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その1

『長らくのご乗車、お疲れ様でした。間もなく、目的地に到着いたします。お降りの際は、忘れ物のございませんよう……』

 ほとんどの乗客が眠りについている、そんな静かで気だるい空気の満ちたバスの車内に、女性のアナウンスの声が響く。その声に反応するかのように、男が一人、その瞼をゆっくりと開いた。

「……ん、もう着いたのか?」

 寝起きのかすれた声で呟く。大あくびを一発かましつつ、彼は眠気を払うかのように頭を振った。

「あら。木下くん、起きた?」

 隣の窓側の座席に座った女性が、今は大きく伸びをしている男に声をかける。頭を少し傾けたせいで、肩口のあたりまでの髪の毛が、さらさらと流れるように揺れた。

 反射的に横を向いた木下の視界いっぱいに、ライトグリーンのワンピースの胸元が飛び込んできた。あわてて目をそらしつつ、なんでもない風を装って彼女の言葉に木下はこくりとうなずき返す。眠気なんて、今ので吹き飛んでしまった。萩原響はぎわらひびき、普段は子供っぽい彼女が、今日は年相応に大人らしく見えたのだ。

「……ね、寝てたら、バスに乗ってる三時間なんてあっという間だったな。……そうだ、降りる準備、しなきゃいけないよね。萩原さん、オレの荷物、どこやったっけ?」

「どこって、忘れちゃったの? 荷物棚に乗せてたじゃないの」

 木下のあわて様には気付かないまま、萩原は読んでいたペーパーバックを膝の上のハンドバックにしまった。

「え……と、そうだったっけ?」

 移動しているバスの中、がたごと揺れる車内の中で、木下は座席につかまりながらも立ち上がり、精一杯背伸びをしながら荷物棚にあるはずのかばんを探す。つま先立ちしようにも棚まで手が届かないのだ。小柄な体格の者にとっては実に不親切な、そんな構造に、心の中でこっそり愚痴をこぼしつつも、彼は目当てのかばんを指先で探り当て、そのまま引きずり下ろした。

 そんな風に木下が奮闘している間にも、バスは徐々に速度を落としつつ、終点である駅前のターミナルへと向かう。

 バスは所定の位置へと横付けされ、大した反動もなく静かに停車した。圧縮空気の抜ける音とともに、車体前方のドアが開く。まばらに座っていた乗客は、その音が合図であるかのように一斉に席から立ち上がった。木下、萩原の両名も、その流れのままに降車口へ歩いてゆく。

「ありがとうございましたー」

 バスの運転手に一言声をかけながら乗車券を渡し、二人はようやく目的地に降り立った。初夏の鋭い日差しが、二人の体をじりじりと熱する。黒っぽい服装の木下は、早くも体が汗ばんでくるのを感じていた。半そでといえども、暑いものは暑いのである。

 ターミナルのある駅自体はそんなに立派なものではないが、あたりを見回すと、二人が乗っていたような大型バスはそのほかにも、数台ほど停車しているのが分かる。そのあたりを考えると、観光客なんかもほどほどにはいるということなのだろう。

 急に風が吹き、萩原は翻ったスカートを片手で押さえた。バスの車内の淀んだ空気ではない新鮮な風が、二人の体をやんわりとなでていく。ほんの少しだけ、暑さが和らいだ。長時間いすに座っていたおかげで凝り固まっていた体が、心地よい空気を胸いっぱい吸い込むことで揉み解されていく。

