その3
がらがらと、木造の正面扉を開く。日は西に傾き、だいだい色の光を二人の真横から投げかけた。黒い影が、地面にまっすぐに伸びる。
山の緑は次第に黒々と染まり始め、その存在を昼とは違ったものへと変貌させようとしている。そう、ケモノたちの住処へと……。タクシーの運転手が警告していた理由が、垣間見えたような気がした。夏の、短い夜が始まろうとしているのか。
昼間よりも幾分和らいだ暑さが、丁度良いそよ風のおかげでさらに緩和される。すごしやすい夜になることは間違いないだろう。
「へぇ、夜になると真っ暗になっちゃうのか。さすが、山の中の旅館だけのことはあるね、雰囲気でてるよ。星だって、街中じゃ見えないものもばっちりだろうね。ヘラクレス座までもがくっきりはっきりなのを、期待できるよ」
「でしょ? 初めにこの旅館に入る時見ておいて、目をつけといたんだよね。絶対にこれはいい雰囲気になるって!」
外の景色を見て、木下の気持ちは何とか落ち着きを取り戻したようだ。普段なら見られるであろうハイテンションとまではいかずとも、ぽろりとウンチクがこぼれるあたり、結構喜んでいるようで。やはり、どんな時でも美しい景色には目がないようだ。
……と思いきや。
「……嗚呼、オレのペンは……、どこ行ったんだろ……?」
元に戻ったのはわずか数秒。すぐさま元のどんよりしたテンションに逆戻りしてしまう。
「どうしたのよ、きれいな風景とペンが、どうして結びついちゃうの?」
萩原の言葉にも応答はなく。ただただ、さわやかな風だけが二人の間を通り抜け、彼女は今日何度目になるか分からない溜息をついた。
「――あら?」
その時、萩原は何かに気づいたかのように、小さく声を上げた。旅館の駐車場の真ん中に、夕日を浴びて立っていたのは、先ほど部屋の中で見かけた少女だった。黒いワンピースはそのままに、靴もはかずにはだしで、こちらをじっと見つめている。気味が悪いとは言わないが、それでもやはり、妙な気分になってくるのには違いない。そこまで考えたところで、彼女は普通ならば真っ先に考慮しておかねばならない考えに至った。
つまり、件の万年筆のことを、少女が知っているのではないかということである。どうしてこんなに簡単なことを思い浮かべなかったのだろう、普段の頭の回転なら、とっくに思いついている答えだ。なぜかあの少女を前にすると、調子がくるってしまう。
「あれ? 萩原さん、どうしたの?」
そういった考えに没頭していると、萩原の沈黙に注意をひかれたのか、木下がむっくりと起き上がった。そして突然、あわてた声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! そっちに行っちゃ、危ないよ! 戻ってきなさい!」
つられて見れば、ワンピースの少女がいつの間にか、漆黒に染まりつつある森林の方へ向って歩き出しているのである。こんな時間に山の中に入り込めば、遭難してしまうこと請け合いだ。なんなら、全財産賭けたっていい。遭難するか、しないかについて。
そんなわけで、たとえ見ず知らずの女の子でも、このまま行かせるわけにはいかない。制止の声にもまったく動じることなく、すたすたと歩を進める少女を止めるべく、木下は浴衣のすそをひるがえして走り出した。萩原も後れを取らぬように駆けだす。
「ちょ、そこで止まりなさいって! そっちに行ったら、帰れなくなっちゃうんだからね!」
しかし、少女は一度たりとも振りかえることなく、そのまま暗闇の中へと消えていく。
さすがに一瞬だけ彼らの足も止まったが、このまま知らんぷりして行くわけにもいくまい。そんなことをしてしまったら、人間として大事なものを失くしてしまいそうな気がする。それに、どうせ少女を見つけて連れて帰るだけだ。夕方の山といっても、そんなに簡単には迷うまい。
二人は偶然にも同じ考えに行きついたのだろうか。飛び込むようにして、夜の闇の中に溶け込んでいった。
携帯についているLEDライトで足元を照らしながら、ゆっくりと歩いていく。二人分の影が、輪郭をゆらゆらと歪ませながら、彼らの歩調に合わせて滑るように移動していく。
「ね、ねぇ。これってもしかして……」
「うん……、迷っちゃったかもねぇ……」
萩原の言葉に、若干震えが混じっている木下の声が、返事をする。基本的に、彼の本質はヘタレなのだ。夜の森に突撃しただけでもたいしたものなのである、ヘタレにそれ以上のことは、期待しないで頂けるとありがたい。今だって、ここで頭を抱えて耳をふさいでいたい、助けが来るまでひたすらじっとしていたいという衝動をこらえて、崩れてしまいそうな足を動かしているだけなのである。
結局、少女の姿は見当たらず、連れ帰ることはできなくなってしまった。それからのことは、今現在の彼らの状況から察してほしい。まさにタクシーの運転手の言葉通り、道に迷ってしまったのである。夜の山を甘く見ていたツケがまわってきたのであろう。
いくら嘆いても、もうすでに後の祭り。時間だけは携帯のおかげで把握できているが、それだけではどうしようもない。もちろん電波は届かず、ディスプレイに表示されるのは、むなしい『圏外』の文字。
かれこれ三時間は歩きまわっているが、一向に事態は改善しない。日はどっぷりと暮れ、むしろ、余計に深みにはまっていってるような気さえする。かくなるうえは、日が昇るまで待機、といったところか。
