僕はビンボー道を極めて幸せになりました! ー野良犬の丸焼きを食べたことはありますか?
一
かけうどん一杯四百円の魅力は計り知れない。かけうどんの食材といえば、うどんに出汁、少量の刻みネギと天かすぐらいで実にシンプルな料理だが、僕はかけうどんに七味唐辛子を多めに振りかけて、僕の好みのかけうどんにしてしまう。
うどん屋やそば屋には、僕と同じくうどん好きやそば好きが老弱男女を問わずたくさん集まってくるのだが、この日本の食文化の神髄を代表する麺類は、ズルズルズルっと音を立ててすすって食べるのが粋とされる。食事中の静けさが求められる欧米流の食事マナーとは一線を画するズルズルズル。まさにズル剥けの食文化だ。
僕はそんなズルズルズルとやって、出汁と一緒に一気にうどんやそばを口の中にすすりこんで食べている輩を尻目にしながら、うどんを一本一本ずつ、ゆっくりとすすり味わって食べていく。僕のうどんをすするスピードは亀よりも遅い。ゆっくりゆっくりとうどんを口の中にすすり何度も噛みしめて食べると、うどんに含まれる小麦粉のでんぷんが舌の唾液で分解されてブドウ糖となっていくプロセスを、ほんのりとした甘味として感じられ、全身の運動エネルギーとなるこのうどんに、仏様よろしく、すこぶる感謝の念さえ生じてくるのだ。
忙しいサラリーマンたちは、うどんやそばをズルズルズルっと五分以内で平らげてしまう。彼らにとっての麺類とは、もはや「経済合理性の成り果て」といった様相であり(うどんやそばは安くて美味く、すぐに平らげられる)、うどんという料理やそこに含まれる食材をゆっくりと味わって食べるという楽しみを犠牲にした上に、サラリーマンの昼食が成り立っているのだ。僕は彼らをどこかかわいそうな目で眺めながら、うどんを一本ずつ着実に四十分以上かけて平らげていく。ここにかけうどん一杯の幸せが見事に体現されているである。ズル剥けのかけうどんの世界だ。
うどんのでんぷんの美味しさと出汁のうま味、刻みネギの苦さ、天かすが出汁のうま味をさらに引き立てることなど、この一杯のかけうどんの中には、どれだけたくさんのドラマやサクセスストーリーがあることか…。かけうどんは、まさに宇宙である。そんな世紀の大発見を時間と気持ちに余裕のある僕だからこそ、十二分に堪能し楽しむことができるのだ。
うどんやそばをゆっくりと味わい尽くす…。これを毎日の日課として繰り返していくと、うどんやそばの味に敏感になり、店による味の違いが分かるようになる。要するに一杯四百円を払ってまで食べるだけの価値があるうどんやそばかどうかが瞬時に分かる。そのうどん粉は手抜きだとか、出汁のうま味が全然足りないとか。このうどん一杯が本当に「ごちそう」なのかどうかを峻別できることで、うどんやそばに関する分厚い本一冊が書けるぐらい超絶に舌が肥えてしまうから恐ろしい。
二
「飲食店でうどんやそばを食べるのではなく、家で安くておいしいカップ麺やインスタントラーメンを食べた方がよいのでは」という読者の方もいるだろう。僕も若かりし頃、カップ麺やインスタントラーメンにはずいぶんとお世話になった。またネパールに一年間、国際NGOのプロジェクトで駐在していた時は、首都カトマンズの滞在先の近くにあるスーパーマーケットに行き、ネパールのインスタントラーメンを買い、家で新鮮なトマトなどの野菜と卵、香辛料をインスタントラーメンに絶妙な具合で配合して調理し、インド風のスパイスの利いたおいしいラーメンを堪能したことは今となっては良い思い出だ。多種多様なスパイスとうま味満載のトマトの組み合わせが、ラーメンの美味さを最高レベルに引き上げてくれるのを、ネパールで体験した。
しかし、そんな麺好きの僕も、うどんやそばは最近、専ら外食に頼っている。というか、もはや家でうどんやそばを食べることはない。僕は一杯四百円のかけうどんやかけそばを、心行くまで時間をかけて味わいたいのである。僕の場合、「安くて早くておいしい」がモットーのカップ麺やインスタントラーメン一杯を完食するのに四十分もかかるので、完食するまでに麺が伸び切ってしまい、麺が台無しになってしまう。
うどんやそばも色々な種類があるが、本当に安くて美味いうどんやそばは、麺にコシがあり、ずっと出汁に浸かっていても、そう簡単には麺が伸びたりしないので、心行くまで麺をゆっくりゆっくりと一本ずつ、ズルズルズルと味わって食べることができる。ズル剥けに憂いなしだ。
飲食店にとって、うどん一杯は安くて薄利であっても、「自家製麺」にこだわりをもってお客さんにメニューを提供しているうどん職人やそば職人には、すこぶる感謝しかない。自然と頭が垂れる。彼らはプロフェッショナルな職人である。確かに、僕の舌を唸らせるだけの本当に安くてうまいうどん屋やそば屋は今や激減してしまったが、まだまだ健闘している美味しいお店もある。
僕がうどん屋やそば屋にさらに期待していること…。それは食材の生産者の顔が「見える化」されることだ。うどんを一本ずつ丁寧にすすり味わっている時に、うどんの原材料となる小麦粉やネギの生産者の顔写真などが店内に張り出されていれば、まさに原材料の生産から加工、販売(消費)に至るまでの全プロセスを視覚的に楽しむことができ、かけうどん一杯四百円にさらなる魅力と付加価値が付け加えられる。
たかだか、うどんやそば一杯にどこまで想像力を働かし、食事を楽しめるか。毎日忙しい仕事に追われるサラリーマンには、こういった食事中の些細な楽しみはないだろう。時間の神様は、時間と気持ちにゆとりのあるビンボーに微笑んでくれるのだ。
神様、仏様、〇〇様。〇〇には、ビンボーゆえにいくらでもワードを挿入することができる。一方、仕事のストレスで頭を禿げ散らかした大方のサラリーマンは、頑張って「神様、仏様、お金様」が精一杯だろう。よもや、「神様、仏様、うどん様」はないのである。
かけうどんは、ズルズルズルと時間をかけて味わう。サラリーマンたちよ、一皮剥けよ。ズル剥けよ!