「私たちが泊まる旅館って、ここから遠いの?」

 バスの貨物室から大きな旅行バックを取り出し、萩原は木下に問いかけた。

「ん、まあまあ遠い部類には入るかなぁ……。歩いてでは、ちょっと行けないか。後でタクシーでも拾わなきゃ」

 せわしなく手で仰ぎながら、木下は質問に答えた。その様子を横目でちらりとうかがい、萩原は口を開く。

「どんなところかは……、どうせ分かんないわよね。旅行の計画立てたのって、あの二人だもんね」

「そうだねー、山のあたりだとは聞いてるけど」

 萩原の言葉に同意を示し、そして、心の底から残念そうな表情で、彼はさらに言葉を紡ぐ。

「でも、残念だなぁ……。せっかくの旅行なのに、二人とも都合悪くなってドタキャンする羽目になるなんて……」

「…………」

 萩原は、いつかは言うだろうと予想していた木下の言葉に、声すらもなくただただ脱力した。むしろ、あまりにもそのまんまな発言なわけで、逆に潔いともいえる。

 二人の片割れからかかってきた出発直前の電話から、今回の旅行は端っから、自分たち二人をめるためだけに計画されていたのだろうと、萩原には推測で来ていたのだ。というより、どれほど鈍感な人間であろうと、今回のようなシュチュエーションであるならば、誰かの悪だくみであろうと、うすうす感づいていても不思議ではない。にもかかわらず、木下の口調からは、それに気づいているといったような雰囲気は微塵も感じ取れない。

 もしかすると彼の頭の中には、人を騙すだとか填めるだとかいった類の言葉は、一切存在しないのではないか。そんな風に考えてしまうほど彼の思考は、良く言うのならば純粋なものであるように思える。言ってしまえば、ただただ鈍いの一言で済んでしまうのだが……。

 とはいえ、填められたそもそもの原因を素直に説明するわけにもいかず、萩原はただただ溜息をつくだけであった。

「あれ? どうしたの、溜息なんかついちゃって。あ、もしかしてオレ、また変なこと言っちゃったの?」

「そんなことない、さっさと行くよ」

 急にオドオドし始めた木下は放置しておくことに決め、萩原はタクシーを確保すべく片手を挙げて、タクシー乗り場のほうへ歩いて行った。


 そんなこんなで二人はタクシーに乗り込み、一路、目的の旅館である『猪野屋いのや』を目指した。駅からは、車で三十分ほどの距離だそうだ。

 タクシーが駅前から遠ざかるにつれて、おせじにも背が高いとは言えない、おざなりなビル群は次第に姿を消し、代わりに緑が多くなってきた。遠くのほうに霞んで見えていた山も、次第にくっきりとその輪郭をあらわにする。

 山の向こうから沸き起こる雲は、真っ青に澄み切った初夏の空を白く浸食し、緑と白、そして青とで、美しくも鮮やかなコントラストを描き出す。あたり一面、すでに夏真っ盛りである。

「猪野屋といえば、昔からある温泉旅館だけども、ほんとにそこでいいんだね? 若いのに珍しいねぇ。いまどきの若い連中は、夏なら海に行くもんだと思っとったんだが」

 タクシーの運転手が、前を見ながら二人に話しかけた。丁度、赤信号で車は止まっている。

「最初はオレもそう思ってたんですけど。本当なら、他に一緒に行く人がいて、その人が計画も立ててたんですけど、都合悪くなって来れなくなっちゃって。何を考えて温泉にしたのか、さっぱりです」

 あはは、と助手席の木下は頭をかいた。

 ――どうせ、恋愛に温泉は付き物だとか、ありきたりなこと考えたんでしょうよ。

 誰にも気づかれないよう、心の底でこっそりと毒づく萩原であった。

「それじゃ、最初っから二人旅とか、そんなんじゃないのかい? てっきり、恋人同士だと思ってたんだけど」 

「違いますよ、ただの友人ですってば。それに今回の旅行も、はじめは四人で行く予定だったんです」

 運転手の冷やかしを、木下は両手を振り回すようにして否定した。……後部座席に乗った萩原の表情が、木下の言葉で少し硬くなったのは、決して見間違いなどではあるまい。

「でもねぇ、二人とも大学生だってのにはびっくりしちゃったよ。てっきり、中学生くらいのカップルさんかと思ってたもんねぇ」

「やっぱりそう見えますか……」

 溜息をつきながら、木下が言う。

 実際、運転手の言う通りなのだ。二人を知らない者にとってみれば、一見して中学生くらいの男女が仲良く歩いているくらいにしか見えない。それもこれも、二人の身長のせいだ。

