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もしもの時には

 そんな全く奇形染みた「交際」が終わりを告げるきっかけになったのは、いつもの妙な噂だった。







 十一月の下旬ごろ浅野が年上の女性が主を務める家に行き、何らかの荷物を受け取って来たと言う噂が流れ出し、そしていつものように浅野は否定しなかった。



 その事を知った私の父が、私を特段どなりつけるような事はしなかった。



 だが内心では相当に慌てふためいていたのだろう。いくら時代が時代であったにせよそのような不貞な人間、ではないとしても既に相手が決まっている可能性がある人間に娘をやるなんぞとんでもないと言う理屈なのだろうが、だからと言って頭ごなしにダメだと言うのでなくどうやって調べたのかは知らないが、私を浅野が進むであろう高校とは別に学校に行かせようとするなどなんとも陰湿な話だ。


 ただ貞操観念だけではない何が、父を怯えさせていたのだろうか。その答えを、その時から十八年前に父が亡くなるまで聞くことはできなかった。


 そんな父の緩やかかつ力強い誘導に従い高校受験のための勉強で中学三年生と言う期間を費やし見事学費が安い学校に入学を果たした私が、父親の目論見通り浅野治郎と言う存在を忘れて学業と花嫁修業に専念しながら十七歳の誕生日を迎えたある日、自分と今の亭主の家族以外からもらう事はないであろうと思っていた私の所に思わぬ贈り物が届いて来た。

 その贈り物に父も母も弟も、取り分け父は素直に喜び好んでその贈り物を私のために使った。














「あれ、浅野さんですよね」


 実家から徒歩二十分の所に家があった茶道の先生の名前で送られて来た、十七歳の誕生日祝い。

 その中身を見た時、おそらく私だけがすっかり忘れ去られていたはずだった浅野治郎と言う人間を思い出していた。


「十七歳の誕生日おめでとうございます。すでに縁談もまとまっていると言うお話でこれからいろいろ大変な事もあると思いますが、その時もし私からの贈り物が役立つのであれば幸いです。今後ともあなたのご多幸をお祈り申し上げます」


 茶道の先生が出すようにはとても思えない、拙劣な手紙。


 誰かがその名前を借りて出した物である事はすぐわかるはずなのに、なぜか誰もその事を指摘しなかった。


「ああいう人間でしたからね私は、まあ今でもですけど」


 時あたかも東京オリンピックの時期、東洋の魔女と言われた女子バレーボールチームが世界中を騒がせていたが、あるいは私も魔女なのかもしれなかった。そうでなければあれほどまで必死になって遠ざけた人間に未練を抱かれるはずもない。

 それにしてもどうして気が付かなかったのか、それとも気が付いていながらもう過去のことだと軽く見ていたのか。何の面白みもないはずの人間だった私がそんな力を放っていたなんて、亭主に話しても信じてくれないだろう。


 私とは違う高校に入学してからもああいう調子だったらしい浅野さんは、嫌われる事こそ少ないにせよ好かれる事も少なかったようだ。

 当然同性異性を問わず友人も少なく、職場でもそれは変わらなかったらしい。現在よりずっと未婚率の低く、かつ一人っ子であったはずの浅野さんが三十歳まで結婚できなかったのはたぶんそういう事なのだろう。


「鈴木さんはずいぶんと気の利く真面目な人、それが私があなたを気に入った理由だったのかもしれません」

「そんな事を言われたのは本当に初めてですけどね、あははは」


 私自身、そんな風に言われた事は一度もない。

 自分はわがままだと常日頃思っており、ずっと自分の思うがままに行動して来たつもりだった。お世辞と言うにはへたくそすぎるその言葉に思わず私は笑ってしまい、浅野さんまでつられて笑ってしまった。

 すると若い若いと言われていてもやはり年相応に唾液が減っていた喉が容赦なく渇きを訴え出し、これまたお互いほぼ同時にコーヒーをすすった。


「いやいや、最近のコーヒーはずいぶんと持ちがいいんですね」

「最近って言っても以前のコーヒーがどんなだか忘れてしまいましたけどね、まあお互いよくも延々と……ってあらまあまだこんな時間ですか」


 年を取ると話がくどくなると言うのならば、確かに私は若いのだろう。


 ずいぶんと思い出話に明け暮れたつもりでいたのに、時計を見るとまだ十分しか経っていない。その事に気が付いて私が再び笑い出し、浅野さんもまた笑った。




 考えてみればこの半世紀あまり、こんなに突発的な笑いはそうそうなかった。


 夫や子どもたちと話していても、花を眺めていても、友人たちと会っていても、ある意味で期待通りの場所でしか笑わなかったし泣かなかった。

 そしてその事に対してさしたる不満を抱く事もなかった。


「あのスズランは元気ですか」

「ええ、浅野さんの事は忘れても、スズランの事は忘れていませんでしたよ」


 実家の庭に植えていた時も、最初亭主と一緒に借家で鉢植えにしていた時も、今の家と土地を買って庭に植えた時も、いつも中心にいたのはスズランだった。

 他の花がどんなにおろそかになり枯らしてしまった事があったとしても、スズランだけは守って来た。


「それは何よりです。ではそろそろ」

「いえいえまだまだもう少しお話いたしましょうよ」

「あのそういう事ではなくてですね、実はこちらを……」


 そのスズランの送り主である浅野さんとの、これまでになく刺激的で予想しがたい時間がまもなく終わろうとしていた。


 こんな濃密な時間はここ数年一度もなかった、その事を痛感した私が話の終わりを惜しもうとしていると、浅野さんは肩にかけていたカバンから小さな紙の袋を取り出し、やたらときれいなガラスのテーブルの上に置いた。