三
うどんとそばについて、ビンボー道を極めた僕から一つ提案しておこう。
世の中には「冷凍食品」なるものがあふれており、冷凍うどんや冷凍そばもその類である。意外にも、冷凍うどんや冷凍そばは麺にコシがあり美味しかったりするのだが、僕は冷凍うどんや冷凍そばのサイズや形を見て、あるアイデアが思い浮かんだ。
それは就寝時に冷凍うどんか冷凍そばをブロックのまま何個が積み上げる。そして、プラスチック袋にその冷凍うどんか冷凍そばの「かたまり」を入れてベッドの枕の上に置く。こうすることで、真夏の熱帯夜をしのぐ冷凍枕になるのでは、というアイデアである。冷凍うどんや冷凍そばから作った冷凍枕で一晩過ごし、翌朝は流しそうめんさながらに、夜中に解凍されてしまったうどんやそばを湯でさっと茹でて冷水に浸し、冷たいつゆに付けてさっと食べる…。もはや、正道か邪道か分別のつかないレベルの冷凍うどん及び冷凍そばの活用方法なのだが、ビンボー道の修行の一つだと心得たい。
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最近のカフェは居心地がよいものだ。全国展開している某カフェでは、一杯四百円ちょっとで美味しいコーヒーを堪能できるが、このコーヒーのコストパフォーマンスが最高だ。つまり、コーヒーの味を楽しむだけではなく、店舗内に備え付けてある全国紙の新聞やスポーツ新聞、雑誌などが読み放題でもあり、さらには、ほぼ時間無制限で席を占拠できる上、スマートフォンやパソコンの充電も電源コンセントにつないでやり放題だから、満点の満点だ。この世の楽園ここにあり、である。例えばノマドワーカーにとっては、最適な仕事環境といえる。
一方でハンバーガーを提供して全国展開している某チェーンもコーヒーを格安で提供している。値段の割に味もよい。しかしながら、僕の家の近くにあるこのハンバーガー屋の店舗では、客の長居を防ぐために、なんとあろうことか、店内の電源コンセントの挿し口全てにガムテープをべったりと張り付けて、客がスマートフォンやパソコンを充電できなくする、つまり客がスマートフォンでゲームをしたり、パソコンでインターネットや仕事をしたりして、長時間滞在できないようにしているのだ。この全国展開のハンバーガーチェーンは、経営戦略的には「店の回転重視」ということで、とにかく客の回転を早くして売上を伸ばす作戦だが、ビンボー道を極めるためには、このような店のメニューやサービスと我々ユーザーの顧客満足度の妥協点をどのあたりに置くのかが、非常に大切な判断材料になってくる。ビンボー道に照らし合わせると、コーヒー一杯を百円で提供し、WiFi完全完備、二十四時間営業が最強中の最強店舗と思われるが、このようなコンセプトのカフェは今のところお目にかからない。日本政府は生活困窮世帯への経済支援策として、ビンボー道に協賛するカフェやハンバーガー屋に対して、大胆な助成金を出してもらいたい。
四
ビンボー道を極めるきっかけは数多くある。僕の場合は元々貧しい家庭で育ったために、ずっと贅沢ができなかったことに加えて(例えば、小学生のころは両親が買ってきた百円の靴を贅沢品として履かされていた)、社会人になってからのフィリピンでの二年間超にわたる海外ボランティアが思想形成に大きな影響を及ぼし、今日の「物欲ほぼゼロ」になるのに拍車をかけてしまったと思われる。
忘れもしない、あのフィリピンでの生活の日々…。郷に入っては郷に従えで、貧しい途上国での過酷な生活がビンボー道に通じてしまったのは間違いない。僕はフィリピンのルソン島北部の山奥で二年間以上も生活していた。そこには山岳少数民族が住んでおり、僕は彼らと一緒に活動していた。そしてある時、「これがわしら(山岳少数民族)のごちそうだ」と酒の肴として出された焼肉。見た目には何の肉かわからなかったが、一口頬張るとこれが実に美味い。フィリピン人が好むウォッカの肴として、その肉をパクついていると、村の長老らしき人物が「野良犬の肉や」と軽いノリで言った。
実際に野良犬の焼肉(丸焼き)をどのようにして作っているのか見せてもらった。ついさっきまで家の周りを元気に徘徊していた野良犬をつかめて、野良犬の首を部族のナイフで切り裂き血抜きをする。野良犬が絶命すると、野良犬の全体をガスバーナーであぶり、犬の皮や毛を抜けやすくして、一気に全身の表皮をはぎ取ってしまう。さらにそこら辺に生えていた竹を引っこ抜いて、野良犬の頭部から尻に向かって竹を貫通させて丸焼きにするのだ。日本では絶対に見ることができない光景である。というよりも、日本で同じことをやったら、動物愛護団体が怒って大変なことになるだろう。
僕はその辺を徘徊していた野良犬の丸焼きを堪能し、市場で売買されている牛肉や豚肉の味を犬肉がはるかに凌駕していることに驚かされた。野良犬が美味いのである…。今となっては、好きな肉の順番が①犬肉、②牛肉、③豚肉、④鶏肉、⑤魚肉の順番となる(実際には①を除いて②から⑤までは大差ない)。
海外ボランティアの派遣元から狂犬病のリスクがあるので「犬肉を食べるな」と忠告されたが、フィリピンの山岳少数民族の「食文化」と「ごちそう」を前にして、よそ者の僕が首を横に振ることは許されないのだった。日本人による「嫌犬肉」の浅はかな理屈と思想は、フィリピンの山岳少数民族を前にして通用しないのである。