萩原の頭脳が、この状況下で最善の判断を下した時、木下の両耳が、何か奇妙な音をとらえた。ほぼ同時に、その音は萩原にも聞き取ることができた。
「ねぇ、この音って……」
「ああ、そうだろうな、そうに違いない」
独特の重低音。腹の底に響くこの音は、かすかではあるもののほぼ間違いあるまい。
「太鼓の音だ」
「どこかで夏祭りでもしてるのかしら」
「分からないよ。でも、人里まで出てこれたってことじゃないか。結果オーライだよ」
二人は祈るような思いで、音のする方向に足を向けた。希望が見えてきたこともあってか、彼らの足取りは先ほどよりもはるかに軽い。
音が次第に大きくなるにつれ、前方に小さな明かりが見え始めた。その光は、一歩一歩進むごとに確実に大きくなっている。少しずつ、近づいて行ってる証拠だ。人々のざわめきまで聞こえるくらいにまで近寄って、ようやく生きた心地がした二人であった。
それは、絵にかいたような夏祭りの風景であった。鳥居の周りの色とりどりの屋台には、スーパーボールすくい、ヨーヨー釣り、くじ引き。たこ焼きやフランクフルト、ベビーカステラの屋台からは、鼻腔をくすぐるいい香りが漂い、腹の虫を呼び覚ます。
さっそく『猪野屋』までの道筋を訪ねようとした二人であったが、突然背後から呼び止められた。
「あれ、もしかして木下輝秋さんですか?」
振り返れば、紺色の浴衣にそでを通した、三十代前半くらいの男が、にこにこと笑みを浮かべて立っていた。
「は、はい……。確かに、オレの名前は木下輝秋ですけど……?」
木下の返答を聞くと、男は両手を胸の前で打ち鳴らし、柔和な笑顔をさらにほころばせた。
「よかったぁ、来ていただけたのですね? お待ちしておりました、ささ、お連れの方もご一緒に、こちらへどうぞ」
「え、いや、ちょっと……。何が何だか分かってないんですけど。どうしてオレの名前を知ってるんですか? それに、『お待ちしておりました』って……。一体、どういうことなんでしょう?」
しどろもどろな木下の質問に、男は笑顔を崩すことなく言う。
「いや、疑問は至極ごもっともなのですけど、それを説明するのはもう少し待っていただけますか?」
そんなに丁寧に言われると、黙ってしまう以外に手はない。とりあえず悪いようにはされないみたいなので、ひとまずは男の言うとおりに従ってみよう。木下は、男に導かれるがままに、神社の本殿に向かって歩き始めた。
割と大きめな神社なようで、本殿までの距離も割と長いものだった。有名なお祭りなのだろう、集まる人も数多く、みな顔に光があふれていた。
「会長、会長! 木下さんをお連れいたしました」
本殿に到着すると、男は隣に立っている木造の建物に向かって声をかけた。すると、ガタリと中から何かの音がして、そして低い声が中から帰ってきた。
「御苦労、下がってよいぞ」
「はい、失礼します」
男は、木下ら二人をその場に残し、声の聞こえてきた建物に一礼して、もと来た道を帰って行った。その様子をぼんやりと見送っていた二人であったが、急に萩原が木下の浴衣の袂を思いっきり引っ張った。
萩原の視線はある一点で固まっている。その視線の先をたどるようにしてみると、はたして木下の視界には、先ほどの男のお尻が映っていた。毛の生えた、立派な尻尾とともに。二人は声を上げることもなく、その場に完全に凍りついてしまった。
はっとしてあたりを見回してみると、周りにいる人々はみな、人の形はしているものの、少しずつ姿が違っていた。額から角が生えている者、三角耳が生えている者、鋭い牙が口元からちらりとのぞく者。いつの間にやら、彼らはとんでもない場所にもぐりこんでしまっていたらしい。
「ははは、我らが異形であることに気付きおったか。よいよい、そんなに緊張する必要もない。別にお主らを取って食おうと、そんなわけでもないのだ」
小屋の中から、陽気な声が返ってきた。その声は、そのまま話を続ける。
「今日はちと、木下殿に頼みがあってな。お主の知り合いに、連れてきてもらったのじゃ」
「知り合い……、ですか?」
「おおよ、そこに立っておるわ。ほれ、こっちにこんか」
声の主に呼ばれ、人影がふらりと二人の前に姿を現した。それは、黒いワンピースの少女だった。萩原が、少女の姿を見て固まりながら、声の主に言う。
「確かに、私たちはこの子に連れてこられたようなもんですけど。でも、私たちは彼女と知り合いでもなんでもないですよ?」
「ふふふ、そんなわけはあるまいて。木下殿は特に親しいはずじゃ。こいつはのぅ、付喪神じゃよ」
聞いて、はっとした。まるでパズルのピースがはまるかのように、彼女の正体が見えた。確かに親しいなかのわけだ。ほとんど毎日、一緒にすごしているのだから。
言われてみれば、本体の曲線は女性の柔らかな体にダブって見える。黒い外見は、黒いワンピースと一致する。ともすると、彼女がはだしなわけは、キャップをつけてなかったからだろうか。
なるほど、親子三代で受け継いできた万年筆、丁寧に使われていれば、たとえ物でも魂は宿るようだ。その正体が、この少女なのだろう。
「さて、そろそろ本題に戻ろうか。頼みというのはほかでもない。木下殿、主に唄をひとつ、作っていただきたいのじゃ、この祭りの締めとして吟じられるためのな」
木下はもう一度、かっちりと硬直した。