11 2015年10月12日のこと
2015年10月12日月曜日。体育の日。カレンダーの文字は赤。祝日だ。
僕が子どもの頃の体育の日は10月10日と決まっていた。
2000年からハッピーマンデーという制度を導入して、固定されていた祝日が一部、月曜日に移動した。
それ以来、体育の日は10月の第二月曜日、日にちで言うなら8~14日の内のどれかが、毎年祝日となる。
今年、2015年は12日が月曜日。美和の勤める幼稚園も休みで、まだ寝ている。
明け方、腰の痛みで目が醒めた僕は、トイレに立った。
それから一時間程何もせず、窓辺に座っていた。掛け布団に包まったまま、カーテンの隙間から、ぼんやり畑を眺めている。
昨日、美和と二人で片付けたひまわり畑。
今年も一人で片付けるのかと思っていたから、美和が手伝ってくれて早く終わったし、何より楽だった。
体もだけど、気持ちも。
孤独に慣れたつもりでいたのに、そうでもなかったんだな。
美和が男だったら、わーさんに悪いと追い出してた。
女らしい女でもそうしてた。
でも美和はどちらかと言うと女らしくない女で、男らしくない僕とその点は同類だと思えた。
年下だけどそれも感じさせない。20年来の志歩理と変わらず接して来る。まるで幼い頃から知っている幼馴染みのように。
妹とは違うし・・・一番近いのは、こんな事思いたくないけど、やっぱりわーさんかもしれない。
わーさんと考え方が似ている気がする。言う事が近いと言うか、時々、わーさんと同じ事を言うと感じたりする。
僕はどちらかと言うと人見知りの方で、広く浅くよりは、狭く深く付き合う方が好きだった。
恋人だって、ゲイという事もあるけど、わーさんは三人目。好きになっただけの人はもう少し居たけれど。
今まで出逢った男の中で、いや、人類の中で、わーさんが一番好きだった。
だった、なんて過去形。今も一番はわーさんだよ。
仏壇を振り返ろうとした時、ポン!両肩に何かが乗った。
「ひっ!」驚いて声を出した後、わーさんかもと思ったら怖さはなかった。
僕の魂を抜いてあの世に持って行ってくれるならそれもいい、と思ったのに、
僕の肩を掛布団の上から叩いたのは「おはよ、元。」美和だった。
「おはよ・・・」
「寒いねー。入れて。」
美和は、勝手に掛布団の右端を掴んで引っ張ると、僕の右隣りにちゃっかり座り込んでグッと身を寄せると、バサッ、掛布団の中に収まった。
二人で入るには狭い。前が開いてスースーと冷たい風が入って来る。
「寒いよ。自分の掛布団持って来て。」
「いいじゃない。少しだけ。」
膝を抱えた美和は、僕の右腕に頭を寄せた。
何故かどきりとした。
まるで恋人同士みたいな、変な距離感。
パジャマ越しに触れる美和の頬はやわらかくて温かかった。
嫌じゃなかった。もう少しこうして居たいと思った。
その時、分かった。
僕は人肌が恋しかったんだと。
男とか女とか関係なく、ただ、そのぬくもりに触れて安心したかったのだと。
母を恋しく思っても、甘えられる齢でもないし、それを考えるだけで、お互いに気持ち悪いだろう。
同年代の友人や志歩理に会って、何の前触れもなくいきなりハグしたら、一体何だ?と思われるだろう。
美和も同じなのかな。
男を好きになれない。かと言って、その女以外の女も好きになれない。
美和も母親に甘えられる齢ではないし、女友達に会っていきなりこんな事をしたらやはり何だ?と思われると出来ない───こういうのは大抵、男女の恋人同士がするもので・・・いや、僕はわーさんが生きていたら出来たけれど・・・
もう出来ない。
美和もそうだからなのかな。僕にこうして寄り添い、凭れているのは。
絶対に恋人同士にならない僕らなら、くっついても許される?わーさんも許してくれる。
「美和。寒いから、もう少しくっついて。」
「えっ?・・・うん。」
美和は僕の顔を下から見上げ、少し間を開けて返事をした。
嫌だったら、最初からくっつかなければいいのに。
少し苛立った僕は、男に触られるのが嫌だろう美和の背中に腕を回し、肩を掴んで抱き寄せた。
僕にそうされた美和は声一つ上げず、しばらく僕と一緒に畑を眺めていた。
体は、さっきよりは温かい。
でも、僕の気持ちは少し冷めていた。
確かに人肌は恋しかった。だからさっき美和が僕に凭れて来た時、嬉しかった。