フィリピンの滞在期間中に、山岳少数民族の最高のもてなしとされる「犬肉」を食べ続けることで、ビンボー道に通じる新たな思想形成がされていった。
五
フィリピンのルソン島北部の山岳少数民族の「野良犬の丸焼き」と双極をなす激ウマ料理は、鶏のかぶと(頭)の串焼きだろう。毎日の海外ボランティアの仕事終わりの帰路、ホームステイ先の近所にある道ばたの露店をのぞくと、牛肉や豚肉のバーベキューと一緒に、鶏の頭が三個、団子三兄弟のように串刺しされて焼かれているではないか。
海外で(特に途上国で)生活するメリットの一つは、日本人にはない価値観や考え方が世の中には星の数ほどあることに気づかせてくれる、要するにダイバーシティ社会が身をもって実感できることだが、僕も、特製の甘ダレを付けて焼かれた鶏の頭の頭蓋骨を歯で噛んで割り、中にある鶏のクリーミーな脳みそをすすって食べながら、そんな日本人とフィリピン人の食文化の違いを考えたものである。
世の中では、価値がないと思われているものにちゃんと価値があり、時には立派な食材にもなる。現在、僕の海外ボランティア時代の仲間が長野県で昆虫食の研究をしているが、彼なんかは家の周りで飛び回っているバッタやゴキブリを見るとよだれが出るぐらいの変人(偉人?)だ。そして、人類の救世主と目されるのは昆虫食だけではない。野良犬を食べて、鶏の頭も食べる。食糧難なんて怖くない。
途上国は物価が安い。しかし資源に乏しい。そんな過酷な環境で食への創意工夫や食文化の違いでザリガニを食べたり、野良犬を食べたりする。フィリピンで人類の知恵を直視した。
日本で純粋培養された貧しい家庭育ちの僕でさえ、日本の「物の豊かさ」に改めて気づき、それと同時に、途上国の物質的な豊かさではない別の「豊かさ」(心の豊かさとでも言おうか…)にも気づかされた。人それぞれ、ビンボー道のベースになる確固たる価値観や信念があるのだ。
ちなみに、長野県に住んでいる海外ボランティアOBは、「一度でいいから、死ぬほど虫を食べたい」というのが人生の目標の一つである。新型コロナウィルスの世界的な流行が収束した暁には、彼と一緒に途上国を旅して、彼の目標を実現させてあげたい。食用ゴキブリを食って食って食いまくるのだ。虫を食いまくる動画をYouTubeにアップしてもよいが、グロテスクでモザイクは必定。
うどんを一本ずつゆっくりとすすって味わって食べるとき、そんな過酷な途上国での生活が時より頭をよぎる。かけうどん一杯は、たいへん贅沢だ。かけうどん一杯、四百円…。僕は日本円を見ると、頭の中で自動的に日本円を為替レートでもって、途上国の通貨価値に置き換えることができ、日本円の四百円があれば、かの国では「何日間も腹いっぱいメシが食える!」と考えてしまう。
六
一般的に飲食店の値段の高い料理は美味しい。値段の高い料理は、よい食材を使っているし、料理人の腕もピカイチだ。店内のスタッフの接客サービスもよい。
では、値段の安い料理はどうか。ここにビンボー道の王道が隠されている。一般的には値段の安い料理は安い食材でサクッと作られるものが多く、必ずしも太鼓判が押せるほどの美味しさとは言えない。
そこで、安くて美味しい飲食店を探す。これがなかなか難しいのだ。反対に高くて美味しい飲食店を探す。これは簡単である。以前、僕は大阪の天王寺にある激安ラーメン店(当時、ラーメン一杯二百円未満で販売されていた)で激安ラーメンを食べたことがあるが、予想通り「安かろう、まずかろう」であった。外食するときに安くてうまい店を探すには、やはり安価で大量に食材が供給され、かつ美味しいという「旬の食材」に注目する必要があるし、その旬の食材そのままの味を十二分に引き立てて料理できる、つまり食材の味を十分に発揮させ味を堪能できる「薄味」の極意を知り尽くしたプロフェッショナルな料理人を見つける必要もある。
真のビンボー道とは、家で安いカップラーメンを食べ続けたり、飲食店でコーヒー一杯だけを注文し、席を朝から晩まで牛耳ったりするという、貧乏人ならではのせこいことをする邪道とは一線を画すのである。ビンボー道は、食の正道と心得たい。
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日本にはフードファイターというプロフェッショナルな仕事がある。彼らは限られた時間で可能な限り食べ続けて、その食べた総量を競うという世界で戦っている。
かけうどん一杯を、ゆっくりと四十分近くかけて食べるスローフードファイターの代表みたいなビンボー道の人たちにとって、必要十分以上に食べつくし、食をエンターテイメント化するのはいかがわしいものだ。世界に目を向けると、途上国を中心に飢えている人たちが何億人もいる。いわゆるグルメや美食家なる人たち。そして食のエンターテイメント化…。僕はあなたに「ビンボー道に改心せよ!」とは言わないまでも、地球人として、そして日本人として、節度のある食事を心がけてほしい。
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ビンボー道における食の美学についてまとめておこう。
ビンボー食の六か条。
①かけうどんやかけそば一杯の価値を再確認しよう。
②日本の百円玉一枚には、とてつもない価値がある。
