その2
「んん〜、気持良ぃ〜!」
岩で囲まれた露天風呂でゆったりと体を伸ばし、萩原は満足げな声を漏らした。時間が早いせいか、湯船には萩原以外だれ一人いない。そのおかげで、心おきなく手足を目いっぱい伸ばしていられる。胸元までたまったお湯が揺れて、小さく水音を立てた。
木下はまだ部屋にいるはずだ。タクシーから降り、旅館のフロントでチェックインした後、彼はもう少し後から風呂に行くとか言って、部屋に残ったのだ。まあ、無理やり誘っても入る先は別々だしということで、彼女は木下を置いて先に風呂に入りに来た。日が暮れるまで外出していようにも、どうせあたりには何もないのだし、風呂に入らないのではなんだかもったいない。それに、木下と二人きりでいるというシュチュエーションに耐えれなかったというのも、一因ではある。
――丁度いい機会なんだから、今回の二人旅でちゃっちゃとくっついちゃいなさいよ! 自分の気持ちを言い出せないままじゃ、何時まで経ってもその関係のままよ――
出発の時に電話越しに言われた言葉が、今更のように胸に刺さる。
自分が木下に気軽に話しかけている状況を想像して……。頬をうっすら紅色に染めて、ぶくぶくと湯の中に沈んだ。そんなことができるのだったら、こんなおせっかいをされることもないはずである。ほう、と今度は憂鬱そうな溜息をついた。どうもこの女性、見た目によらずかなりの純情な娘らしい。
ふと彼女の頭の中に、先ほどの光景が思い浮かんだ。タクシーの中で見たモノ。木下が持っていた、例の古ぼけた万年筆である。一体、あのペンのどこに魅かれているのかはさっぱり分からないが、一度頭に思い浮かぶと、そのイメージが頭の中に張り付いたように離れない。
どうしてだろう。温かで、優しげで、そしてどこかはかなげな、そんな雰囲気をもっていた。
「…………」
黙ったまま、なんどもなんども思い返す。木下の右手にすっぽり収まったあのペンが、なぜか小さな女の子のようなイメージと重なるのだ。
――もしかすると、自分はモノにまで嫉妬するくらい嫌な女になってしまったのか?
そんな考えが頭に浮かんでしまう。
「……そろそろ出ようかな」
いつの間にやら、ずいぶん長湯になってしまっていたようだ。すでにゆでダコになる寸前である。
ゆっくりと湯船から立ち上がり、脱衣所に向かった。
がちゃりと部屋のドアを開けると、丁度木下が風呂の準備を持って、部屋から出ようとしているところだった。そう、二人は別々の部屋に泊まっているのではない。例の二人のたくらみによって、同室になってしまったのだ。結局当日に予約を変更することはできず、離れて布団を敷いて寝ることで、同室宿泊をを受け入れたのだった。
「湯加減はどうだった?」
「丁度いい加減よ。今ならだれもいないんじゃないかな? 広くてのんびりできるよ」
「それはいいこと聞いた」
嬉しそうに笑って、木下は入れ違いに部屋を出て行った。萩原が一人、ぽつんと取り残される。
しんとした部屋の中で一人でいると、今のタイミングで簡単なやりとりしかできなかった自分が、とことん情けなく思えてきた。もっと気のきいたことも言えただろうに。こんな事だから、少しも相手にしてもらえないのだろう。
どうせ今の状況でさえも、木下にとってはちょっとしたハプニングにしかとられていないに違いない。この状況の裏に隠された本来の意図には、気付いていないだろう。いや、仮に気付いていたとしても、それを実行に移せるかどうか。まず無理だろう。
なら、彼の代わりに自分がしっかりするしか方法はない。一泊二日の温泉旅行、まだまだ時間はたっぷりある。自分に気合を入れるかのように、彼女は胸元で小さくこぶしを握った。
「……あれ?」
ふと顔を上げた萩原は、小さな疑問符のついた声を漏らした。
誰もいないはずの部屋に、いつの間にか幼い少女が立っていたのである。黒髪のロングヘアは腰まで届き、毛先までつややかで、きっちりと手入れが行き届いていた。雪のように白い肌は光を反射して美しく輝き、深紅の唇ときれいなコントラストを描いていた。
しかし、彼女が着ている服装は、その容貌とまったくと言っていいほど似合っていなかった。いや、漆黒のシンプルなワンピース自体は、ばっちり彼女の印象にマッチしているものであるのだが、そのワンピースの状態こそが問題なのである。
あちこちが擦り切れ、破れ、ぼろぼろになっている。スカートの裾はほつれ、場所によっては穴があき、肌が露出してしまっていた。そんな様子が、彼女のたおやかな雰囲気に合っていないのである。
萩原は、そんな少女の様子を、声一つ立てることなく、じっと見つめていた。普段なら、いわゆる『出た』というべき状況であるが、そんな感情はまったくと言っていいほど起こらなかった。むしろ、少女の存在を前に見て知っているかのような、そんな気さえしてしまうのだ。