でも、僕が抱き寄せると、美和はそれを望んでいなかったから黙り込んだ。
それに勝手に傷付いた僕は、嫌がらせのように美和の肩を抱き続けて、でもそれもそろそろやめようと思う。
畑に陽が射して、明るくなって来た。現在六時半過ぎ。僕が美和の肩を抱き寄せて二十分程。
すでに、僕の望んだぬくもりではなくなっている。
美和の肩から手を離した僕は、バサッ、背中を包んでいた掛布団から一人抜け出した。
「元・・・」
美和は、立っている僕に縋るような眼を向けた。
嫌がっていた筈なのに、何故?と不思議だった。
僕に肩を抱かれて、
「嫌だったんじゃ───」ないのと訊こうとした途端、
「くしゅん、くしゅんっ!」美和が二回連続でくしゃみした。
「ほら、着替えないと風邪引くよ。」
僕はエアコンを点け、トイレで用を足した後、顔を洗った。
洗面所から出ると、入れ替わりで、服に着替えた美和が入って来た。
居間を覗くと、カーテンは開けられ、布団も片付けられていた。
僕も着替えて、台所に行くと、既に美和がコンロに掛けた鍋の前に立って居た。
何だか気まずさが漂っているようで、僕は何も喋れなかった。
冷蔵庫を開けた。
「元。」
突然振り向いた美和の呼び掛けに、ドキリとした僕は、口を開けても声が出せなかった。
そんな僕に美和が訊いた。
「お味噌汁、豆腐とわかめでいい?油揚げ切らしてる。」
「ああ、うん。何でも・・・」ようやくそれだけ言って、パタン、何も取らずに冷蔵庫を閉めた。
「了解。」
「あのさ、ご飯作るの任せていい?掃除機かけて来る。」
「うん、いいよ。」
掃除機なんて今じゃなくてもいい事だったけど、とにかく台所に居辛かった僕は、理由をつけて美和の傍を逃げ出した。
ガーガー、畳に掃除機をかけながら、仏壇の写真をちらと見る。
わーさんは呆れているかもしれない。
僕は、わーさんの写真もまともに見れなくなって、一生懸命畳の目を目で追った。
美和に、あんな意地悪するんじゃなかった。恥ずかしい。
顔、合わせ辛いな。これってセクハラじゃないか。
僕はそんな気なくても、美和がそうと思ったらセクハラになる。
人肌に触れたいなら、温めたおでんのはんぺんでも触って居れば良かったんだ。
生身の人間に触れるのは、とても難しい事だったと、僕はまた一つ学んで、そして後悔し、反省もしていた。
そう言えば・・・と、僕はゆうべの事も思い出した。
わーさんと間違えて、美和を抱き締めた事。
お詫びを言った舌の根も乾かない内にこれだ。
何をやっているんだ、僕は。
ガーガー、ガーガー、ガーガー・・・
延々と掃除機をかけ続けていた僕に、
「元、ご飯出来たよ。手を洗って来て。」と美和が台所の戸を開けて呼び掛けた。
振り向きたくなくて、僕は聞こえない振りをして掃除機をかける手を止めなかった。
すると美和は、「元、もーと!」と僕の背中を指でつついた。
カチッ。観念した僕は掃除機のスイッチを止めた。
さっきはごめん、そう言おうとした。
でも声が出ない。認めたくなかったのかもしれない。こんな自分。女性に対してセクハラするなんて───
「元!」
ガシッ、僕の胴体を何かが縛った。
それを掴むと温かい。
「え・・・?」
続いてドスッ、背中に何かぶつかる衝撃。
思わず振り向いて、見ると、美和が僕の体にしがみ付いているのが分かった。
何故か僕は、ホッと安堵した。
何故だろう。
ああそうか、セクハラしたのは僕だけではなくなると思ったからだな。
「美和、セクハラ。」
「あ、ごめん・・・!」
「僕こそごめん。さっき、その・・・」
「あったかかったよ。元の手。」
「もうしないから・・・」
「うん。私も、もうしないから───」
美和がそう言った時、僕の胸の奥がひやりと冷たくなった。
美和を幼稚園に送る朝のボディータッチも今後一切無くなる。
嫌だと思っていた筈なのに。喜ばしい事なのに。
何だかとても寂しさを覚えた。
ぼんやり俯く僕の顔を、屈んだ美和が覗き込んでいた。
「な、何?」
「やっぱり取り消し。」
僕の手から掃除機のノズルを払い落とした美和は、そのまま僕の胸に抱き付いた。
えっ?
美和の行動が理解出来ず、頭の中が真っ白になった僕の耳に届いたのは───
「私はやめないから。だってセクハラじゃないもん。家族だから。」
家族?
