居間の灯かりを点けて、手提げ以外の荷物を畳の上に下ろした。



手提げの中から取り出したわーさんの遺影を見ると、少し砂粒が付いていた。



タオルで磨いて、仏壇に戻すと、ふと気配を感じて振り返った。



僕の後ろで、僕より先に美和が手を合わせていた。



僕も慌ててわーさんの方を向き、手を合わせた。



お疲れさま、どうだった?まさか連れて行く事になるとは思ってなかったんだよ。



【楽しかったよ。元もそうだろ?】



また都合のよい声が聞こえる。聞こえないよりはいいけれど。



ガサッガサガサ。



派手な音がして振り向くと、美和がおみやげ袋から、長いぬいぐるみを引っ張り出していた。



「じゃーん。ワカメくんでーす!それでは、はい、元。どうぞ。」



美和は僕に向かって、長い長いぬいぐるみを両手で捧げ持った。



「え?何故僕に?」



「今日付き合って貰ったお礼。」



「お礼って、これ・・・いいよ。」



貰っても困る。150センチ位あるぬいぐるみ。



「ほんの気持ちです。」



「いいよ、別に。」



今日付き合ったのは交換条件だし・・・とはもう言わないでおいた。



お墓の事で焦るのはやめた。なるようになるだろう。



「ちゃんと、約束守るから、貰って?あのね、こういうの抱いて寝るといいんだって。」



「は?」



このウネウネグネグネしたぬぃぐるみを抱いて寝ると何がいいって?



想像してみた。45野独身男が布団の中でこれを抱いて寝る姿。



気持ち悪い以外の何者でもない。



まったく冗談じゃない。僕を何だと思ってるんだ。



「邪魔だし、志歩理に送れば?」



「志歩理社長には、こっちのお菓子と写真を一緒に送るので。」



「僕もお菓子の方がいい。」と言ってみると、


「えー・・・でも、これかわいいよ?ワカメのわーさん。」とか言い出した。



「勝手にわーさんとか名前付けるなよ!」



「いいよーだ!元が要らないなら、私がわーさん貰うから。今夜から一緒に寝ようね、わーさん。」



「やめなさい。貰うから。」僕の声は最後の方、小さくなった。



「え?」



「これを僕にだってくれたんだろ?貰っておく。それじゃあ、僕からはこれ。」




ぬいぐるみと引き換えに、僕は小さな袋を美和に手渡した。



それは僕がレジ前で見つけて買った物。



「え?元から?ありがとう。何かな。」



おみやげ袋から取り出した透明な袋の中には、ハンカチと折り畳みの櫛、それからハートの飾りの付いたヘアピンと手鏡が入っていた。



小学生向けとも思われたが、美和に必要な物が詰まっていたので買ってしまった。



毎朝、車の中で跳ねた髪を気にする美和。



櫛にピン、鏡があれば何とかなるだろうと考えた。



ガサガサ、取り出したピンをじっと見つめる美和。



「気に入らなかった?」



確かに、子ども騙しのデザインで、一応大人の女性である美和が喜ぶ筈なんて無かったのに・・・いや僕は別に美和を喜ばせたいとか考えた訳ではなくて、ただ単に朝の騒ぎを減らそうと───パチン。



