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そうそうない  作者: 碧井 漪
10/43

10 2015年10月11日のこと


トントントン、まな板の上で生きているように動く包丁の音が耳に届いて、目を開けた。



あれ・・・夢?



夢か。



台所で、わーさんが葱を切っていた。



生成りのエプロンをして。



あくびをしながら布団から出て来た僕を振り返って笑うんだ。



でも・・・



磨り硝子の戸を開けたら、立って居るのは美和だろう。



隣に畳まれた布団を見てそう思ってガッカリしている自分に気付いた。



台所に立って居るのが美和でなければいいのに。わーさんだったら僕はしあわせなのに。



そんな風に思った自分が嫌で、僕は台所への戸を開けず、廊下に続く襖を開けた。



ひやり、冷たい床をつま先立ちで通り抜け、洗面台のマットの上にようやく両足の裏を落ち着けると、歯ブラシを取った。



歯を磨いた後、冷たい水で顔を洗い、うがいをした。



箪笥のある部屋で着替え、台所へ入ると、ほわっ、炊き上がったご飯と、味噌汁の匂いがした。



テーブルの上には厚焼き玉子とお漬物、焼いたアジの干物があった。冷凍庫に残ってたアジかな。



「おはよう、元。」



美和は生成りではなく、僕の黒のエプロンをしていた。




「おはよう。」



よそった味噌汁を、僕が席に着くタイミングで出して来る。



ご飯と並んだ味噌汁から共に白い湯気がほわりと立ち昇る、それを見ていたら、僕はさっき何て事を考えてしまったんだと反省した。



美和がわーさんだったら良かったのになんて、そんな残酷な事をよくも考えたな、と自分の頭をボカボカ殴りたくなった。



「ごめん。」



ゆうべ美和を泣かせた分は入ってない。今朝の分だけ謝った。



「何?ああ、朝ご飯?いいの。これは昨日のお詫びだから。」



「お詫び?」お詫びを言うのは僕の方───



「昨日、運動会にお弁当作って来てくれたでしょう?そのお礼も、ゆうべあんな風にしちゃって反省。ごめんね。今度別のお礼、ちゃんとするから。」



「お礼なんていいよ。勝手にした事なんだから。」



「狡いね、元。」



美和は僕の前に醤油差しを置いて、椅子に座った。



「狡い?僕が何故?」狡いと言われる事をした憶えはないけれど。



「ずるーい!かっこいー!」美和は声を張り上げた。



「は?」



「私も元みたいな男になりたい。」



「え?」男になりたい?



「そうしたら、女の子にモッテモテでしょ?」



「何を言ってるんだ?」女が好きだから、男になりたいと願うのか?



いただきます、と習慣になった手を合わせてから、箸とお椀を持ち上げた。



今朝は赤味噌か。浮かぶ白い麩と緑の葱を箸で軽く掻き混ぜる。



「何でも卒なくこなす木村副社長は、女性にも完璧を求めるって。志歩理社長でも相手にされない程、理想が高いって噂があったみたい。」



くす、と美和はお椀を置いて笑った。



「悪かったな。ゲイで。」



「そういう噂は無かったみたい。」



「あっても構わないけど。」



「そういうのって、隠したいものじゃないの?」



「隠すのは社会的にだろ?仕事がやり難くなるから。僕の場合は志歩理公認だったから、それで解雇される事も無かったし・・・ただ、誰からも訊かれなかったし、自分から敢えて言う事でもなかったからね。」



「ふうん。」



「美和はどうなの?自分がレズだって、誰かに話した?」



「話してない。」



「そう。」



「私、その人の事好きになるまで、人を好きになるって気持ちが分からなかったの。男も女も、ほら、何て言うか、この人やさしいなー、好きだなーって思うのと、恋愛の好きの区別付かなかったの。家族、友達、同僚、苦手な人以外はみんな好きな人って感じで。」