③家での食事や外食にも、ビンボーならではの食の美学があっていい。
④世間一般のグルメや美食家の戯言に騙されるな。
⑤ショック療法として、野良犬や昆虫を腹いっぱい食べたら、食のビンボー道に目覚める可能性がある。
⑥うどんやそばを鼻の中にすすって食べたら痛いので、それだけは絶対に止めよう。
七
話を食から住に移そう。
あなたは家計簿をつけているだろうか。毎月の支払いの中で固定費の家賃をどのように削減していくのかが、毎月の支出削減のポイントになる。
生涯の三大支出は、住宅費と教育費、老後資金といわれる。例えば、働き盛りの三十代サラリーマンが住宅を購入するのか、それともマンションを賃貸するのかは、自身のライフスタイルや収入、家族構成などを総合的に判断して決めなければならない。
社会経済のグローバル化が進んだ現在、日本人にありがちな夢のマイホームは、自身の活動範囲を著しく制限する、要するに土地や家など不動産を購入することは、「その土地に長く住み続けます!」という明確な意思表示を意味している。人・モノ・金・情報が高速で世界中を飛び交う時代にあって、その土地にしがみついて生きるのはナンセンスだし、そういう土地の金縛りにあっている人たちに限って、一端の親になると子供に対して英語やらプログラミングやらと、グローバル人材教育を熱心に行う。グローバル人材とは、土地の金縛りとは真逆の方向の人たちであり、軽いノリで世界中を駆け回り仕事をする人たちだ。
ビンボー道の界隈では、友人・知人や仲間をフル活用し、タダで泊まらせてくれる彼らの住居をいくつ確保できるのかが、生存戦略上、極めて重要であるといわれる。例えば、あるミニマリスト兼ビンボー道を極めた賢者は、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国に自分の考えや価値観に共感する「狂信者」を堅持しており、彼らの家にタダで泊まり込むことによって、一年中、日本全国の観光地を旅しながら、住居費はほぼゼロで活動している。活動費や食費は、YouTubeなどに旅の動画を投稿することで得られる収入で賄っており、さながら、ノマドワーカーの端くれといった感じだろうか。
とかくいう僕も、これまでにフィリピンやネパール、アフリカのマラウイやウガンダで仲間と一緒に活動してきたので、タダで寝泊まりできる仲間たちの家が世界中に点在しており、いつでも軽いノリで、インターネット経由で彼らの家を宿泊予約することができる(次はラオスで活動する)。
さらに、日本国内のタダ家に関して言えば、地方に目を向けるといくらでもタダ家が見つかるのだ。空き 家問題で困っている地方の役所では、空き家をタダで購入者に譲渡し、不動産に関わる固定資産税などの必要経費までを家の購入者に支給(助成)するなど、実質的に「マイナス入札」の物件までが売りに出されている。
家や土地の購入方法を見直すことが、ビンボー道への第一歩である。
八
僕の知人が和歌山県にある古民家を購入し、荒野でウンコしながら、古民家のリノベーションを続けている。古民家の内装を変えたり、荒れた敷地を耕して畑を作ったりしている。その知人はこれまでに多くの人生経験をしてきた結果、和歌山県に終の棲家を作り、ミカン農家になることを決意したのだ。農家とは、土地に土着し、土地に命をささげる覚悟でもって農業する人たちである。また大自然に感謝して、その土地でずっと生きることを覚悟した人たちである。
そういう彼らなら、つまり、グローバル人材の対極をなすようなローカル人材の彼らなら、その土地に長く住み続ける意義を容易に見いだせる。
グローカルという言葉が日本中を席巻して久しい。あなたがグローバルに進むのか、それともローカルに行くのか…。はたまた、両方に目配りしてグローカルに生きるのか。僕の場合はグローカル志向が強いが、この三ベクトルのいずれにも、ビンボー道を実践する下地はあるのだ。
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さて、家の機能性に注目したい。
世界中で新型コロナウィルスが感染拡大し、社会経済活動がコロナの影響で急速に委縮している。新型コロナウィルスたちも、自らの生存をかけて変異するように、僕たちも急速な社会の変化に対応して生き残らなければならない。
急激な社会変化に柔軟に対応するためには、シンプルであるべきだ。物事はシンプル・イズ・ベスト、である。そしてシンプルになるためには、機能性以外の各要素をそぎ落とさなければならない。
家の役割に注目すると、家は人の住みかであり、食事をしたり、寝たり、家族を養ったりするところである。人はしばしば、他人の視線を気にして、家の内装を豪華にしたり、トイレに睾丸のサイズ測定器を設置したりと、ありえないサプライズをやらかしてしまう。要するに、家に機能性を無視した無駄金をかけてしまうのだ。
先ほどの和歌山県の農家は実にシンプルに古民家を改装した。古民家ゆえに最初は荒れ果てていたが、家族が住めるレベルにまで修繕だけ実施。しかも改修費用は極めて少ない。なぜならば、その土地の地域住民に手伝ってもらったり、農家仲間から古民家の改修に必要な器具類を借りたりして、自ら古民家を改修してしまったのである。
