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だいたい30分小説

痛いの痛いのとんでいけ

あなたは、タンスの角に小指をぶつけて

その痛みにのたうち回った経験があるだろうか。

あるいは、運動した次の日に筋肉痛で

動くことすらしたくないほど辛かったことは?

きっと誰でも、痛いという感覚を持った経験はあるだろう。

痛みはどこにでも潜んでいる。

これは自分の身体が物理的に存在する限り、

決して逃れられないものだった。

そう、()()()


そもそも、よく考えてみて欲しい。

なぜ「痛い」という感覚は痛みを伴うのだろう?

身体の異常を知らせるためであるのなら、

別に「痛み」の認知だけあればいいのであって

実際に痛みはなくとも良いはずだ。

逆に、痛みは意識をその身体の部位に集中させてしまい

かえって危険への注意力を削ぎ、判断力を奪ってしまうのではないか。

そう考えた私達は、痛みを奪ってしまおうと考えた。


20世紀初頭までは、脳の視床が「痛み」と痛みの信号を司ると考えられていた。

しかし、事実は大きく異なっている。

私達が痛みを感じるとき、身体の部位から送られた信号は

脳の様々な部位によって認識され、

互いに影響し合いながら大まかな結果としての痛みを発生させる。

この影響というのは、例えば物事に度を過ぎて熱中し痛みを忘れたり、

あるいは不安や悲しみのようなネガティブな感情により

痛みが増したりするといったことで、私達はここに目を付けた。

具体的には、頭の中に新しく人工脳葉をつくる。

その人工脳葉はノイズキャンセラーのように、送られてきた「痛み」の信号を解析し、上手く打ち消すようなもの、いわば"反痛み信号(IPA)"を瞬時に生成する。

痛みというのは脳の各部位の認識を統合した結果であるから、

痛みを司る神経に直接介入しなくとも迅速かつ正確に痛みを抜き取ってしまえる。

抜き取るのは痛みであって「痛み」ではないから、

頭に人工脳葉を入れてもこれまで通りに「痛み」を感じ、違和感なく生活できる。

ただ、そこに痛みという苦しさがないだけ。

さらに副産物として、IPA生成時に解析した「痛み」の信号をディジタル化することで、「痛み」の客観的評価、つまり"鈍痛"や"キリキリした痛み"のような酷く抽象的でアナログだった「痛み」の感覚を明確に区別できるようになったのだ。

「痛み」は信号の強度により種類別の段階に分けられ、

私達はリンクした端末で自分の痛みを客観的に評価できる。

判断の基準は相対的に設定され、リアルタイムで更新され続ける。

これ以上痛みに苦しむ必要がなく、「痛み」を可視化し共有できるこの技術は凄まじい勢いで拡散していった。


これは画期的な発明だった。

この技術の導入により非常に多くの人が救われた。

例えば終末期の患者のQOLは大幅に上昇し、

モルフィン中毒にならずとも余生を謳歌できるようになった。

また、大規模災害の際にはより正確なトリアージで判定されるようになり、

より多くの人が救われ、カテゴリ0(手遅れ)も冷静に、迅速に判断された。

あとは本当に小さなことだけれど、鈍臭い私が少し膝を擦ったり指をぶつけたりしても痛みを感じずに済むのはありがたかった。


しかし、これには問題もいくつかあった。

その一つが「痛み」の()()()だ。

私達は「痛み」を自分の内だけで独占することを止め、

その基準を社会に明け渡すことにした。

自分ではどんなに「痛い」と感じても、それを判断するのは他の誰かだ。

まして痛がることなどできなくなってしまったのだから、

私達は自分一人だけではもう自分の身体の異常すら分からない。

今も私達の間からは「痛み」自体は失われていない。

けれどその感覚は社会によって規定され、

世界中の人々に共有され、希薄され、もはやどこにも存在しない。

これでいいのだ、と言う人もいる。

「痛み」が共有され、ただの乾燥した数字になってくれるのなら

手放しで喜んだっていいじゃないか、と。

けれど、私にはそうは思えない。

本来は自分のものであるはずの感覚の基準を誰かに明け渡すということは、

自分が自分であることを辞めるのと同じだ。

そう遠くない未来、「痛み」だけでなく

「悲しみ」や「怒り」のような感情達も「痛み」の感覚と同じように消えていくだろう。

皆が同じように感じる世界、そこからはきっと決定的なものが欠落している。

そのような世界で私は私として生きていけるのだろうか。

そんなことは起こらないと、行き過ぎた被害妄想だと笑い飛ばして欲しい。

けれど、それは誰にもできない。

「悲しみ」や「怒り」を痛みのように打ち消すための研究はもう進んでいる。

既に痛みを失った私達が怒りや悲しみを失う未来は、そう遠くないだろう。

もう止められはしない。




どこかで私達は、人類は間違ってしまったのだろうか。


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