プロローグ
「ねえ、ちょっと! 急に来れなくなったって、一体どういうことなの!?」
駅前にあるバスターミナルの待合室。うら若き女性が、右手にがっしりとつかんだパールホワイトの携帯電話に向かって、小さな声で怒鳴りつけていた。
『ちょっとね〜、外せない用事が出来ちゃってさ〜。ま、二人で楽しんでおいでよ〜』
携帯の通話口から、笑いを含んだ声が聞こえる。何気ないその言葉に、女性の表情は、かっちりと凍りついた。
「……ちょっと待って。ね、どうして阿部クンも行けなくなった事を知ってるの? ついさっき、木下クンの携帯に連絡あったとこなんだけど」
『あっ……』
電話の相手は、どうもうっかり地雷を踏んでしまったらしい。そのまま言葉が途切れてしまう。
「もう、なんなのよ! あんた達、また余計な事してくれちゃって! こんな時に二人旅なんて、冗談止めてよ!」
ちらちらと待合室の長椅子の方に視線を向けつつ、声を潜めて恨み言を叫ぶ。ところが、電話の相手はかえって開き直ってしまった。
『良いじゃない。どうせあんた達、くっつくのなんて時間の問題なんでしょ? つかず離れずの関係なんて、見てるこっちがげんなりするのよ』
「なっ! それとこれとは話が別……」
『そんなわけないでしょ! 丁度いい機会なんだから、今回の二人旅でちゃっちゃとくっついちゃいなさいよ! 自分の気持ちを言い出せないままじゃ、何時まで経ってもその関係のままよ。木下輝秋、いまどき珍しいぐらいの鈍感な男だわ。あんたが積極的に行かないと。向こうからのアプローチは、まったくと言っていいほど期待できないのよ?』
はじめは威勢良く反論していたのだが、次第に電話の相手に丸め込まれてしまう。相手の話術が巧いのか、それとも単に、彼女がこの手の話に弱いだけなのか……。どちらにせよ、勝ち目がなさそうなのは確かだ。
「そ、そりゃ確かにそうだけど、心の準備っていうのが……」
『なら、何も問題ないじゃない。せいぜい楽しんでおいでよ。行き着く所まで、行っちゃっても構わないから。じゃね、切るわよ』
「ちょ、ちょっと、圭子!」
勝手に話を押し進めてしまう相手を引き留めようとしたが、携帯からは通信が途切れたことを示すビープ音が流れていた。
「……全く、余計なお世話なのよ」
女性は、普段の知的な顔立ちを想像出来ないほどの凄まじい形相で携帯を睨みつけ、肩から下げたハンドバックに無造作に放り込んだ。
ほう、とため息をつき、女性は再び待合室の長椅子に視線を向ける。休日といえども、未だに時刻は午前三時前。さすがに待合室は閑散としている。
その中に、小柄な男性が一人、スーツケースを二つ足元に並べて、長椅子に腰掛けていた。
そんな彼を、彼女は先ほどとは打って変わって優しげな、それでいて少し困ったような眼差しで見つめ、ぼそりと小声でつぶやいた。
「どうせ、二人に仕組まれた事にだって、最後まで気づかないんだろうな……」
もう一度、こっそり小さくため息をついて、女性は長椅子の方に歩いていった。