「家族って、何?何で僕と美和が家族になるの?」
「同じ釜のご飯を食べて、同じ屋根の下で眠ってる。それを家族と言うんじゃないの?」
「何それ。」
「血が繋がってなくても、戸籍が同じじゃなくても、一緒に暮らしてたら家族だと思う。私は元を家族だと思ってる。」
家族───いつからか、僕の家族はわーさんだけだった。
わーさんを、家族を失って、僕は一人になった。
社会的に天涯孤独ではないけれど、気分的にそうだった。
これから先、僕を家族と思う人はいない。
その筈だったのに。
同じく同性愛者の美和もまた、家族と縁を切られてしまったのかもしれない。
僕もだけど、美和も僕に家族の話をしなかった。つまりそうなのだろう。
親兄弟、友人、同僚、カミングアウトしたら社会的に孤立する。
僕はその機会が無かったから敢えてしなかったけれど、美和はしたのかもしれない。それで会社に居辛くなって、こんな田舎に逃げて来たのなら・・・美和の気持ちが分かるのは僕だけって事か。
それで僕を家族と思う事にしたの?
僕は美和を家族と思えないけれど、勝手に思う分には構わない。どうせ当分の間、出て行く気はないのだろうから。
「僕は美和を家族だと思ってないけど、美和が勝手に僕を家族だと思うのは構わない。」
するり、美和は僕の体に巻き付けていた腕を解いた。そして僕の顔を見上げ、
「じゃあ、元は私の弟って事で。」とにやりと不自然に笑って言った。
弟?確かに兄の扱いではないな。まったく・・・
「調子に乗るな。」
「ごめんごめん。でも、ありがとう。」
「何が?」
「ゆうべも今朝もありがとう。嬉しかった。私ずっとね、誰にもギュッてされる事なかったから。」
「えっ・・・?」黙るから嫌なのかと思ってた。
でも実は、僕が思っていたのと同じ事を美和も思っていた・・・?
「ギュッとされるのって嬉しいね。元もそうでしょ?」
ぎくりとした。抱き締められる事のありがたみを、今になって知った僕。
「そう?」
「そうだよ。子ども達だってギューッとされるの大好きだよ?」
美和は嘘を吐いていた。”誰にもギュッてされる事なかった”だなんて嘘だった。園児達にギュッとされてる事を自分から明かした。
そうか、誰にも抱き締められる事の無くなった僕に同情していたからかもしれない。そんなに寂しそうな顔をしていた?
家族と離れて不安そうな園児達と同じに見えた?
「僕はいいから、子ども達にしてあげればいい。」
「私は良くない。」
「は?」
「私だって寂しい時がある。誰かに甘えたい日もある。無性に抱き締めて欲しくなる瞬間もある。」
「それを僕で埋めようとしてるの?」
「駄目って言わないで。」
すぐに泣き出してしまいそうな美和の目を見せられた僕は、何も言えない代わりに、自分でも説明の付かない行動をした。
また、美和を抱き締めていた。
ぎゅっ・・・温かい。
何故こんな馬鹿な事をまたしたんだろうと思いながら美和の肩を頭を包んでいると、やがて美和の肩が震え出し、洟を啜る音が聞こえた。
何を思い出して泣いているのだろう?好きな人の事かな。志歩理か、そうではない女性。
いつも元気な美和が、寂しかったり甘えたかったり抱き締めて欲しくなる日があるなんて、僕は考えもしなかった。
美和の好きな相手は生きている。僕より寂しくない筈だ、なんて思っていたけれど、会えないのは同じだ。
生きているんだから会いに行ける───でも実際は会いに行けない、という気持ちも分からないではない。
僕だって、家族に会いに行ける。でも実際、会いには行かない。それと同じかもしれない。
次の恋をすればいい、なんて言ってみようかと思ったけど、次の恋という言葉を吐く資格のない僕の言葉では説得力がないから意味ない。
ぐー。美和のお腹が鳴った。
「・・・お腹空いた。」
「え?」
「ご飯食べよう、元。」
「あ、ああ、うん。」
僕は美和から手を離した。
「またしようね。こうしてギュッて、いつでも。元も寂しくなったら言って。ギュッてするから。」
「ないよ、そんな事───」
そう返した僕を、美和は台所の戸を開けながら振り返り、
「じゃあ、私が寂しくなったら、元をギュッてするからね、いいよね?」とわーさんの前で宣言した。
やめて欲しい。わーさんの前で僕が寂しいとかそんな話。
トタトタ、コンロの前へ急ぐ美和、その後ろ、仏壇の前で足を止めた僕は、わーさんを見た。
今日のわーさんは何も言わない。
美和を抱き締めてしまった後ろめたさがあるからかもしれない。
わーさん以外の人を抱き締めたり抱き締められたりする日が来るなんて、まったく予想していなかった。
人生、何が起こるか分からない。
大袈裟のようにも思えるが、そうでもない。
わーさんと共に死んだと思いたかった僕の人生は、まだ続いているらしい。
人と関わる事で、それを思い出した。
美和がこの家に来てから一月半弱。
一人の時より何十倍も何百倍も忙しいと感じる。体も心も。
椅子に腰を下ろすと、
「元、手を洗ってって言ったでしょう?」まるで母親のように口煩い美和。あ、姉だっけ?