「へぇ。」



「でも、その人を初めて見た時、ビビッて雷に打たれたの。」



「打たれたみたい、じゃないの?実際、雷に打たれたら死んでるかも。」



「ううん、私はあの時、一回死んだかもしれない。今までの人生は何だったんだって思った。これからはその人の為に生きよう、生きたいって本気で思った。」



「相手に旦那さんが居ると知った時はどう思ったの?」



「ただ関わりたいって思った。その人の人生の隅っこにでも居られたらって。」



「その人の人生の隅っこがどうしてここなの?転勤って言ってたけど、会社を辞めずに居た方がもっと近かったんじゃないの?」



話を聞いていると、志歩理ではない他の女性だと思えて来る。



しかし、ここじゃ、隅っこにもならなそう。



「近過ぎず、遠過ぎず、それが一番。」



それではやはり、ここで暮らすのを選んだのは、僕と志歩理が近過ぎず遠過ぎず繋がっているからなのかとも思えて来る。よく分からない。美和の好きな女が誰なのか。



誰でもいいけど、全然面識もない、それも好きでもない男の暮らす家に押しかけて来る辺り、常軌を逸している。かなり変わった女。



「変なの。」変だよ、美和は。僕以上に変。



「元に言われたくないよーっだ。べー。」



僕に言われたくないだって?



生意気。僕の方が美和より20年も長く生きているんだぞ?まだ美和の味わった事のない感情だって抱えてる。それを言うなら、僕よりわーさんの方がもっと色々抱えていたけれど。