「どう?似合う?」



美和は前髪を片方に寄せて、ヘアピンで留めた。



適度な広さのおでこを出した事により、形の良い眉が際立ち、目元の印象が変わった。



その瞬間、美和から幼さが消えた。和服など着たら似合いそうだと、その姿を想像した僕の心臓がどきりと鳴った。



「元、変な顔してる。似合わないならそう言ってよ。私もそうじゃないかと思って、今までおでこは出さな───」「似合う。その方がいい。」



「・・・え?」



ヘアピンを外そうとした手を止めながら、美和は僕を見上げた。



何だ、この空気。



どきどきどき・・・思わず出した言葉のせいで、むずむずする口が変に曲がりそうな感じがする。



それを隠す為、僕は咄嗟に、貰ったばかりのぬいぐるみに顔を埋めた。



ああ、これじゃあ美和に、余計変に思われる。ぬいぐるみを抱き締めて頬擦りしているように見られたら、立ち直れない。



「やっぱり!」と突然美和が怒った声を上げた。



え?と思って顔を上げると、


「やっぱり変だと思ったんでしょう?笑い堪えて言わないで!」と頬をぷっと膨らませ、口を尖らせた。



そして折角着けたヘアピンを掴み、引っ張ろうとした。



その瞬間、僕は・・・



「えっ───」



僕の唇が美和のおでこに触れた瞬間、美和が短く声を上げた。



「な、何で?」



戸惑う美和の声が、僕の胸の前で響いた。



ぬいぐるみを放り出していた僕の両手はフリーだ。このまま代わりに目の前の美和を抱き締めて口を塞いでしまえば非難の言葉を止められるなんて酷い事を一瞬考えたが、これ以上訳の分からない行動を続け収拾が付かない事態を招くのはやるようと、僕は両手を上に上げ、まさにお手上げにしてしまったこの状況から、黙って逃げ出した。



すーっ、パタン。



僕は一人、居間から洗面所へ逃げて来た。



隙間風が入っても入らなくても寒いこの場所で、急いで服を脱ぎ捨て、迷わず風呂場へ直行した。



ザー・・・・・・



温かい湯気に包まれながら、シャワーのお湯を頭から浴びる僕は、ただ、水道管が凍結してない事に感謝しようと、さっきの行動を思い出さないよう努めた。



何故あんな事を・・・副社長のままだったらセクハラだ。懲戒解雇の後、裁判だ。



バカバカバカ。本当にどうしてしまったんだ。あんな事、するつもりなんて微塵も無かったのに。



僕は美和の事を女として見ていない。今もそう。なのに何故、あんな・・・



いや、女として見ていたら、絶対にしない行為だ。



それでは、僕は美和を男として見ていたというのか?



それも違う・・・美和は男とか女とか、僕にとってはそのどっちでもない存在で・・・と言うか、もしも美和が男だったら、これって浮気って事?



・・・いや、だから違う。浮気じゃない。これは、恋とか愛じゃないから。



家族愛、って、家族でもないけどな。うーん・・・何故あんな事をしたのだろう。



居間に戻って『何であんな事したの?』と美和に訊かれたら、


『つい出来心で』と言うのも変だ。



"出来心"って、どんな意味だったっけ。迂闊に言葉を発せない。ここは黙ったまま寝てしまうか?



