1 2014年8月30日のこと
【登場人物】
僕・元──────木村 元啓(43)
わーさん────────毛利 橋(48)
十年近く一緒に暮らしていた恋人同士は、わーさんの病をきっかけに、
2012年11月、共に仕事を辞め、購入した田舎の古民家に二人で移住した、
その後のお話。
2014年8月30日、まだ暑い昼下がり。
「かき氷が食べたい。」
殆どの食べ物を受け付けなくなった彼が、唐突に言った。
僕は彼の望みを叶える為に、車で20分かかるコンビニへ行く事にした。
「すぐ帰って来るから。」
布団に仰向けに横たわる彼を振り返りながら、勝手口脇の物入れの上に置いたキートレーから車と家の鍵、二つを繋げた物を握った。
布団の上から僕を見送る彼の顔を振り返りながら、チャリッ、立てた金属音と共に爪先をスニーカーへ潜らせた途端、
「いってきますのチューは?」と頬を少し緩めて彼が言った。
普段、そんな事を言わない人なのに、この時ばかり言うなんてと、僕の胸の奥を嫌な想像が鋭く過る。
僕が出掛けている間に死んでしまうとか───
そんな最悪な事を考えなかった訳じゃない。考えたからこそ、そうなって欲しくなくて、逆の事を懸命に考えた。
彼は生きている。今日も明日も、ずっと。
45分後、僕が戻るまで絶対生きている。だから、今キスするんじゃなくて・・・
僕はスニーカーに両方の踵を入れた。
「行って来るよ。帰って来たらキスする。」
「いってらっしゃい。」弱々しい彼の声に送られながら、胸中に湧きそうな嫌な靄を捻り潰し、外に出た。ガチャ、ガチャと勝手口に鍵を掛け、急いで家の裏に停めてある軽自動車に乗り、僕は一人出発した。
ようやく着いたコンビニで、かき氷を二つ、いや融けるから三つだと、イチゴ、メロン、レモン、それぞれの味を一つずつ買った。車のエアコンを最大にして、帰り道を飛ばした。
家に続く道は舗装されていない上り坂。砂利雑じり。雨の日はドロドロになる。その緩く続く100mもない道をガタゴト進むもどかしさの中で、僕の不安が再び募り出した。
でも平気、多分平気、ううん、絶対平気だ。
こんな嫌な予感しかしない時、大抵取り越し苦労が多い。
もしかして、まさか・・・過る不安を振り払い、車を降りて家の中へ入った。
大丈夫、絶対生きている。わーさんはまだ死なない。
ただいまのキスをして、二人でかき氷を食べるんだ。
“氷が融けて水になってるよ”なんて言いながら───
「ただいま、わーさん!かき氷、買って来たよ。」
彼は行く時とは違い、勝手口に背を向けて寝ていた。窓の方、畑に植えたひまわりが少し揺れているのを見ていたのか。
眠ってる。
ほっと息を吐いて、キシキシッ、板張りの台所を通り抜けて、畳の居間へ足を踏み入れる。
ジージー、ジージー・・・
家の周りに木はないのに、セミの声がする。軒下の壁に止まって鳴いているのか、少し煩い。
家の中は外よりも涼しい筈なのに、僕の全身から、ドッと汗が噴き出した。
こめかみから滴る汗を手の甲で拭いながら、ガサッ、コンビニ袋を持って、彼の顔の向いている窓の方から回り込んだ僕は、彼の前に膝を折った。
とすん、ガサッ。
畳の上に着けた両膝の隣にはコンビニのビニール袋。その中には彼が”食べたい”と待っているかき氷が入っている。
眠る彼の肩に手を置き、軽く揺する。
「わーさん、わーさん。かき氷買って来たよ。起きて。融けちゃうから。」
中々開いてくれない彼の瞼、乾いた唇の色の悪さに、どくん、僕の心臓が大きく跳ねた。
まさか・・・でもそんな訳ない。眠っているだけだと何度も心の中で唱えて。
「わーさん、起きて!わーさん!」
僕は叫んでいた。そして彼の肩に腕を回し、抱き起こした。彼の首には力が入らず、ぐらりとなった頭を、僕は胸で受け止めた。
ぽすん。
彼の頭は僕の胸に収まった。ぎゅうと少し強く抱く。
それでも彼は目を開かない。
彼の口元に耳を近付けた。僕の左手の指先は、少し体温の低い彼の右手首に触れている。
「わーさん、ただいま。起きて。かき氷融けちゃうから・・・ねぇ、早く起きないと、折角買って来たのに───」
さっきまで僕の頬を伝ってたのは汗だったのに、今は違う。
ぽた、ぽたり。
彼の頬に、僕の両目から落ちた滴が降り注ぐ。
だって、全然起きてくれないから。
帰って来たら、キスする約束してたのに、なんで、なんで起きてくれないの?