今朝の写真のわーさんは笑っているみたいだ。



『二人はそのままでいいよ。これ以上あれこれ悩まなくていい』そう言ってくれそうだった。



このままか・・・僕も美和もこのまま───ようやく慣れて落ち着いて来たこの暮らし。



いつか出て行く、美和も。



でもそれは、当分先か、僕が生きている内はないんじゃないかと、今朝も変わらずヘラヘラ笑う美和を見ていて思う。美和は多分長く居座る。



毎日賑やか過ぎて、一人で暮らしていた時に浸った不安と寂しさを思い出す暇もない。



一人より二人の方が煩わしい事が二倍以上。



だけど今、不思議な事に、僕はもう少しこの暮らしを続けてみたいと思っていた。




食後、食器を片付け終わると、僕が掃除機をかけ、美和は畑の前の物干しに洗濯物を干した。



「わー、終わったー!」



縁側から居間に上がった美和は、畳の上に寝転んだ。



ゴロゴロ転がる美和に、行儀が悪いと言いそうになったけど、昨日、運動会頑張って疲れてるだろうからと大目に見た。



ひまわりが枯れて一か月、種を採る頃合いとなった。



今日は薄曇りで、風はあまりない。明日から雨の予報だから、何としても今日、全て刈り取ってしまいたかった。



「くしゅん!」美和がくしゃみをした。



僕は開けっぱなしだった窓を閉めた。そして美和を振り返り、



「何か羽織ったら?」と言った。



「そうする。」



起き上がった美和は、箪笥のある部屋へ行った。




「さてと。」



僕は玄関にあるナイロンパーカーを羽織った。そして下駄箱から長靴を取り出し、履いていると、



「あれ?元、畑行くの?」とパーカーを着た美和が僕に訊いた。



「ひまわり刈り取るんだ。」引き出しから軍手と園芸用鋏を取り出して下駄箱の上に置いた。



「え?一人で?私も手伝う!」



「いいよ。美和センセイは疲れてるだろ?寝てて。」



「いやーん、つれないなぁ。手伝うってば!」



「ご勝手に。」



「あっ、待って待って。上着あった方がいい?靴、どうしよう。」



「先行ってるぞ。」



軍手を嵌め、右手に鋏を持って、玄関の戸をガラガラ開けた僕は外に出た。



玄関東側に立て掛けてあるプラスチックの収穫用籠を左手で引っ掴み、カポカポカポ、小さく音を立てる長靴で畑に向かって歩く。



花が枯れて下向きになったひまわりの顔を左手で掴み、右手の鋏でパチンと首の辺りを切り取る。



ポスン、パチン、ポスン、パチン、ポスン。



切り取って籠に入れ、また次のを切り取る繰り返し。



ヒュウッ、南から吹いて来た風が、僕の頬を掠める。



ここの所、急に朝晩の冷え込みが加速した。



ここは僕達が長く暮らした都会より、平均気温が低かった。



夏が涼しく過ごしやすい分、冬は厳しい寒さに対抗しなくてはならない。



それでも、こちらは都会より空気も水も美味しくて、静かで、時の流れる速度も違って感じられた。



何に対しても急がず焦らず、一つ一つ丁寧にするようになった。



沢山の事を詰め込み過ぎていた生活は、ゆったりゆっくり、その自由な時の流れが、僕らの心に広い余裕を与えた。



僕はわーさんとここに移住して大正解だと思った。



不便な事も勿論あるが、便利だからと言って、何か新たなものを得られたと、そこまでの感動も失くしていたから、



不便でも心の余裕を得られるここの暮らしは僕らには合っていたと言える。



齢を重ねたからかもしれない。



二十代三十代の頃では物足りない暮らしだったろう。でも、四十代、今の僕には都会に戻る事など考えられなかった。



ここで生きて、ここで死ぬ事だけ考える生活。



目下の悩みは、死後の処理を誰に託すかという事。



突然死だってあり得る。交通事故や天災だって。



交通事故や天災なら割と早く処理して貰えるだろう。



しかし、この家で独り、病死していた場合、発見は遅くなる。



どちらにしても遺言書を書いておいた方がいい。



わーさんと同じ墓に入れて貰う為には。



もしも今、僕が死んだら美和がそうしてくれるかもしれないが、ただの同居人の美和に僕の死後の云々をどうにかする権利はなく、今のままだと困らせてしまうだけ。



僕が今死んだら、僕の両親や妹に連絡が行くだろう。



わーさんと同じ墓に入れて欲しいと遺しても、果たしてそうしてくれるかどうか分からない。



死んだ後はどうなってもいいじゃないか、とも考えるが、この家と墓を僕に遺してくれたわーさんの気持ちに応えたい。



僕だって、どうせ眠るならわーさんと同じ場所で眠りたい。



死ぬまで愛してたんだ。死んだ後も愛してるんだ。今だって傍に行きたいのに、死んだ後でないと行けないなら、死んだら一緒の墓に入れると想像するだけで、今は我慢出来るから。



墓って、そういうものでもあったんだ。死後、どこへ行ってしまうか、会いたい人に会えるか分からない不安を治める為のもの。



ここで待ってて、きっと会いに行くから。



あの世への玄関みたいなもの。



そちらの住人になるまで、裏のお(はか)で待ってて。



ガラガラピシャッ。



玄関の戸が閉められる音がして、見ると美和がわーさんの長靴を非常にガポガポさせながら畑に向かって来た。



両手に軍手、そして鋏。麦わら帽子まで被っている。



「そんなに陽が出てないけど。」



「昨日みたいになるかもだし。これ以上焼けたって構わないけどね、一応。」



「別にいいけど。風出て来ると帽子邪魔だよ?」



「あ、そうか。うーん、どうしようかな。」



パチン、ポスッ、パチン、ポスッ。



僕が作業を再開すると、美和は帽子はそのまま、僕と同じように、ひまわりの種を鋏で収穫し始めた。



独りで黙々作業した昨年の倍のスピードで今年の収穫を終えた・・・と、言っても種だけ。



これから後始末だ。ひまわりの茎を引っこ抜いて、裁断して、可燃ごみに出す。これが大変な作業だ。



茎は堆肥にしたりも出来るそうだけど、相当細かくして鋤き込まなくてはならないと聞いたから、僕もわーさんもそれをして来なかった。



抜くのは僕の仕事、細かくするのはわーさんと、茎を全部引っこ抜いた後の僕の仕事。



美和にもそうして貰おうと思っていたのに、「これ全部抜くんだよね?じゃあ、半分ずつ。私あっちから、元はこっちから。競争ね!よーい、ドン!」と言うなり美和は、何故かわくわく笑顔で反対側に走り出した。