【卑怯だぞ、元】



突如、わーさんの声が頭の中に響いた。



卑怯、確かに。



許可なく人の額に唇を押し付けておいて、一言も謝らずに済ますと言うのは、人として許されない。



ザーザー、シャワーの音に紛らわせて「ごめん、僕が悪かった。」と美和に謝る練習を数度繰り返した。



ああ・・・風呂場から出たくない。寒いだけからじゃない。美和と顔を合わせづらい。



しかし、逃げると言っても、逃げ場がない。



都会と違って、田舎のここでは、夜に一人、身を寄せる場所も簡単には見付けられない。



長く外に居たら、凍死する季節。同じ家の中の別の部屋に行くのも、暖房器具が無いから難しい。



同じ居間でいつも通りふとんを並べて眠るしか、生き残る方法はない。



いつ死んでもいいけれど、今、美和と気まずいまま死んだら、それこそ、約束を果たして貰えなくなってしまう。



観念した僕は、美和に謝り、ビンタでも何でもして許して貰おうと、シャワーを止め、風呂場から出た。



タオルで体を拭いていると、籠の中に僕のパジャマが畳まれている事に気付いた。



下着まである。



美和か・・・怒ってる相手にこんな事しなくていいのに。



僕は、美和に謝ろう、と拳を握り締めた。



そっと居間の戸を開けると、灯かりと暖房は点けられていたが、美和は居なかった。



布団は二組、ちゃんと僕の分もいつも通り敷かれていた。



すると・・・あっちか。



磨り硝子の戸の向こう、灯かりの灯る台所。




カタン、カタカタ、ゆっくり開けても、軋む硝子戸の音。



コポコポコポ、湯呑みにお茶を注ぐ音が聞こえ、シンクに向かって立つ美和の背中が見えた。



「み・・・」



何て声を掛けようか躊躇った僕を、美和が振り返った。



「あ、元。お茶淹れたばかりだから熱いよ。私もお風呂、入って来るね。」



「うん・・・」



"うん"じゃないだろ?他に言うべき事があるだろ?と僕の声が頭の中で響く。



「あのさ、美和───」「元、疲れたでしょ?先に寝てて。」



パタン。



美和は台所から出て行った。



にこにこしてたけど、腹の底では怒ってる。取り付く島も無かった。



テーブルの上には温かいお茶。



でも多分、これを淹れてくれた美和の心は冷たいんだろう。



好きでもない僕、まして男からあんな事されて、本当は逃げ出したい位だろう。



謝って済む事じゃない。仮に、僕が美和に好意を持っていたとしても許されない事だった。



やっぱり僕は廊下で寝よう。その上で凍死したら・・・僕の死後の事を美和に頼めそうもない今の状況では、僕がわーさんのお墓に一緒に入るのは難しいかもしれないけれど。



軽はずみな行動が、身を滅ぼす。肝に銘じておかなくては。



しかし、美和相手にこんな風になってしまうとは、思っても見なかった。



美和が額を隠そうとした時、勿体ないと思ったんだ。



しかも美和はそれに気付いてない。自分の魅力を自覚していない。



世の中には、美和を愛してくれる女がおそらくいるだろう。美和が一目で好きになったという女だけが女じゃない。



こんな田舎で、残りの人生先細りの僕と暮らしても、何も面白くないだろう。



追い出したい訳ではないが、ここでこのまま、僕の死を看取る為に一緒に暮らして欲しいと僕が言うのは、本当におかしな気がして来た。



僕は一体どうしてしまったんだろう。美和に僕の死後を託したいとあんなに考えてたのに、ここに来て、この考えが正しくない気もし

て、迷う。



だったら、交換条件の今日のデートは何だったんだという事になる。



あー、もう!