「はいはい。」苦笑いしながら立ち上がる。
僕が手を洗う間、美和は冷めたおかずを温め直し、テーブルの上に並べた。
ご飯と豆腐とわかめのお味噌汁、焼き鮭、厚焼き玉子、お漬物、味海苔。
2015年の体育の日、僕に家族が出来た・・・らしい。
報告したら、わーさんはびっくりすると思う。そして”いいな”と笑いそう。
わーさんが悲しまないならいいか。
「いただきます。」
「いただきまーす。あ、元、お醤油、次貸して。」
「はいよ。」
「サンキュー!」
もぐもぐもぐ・・・ごくん。
「食べたらどうする?出掛ける?」
「うーん。その前にアレやっておきたいんだよな。」
「アレって?」
ザッ、ザッ、ザッ。
朝食後、少ししてから僕と美和は縁台の前に小さな折り畳み椅子を置いて座り、作業を始めた。
強くない陽射しの下で、秋風に吹かれながら、目の大きな網に、昨日収穫したひまわりの頭を擦り付けて、その網の下に置いた籠の中に種だけを落としていた。脱穀と言うのか、収穫最後の作業。
一年前の僕は、こうしてひまわりの種を集めながら、死んだら、僕を支配している寂しさは終わるのかと考えていた。
今、僕の中に寂しさはまだ残ってはいるものの、大分薄れていた。
「ねー、元。こっち終わったよ。まだそっち残ってる?」
「ああ。でも後これだけだから、僕がやるよ。ゴミも纏めておく。」
「じゃあ私、お茶煎れるね。」
「うん。」
立ち上がった美和は、軍手を外し、縁台に置いた。
そして作業着代わりのジャージに付いた枯草の屑をパタパタ叩いて、玄関から家の中に入った。
畑の上空にある太陽を見上げると、作業を始めた頃、東に近かった太陽は、南にあった。
お昼前に始めた、種取り作業も、もう後少しで終わる。
一人で作業した昨年より早く終わったのは言うまでもないが、わーさんと二人で作業した一昨年よりも早かったと感じた。
僕は種の入った小さな袋と、枯草の入った大きな袋を持って、家の裏に回った。
大きな袋はゴミの日に出そう。
小さな袋だけを持って勝手口から中へ入ると、美和がお茶を煎れていた。
「お疲れさま。」
「うん。」
長靴を脱いで、玄関に運んだ。
また台所に戻り、手を洗って、椅子に腰を下ろした。
「どっこいしょ。」
昨日の疲れと今日の疲れが、腰にずしんと一気に来たのを感じた。
「いてて。」
「どうしたの?元。」
「疲れがドッと腰に来た。齢だからなー。」
「まだ45でしょ。加藤先生に笑われるよ。」
「確かに。でもあの人は特別だよ。」
僕より年上だけど、すごく元気な加藤先生。
「買い物明日にして、今日は冷蔵庫にある物適当に食べて、お風呂沸かして、早く寝よう?」
「僕はいいけど、美和、買い物あったんじゃないの?」
「ううん。」
「肉食べたいなーとか思ってたんじゃない?」
「それは思うけど、明日のお楽しみにする。明日の晩御飯、お肉にして。」
「了解。」
「あ、やっぱりいいよ。帰ってから私が作るから。いつも元に作って貰って悪いもん。」
「今朝は美和が作っただろ。」
「でも・・・」
「じゃあ、明日の夕飯の片付けをやって貰うから。」
「了解。」
「真似するなよ。」
「へへへ。」
僕はホッと息を吐いた。
「あー疲れた。」
そう言って、テーブルの上に突っ伏した。
疲れたけど、心地良い疲れだった。
やり切ったと満足した疲れ。
美和、ありがとう。心の中で呟いた。
わーさんの居なくなった空間を埋めてくれてありがとう。
僕の中の寂しさは完全には無くならないけれど、空っぽではなくなった所に安心が生まれた。
美和で良かった。この家に来てくれたのが。
今のは僕の気持ち?それとも、わーさんの気持ち?
どちらのものとも取れない不思議な気持ちを感じながら、僕は目を閉じた。
「は・・・はくしょん!」
ずずっ、と洟を啜りながら、ぼんやりしている目を擦った僕は、どうやらテーブルに突っ伏して眠ってしまった事を理解した。
肩に重みを感じて、見ると、僕の背中に美和のフリースパーカーが掛かっていた。
それから、テーブルの上に置かれているお茶の入った湯呑みを握ると、冷たかった。
今何時だ?と見回すが、生憎、台所には時計を置いていない。
水切り籠の中には、美和の湯呑みが一つ伏せてある。
空腹に気付いた。そうだ、お昼をまだ食べていなかった。美和もまだ食べていないらしいと、朝の通り片付いていた台所の状態から察した。
どこへ行った?美和。
戸を開けた。居間にも箪笥の部屋にもトイレにもお風呂場にも居なかった。玄関に美和の靴はある。
鍵も開いているから、出掛けていない?