何を言い出すかと思えば・・・しかし、張り切り過ぎだろ。



つられて笑った僕は、両手で茎の下の方を掴んだ。せーの、で引っこ抜く。



あまり力み過ぎると、腰と背中をやられる。程々が難しい所だ。



男の僕でさえ腕が痛くなるこの作業。美和の細い腕じゃ大変だろうと腰を伸ばして美和の方を見ると、美和は僕が思っていたより速く作業を進めていた。



二列目の半分終えた僕と、二列目に入った美和。



いい勝負だ。ぼんやりしてると美和に抜かれる。



僕はペースを上げた。無心になって、ひまわりを引っこ抜くのに没頭した。



そうして、二人ですべての茎を抜き終えた後、家と畑の間、縁側の前にそれを運んで山にした。



僕が数本ずつ揃え、(なた)で切った茎を、美和が紐で縛って行く。



全ての作業を終え、細かなゴミを箒で履いて片付けた後、縁側から家の中の時計を窓越しに見ると、十四時過ぎだった。



確か八時半頃から作業したから、六時間弱。



昨年、一人で二、三日がかりだった作業を、二人で、それも半日で終えられるなんて。



信じられなかったが、束ねた茎の山と、籠いっぱいの種を見て、ああ、今年も無事収穫を終えられたんだと、ホッと力の抜けた僕は、その場にしゃがみ込んだ。



すると美和が「元!大丈夫?お腹空いた?お昼食べなかったもんね!」と心配して僕の背後に駆け寄った。



「いや、それは平気。あのさ、美和。」



僕はしゃがみ込んだまま振り向き、屈む美和と顔を合わせた。



「何?」



「ありがとう。」



「え?」



「助かった。本当に。」



「え・・・あ、えっと、うん・・・」



美和の目がみるみる赤くなった。そして涙が零れた。



「どうした?疲れた?」



「・・・だって、元が”ありがとう”とか言うから。今までそんな風に言われた事ってなかったから。」



「そうだった?」”ありがとう”は言ってる気がするけど。



「うん。私、元の役に立つ事は何も出来ないなーって、いつも思ってたから。そんな風に言われると、何か───」



すん、洟を啜った美和は、右腕で目元を拭った。



「ぷっ、あはっ、はは!」



「何よう。人の顔見て突然笑うなんて、失礼。」



「だってさ、美和の目の周り、泥が付いて黒い隈取みたい。」



「えっ、嘘ー!どこ?」



「ここ。」僕は軍手を取った手で、美和の目尻に付いた泥を払った。



「ありがと・・・」



「中に入って顔洗った方が・・・いや、シャワー浴びた方がいいな。先入って。お昼は僕が作っておくから。」



「ううん。私が・・・」



「いいって。ほら、早く入って。家主命令だ。」



「うん。」



家の中に入った美和が、先にシャワーを浴びに行くのを見届けて、僕は台所に立った。



シャツの袖を捲って、よく手を洗った。



冷蔵庫を開けて、中を覗き込む。



明日、買い物に行かなくては、という中身だった。



今晩の夕飯は冷凍庫にある豚肉を解凍してカレーかな。



はっとして思わず呟いた。「カレー・・・か。」



わーさんと作った最後のカレー以来、カレーを作ろうなんて考えもしなかったのに。



僕は、ふっと笑って、冷蔵庫の奥にあったベーコンのパックを引っ張り出した。



卵は二つ、それから中華風顆粒だし。他に長葱、胡椒、醤油。



わかめスープも作ろうかと思ったけど、朝の味噌汁が残っているからそれでいいやと中華鍋と竹杓子をシンク下から取り出し、コンロに載せた。



ベーコンと長葱を刻む。中華鍋にごま油を大さじ三杯入れて熱し、そこへ二つの卵を割り入れ、掻き混ぜる。ご飯をお茶碗山盛り二杯加え、炒める。



刻んだベーコンを加えて、味付けする。顆粒だし、胡椒、醤油を少々。



刻んだ葱と仕上げのごま油を少量加えてパラパラになるまで炒めたら完成。



火を止め、食器棚から皿を出そうと振り返ると、



「はい、お皿。」



美和が僕の背後に立ち、皿を二枚持っていた。



「いつ出て来たの?」



「今だよ。」



頭からほのかに立ち昇る湯気。首から提げたタオル。こめかみとえりあしから、透明なしずくも滴っている。



「いつも急がなくていいって言ってるだろ?」



次に入る僕の事を考えてなのか、美和はいつも急いでシャワーを浴びる。烏の行水だ。



「カラスですから。」



以前も素早くシャワーを浴びて出て来た美和に、僕が”カラス”だと言った事を憶えていたのか、美和は笑いながら(あげつら)った。



僕は美和の手からお皿を奪った。



「はいはい、カラスくん。お皿はいいから髪の毛拭いて。いつも言ってるけど、風邪引くなよ?移されたから困るから。」



「はいはい、家主様。」



中華鍋から二枚の皿に炒飯をよそうと、2.5人前だったせいか、少し余った。



それを見た美和が、食器棚からお茶碗を取り出し、中華鍋に残っている炒飯をすべて移した。



「どうするの、それ?」



美和のおかわり用かなと考えていると、


「美味しそうだから、お供えしてもいい?」と僕の返事を聞く前に、美和は仏壇へ向かっていた。



駄目だと僕が言わないと思っているな。



言うつもりもないけれど。



わーさんを忘れていないという美和の行動は、少しだけ嬉しかった。



ただ、生前会った事もない人に対して、こんな風に出来るものなのかと、少し不思議ではあったが。




美和が仏壇に手を合わせている間、僕は冷蔵庫から取り出した保存容器を、電子レンジに入れて温めた。



戻って来た美和が、「レンジに入れたのって、朝の残りの味噌汁?」と訊いて、僕が頷くと、食器棚からお椀を二つ出してテーブルの上に載せた。



「レンゲ出して。」



「はーい。」



僕がレンジから味噌汁の入った容器を取り出してテーブルの上に置くと、美和がお椀に移し替えた。



椅子に腰を下ろし、いただきますと手を合わせる。



僕がきちんと手を合わせるのは美和がそうするから。今までは、食事の前に手を合わせるのは絶対の習慣ではなかったが、美和が必ず手を合わせるから僕も自然とそうしてしまう。