ビンボー道を極めると、本当に必要なもの(マスト)と欲しいもの(ウォント)を瞬時に識別できるようになる。日本の自動車メーカーよろしく、ビンボー道はコストカッターの王道。ミニマリストも一目置くコストカッターの王道である。
今日のテレワーク全盛の時代において、あなたが借家派ではなく「持ち家派」であれば、等身大のあなたの身の丈に合った、シンプルな機能性のある家を地方に購入することで、生涯の三大支出である住宅費と教育費、老後資金のうち、住宅購入費を極限まで削減できるだろう。とりあえず、地方に住もう。そして仕事は都市圏からテレワークで取ってこよう。
九
食事と仕事の関係について、私的体験を交えて話そう。
フィリピンで海外ボランティアをやってきた時、僕はルソン島北部の山岳地帯の州政府に派遣されていた。フィリピンの行政単位に州があり、州政府は日本で言えば、東京都庁や大阪府庁といったレベルのお役所である。
そんなフィリピンの州政府の職場には、昼休みになると子供たちが大勢やってくる。小学校の午前中の授業が終わり、役所に勤める職員たち(子供たちのお母さん)のところにやってきて、一緒に昼ご飯を食べるのである。フィリピンは男女共同参画が進んでいる国の一つであり、役所のトップや職員の多くは女性である。いや、誤解を恐れずに言えば、フィリピ人の男性は余り働かない。フィリピンに長期滞在して現場を直視してきた僕の偽らざる実感である。市街地にある州政府の近くには学校や病院、裁判所などが集積しており、小学校から州政府の庁舎まで徒歩五分と近く、子供たちはお母さんに気軽に会えるのだ。
また、州政府の就業時間が終わる午後五時前になると、小学校の子供たちが州庁舎のオフィスにまでやってきて、州政府の職員たち(子供たちのお母さん)が退勤するのを待っている。これは日常茶飯事の光景である。少なくとも、僕が派遣された州政府の取決めでは、就業時間内に職員の子供たちがオフィスに入ることは禁止となっていたが、職員間の暗黙の了解ということもあり、子供がオフィスで午後五時まで待機していた。
東京都庁や大阪府庁の就業時間中に、職員の子供たちがやってきて、オフィスに備え付けてあるテレビで漫画を見たり、学校の宿題をやったりすることはあり得ない。
ここにビンボー道を極めるヒントが一つある。仕事と衣食住を近接させてしまうのだ。フィリピンの州政府のオフィスは仕事場であると同時に、子供の放課後児童クラブみたいな役割も担っている。日本では仕事は仕事、教育は教育、家事は家事といった感じで、仕事や業務、役割などをきめ細かく分けて、自分の手に負えない部分はお金を払ってアウトソーシングすることが多い。途上国のフィリピンのように、お金がなく資源の乏しい国では、とにかくみんなで創意工夫して、身近な課題や問題を自分たちの力で解決しようとする姿勢が前面に出てくる。
さらに故障した自動車やバイクを直すのも自分だ。ニワトリを絞めるのも自分。その辺を徘徊している野原犬を捕まえて殺し、竹串をニワトリの頭から肛門まで貫通させて丸焼きにするのも自分…。日本の子供たちの憧れの仕事であるユーチューバーにも相通じるが、結局のところ、自らが「生産者」に回ることで様々なスキルや能力、知見を獲得していくプロセスこそがビンボー道の実践である。
専門家を名乗るよそ様に頼ることが減れば減るほど、人生のコストは下がっていく。ビンボー道のマスターは、しばしば何でも屋である。
十
日本国内で純粋培養された日本人は思考停止に陥り、お金を払えば何でも買えると錯覚する。いや、現実の問題として、お金を払えば大概のモノは買えてしまう。
生まれた時から大量のモノに囲まれて育ってきた僕たちは、資本主義の原理に染まり切っている。もちろん、僕もそんな強欲資本主義に染まり切った日本人の一人であったが、途上国フィリピンでの過酷な生活を通じて、真っ当な人間に戻ったのである。
フィリピンでは、旧世代の三種の神器であるテレビと洗濯機、冷蔵庫のない生活を送っていた。途上国の山岳地底で何よりも苦労したのは、手洗い洗濯であった。平日は州政府に勤務しているので洗濯物を手で洗う時間が確保できない。いや、洗濯物を手で洗う時間はあるが、仕事が終わり帰宅してから手洗い洗濯を始めると、夜間に洗濯物を干すことになり生渇きになってしまうのだ。その点を考慮して、週末に一週間分の洗濯物をまとめて手洗いすることになるのだが、手洗い洗濯は時間がかかるのである。また手洗いの洗濯をすると、手や腕、腰などに負担がかかり筋肉痛になる。洗濯機というのは実に便利で洗濯物を放り込めば、洗濯から水切りまで自動でやってくれる。しかも、最近の洗濯機は省エネとくるから脱帽である。フィリピン人がなけなしの金をはたいて、洗濯機を購入しようとする気持ちがよく分かる。
晴れた休日の半日(午前中)を費やして、大量の洗濯物を手洗いしていると、日本人が当たり前のように所有しているモノの価値を再認識せざるを得ない。洗濯機はやはり便利で、ありがたい存在である。僕たちは、洗濯機である意味、時間を買っているのだ。
このような途上国での一世代前の生活体験、ある種の不便益の世界に一度どっぷりと浸かってしまうと、モノに対する感謝の念が起こり、モノに対する感度も高まって、とにかくモノを大切にしようという気持ちが前面に出てくる。