少女は前触れもなくふらりと歩を進め、萩原のすぐ横を音もなく通り過ぎた。そして、部屋の扉を開けて、そのまま出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
はっと我に返った萩原が、あわてて通路に飛び出しても、少女の姿はどこにも見当たらなかった。どこかの廊下でまがったのだろうか。それとも……。
「そんなところに立って、どうしたの?」
突然背後から声を掛けられて、萩原は思わずびくっと飛び上がってしまった。振り返ってみれば、木下が萩原と同じように旅館備え付けの浴衣を着て、濡れた髪もそのままにほほを紅潮させていた。いつの間にやら、風呂から出てきていたらしい。
「……なんだ、木下くんか。別にたいして理由はないんだけど。それよりも、もうお風呂から出てきたの? ちょっと早すぎない?」
「いいの、オレはあんまり長風呂は苦手なんだ。あっついお湯の中に、長々と浸かってなんかいられないよ」
ひらひらと片手を顔の前で振る。時期も時期であるし、カラスの行水になってしまったところで、咎める理由も見つからない。強いて言うならば、せっかく温泉に来たのにもったいないといったところか。
そのまま鼻歌交じりに部屋の中に入って、そこでぱったりと動きを止めた。まさに、凍りついたようという比喩そのままに、視線は部屋の真ん中に置かれたテーブルにくぎ付けになっている。
そして、ギギギと音が鳴ってもおかしくないようなぎこちない動きで首だけ萩原の方に振りかえった。
「ね、ねえ。オレの万年筆、知らない? た、確か、このテーブルの上に、置いたはず、だったんだけど」
どもりながら、つっかえつっかえ話す。よっぽど大事な品だったのだろう、彼の額には冷汗が流れていた。
そして間髪いれずに床に這いつくばり、畳の上をなめるようにペンを探し始めた。だが、それらしき影は、どこにも見当たらない。
「ご、ごめん。私は何も知らないよ。机の上は、何もさわってないし……」
彼女の返答に、木下はがっくりと膝をついてうなだれた。湯上りのさっぱりした気持から、不幸のどん底へ一気にたたき落とされたかのような、そんな状態なのだろう。
「ごめんね、私がもっとしっかり見ていればよかったのに」
すまなさそうに、萩原が声をかける。木下は力なく首を横に振った。
「いや、いいんだ。萩原さんがどうとかじゃない。オレが使った後にしっかりしまっておけばよかったんだよ……」
ゆっくりと胡坐に座りなおし、がっくりと肩を落とす。傍から見ていても、だんだんみじめな気持になってくる。
「ね、気になってたんだけどさ。あのペンって、一体何なの?」
「何って言われても……、それってどういうこと?」
「だからさ、普通万年筆ってあんなになるまで使い込まないでしょ? だから、何か理由があるのかなって思って」
萩原の質問に、木下はその本意を納得したのか、あぁと声を上げた。そして一呼吸置いた後、訥々と語りだした。
「あのペンはさ、元々はオレのじいちゃんが使ってたものなんだ。じいちゃんは物書きを生業にしててさ、要するに小説家ってとこだね。有名ではないけど、食いっぱれるほど無名でもなかったらしい。で、じいちゃんは小説家を引退する時、いつも使っていて特に大事にしていたあのペンを、父さんに託したんだそうだ。それを今度は、オレが十八の誕生日の日に受け継いだってわけ」
「ふーん、そんなものをなくしたのなら、落ち込むのも無理ないわね……」
「ああ、どうしよう。所詮、オレには十分すぎる代物だったんだ。オレには扱う価値なんて、最初からなかったんだ。だから、向こうが愛想を尽かして、オレの前から去って行ったんだ。ああ、オレ駄目なヤツ、オレ最低、オレ最悪…………」
なおもぶつぶつつぶやき続けている。こうなった以上、ちょっとやそっとでは元に戻りそうにない。
どうやらあの万年筆は、彼女の想像以上に由緒のある物だったらしい。確かに親子三代にわたって受け継がれてきたものを失くしたならば、前後不覚に陥ってしまうのも無理はない。すぐに悲観的になる木下ならばなおさらだ。さすがにこの状況では、迂闊な発言は慎まなければならない。
「あのさ……、もし、よかったら、なんだけど……。外、出てみない? 気分変えてみてからもう一度探したりすると、案外簡単に見つかるかも知れないよ?」
だめもとで説得してみる萩原。しどろもどろな口調に、しかし木下は意外にもうなずいた。
「そうだね……。一度外に出て、頭を冷やしてみようか」
ゆらりと立ち上がり、力なく部屋から出ていく。顔色は真っ白で、ふらふら揺れながら歩くその姿は、さながら亡霊のようだ。萩原はため息を一つつき、後れを取らぬよう、あわててそのあとを追うのであった。