美和が手を合わせるようになったのはと訊けば、幼稚園で給食の時間、園児達と手を合わせているからと言う。




園児と言えば、カズキくんはどうしただろう。残り物のお弁当を渡して、迷惑だったかな。



「カズキくんさ、お弁当、迷惑だったかな。」



「そんな事ないと思うよ。ただ、迷惑だったとしても、そうは言わないだろうけど。」



「そうだな。」



実は少し反省していた。勝手な事をしたと。あの重箱は、美和が買った物だったのに。



でも美和はそんな事気にもせず、



「私だったら食べるなー。一食浮いた、ラッキー!って。」炒飯を頬張りながら、おそらくあの時を思い出して笑った。



僕もつられて笑った。



「ふっ、ははっ。美和ならそうだろうな。」



「数喜くんも食べてるよ、きっと。」



「そうかな?」



「だって、本当はお弁当、パパとママと一緒に食べたかった筈だもん。」



言われて、口の中に入っている炒飯をグッと噛み締めた。上がっていた口角が急に落ち込む。



食事はやはり、好きな人と食べたい。



それが出来なくなった僕の気持ちを考えて、美和はわーさんに炒飯を供えてくれたのだろうか。いや、そこまでは考え過ぎか。



「じゃあ、良かったのかな。残ったお弁当、カズキくんに渡しても。」



「うん。」



美和は、レンゲで最後の一口を掬いながら頷いた。



僕も、皿の中を掻き集めたご飯粒を口に放り込んだ後、味噌汁を飲み干した。



そして、


「今夜、カレーでいい?」


僕がさらりと言うと、美和はレンゲを皿の中に落として、カチャーンと高い音が響いた。



そんなに驚く・・・事かもしれないな。



「うん!カレー食べたかったんだ。今夜、一緒に作ろう!」



そう言った美和の顔を、わーさんに見せたいと思った。



夜、美和と並んでキッチンに立った僕は、腰をこぶしでトントンと叩くのをやめられなかった。



昼間、ひまわりの収穫を頑張り過ぎたせいだろう。



「元、腰痛いの?」美和に気付かれた。



美和が、まな板の上の野菜を包丁で刻むリズムに合わせて腰を叩いていたからバレていないと思っていたけれど・・・



「痛くないよ。痛いと言うか、こう、違和感。骨が浮いているような。」



「骨盤が歪んじゃったのかもね。」



「そうなの?」



「さあ?」



「適当に言ったの?」



「高校の時の体育の先生が言ってた。姿勢に気を付けていても体は歪むって。浮いてる感じがするのも、そのせいだって。ほんとかどうか知らないけど。」



「まあ、今の状態で、歪んでますと言われたら信じてしまうだろうな。」



「あらら、やっぱり辛いんだ。座って、元。野菜と肉を炒めて煮る所までは出来るから。味付けの時、お願い。」



「うん。」



腿とふくらはぎも怠くなって来た僕は、美和の言葉に素直に従い、台所の椅子に腰を下ろした。



ジャー、ジャッ、ジャーッ。



美和が野菜を炒める音。



その後ろ姿、全然違うのに、わーさんと重なる。



昔、付き合って三年位の時は、二人でカレーを作る時、下ごしらえをするのは僕だった。



スパイスに拘っていたわーさんが、カレー監督。



炒めて、煮て、味付けするのはわーさんの仕事。



僕はそれをぼんやり眺めて、部屋の中がカレースパイスの匂いで満たされた頃、わーさんが「ご飯よそって。」と言う。



僕がご飯をよそったお皿を受け取ったわーさんは、そこにたっぷりカレーを掛けた。



温かくて、香ばしい匂いのする白い湯気が、僕とわーさんの間に立ち昇る。