モノへのすこぶる感謝主義の僕は、靴を履きつぶすタイプの人間だが、靴の底や側面に穴が開いても「まだ履ける、まだ歩ける、まだイケてる!フル勃起!!」のもったいない精神でもって、ひたすらボロボロの靴を履き続けた結果、ボロボロの靴がいつの間にか、草履のように変形ないし劣化してしまうのだが、その時になってやっと「そろそろ靴を履き替えるかな」という、もはや仏の悟りにも似た物欲の無さでもって靴屋に行くのである。
十一
かけうどんの麺一本一本をゆっくりと口の中にすすり、味わって食べる。かけうどん一杯を四十分かけて食べられる喜び…。毎日、クソ忙しいサラリーマンには絶対に真似できないビンボー道の食の妙法である。時間の神様は、悠久の時間の流れにプカプカと乗っかってフワフワしている者にこそ微笑んでくれるのだ。
毎日の日常生活でさえ、極上の楽しみに変換してしまうためには、物事をシンプルにとらえる必要がある。言い換えれば、人・モノ・金・情報・時間の断捨離の極限なまでの推進である。
そしてビンボー道における断捨離では、仲の良い友人・知人にまで踏み込み、シンプルな人間関係を再構築していく。
要するに、時間ともに(これまでに構築された)人間関係も絶えず変化すると考えて、不要になった人間(関係)を廃棄処分したり、不活発な人間(関係)をもう一度、活性化させたりして、人間関係の新陳代謝を促すのである。例えば、世間では宇宙ゴミ問題が注目されている。また、インターネット上の広くて浅い人間関係の世界では、しばしばこの「宇宙ゴミ」にも似た人間関係が成立している。大昔に交流会か何かの集まりで知り合った人とSNS上でつながっただけで、その人との人間関係に発展の見込みがないのに、ずっとSNS上の関係が続いているとすれば、宇宙ゴミが宇宙空間を意味なく半永久的に漂うかのように、その人間関係はインターネット空間をプカプカと何の意味もなくずっと漂い続ける。こういった残念なつながりケースに対しては、事前にインターネット上のマイルールを設定しておき、マイルールに抵触ないし違反したところから人間関係をバッサバッサと切り捨てるのがよい。ゴミはやはり臭いのである。臭いものは捨てるに限る。
マイルールは、これまでに親しかった友人知人にも適用されるルールであり、人間関係を効率よく断捨離し、人間関係を再構築するためのツールとなる。
ルール(基準)は非常に便利で、自分の気持ちや感情に関係なく、基準に従ってサクッと行動に移せる。特に、人間の感情が邪魔して大きな障壁になる場合に、威力を発揮する。ルールは、特に「戦略的撤退」に必要不可欠なツールである。
不要な人間関係から発生するコストは計り知れない。意味のない交流会や飲み会、無駄な冠婚葬祭への参加、果てはお金の貸し借りとくる…。無意味で無駄な人間関係を徹底的にカットして、自分の「時間泥棒」を徹底的に排除し、嬉しいかな、フランス人並みに昼食に二時間ぐらいかけて食べられるだけの金銭的かつ時間的余裕をつくろう。やはり、ビンボー道の猛者は、うどんやそばを一時間近くかけて味わって食べよ!
ビンボー道の見地からは、定期的にあなたの周囲の人間関係を検証し、毎年、人間関係の三十パーセント以上を入れ替えることを提案したい。人間関係がスッキリすると、どうでもよい人間関係に悩まされる「精神的苦痛」からも解放されて、毎日ニッコニコの笑顔でラーメンなんかを昼食に食べることができる。
十二
人間たるもの、きっかけがないと何かを始めることは難しい。きっかけ、しかも強いモチベーションになるような大きなきっかけがビンボー道に進むために必要だ。
これまでの人生を思い返せば、食に対するこだわりをキッパリと捨て去ったきっかけは、フィリピンでの海外ボランティアだった。
僕はフィリピンで長期滞在するために、フィリピンの公用語である英語だけではなく、現地語を学ぶ必要があり、フィリピンの某国立大学で現地語を学習していた。大学で何か月間にも亘って、朝から晩まで現地語を学ぶのだが、勉強中に一時間の昼休みがある。昼休みに大学キャンパス内にある学生食堂でフィリピン人学生と交じって昼食をとることが度々あった。
ある時、食堂のメニューを見ると野菜スープがあり、食堂のおばちゃんに野菜スープを注文した。そしてテーブルに野菜スープが供されると気付いたのだ。マグカップに注がれた野菜スープの水面上に大量のアリが泳いでいる。野菜スープの水面に浮かんでいる細切れニンジンにつかまって、プールのビート板のように活用して泳いでいる猛者までいる始末だ。
途上国ではトップクラスの国立大学といえども、地方に行けば食品の衛生管理などはこの程度である。僕は途上国での生活が長いので、こういった(日本人なら誰もが仰天する)ハプニングに気を留めない。
野菜スープの具材はほとんどマグカップの底に沈んでいるので、スプーンで底の具材をすくい上げてみると、なんとあろうことか、今度はバカでかいハエの死骸が出てきた。原型をとどめたハエの死骸である。さすがに途上国慣れしている僕も面食らってしまった。
アリはオーケー、ハエはダメという単純な発想ではないが、ハエが入っている野菜スープを飲み干すのには、多少なりとも勇気が必要だ。僕はスプーンでハエを回収し、残りのアリと野菜スープを一気に飲み干した。ハエは食材ではない。
この事件以降、僕は美食家ならぬ「貧乏食家」へとひたすら突き進むのである。
ビンボー道への改心にショック療法あり!