時刻は午後三時手前。
僕は勝手口を見た。さっき脱いだ長靴がある。靴底に付いた泥が乾いて剥がれていた。
勝手口にいつも置いてあるサンダルが無かった。
美和は家の裏手に居るのかと、僕は長靴を履いて勝手口から外に出た。
家の裏には何もない。正確に言うと、駐車場とわーさんのお墓があるだけ。今の時間帯は日陰で寒い。
車を停めてある向こうの一角にわーさんのお墓がある。わーさんだけではなく、他の人のお墓もあるけれど。
その向こうには細い道路がある。集落の中に住む人が時々山の方へ抜けるのに使う道。だから車は殆ど通らない。舗装されているのが不思議な程。
カサ、カサ・・・風で積もった落ち葉を踏み分け、僕は探していた背中に近付いた。
しゃがみ込んで手を合わせている、静かに丸めた背中。
すぐ終わって振り向くのかと30秒程待って居たけれど、僕が後ろに立って居るのに一向に気付かない為、
「そんな薄着で風邪引くよ。」と風に吹かれて寒くなったせいもあり、声を掛けた。
しゃがんだまま振り向いた美和は、
「元!起きたの?」と驚いた顔をした。
「ああ。」
起きなかったらここに居ないだろという尤もなツッコミはせず、「何でお墓に居るの?」と訊ねた。
「オレンジの菊が咲いてて、綺麗だったから。」
僕は、わーさんの仏壇とお墓には花を絶やさなかった。
わーさんがそうして欲しいと言ったんじゃない。僕の気を落ち着かせる為に。
一昨日活けた赤紫の菊に加え、美和は薄いオレンジ色の菊を挿していた。
「綺麗だね。」花だけを指してそう言ったのではない。
お墓の周りに自然と積もってしまう枯葉が無くなっている事に気付いたからそう言った。
美和が掃除してくれたんだ。ありがとう。
「何を話してたの?」
毎日仏壇にも長く手を合わせているのに、今度はお墓で、僕の居ない所で、わーさんに一体何を報告しているのかと気になった。
それとも、わーさんを神様か何かと思って、願い事でもしているのだろうか。
「秘密。」
「秘密って何だよ。言えよ。」わーさんは、僕の大事な人だぞ?
「じゃあ、元も教えてくれる?いつもわーさんと何を話しているのか。」
美和に言われて、ハッと気付いた。僕はわーさんに話している事はないと。ただ寂しいという事と、それから会いたいと願う事ばかり。
「話してないよ。だって、答えは返って来ないから。」
問い掛けても返事はない。返事が来たかのように、都合の良い方に考えを持って行く事もしたくない。
「寂しいなぁ。」お墓を見ながらそう吐き出した美和は、すくっと立ち上がった。
「寂しいよ。」
「わーさんの事、忘れたい訳じゃないんでしょ?」
「さあ・・・」
「さあ・・・って、どうしちゃったの?元。」
僕らの間に漂う空気が、嫌な方向に流れて行くのが分かる。
開かない方がいいと思える口を、僕は開いた。わーさんに聞かせたかったのかもしれない。拗ねたままの僕の心を見せたかったのかもしれない。
「昔、わーさんに『俺が死んだら、俺の事は忘れていいから』って言われたんだ。」
逆の立場だったら言えたかな。言えないかも。だって、そんな事言われたら忘れられなくなるんじゃないかって思うでしょ?相手の事を想うというべきじゃないかもなって。
「ふうん。だから?」
「だから?って、それって、僕がこんな風にしても嬉しくないって意味だろ?仏壇もお墓もわーさんは用意して死んだけど、僕に守って貰わなくてもいいって、僕には期待してなかったって事だろ?」
「そういう事じゃない気がする。わーさんは、元に期待していなかったとか、そういう事はないと思う。」
「わーさんに会った事ないだろ?だから美和には分からないよ。」
「私だったらって考える事はあるよ。私がわーさんだとして、もしそういう事を言ったとしたら、元を想って出した言葉だと思うから。」
「え?」僕を想って?だったら何故、最期まで付き合うと決めた僕に忘れていいからなんて言ったの───?
「例えばだけど、ある夫婦が居ました。子どもはいません。旦那さんが病気で亡くなる前に、同じ事を言ったらどう?」
「・・・・・・」どうと言われても、その夫婦の場合、残された妻に再婚しろと言いたかったのか?
