最終章
朝日が障子の隙間から入ってくる。その光に反応したのか、木下は体をもぞもぞと動かし、そしてむっくりと起き上がった。
まだまだ頭は半分以上眠ったままだ。あたりを見回して、ここが自分の家ではないこと、そして萩原と二人して温泉旅館に来ていることを思い出した。
「変な夢だったなぁ」
あくびとともに、ぼそりと呟く。なんだったか、妙に現実味のある、それでいて支離滅裂な夢だった。女の子を追いかけていたら、奇妙な夏祭りに出くわして、それで詩を作らされることになって。
隣の布団にまだ萩原が寝ていることを確認し、木下は音をたてないようにゆっくりと自分の布団からはい出た。そして忍び足で洗面所へと向かう。
冷水で顔を洗って完全に脳を目覚めさせ、テーブルの上へと視線を移した。旅館備え付けのお茶セット、そして木下の万年筆が置いてあった。普段と変わらない、手入れの行き届いた姿で、そこにあった。傷一つない本体は、朝日を受けてつややかに黒光りしていて……。
――黒光りしていて?――
「あーっ!!」
反射的に、大声をあげてしまう。昨日の晩の記憶が、突然戻ったのだ。
あれは夢ではなかった、現実に起こったことだったのだ。
「どうしたの、木下くん。そんなに大声出しちゃって」
今の木下の声で目を覚ましたのか、萩原が両目をこすりながら問いかける。そんな彼女に、木下はきれいになった万年筆を見せた。
「――それって……! じゃ、今のは夢じゃなかったんだ」
萩原は呆けたように万年筆を凝視するだけだった。
結局、木下の作った詩は大絶賛をうけ、夏祭りは大成功に終わったらしい。で、喜んだ会長に、望みをひとつかなえてやろう、みたいなことを言われたのだ。
「ふふん、わしは要するに、お主ら人間の言う異形の者であるから? 多少の無理でも、かなえてやれるぞ?」
木下はちら、と萩原を見た。彼女も小さくうなずき返す。二人の気持ちはかっちり同じだった。
つまり、万年筆の少女の服装をきれいにしてやってくれということだった。木下自信、あまりかなえてもらいたいような望みなどなかった。それならば、せめて彼女の黒いワンピースだけでも、きれいにしてやってほしかったのである。
結論からいえば、その望みはきっちりとかなえらた。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、木下の右手に収まったのであった。
そして今、黒光りする万年筆を眺めて、木下はにっこりほほ笑んだ。
「これからも、よろしくな」
傍から見ていて、ほほえましいこの光景。だが、萩原はひっそりと対抗心を燃やしていた。
「ふん、私だって、まだまだ頑張るんだからね……!」
「頑張るって、何を?」
「――!」
心の中で叫んだつもりが、ついつい口に出てしまっていたらしい。顔を真っ赤に染めて、両手を横にふって否定する。
「な、何も言ってないよ! 気にしないで! そ、それよりも、早く起きましょ! 私、おなかすいちゃった」
「お、おう」
少し強引な気もするが、萩原は木下の手を引いて、部屋を飛び出していった。
窓からのぞく空は、雲ひとつない晴天。今日も相変わらず、暑くなりそうだ。