とにかく、美和に謝ろう。その上で、美和がここで暮らせないと言うなら、出て行くなり、慰謝料請求するなり、好きにしたらいい。



ぐびっ、お茶を一気に飲み干した僕は、ガタン、椅子から立ち上がった。



ザーザー、湯呑みを冷たい水で洗うと、指先から手首まで冷え、少し頭がすっきりして来た。



冷静になれ。今日は少し浮かれてしまっただけだ。



ザーザー、キュッ・・・水を止めたのは僕ではなかった。



パジャマ姿の美和は、僕の手から濡れた湯呑みを取り上げて、水切り籠に伏せた。



「袖、濡れちゃうよ?」



「美和・・・・・・あの、さっきはごめん。」



「さっき?なんだっけ?」



「え、あの・・・おでこ。」



「ああ、その話ね。ここ寒いから向こうでしよう?」



台所の灯かりを消した美和は、僕を居間に促した。



ぎゅっ・・・美和の後に続く僕は、胸の辺りを握り締め、これから美和に言われるであろう、非難の言葉の数々を思い浮かべて覚悟した。



タン。



硝子戸を閉め、それぞれ敷かれた自分の布団の上に座った。



美和が正座したので、僕も正座すると、気付いた美和が足を崩し「元、足崩したら?」と言うので、現在、とても立場の弱い僕は「はい。」と従うしかなかった。



美和はぷっと吹き出した。



「何?」と訊くと、


「そっちこそ、何?変だよ、元。」と返された。



変なのは自覚してる。



今日の僕は本当にどうかしていた。



すべて忘れて欲しい。



謝った後、許して貰えたならそれも願い出よう。



「あの、美和。本当にごめ───」「もう"ごめん"は聞き飽きた。」



美和は怒っている。ここに来て、初めて美和が怖いと思った。



「も、申し訳ございませんでした。」



崩した足を正座に戻し、両手を膝の前についた僕は頭を下げた。



「だからぁ、やめてって言ってるでしょ?謝らなくていいの。」



美和は、頭を下げる僕の両肩を掴んで、持ち上げた。



「だけどさっきのは本当にどうかしてて、本当にごめんなさい。」



「さっきのって、何の事?」



「何の事って、その・・・おでこに、あの・・・」



「キスした事?」



「う、うん。」



「そんなに謝る事じゃないでしょう?」



「他にも・・・抱き締めた事とか。」



「気にしないで、元。」



「えっ?何で?気持ち悪かったでしょう?僕にあんな事されて・・・」



美和はレズビアンだ。それなのに男の僕にそうされる事がどれだけ気持ち悪いかって事、ゲイの僕なら分かっている筈なのに。



「・・・何をしてもいいよ。わーさんにしたのと同じ事だったら。」



「どういう意味?」



「元はわーさんを愛してた。わーさんも。だから、元がわーさんにしていた事なら、何してもいいよ。」



"何しても"の所で、変な想像をしてしまった僕は、



「そんな事、出来る訳ないよ!」と大きな声を出してしまった。




「私ね、分からないんだ。恋とか愛とかそういうの。この人いい人だなー、好きだなーっていう人はいっぱいいるの。だからね、誰がたった一人の好きな人なのか区別が付かなかった。でもね、ある日、その人を見た瞬間、今までの"好き"とその人を見た時の"好き"が違うって分かったの。でもね、その人には大事な人が居て、私の事なんてその人の世界に存在しないの。」



「そんな事ないよ。」



「慰めようとしないで。本当の事だから。ねえ、元。両想いって、どんな感じ?私、分からないの。時々、一生分からないままかもって思うと寂しくなるんだ。同僚からは、自分の事を好きになってくれる人を好きになればいいって言われたけれど、それって違うよね。たった一人、その人から好きになって貰えなかったら、両想いになれないんだよね。」



僕とわーさんが共に恋に落ちたきっかけを話したら、美和にも分かるかなと考えたけれど、僕らのきっかけって何だったろう?



改めて考えてみると本当によく分からない。



どうしてわーさんと両想いになれたのかなんて、説明出来ない。



どちらともなく、自然と、傍に居て、寄り添うのが当たり前になって行って・・・だから、いつ、両想いになったのかなんて、はっきり言えない。



困った僕は、



「いつか、出逢えると思う。両想いになる相手と。美和は逢える。」と、おまじないのように唱えるしかなかった。



「・・・やっぱり、怒ってもいい?」



「怒る?何を?」



「元の事。」



「えっ?」



「さっきキスした事、許さないって言ったら?」



「えっと、それは、ごめんなさい。何でもするから───」



「前に台所で抱き付いた時もそんな事言ってたね。」



うう・・・セクハラで警察に訴えられる?



会社じゃないから、痴漢?



けれど証拠はない。おそらく美和は、警察には言わないだろう。



だとすると・・・?




美和は広げた右手のひらに「はあーっ」と息を吹き掛けた。



「元、目を瞑って、歯を食い縛って。」



「え?」



これってもしかして、ビンタ?



「早く!」



こわーっ!



「は・・・はいっ!」



僕は美和に言われた通り、目を瞑り、歯を食い縛った。



「行くわよ。」



「・・・・・・!」



覚悟した僕の耳に届いたのは、


バチン、ではなく、チュッ、だった。



美和が触れたのはおでこ。



まさか、と急いで目を開くと、今度はふわり、美和の使う洗顔フォームのフローラルな香りが、僕の鼻を掠めた。



ギュウッ、美和は僕を抱き締めている。



何故?



ビンタされる筈だった僕は、どうしておでこにキスをされ、そして抱き締められている?



はて・・・?



「美和、あの、どうしてこんな───」「お返し。私も同じ事をしたから、これでもう、元が謝らなくてもよくなったでしょう?」



ああ・・・"歯には歯を、目には目を"って奴か。



だけど何も、美和まで僕に同じ事をする必要は無かったんじゃないかな。



美和はまだ、僕を抱き締めていた。いつまでこうしているつもり?