「自分を忘れていい、それが、言葉を発した旦那さんの本心かどうか、が問題じゃないのよ。受け取った奥さんの気持ちが大事なの。忘れたかったら忘れてもいい。忘れたくないならそのままでいい。旦那さんはどちらも受け容れて、自分が奥さんを愛している気持ちを伝えたかったの。ずっとずっと、愛して居るから言えたんだと思う。わーさんが元を愛していたから。わーさんだって、元に忘れられたくない気持ちがあったと思う。でもそれ以上に、元を愛しているから言えたんだ。元の気持ちを楽にしたくて言ったんだよ。」
「知った風な口を利くね。僕らの事、何も分からないくせに。」
「そうだね。でも私には分かるよ。わーさんがそう言った気持ち。」
「美和にはそう言える相手もいないのに?美和自身、病気でも死にかけている訳でもないのに?わーさんの気持ちが美和に分かる訳ない。」
美和は一瞬言葉に詰まった。僕は言い過ぎたと少し俯いた。
「私が言ったんじゃ説得力ないでしょうけど、分かるのは分かるよ。わーさんが本当に元のしあわせを願っていた事だけは。」
「僕のしあわせ?何だよそれ。僕が他の誰かを好きになる事が僕のしあわせだって言いたいの?」
「わーさんはね、元の心の隙間を埋める物なら、何だっていいって思ったんだよ。元の心にぽっかり空いた穴を、埋めてくれる物を何でもいいから見つけて欲しいって・・・」
「埋めなくていい!空いたままでいい。ここはわーさんの居場所だから。他の物で埋めたくなんてない。」
美和が居て良かったなんて、思った自分が恨めしい。
わーさんを失った寂しさを埋めるもの、それを欲していたのはわーさんじゃなく、僕の方だと認めたくなかったんだ。わーさんは僕を想ったまま死んだのに、僕はわーさん以外のもので心の隙間とやらを埋めようだなんて。
僕はもっと苦しめばいい。もっともっと、もっともっともっと!
独りぼっちで、寂しくてどうしようもなくて毎日、わーさんの所へ行きたいと思ってなくちゃならない。
それを覚悟して、わーさんについてここへ来たんだったろう?
忘れたとは言わせない。僕は誰かと・・・美和と暮らしてはいけなかったんだ。
「元、お腹、空いたんじゃない?お昼まだだから。今何か作るね。」
お墓の前から、勝手口に向かって歩いて行く美和の背中に向かって僕は言った。
「美和。お願いがあるんだ。」
「何?」
振り向いて止めた美和の足に、ザザザと風に巻かれた枯葉が絡んだ。
「出て行って。この家から。」
ヒュウ、ザザザ、ザザッ・・・
北風が枯葉と戯れる中、西に傾き、朱くなり始めた陽が、僕と美和を染めた。
暖かい色に包まれているのに、胸の中は冷たい寂しさで埋まっていた。
頷いたようにも見えた美和は、再び僕に背を向け、勝手口へ黙って歩いた。
聞こえてなかったという事は無い。僕が『出て行って』と言った後、美和は僕と視線を合わせた。
確かに聞こえていたと思う。そして、僕の言った内容を無視した訳でもなさそうだ。
バタン。
風に押された勝手口のドアは、いつもより大きな音を立てて閉じた。
「追い出したら満足なのか?」
僕のものともわーさんのものとも取れない呟きが口から漏れた。
美和は今頃、家の中で出て行く支度をしているのだろうか。
昨日も今日も散々手伝わせておいて、突然『出て行け』だなんて、どんな酷い人間なんだ、僕は。
いや別に、美和に”いい人”と思われたい訳ではない。
そもそも美和がここへ来たのも住み着いたのも、僕が望んだ事ではない。寧ろ迷惑していた事なんだ。
火傷させてしまったから、当分の間置く事にしただけで、今、僕が美和をこの家に住まわせる義理はない。
今夜からまた一人になる。食事の支度も、掃除も、畑仕事も、寝るのだって全部一人、ずっと一人。
朝、美和を幼稚園まで車で送る事もしなくていい。食材を買うのだって一人分でいいから運ぶのが楽だ。朝も晩も、以前のように静かに過ごせる。わーさんも独り占め出来る。
これでいい、これがいい。
僕はもう一秒だって美和に時間を割かない。全部、わーさんだけにするから。
【本当にそれでいいのか?元】
───え?