十三
僕は現在、プロジェクトベースで仕事している。プロジェクトは一年間や半年間で実施されることが多く、プロジェクトを通して、世界中の多くの仲間と一緒に活動してきた。
プロジェクトの目標や目的に向かって、仲間と一緒に走り続けるのは楽しいものだ。それでいてプロジェクトが終了すると(目標を達成すると)、潔く仲間たちとは解散するのである。
こうやってプロジェクトを実行して、仲間との集合と解散と繰り返していくと、あっという間に、世界中の至る所にいつでも軽いノリでプロジェクトを開始できるだけのネットワークが構築されてしまう。世界中に広がった仲間とのネットワークは一生ものの財産であり、この世界中のネットワークから仕事や活動、情報や知識、金などが滾々と生み出されていく。
要するに、世界中を冒険できる仲間を増やすことが肝心である。日本の大企業のように、日本人と小さく群れるだけのつながり、往々にして金の切れ目が縁の切れ目となる、日本人の村社会的なメンタリティーをもった小集団の無限ループからは、可及的速やかに開放されたいところだ。
最近、ネパールのプロジェクトで一緒に活動した、ネパールの某国立大学の教授から色々な現地情報を得ており、今の仕事と並行して、2015年に発生したネパール大震災の復興状況について大学院で調査研究しようかどうか検討しているところだ。すでに大学院を修了しているが、MBAと防災では研究分野がコペルニクス的に違うわけで、人生を通じての風通しのよい学び(世間では生涯学習とかリカレント教育などともいう)はビンボー道にも必要不可欠な要素である。
皆さんは勘違いしていないだろうか。勉強しないからよい仕事に就けない。よい仕事に就けないから、生活が貧しい。生活が貧しいから、ビンボー道に成り下がってしまった…。
これは違うのである!ビンボー道はまさに「生き方」の問題。おかしな話かも知れないが、僕なんかは日々の生活費が最小化されており、収入が少なくても貯金は年間二百万円とか、三百万円とかできてしまうので、子育て世代がドン引きするぐらいのキャッシュ・リッチなのである。
世の中には「活き金」と「死に金」の二つがあるが、教育(費)はまさに投資そのものであり、活き金そのもの。たくさん学んで人生を豊かにしよう。
僕はこれからも学びに学んで、ビンボー道を極めて心豊かに生きていく。
十四
日本人の識者の間では、これからの若者がグローバルに生きるべきか、それともローカルに生きるべきかの議論を活発に行っている。この点に関して、僕はこれまでの途上国での活動を通して、ビンボー道とグローバリズムの相性の良さを、身をもって実感してきた。
僕たち日本人は、モノあふれの中で生きているので、モノを消費することに慣れきっており、金銭感覚が完全にマヒしている。僕は、途上国の人たちの貧しさ、つまり相対的な貧困と物資の不足からくる困難な生活状況に対して、積極的に「地頭」を使って問題を解決しようとするフィリピン人やネパール人、アフリカのマラウイ人及びウガンダ人と一緒に汗をかいて活動する中で、モノに対する執着心が加速度的に失われていった。いや、僕は元々、ミニマリストも一目置くほどの物欲の無さだから、その物欲の無さに拍車がかかってしまったわけで、もはや途上国の人たちの生活スタイルが心身ともに染みついてしまったと言った方が正確かもしれない。例えば、靴の底に穴が開いても履き続ける。服に穴が開いても着続ける。野菜スープにハエやアリが大量に入っていても飲み干す。二十四時間営業の飲食店や公園で一夜を平気で過ごすなど、平和ボケの我が国・日本において、生存戦略上、もはや天下無双の状態なのだ。
ちなみに、フィリピンの州政府での活動において、僕の仕事のパートナーだった年若い女性は、ルソン島北部の山岳地帯を車で移動中、ドライバーに指示し車を止めさせて、その辺の草むらで野糞していた。日本のプロフェッショナルな仕事の一つに「糞土師」があるらしいが、今日においても、糞土師は男性の仕事であることが多いようだ。肛門から出てくる黒褐色のソフトクリームも男女共同参画を推し進めたい。
最近、ある雑誌で毎日ひとつ、モノを断捨離することが推奨されていた。これを毎日実践すれば、モノの縛りから人生を開放するためのスタートラインに立てるかも知れない。一年間続けば、身の回りにあるモノを三百六十五個捨てられる計算だ。
モノをどんどん断捨離して、自分のフットワークを軽くしていこう。あなたがグローバルに生きようが、ローカルに生きようが、東京都内の公園で野糞しようが、ブラジルで阿波踊りしようが僕の知っちゃこっちゃないのだが、とにかく、マスト以外の不要なモノをそぎ落としていって、心身ともに健康に、そして気楽になろう。
十五
日本人はランキング好きだ。これは子供の時から学校で偏差値教育されてきて、人と比較されること(人目を気にすること)が骨の髄まで染みついている名残だろう。日本人の平均貯蓄額をインターネットで調べて、一喜一憂している人も多いのではないだろうか。
収入から支出を引いた残りが貯蓄であり、したがって毎月、銀行口座に貯金するためには、収入を増やすか支出を減らすかして、一生懸命に貯金しなければならない。