まるで二人の間に出来た子どもみたいに、いい匂いの湯気は(はしゃ)いで、僕らを笑顔にした。



わーさんは亡くなり、残ったのは、二人でカレーを作った記憶だけ。



だから避けて来たんだ。今まで、カレーを食べる時、一人だったら虚しくてどうしようもなくなりそうだったから。



今日、カレーを食べる事が出来るのは、美和が居るからだろう。



わーさんの代わりだとは思ってない。



美和が居ると、僕はここにわーさんも居ると思えるから。



それはどうしてか不思議だなと思っていたけれど、今気付いた。



美和は常にわーさんを意識している。



僕が忘れてしまっているような時でも。



お昼の炒飯の時も然り。



そして、今僕は、鍋に向かう美和の隣にわーさんの姿を見ている。



勿論、幻だって分かってる。



でも、もしかしたら本当にわーさんが立って居るかもしれないなんて思うんだ。



僕が一人で居た時には感じなかったわーさんの気配が、美和と二人で居ると感じたりする。



僕と美和の他に誰か居るような気配。



多分、わーさんが生きている時に美和が訪ねて来ていたら、わーさんは美和をこの家に招き入れてしまうだろうと考えたからかもしれない。



ずっと考えていた。僕が美和を追い出せなかった理由。



美和の足に火傷させた負い目、或いは誰かが居ないと寂しいからと弱った心が美和をここに置いてしまった原因かと思っていたけれど、



違うのかも。



僕が美和に冷たくすると、わーさんが怒るような気がした。



僕が美和にやさしくすると、わーさんが喜ぶような気がした。



僕の知ってるわーさんは、家に迷い込んだ子猫を、そのまま外に放り出せない人だった。



美和が出て行くと言うまで、僕は美和の為と言うより、僕とわーさんの為に追い出さないでおこうと思った。



大分(だいぶ)、この暮らしにも慣れた事だし。



「元、野菜煮えたよ。味付けして。」



「はいはい。よっこらしょ。」



「おじいちゃんだー。」



「そうですよ、じじいですよ。」



美和は鍋の前を僕に譲り、お玉を手渡した。



くすっ。



わーさんが笑った気がした。



くつくつ。



なーんだ、カレーが煮える音か。



ふっ、と笑ってしまうと、


くすくす。



僕の隣で美和が笑った。



まるで昔の自分を見るような、懐かしさを覚える美和の笑顔を間近で見た僕の胸に、恥ずかしさが込み上げていた。



くつくつ。



わーさん。僕は、わーさんが居なくなっても、またカレーを作る事が出来たよ。



【よかったな、元】



そんな風に聞こえるカレーの匂いが僕の鼻を通って、脳を刺激する。



「成功?」



美和が僕に訊ねた。



火を止め、最後の一混ぜをした僕は「成功。」と答えた。



「良かった!」美和は両手をパンと合わせてそう言った。



またわーさんと重なり、僕は くらくらした。



「良かったって、何が。」



前に見た夢を思い出す。美和の中にわーさんが入り込んだ夢。



そんな訳ないのに。



この前、美和がわーさんだったらいいなんて思ってしまった報いなのか?それは反省してる。



「失敗したら、私のせいになっちゃうかなと思って。」



えへへ、と美和は右手の指先で、短い自分の髪の毛を掴んだ。



【失敗したら、俺のせいだろ?】



僕に味見させてそう言っていたわーさんと同じ表情だった。



わーさん!



僕はわーさんを抱き締めた。



「どこにも行かないで。ここに居て。」



「・・・・・・」



わーさんは無言だった。そして温かく、でも小さく・・・あれ?