 男の中ではかなり小柄な部類に入る木下に、それに輪をかけるようにして小さい萩原。二人並んで立っていれば、その対比はまったくもって違和感なしなのだが、それはそれ。なさけないほどの童顔の木下に加え、おせじにもグラマーとは言い難い萩原のカップル、もといコンビは、本当に中学生くらいにしか見えないのである。説明すれば、かろうじて分かってもらえるのが、せめてもの救いというところか。

「ほい、これからちょっと揺れるよ」

 運転手が二人に声をかける。それとほぼ同時にかくんと車が傾き、きれいに舗装された道が、山道のそれへと変わった。あたりの風景は、いつの間にかあまたの木々で埋め尽くされ、先ほどまであった街中の雰囲気は微塵も感じられなくなっていた。

 蝉の鳴き声が車のボディーをも通り抜けて、腹の底に響く。そこらじゅうが蝉の鳴き声で満たされている、こういうの状況を蝉時雨とでもいうのであろうか。ほう、とひとつ、木下は感嘆のため息を漏らした。

「この辺はねぇ、ちょっとでも脇道に入ると、地元の者でも迷ってしまうくらい、複雑な山道なんだよ。木ばっかり生えてるもんだから、すぐに方向感覚がおかしくなってね。今までにも、何人もの遭難者が出てるよ」

 運転手の言うとおり、両脇に生い茂る木々は、どれも目いっぱい枝々を張り巡らせ、五メートル以上は見通せないほどである。

 タクシーは曲がりくねった坂道を、ゆっくりとしたスピードで登っていく。行き先は緑におおわれ、後どれくらい登れば目的地に着くのか、皆目見当もつかない。いつの間にか、車内は沈黙に包まれていた。

「ねぇ、木下くん。何書いてるの?」

 ふと、萩原は助手席のほうに声をかけた。見れば、木下がかばんから取り出したノートに、何かを書きつけている。ちょっとした走り書きのようなものが、繁雑に、されど一定の規則を持って並んでいた。

「別に、なんでもないよ。……ちょっとメモしてただけ」

「ふうん」

 木下があわててノートを閉じてしまったせいで、書いてある内容などは見えなかった。しかし、萩原の意識はノートの方にはほとんど向けられていなかった。彼女の視線は、木下の持っている筆記具に吸いつけられるように、不思議とそれを追いかけていたのだ。

 一体、そのペンのどこに魅力を感じるのだろう、分からない。それは、どこにでもあるような万年筆には違いないのである。別段、ユニークな形をしていることもない。ただし、かなりの年代物であるだろうという外見を除いては。

 もとは黒光りしていたのであろう木製の本体は、ところどころくすみ、塗装がはげてしまっている部分もある。しかしそれは、手荒く扱ったからではなく、過ぎた年月のものだろうということが簡単に推測できる。なぜなら、そのなだらかな輪郭は傷一つついておらず、丁寧に扱われてきたであろうことは一目瞭然だからである。取り替えているのであろうペン先が、木漏れ日を反射してきらりと輝いた。

「ねぇ、そのペンって――」

「お客さん、着いたよ。ここが猪野屋だ」

 萩原の言葉は、運転手に遮られた。

 かたんと車体が水平に戻り、緑一面だった視界が急に開ける。目前には木造の屋敷が、目の前にいる人間を見下ろすかの如く、悠然と建っていた。焦げ茶色に変色し木造の壁の色が、その独特の雰囲気をさらに確固たるものへと仕立てあげている。

「すっごい、なんか思ってたのよりも、ずいぶん豪華だよねぇ!」

 子供みたいに声を上げながら、木下は万年筆をかばんの中にしまいこんでしまった。

 タクシーは建物の前のスペースをぐるりと一周し、正面玄関へと横付けされた。ブレーキの音をきしませて、ゆっくりと停車する。

「お客さん、長旅ごくそうさま。ここが猪野屋だよ」

 運転手が二人に声をかけた。結局、萩原は木下に、ペンのことを聞きそびれてしまったのであった。

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