食べたいって言ったかき氷、融けちゃうよ。
ねえ、目を開けて。待っててくれたんでしょう?
もう一度僕を見て、「元、おかえり」って言ってよ。
キスだって、したいって、たった40分も待っていてくれなかったの?
「ただいま。ねえ、ただいま。起きてよ、キスしようよ。喉渇いてない?かき氷、買って来たんだよ?」
ガサ、ガササ・・・袋の中、真ん中の緑色を選んで付属のストロースプーンを突き刺した。
シャク、シャクッ。パクン、口の中に含んだかき氷は、想像以上に冷たかった。
僕はそれを、息をしていない彼の口に、口移しで含ませた。
緑の色水が、反応のない彼の口の端から零れ落ちる。
『おかえり』
そのやさしい声をもう一度聞きたかったのに、もう二度と聞けない。
こんな形で逝くなんて、思っても見なかったよ。
僕を置いて、独りで・・・
僕はただ彼の亡骸に縋って涙を流すだけで、そのまましばらく何もする事が出来なかった。
キー、カナカナカナ、キーキー・・・・・・
陽が落ち、暗くなった部屋の中で、抱き締めている彼の顔が見えなくなり、灯かりを点けた。
ガサッ、蹴飛ばしそうになった袋の中で、かき氷は赤と緑と黄色の色水になっていた。
こんな物、買いに行かなければ、彼を独りで死なせずに済んだのに。
悔しい。
ぐっ・・・両こぶしを握り締め、下唇を噛んだ。強く強く。軽い痛みと血の味がした。
果敢ない。
氷も人の命も、同じだ。
果敢ない。
長さは違うだけで限りがある。
いつか消えてしまう。いつか───
それが今日だったなんて、知らなかったんだよ、誰も。
移住して一年九か月後、
8月30日の午後。
わーさんは死んだ。
彼は病気だった。末期の癌。本人も余命を知っていた。
都会から田舎に移住したのも、彼の療養の為だ。
どうせ死ぬなら病院で死にたくない。好きな事をしたまま、自然に亡くなりたい。
そう思った彼は、条件を満たす場所を一人で探し、一緒に暮らしていた僕と別れ、一人で移住するつもりだった。
それを僕が邪魔して、僕が勝手に彼に付いて来ただけ。
彼の宣告された余命が本当だったら、来年の桜も見れないと覚悟していた。
それが、桜が散るのも、紫陽花が咲くのも、自分で種を蒔いた向日葵畑を歩くのも、二度も出来た。
『奇跡だな』
ううん、違うよ。頑張ったんだ。彼はきっと、自分の為、そして僕に想い出を残してくれる為に、頑張って生きた。
それなのに僕は、一緒に居たのに、結局彼の為に何もしてあげられなかった。
望んだかき氷を食べさせられず、最期を看取る事も出来なかった。
悔しいよ、苦しいよ、僕の胸はずっと締め付けられたまま。
わーさんは死ぬ時、もっと苦しかったのかと思うと、更に苦しさを覚えて、どうしようもなく涙が溢れ続ける。
僕もこのまま死んでしまいたくなる位、苦しいよ。
お世話になっている在宅訪問医に電話する前に、彼の顔そして体を、濡らしたタオルで拭いて綺麗にして、頭に巻いている手拭いをお気に入りの物に取り替えた。それから、この前僕が選んで買ったばかりのシャツに着替えさせた。
何だか、ただ眠っているだけみたい。こうして見ていると、本当に、明日の朝、ケロリと目を醒ますんじゃないかって思える。
「そのシャツ、やっぱ似合うよ。かっこいいじゃん、わーさん。惚れ直すよ。」
呟いて、キスをした。
もう・・・もう、キスは出来ない。
これが多分最後のキスなんだ。ああ・・・涙が止まらない。