「え?!」



僕が抱き締めている腕を緩めると、その中に居たのは美和だった。



美和は唇をキュッと引き結び、目を伏せている。



明らかに嫌そうな表情。当然だ。嫌いな男の僕に突然抱き締められたんだから。



「ご、ごめん!美和!」



美和は無言で首を横に振った。



僕がわーさんの幻影と美和を間違えて抱き締めてしまったせいで、美和を怒らせた。



「本当にごめんなさい。お詫びに何でもするから───」



「わーさんと間違えたんでしょ。」



上目遣いで僕を見ながら美和は、くすりと笑った。



「あ、そ、そう・・・忘れて。」物凄く恥ずかしかった。



「いいよ。忘れてあげる。その代わり、何でもしてくれるんでしょ?」



「え?」



「元に頼みたい事が一つあるんだ。今日じゃない日に頼んでいい?」



「また幼稚園の手伝いか何か?」



「まあ、そんなところ。」



「分かったよ。」



何でもする───なんて口走った事を後悔した。



でもまあ、幼稚園の手伝い位で済むならいいか。一歩間違えばセクハラだから。



お互い同性愛者だとしても、その辺の礼儀は(わきま)えないと。



「早く食べよう。冷めちゃう。」



美和はさっさとご飯をよそった皿を、カレー鍋の前でぼんやりしていた僕に手渡した。



カレーの味は、カレーを作った人とカレーを食べる人の組み合わせで決まると、何かで見聞きした。



今まで僕のカレーの味は、わーさんと二人だけのものだと感じていた。



このカレーも、先日美和が解凍してしまって食べたカレーと同じ味の筈だったのに、どこか何かが違うのは何故だろうと、僕は首を傾げた。



「この前のカレーと味違う・・・あ、冷凍しないとこういう味なんだね。凄く美味しいね。」



違う・・・美和も違うと感じる味。これはこれで美味しいけれど、何かが変わってしまった気がした。



変わらない物なんてないのに、どうして僕らはいつも変わらない物を持ち続けたいと願ってしまうのだろう。



人の愛だって、変わらないと言っていても、どうしても変わってしまう。時と共に変わらない物なんてないのかもしれない。それを求める僕らは物凄く愚かなのかもしれない。



永久不滅の愛なんて、無いかも。



わーさんが死んでしまう前は、わーさんの死後もそれを持ち続けているつもりだったけれど。



今の僕が語る愛は、片割れで寂しがっている愛しかない。



半分に割れた愛は、愛と呼べない気もしている。



わーさんと二人で作ったカレー。いくら再現しようと試みても、二度とそれは叶わなかったんだ。わーさんが居ないから。



カチャン。



僕はスプーンを置いた。



もう食べる気がしない。



「どうしたの?元。」



「こんな味じゃなかった。わーさんと作ったカレーは。もっと・・・」



もっと”美味しかった”、躊躇った僕の気持ちを察したのか、


「そっか。」と美和は小さく呟いて、パクパク、さっきよりも速いスピードでカレーを口に運んだ。



食べない僕と対照的に、「おかわりしてもいい?」と美和は椅子から立ち上がった。



二杯目のカレーをテーブルの上に置いた美和が、再び椅子に腰を下ろして食べ始めた時、僕はガタッ、席を立った。



暗い居間に逃げ込んで、畳に胡坐を掻いた。勿論、仏壇に背を向けて。



馬鹿だな僕は。何がしたかったんだろう。



体の中が、自己嫌悪で満たされる。



そんな僕は目を閉じ、反省したくて一人坐禅気分に浸った。



カチャ、カチャン、美和が皿を下げる音、


パタ、パタン、美和が冷蔵庫を開ける音、


トト、トトト、美和がまな板の上の何かを切っている音、


バタン、ピッ、ピピッ、美和が電子レンジで何かを温めている音・・・



僕はプハッと息を吐いて、畳の上にうつ伏せに倒れた。



疲れたせいだ。それで味覚がおかしくなったんだ。



あのカレーはそのまま、昔の通りの味なんだ。そうだ。二度と作れないなんて事は無くて───「元、起きて。」



パチッ。



美和は居間の灯かりを点けた。



眩しい。



起きる気力のない僕は、寝そべったまま、美和の足先から辿って見上げると、しゃがんだ美和のその手には、トレーに載せた僕の食べ残しのカレー皿があった。



「何?」



「何、じゃないでしょ。食べてよ。」



「要らない。」



「じゃあ、あと一口だけ食べてよ。」



「いい・・・」