声が聞こえたような気がして、僕はお墓を振り返った。
ヒュウ・・・木枯らしが、美和の活けたオレンジの菊を揺らした。
わーさんが聞いたら、怒っていたかもしれない。
いいよ、怒ってよ。美和にそんな冷たい事を言って追い出すなって、ここに現れて怒ってくれたら僕は美和をこの家に置いておくよ。
寂しいよ。でもこの寂しさを誰かが居る事で埋めようとした自分に腹が立つんだ。
美和が来て、僕がわーさんを恋しがる時間は格段に減った。
それが悪い事じゃないなんて、僕は勝手に決め込んでいた。
悪い事だよ。わーさんが居なくても寂しくないなんて思ってしまった事は。
僕はこれ以上、美和と一緒に居てはいけない。
美和も、美和の寂しさを僕で埋めようとするのは間違っている。
僕らは一緒に暮らすべき者同士ではなかった。
ザクザクザク、お墓に来た時より重く感じる足で枯葉を踏み分け、辿り着いた勝手口の前で深呼吸。
キッ、ギイィ・・・音を立てないようにと、わざとゆっくり開けたドアは、僕を裏切った。
美和は奥の部屋かな、と台所から続く廊下の先に目を遣った。
すると、カチッ、カチ、とコンロの火を調整する音が、長靴を脱ぐ僕の耳に届いた。
「美和、何してるの?」
「・・・・・・」
コンロの前でフライパンを傾ける美和の横顔は険しいものだった。
話し掛けても無視。怒ってるらしい。
いいよ、別に。
僕は廊下を真っ直ぐ進み、洗面所へ向かった。手を洗いうがいをして、顔も洗った。
鏡の中の僕は、少し情けない顔をしているように見える。
いいや、いつもと変わらないと僕は肩を怒らせ、廊下をのっしのっしと歩いて台所へ戻った。
もう一度きちんと言おう。美和に『出て行って欲しい』と。
コンロの前に立つ美和の背中を見つめながら、僕は息を吸い込んだ。
くるっ。
美和はフライパンを持ったまま、いきなり振り返り、テーブルの上に置かれた白い大皿の上に、フライパンの中身をひっくり返した。
ほかほか。
白い皿からはみ出さんばかりのきつね色の物体は、「ホットケーキ?」のようだ。
「そう。もうお昼って時間じゃないし、急に食べたくなったから。」
そう言って美和は、コンロに掛けていた小鍋の火を止め、その中身をドバッと、焼き立てのホットケーキの上に掛けた。
「今の何?」
茶色い液体みたいだった。
「シロップ。」
「シロップ?」
「コーヒーシュガーを溶かしたもの。」
「は?」
「元、座って。コーヒー淹れるね。」
「要らな・・・」と言った瞬間、ぐー、と僕の腹の虫が鳴いた。
「はい、ナイフとフォーク。熱い内に切り分けて。」
有無を言わせず、美和は僕にナイフとフォークを手渡した。
僕は椅子に腰を下ろし、テーブルの真ん中に据えられた皿の中で、大家の僕より大きな顔をしているホットケーキに視線を落とす。
少し焦げた砂糖の甘い匂いが広がる。シロップを掛けたホットケーキから立ち昇る湯気は、だんだんと細く弱くなって行った。
コポコポコポ。
今度はコーヒーの匂いが混ざる。
僕はナイフの先をホットケーキに落としながら、黙ってコーヒーを淹れている美和のうなじを盗み見た。
『出て行って』
突然そう言われたら、誰だっていい気はしないだろう。
部屋から出て行って、それだけでもかなり凹む。
それなのに僕は、”家から出て行って”と言った。
本心、というか、そうすべきだと今も思っている。
だけどあんな風に感情に任せて発してしまった事、少し反省していた。僕らしくない。
「お待たせ。」
振り向いた美和は、それぞれの手に持ったマグカップをテーブルの上にコトリコトリと置いた。
美和はまだ椅子に腰を下ろさず、戸棚からシュガーポットと小皿を二枚出した。
ようやく腰を下ろした美和は、「貸して」と、止まっていた僕の手からナイフを取って、湯気の立たなくなったホットケーキを切り分けた。
「いただきまーす。」
美和は八等分に切り分けた内の二枚を重ねる形でフォークを突き立て、小皿に取った。
ぱくっ、もぐもぐもぐ・・・ホットケーキを口に頬張った美和の黒目が「んっ?」と上を向いた。
何だ?失敗したのか?
気になる僕も、一切れ小皿に取って、フォークを突き刺したそれを口に運んだ。
ぱくっ、もぐもぐもぐ・・・ん?何を入れた?