「あの、美和?もう離れ───」



「元が寂しくなったら、私の事、いつでもこうして抱き締めていいからね?私も、寂しい時あるから、気持ち、分かるよ。」



「・・・でも美和の寂しいは、僕のと違う。美和の好きな人は生きているでしょう?それって、いいなと思うよ。」



「確かに生きてるよ。でもね、その人には私が"好き"って思って居る事を伝えられない。私の気持ちは行き場がないんだ。その点、元はいいよね。天国のわーさんの所へ、いくらでも"好き"って気持ちが送れるでしょう?」



目から鱗だった。そんな風に考えた事が無かった。



いくらでも送れる・・・かあ。



"好き"って気持ち。



返って来ないからと拗ねて、"好き"って気持ちを生み出そうともしていなかった。



そっか、それで寂しかったんだ。



相手が死んでしまったら、"好き"という気持ちは無意味だと考えてしまったから。



そんな事ないな。



わーさんの事、"好き"だと思うだけで、力が湧く。



わーさんの好きな所、いっぱい思い浮かべるだけで、しあわせな気持ちになる。



わーさんのように素敵な人から愛されていたと考えると、僕は世界一しあわせな人間"だった"・・・過去形。



過去形はやめよう。悲しくなる。



そして、昼間感じた疑念が、また僕の心を覆い尽くそうとしている。



わーさんは本当に僕を愛したまま亡くなったのかという事。



心変わりしていたとしても、わーさんの事だから、わざわざ僕に告げないでそのまま逝ってしまったとしたら、僕一人だけが愛し───「元、愛してるよ。」



美和が僕を抱き締めたまま言った。



「え?・・・っと?」



僕は耳を疑った。レズビアンの美和が僕を"愛してる"?何故だ、僕は男なのに───



「昼間も言った通り、私は人として、元を愛してる。元はわーさんの一番大切な人。私もわーさんの夢を見たの。ここに住むからには、元を愛して欲しいって。私は、わーさんに"はい"って返事をした。」



「わーさんの?」



僕は首を動かして仏壇を見た。



僕を"愛して欲しい"だって?



そんな事、わーさんは言うかな?って考えたけれど、もしそうなら、わーさんはまだ僕の事を気に掛けていてくれているという事になる。



死後の世界とか半信半疑だけど、愛する人には死後、地獄よりは天国で暮らしていて欲しいと願ってしまう。



わーさんが天国から僕の事を、美和の夢の中で託してくれたと言うなら、信じたい気もするけれど・・・



「いいな。僕の夢にも出て来て欲しい。どうして美和だけ・・・」



僕は、僕の体を離さない美和の体を抱き締めた。



「へへん。いいでしょう?日頃の行いじゃないかしら?」



美和も僕の体をぎゅっと、更に強く抱き締めた。



触れ合う部分がどんどん熱くなる。



人の体の質量、熱量、ああ、こんな風だった。



僕は多分、もっとずっと、こうしてわーさんと抱き合って暮らしたかったんだ。



わーさんも多分、そうだったよね。



疑ってごめん。



きっとわーさんは、僕を愛したまま、逝ってしまったんだ。



あの日、最期を看取れなかった時に僕の心に生まれた傷が、今もずっと疼いているだけなんだ。



それはきっとずっと、僕が死ぬ瞬間まで。その時初めて僕にも、あの時わーさんがどんな気持ちだったかって事が分かるのかもしれない。



僕が死ぬ時、その時は───「僕の事、看取ってくれる?美和さえよければ・・・」



僕は、いい返事を期待し過ぎてしまったのかもしれない。



この家を好きだと言った美和はここに住み着いて、誰とも結婚せず、ずっと僕と暮らして、ここで僕の最期を看取って欲しいなんて───



「それは、分からない。」と言った美和は、僕を抱き締めている腕から力を抜いた。



それから、俯いて黙った。



困ってる。突然僕が『最期を看取って』なんて言ってしまったから。



そこまでを望んではいけない相手だと、美和の顔を見て思い知った。



恋人でも夫婦でも親子でも兄妹でも家族でもないただの他人なのに。



「分かってる。いいんだ。勝手な事、言ってごめん。」



「でも、お墓の事は、引き受けられると思う。元が指定した代理人に連絡をするから・・・」



「うん。」



美和に、急に突き放された気がした。



そして、さっき言ってくれた『人として、愛してる』も、嘘のような気がして来た。



僕を愛してくれる人は、もうこの世に居ないんだって事を再認識したら、急に体の中が冷たくなって行った。



「寝ようか。」



「うん。灯かり消すね。」



「うん・・・」



パチン。真っ暗になった部屋で、いつも通り隣同士並べた布団に潜る僕と美和の距離は、今夜、一気に遠くなったと感じた。




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