 セロテープ一枚で止められたそのちっぽけな紙袋は、この時この店の中心になっていた。


「ところで今住んでいる家はどうなさるおつもりで」

「私たちが死んだら取り壊し、土地は売るように長男に申し付けてあります。庭ももう荒れるに任せるつもりです、私一人の道楽ですから。そして認知症に陥った場合は容赦なく老人ホームに放り込み、やはり家や庭については容赦なく売って構わない旨やはり長男に申し付けてありますので」

「素晴らしい事ですね。やはり介護の問題は気になると」

「ええ、ひ孫まで生まれた私にもうそんなにやり残した事もありませんから」

「いいですね」


 素晴らしいと言う言葉とともに、透明なテーブルに置かれた紙袋の中身が少しだけ浅野さんの方に向かってうなずいた。

 しかしそれはそうですよねと言う賛同ではなく、どこかあーあと言うため息を吐いているように見えた。


「我ながら若気の至りと言うにはどうにも情けない物でした、そして今度は年甲斐もなく老醜をさらしてしまっています。まあ老人の最後の頼みと思ってくださいよ」

「ありがとうございます」


 その贈り物がかつてのスズランに近似したそれである事を、私はすでに知っていた。


 浅野さんは最後の最後まで諦めていないのかもしれない、それはそれである意味立派だとも思う。半世紀前から底の見えなかった人間と言うのは、死ぬまで本人を含め誰も底がどこなのかわからないのかもしれない。

 それを恐れたのであれば、なるほど父親はたいした男だと思えて来る。父とも亭主とも全く違う人間である浅野さんに別れを告げながら、私は白い袋を浅野さんが持っているそれの数倍の値段であろうカバンに放り込んだ。








 贈り物はまったく私の予測通りの品物だった。


 一見詳しいのか詳しくないのか、その気があるのかないのかさえもよくわからない贈り物。だがこうして渡された以上、どう使おうと私の自由だ。


「ようお帰り」

「あらあなた、どうしたのその格好」

「いや何、急にふっと思い立ってね、昼飯喰ったらちょっと走ってみようかって」

「脱水症状に気を付けてくださいね」


 亭主はなぜかジャージ姿になっていた。テーブルにはいつかの五輪の模様を収録したDVDが置いてある。あるいはこれを見て義父のように、三年後にやって来る東京オリンピックの聖火ランナーを志してやろうとでも思い立ったとでも言うのか。人の事は言えないが全くどこまでも元気な年寄りだ。


「それにしてもずいぶんと早かったな、話が弾まなかったのか?」

「いいえ、短い時間だけど濃い話ができたつもりよ」


 濃い話といい話が等しい訳ではない。毒にも薬にもならぬ小役人のなれの果てと、庭を愛でる事と服を飾る事以外に道楽を持たない二人の年寄りに、いまさら濃い話など生じようがない。

 だからと言ってその関係を投げ出すには年を取り過ぎているし、何よりその後のリスクを考えられないほどバカでもない。


 そして、この贈り物をすぐ本来の目的通りに使おうとするほどバカでもない。


「ふーん、それが贈り物ねえ。俺にはよくわかんねえけど大事な物なのかい」

「多分ね、でもこんな時期に送って来られてもね、あと早くて三ヶ月ほど待たなきゃ植えられる物じゃないわよ」

「どうしても渡したかったんだろ、まあ遠慮なく受け取っといて良かったんじゃないのか?渡したかったんだろうからさ」


 この贈り物が芽を出し本来の役目である開花と言う使命を果たすのは数ヶ月かかる。その間に何が起こらないとも限らない。

 だが今の所、押しなべてどうという事もない。五十年もの間平穏を保って来た生活がこんな物だけで崩れる物でもあるまい。


「思ったより早く帰って来たから夕飯は私が作るけど…何か食べたい物ある?」

「うーん、レバニラ炒めかな」

「どっちもありませんよ」

「じゃあなるたけ早いうちに頼むぞ」

「まあ何でもいいよと言わなかっただけ上出来ですよ」


 久しぶりに、二人して笑った。なんとなく予想が付いたタイミングではあったが、夫婦一緒に笑う事が出来た。その笑い声を耳にしたスイセンの球根が袋ごところりと転がり、袋をゆがませた。


 全然違う方向を向いていてその事に気付かなかった私がせっかくだから専用の器でも買ってこようとでも思ったのがそれとほぼ同時だったのは、たぶん偶然じゃないはずだ。

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