表面は甘いのに、中は塩味を感じた。不味くはないが、美味いとも言えない微妙な味。
「ホットケーキに、何入れたの?」
僕の問い掛けに、美和はにやりと笑い、またしても「秘密。」と言った。
僕は生地の断面を見た。
少し硬いクリーム色の何かが入っている。
小皿に取った二枚をすでに胃に収めたらしい美和は、三切れ目、そして四切れ目に手を伸ばした。
パクッ、パクパク。
ホットケーキを頬張る美和の表情は、眉根を寄せ、無理して食べているように見えた。
「失敗したなら、無理して食べなくていいんじゃない?」
「・・・・・・」
「何入れたの?」
「・・・チーズ。冷凍庫にあったピザ用の。」
「ああ、あれか。」だから少し塩味がしたのか。
チーズ入りホットケーキか。それだけなら不味そうではないけれど、シロップとやらを掛けたのが余計だったんだろう。塩味と甘味が変な具合に絡まって、美味しくない。
カツン、美和が五切れ目のホットケーキにフォークを突き立てた。
むしゃむしゃ、美和の口の中にはまださっきのホットケーキが残っている様子。
少し無理して見えた。
「無理するな。後は僕が食べるから。」
「・・・・・・」
ホットケーキにフォークを突き立てたまま、美和は手を止めた。伏し目がちな美和の顔をよく見ると、下唇を噛みながら、睫毛を震わせていた。
ぽつん、ぽつん、美和の目から、しずくが落ちた。
泣いてる。何故?
ホットケーキを失敗した事ぐらいで泣く美和に思えなかった。
僕は何か美和の気に障る事を言っただろうか。
・・・言ったとしたら、さっきのあれか?
『出て行って』と言ったからだろうか。
泣かれた位で取り消す気はなかった。胸は痛むけれど。
僕はわーさんを忘れる訳にはいかない。
毎日、美和の事で頭を悩ます時間を持つのは、僕の為にならない。
「泣いてるのって、この家から『出て行って』と言ったから?」
「・・・・・・」ふるふると、美和は首を横に振った。
「じゃあ、何?何で泣いてるの?」
美和は答えないかもしれないと思いながらも訊くと、
「出て行かないから。」と言った。
「は?」
「元は私を追い出したい?いいよ。私が死んだら、追い出していいから。ただし、死んだらね。生きている内は、出て行かない。」
つまり、生きている内は、何が何でも出て行かないって言いたいのか。
「私が死んだら、追い出していいよ。ただし、生きてる内は出て行かない。」
「・・・は?」
「元のお願いは聞けない。」
【俺が死んだら、追い出していいよ】
ふと、美和に言われた言葉とわーさんの声を重ねた。
これまで、わーさんは僕を切り離そうとしたのかと考えてた。
でも、美和に言われて考えた。そうじゃなかった場合を。
【追い出していいよ】と言う美和。追い出されたくないくせに。
じゃあ、【忘れていいから】と言ったわーさんは、忘れられたくなかったの?
初めて、そんな風に考えた。いつもわーさんの言う事は素直に受け取っていた僕だから。
本当は、忘れられたくなかったの?わーさん。
分からないよ。僕はこの後どうすればいいのか。どうすべきなのか分からなくなった。
美和を追い出したら、わーさんを忘れてない事になる?だけどわーさんなら『そんな事するなよ』と言いそう。
どうすればいい?本当に分からない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
・・・とにかく、わーさんの発言と美和の問題を別にしよう。
美和にはこの家から出て行って貰う。僕は再び一人、静かにわーさんと向き合って過ごす。そうしよう。
「この家の大家は───」「僕だ、って言うんでしょ。知ってる。だから今月分の家賃はこの前払ったでしょ?住む所探すって言っても、条件に合う部屋が今日すぐに見つかるものでもない。まして田舎だし、物件は限られる。」
美和の言い分に負けそうだ。
「だからって」「好きなの。」
どきっ!
「え?」
まさか・・・?
「この家が好きだから、私はここに居たい。」
なあんだ、家か・・・って、それも困る。
どうしよう、わーさん。わーさんが気に入った家を、気に入る人間がここにもう一人現れた。
「私の事は空気だと思って。話すのが嫌なら話し掛けない。ご飯も、寝る時も別々でいいから、ここに置いて?」
そう言われたら何も言えない。普通の大家なら、退去勧告は一か月前が相当だろうから。
「勝手にすれば・・・」
こんな風にしか、言い様が無かった。『出て行って』と言ってしまった手前。
「ありがとう。」
目尻に残った涙を指で拭いながらぽつりと言った美和の声は、ここに来てから一番、静かに、僕の胸の中に落ちて、居た堪れなくなった。だから僕は「ごちそうさま。」と席を立ち、トイレに立て籠もった。
トイレで一人、反省した。言うべきじゃなかった。言っても何も変えられなかった。
わーさんの事を思い出す時間が減ってしまったのは、僕が美和に構い過ぎたからだ。無視すれば良かったんだ。自業自得だ。
そうだよ。これからは美和の言う通り、お互い干渉しないようにすればいいんだ。
うん・・・そうしよう。
トントン、トントン。
突然、トイレのドアがノックされた。美和かな?
「何?」
「私もトイレ入りたい。元、まだ掛かる?」
「今、出るよ。」
はあーっ・・・結局また二人で暮らすのか。この家で。
トイレから出る時、苦笑いを噛み殺した。