夏じゃなかったら、せめて冬だったら、あと一日くらい、彼の亡骸を抱いたまま過ごしていたかもしれない。
僕も連れて行ってよ。そっちに・・・
例えば事故で、愛し合った者同士、一緒に死ねるのなら、それは羨ましいとさえ思えた。
残された片方は、片想いのまま、悲しみを乗り越え、寂しさの中で生きるだけ。
僕はわーさんを一人で逝かせた。
彼の余命を知ってから、彼が息を引き取る時には僕が傍に居て、彼の手をぎゅっと握っているものだと信じて疑わなかった。
そうするのが彼の為にも一番なのだと勝手に思い込んでいた。
わーさんもそのつもりだったのかもしれない。移住した後、ここで暮らす間、いずれ僕に看取られ、死んで行くのだと。
でもきっと、もうすぐ死ぬと分かった直前に怖くなったんだ。
僕に手を握られたまま死ぬ事が。
たった一人を死ぬまで愛し続けるのは辛い事だと知らなかったよ。
愛し合っている二人が迎える、絶対的な別れの瞬間。
見送る方も見送られる方も、その辛さは味わわないと知れない。
あの日、きっとまだ別れたくなかった僕ら。
いつか、いつの日か、あなたと別れる日が来るのを知っていた。
でも、まだ一緒に居たかった。
生き別れ、死に別れ、言葉にするのは簡単だ。
その意味を完全に理解する事は難しい。
生き別れで別れる理由は人はそれぞれで、死に別れの場合、その理由はたった一つ。
片方が死ぬからだ。
もしもまだ、二人で生きていられたら、他に別れる理由がなかった僕ら。
お互いに愛しているのに、別れなくてはならなくなった僕ら。
最期の時まで一緒に居るって誓うけれど、それは本当は残酷な事で、生きる方も死ぬ方もとても辛いんだって、こんなに、言葉で言い表せない位、辛くて、こんな風になるんだったら、些細な事で喧嘩して、呆気なく別れてしまう恋人達が羨ましくもなる。
死ぬまで愛してる、なんて言葉を聞くけれど、本当に死ぬ最期の時までたった一人の人と付き合うには、かなりの覚悟が必要だ。
旅立った彼の愛に引き摺られて、自分のこれからを見失いそうになる。
それまで彼に注いでいた愛をどうすればいいのか、喪失感に喘ぐ中でも、冷静になってしっかりと考えなくてはならない。
僕がそう出来ないという事を想定していたのか、彼は自分の死後の事を考え、僕が腑抜けになっても大丈夫なように、すべて手配していてくれた。
死亡後の手続きすべて、僕にやって欲しい事を手紙に認めてあった。
手紙の存在を知らせてくれたのは、お世話になっていた在宅訪問医の加藤先生。60歳を越えているというのに、毎晩10キロ走っているという、エネルギッシュな男性医師。
加藤先生は僕らの関係も全て知っていた。
「橋さんは、自分の死後、元啓さんにお仏壇の引き出しを開けて見て欲しいと言っていました。」
そう告げられた時は、僕に直接言えば良かったのに、とわーさんに裏切られたような気持ちを少し味わった。
でもそれは裏切るとか信頼されていなかったというのではなく、すぐに僕自身のせいだったと仏壇の引き出しを開けた時、理解出来た。
僕は仏壇を避けていたから、わーさんとわーさんが亡くなった後の事を話し合わなかったから、いざと言う時後の事は、わーさんの死を受け止めきれず真っ白になってしまうだろう僕よりも、加藤先生に託す方が良いと考えたんだ、と引き出しの中に手紙、その他に蝋燭、燐寸に、お線香、数珠まで用意していてくれたわーさんに、僕は心の中で詫びた。