「何が気に入らなかったの?私と作ったから?・・・だとしたらごめんね。」



“ごめんね”の声は、いつもの美和の声と違って酷く沈んでいた。



美和のせいじゃない。



僕は起き上がった。あと一口だけと言われたから、それで美和の気が済むのならそれで治めようと、これ以上抗う気も起こらなくて、両くるぶしを重ねた。



「はい、あーんして。」



僕は口を開けた。



「あっ、つっ!」



物凄く熱くて、舌と唇を火傷した。



「ごめん、ごめん。」



「ごめんじゃないよ、もう!あれ、何これ、変な味───」



「チーズだよ。美味しいでしょ?」



「は?」



「知らないの?カレーにチーズって合うんだよ。」



「知らない事もないけど・・・でも何か見た目が・・・」



「冷蔵庫にあったチーズ使っちゃった。元が買って来た高そうなやつ。」



「ああ、あれ・・・」



「ほら、トロトロで美味しそうだよ。あーんして。」



「一人で食べられるよ。」



僕は美和からカレー皿とスプーンを取り上げ、フーフーパクッ、慎重に口に運んだ。



もぐもぐ。



「どう?美味しいでしょ?」



「んー、まあまあ、かな。」



「えー、嘘。絶対美味しいってば!」



美和は僕の手首を掴んで、カレーを掬ったスプーンを美和の口の中に押し込んだ。



「あっ、僕のスプーン・・・」



「もぐもぐ、うん。美味しい!チーズカレーも凄く美味しいよ。最高!また作ろうね、元!」



【また作ろうな、元】



目の中が潤んだ気がして、僕は唇を噛んだ。



僕が感傷に浸る暇も与えてくれない美和。



でも、僕が一人で感傷に浸る時より、美和と二人で笑っている時の方が、不思議とわーさんを近く感じられた。



分かったよ。



変わって欲しくない物を無くしても、別の形になって現れた物を通して、また見つけられるって事が。



わーさんを亡くして、想い出も薄れて行くけれど、美和とのやり取りが、僕の中の想いを肯定してくれる。



美和が、僕の中のわーさんへの想いを大切にしてくれているから、きっと僕は美和に甘えてしまうんだ。



「次は、美和が全部作って。」



「いいよ。その代わり、不味いって文句言わないでよね?」



「それはどうかな。何にしても、僕とわーさんのカレーには敵わないよ。」



「もうー!」



悔しいと言いながら笑う美和の頭を僕が撫でた。どうしてか、僕は急にそうしたくなった。いつもと逆だ。



美和は一瞬、はっとした顔をしたように見えたけれど、その後、残りのカレーを掬ったスプーンを僕の口に押し込んだ。その後、美和の顔は、僕が苦しそうにしているのを、()()ったりとほくそ笑んでいるように見えた。



逞しい女だ。



僕が美和のような性格だったら、愛する人を亡くしても、毎日明るく暮らして居られるのだろうと思うと、少し羨ましくなった。



それとも、美和が特別逞しいのではなく、女が逞しい生き物と言われれば、男である僕には逆立ちしても真似出来ないけれど。



僕は仏壇にあるわーさんの写真を見た。



ね、わーさん。僕ら男には、女の逞しさはないよね?



わーさんが笑った気がした。僕一人で一日眺めていた時にはにこりともしなかった写真が、今は、にこにこにこにこしているように見える。



「わーさん、笑ってるね。今夜、カレーだから嬉しかったのかな?」



美和が写真を振り返って言った。



以前の僕だったら怒っていただろう。わーさんの事を何も知らないくせにと。



今は、知って欲しいと思う。美和になら、わーさんの話をしてもいい。



この世で一番わーさんを想って居るのは僕だ。二番目は美和かもしれない。



美和が毎日こっそり仏壇に手を合わせているのを僕は知っている。



何故そうするのか敢えて訊きはしないのは、悪い気はしないからだ。



わーさんの家族だって、こう言っては失礼だけど、毎日わーさんを偲んで手を合わせたりしていないと思うから。



僕と美和が毎日わーさんを想えば、それでいいとわーさんは言ってくれそう。



美和にわーさんを思い出せと強制するつもりはないけれど、わーさんを忘れないでくれるのは心強い。



「美和、ありがとう。一緒にカレー作ってくれて。」



僕がぼそりと言うと、仏壇を向いていた美和の顔は僕へ向き、「うん。」とにっこり笑った。




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