お金というものは興味深く、その本質は学校で教えてくれないから、「独学」して学ぶ以外に方法がないのだが、お金の本質である「信用」を、若いうちからコツコツと貯めていけば、知らず知らずのうちに仕事が舞い込んでくるような(人間)環境になり(収入アップ)、また信頼(信用)できる人からの情報や知識をフル活用して、支出を最大限に押さえ込んで「生活防衛」することも可能だ(支出ダウン)。
さて、とかくいう僕は日本人の貯蓄信仰と決別しており、発想を大きく転換して、年収三百万円で貯金二百万円(年額)を実践しているお金のゲームチェンジャーなのだが、そんな僕が東京に出て、朝から晩まで大企業に勤めて血眼になって仕事して心身ともにすり減らし、時には病気になってまで、年収一千万円で生活している「やり手のサラリーマン」を見かけると、徒然草の兼好法師よろしく、世の無常とは何かについて熟考してしまう。年収一千万円で貯金ゼロという世帯が五万といることを儚く思うのだ。
人間、金銭感覚がマヒしてしまうと、贅沢から逃げ出せなくなる。つまり、年収一千万円の人には年収一千万円の生活があり、そういった贅沢な環境で二・三年も生活すれば、生活の質を落とすことは、どだい精神的なハードルとなって難しいのだ。
年収一千万円世帯の生活が本当に苦しいようだ。年間に一千万も稼ぐと、東京などの首都圏で不動産(土地や建物)が欲しくなるらしい…。夢のマイホームである。
日本は既に一億総ジリ貧社会に突入している。戦後から脚光を浴びてきた住宅ローンシステムは、戦後の高度経済成長に伴う安定的な収入増のサラリーマン世帯を前提にしてきたという事実を今一度よく考えるべきだ。要するに、状況は一変してしまったということだ。
住宅ローンは、夢のマイホームへの天使か。それとも悪魔なのか…。この家を買うための借金について、ビンボー道の日本代表として宣言しておこう。すなわち、毎月のローン(借金)を返済するためだけに仕事をしたくないのだ。仕事は面白い。仕事は生きがいだ。少なくとも、この軸がブレたらいけない。仕事を「生活の糧」だけにとどめてしまうと、人生を棒に振ると心得よう。
十六
お金と幸福度の関係については経済学や経営学などの分野で日夜研究されているが、僕たちの経験法則にも合致する研究結果が多く発表されている。
たしかに、強欲な資本主義の世の中において、お金がないと生活が成り立たないので、お金と幸福度の関係には一定の相関(比例関係)があるだろう。しかし、年収一千万円と年収三百万円のサラリーマンの間には、幸福度に大きな差があるのかといえば、必ずしもそうではない。
最近、エッセンシャルワーカーやソーシャルワーカーがコロナ渦において注目されている。文字通り、社会に必要不可欠な仕事をされている方々だが、こういった仕事をしている人たちが必ずしも高給取りではないことは余人の知るところである。
要するに他人から「ありがとう」と感謝される数と収入は比例しないのだ。
そんなお時勢にあって、ビンボー道とは幸せを追求する道であることを、今一度明記しておきたい。
さらにはここに来て、聖職者と性職者の関係…。いや、もはや聖職者と性職者は表裏一体の関係である。
思い返せば、僕が中学生の時に体育を担当していた先生(男性)が、ある日突然、電車で痴漢をやらかしてしまい、学校を更迭された。その先生は朝から晩まで一日中、サングラスをかけていたのだが、なるほど、サングラスは学校の運動場を照り付ける強い日差しを遮るためではなく、いやらしい自分の目の動きを周囲にバレないようにするための道具だったのだ。モノには、それ相応の役割がある。
天下の公立学校の先生(エッセンシャルワーカー兼ソーシャルワーカー?)もたった一日の過ちで世間から抹消される。最近は情報技術の発展が目覚ましく、日本もどこかの国と同じように、情報統制社会に移行しつつあるので、天気予報のゲリラ豪雨よろしく、ある日突然、誰かがインターネットに爆弾情報を醸して「聖職者のちいきなり性職者」となるケースが今後急増するだろう。自分の周りには常に監視カメラがあると思って行動したほうがよい。
また最近、何を思ったのか市井の爺さんや婆さんたちが市中警察に成りあがるケースが急増している。一見すると、彼らは正義なのか、それとも偽善者なのか判断が難しいところだ。さらに若者も手持ちのスマートフォンでパシッと証拠となる写真を撮影して、軽いノリで聖職者を弾劾するための証拠を、役所や彼らの職場にメールで送りつける時代である。
あちこちから漏れ出る情報で聖職者が堕天使になり、社会から抹殺される…。いやはや、ビンボー道は堕天使と無縁であることを願うばかりである。
十七
僕は情に厚い男だと思う。しかし、いわゆる寄付や施しといった類のことは全くしない。というか、ある事件がきっかけで、できなくなってしまったのだ。
お金がないのではない。既にビンボー道を極めており、低収入でも楽ちんで貯金できる。貯金は既に数千万円あるのだ。
僕は寄付や施しをしない。これも「途上国冥利」と言えよう…。
僕はフィリピンでボランティアをやっていた時に、時より用事で首都のマニラに滞在することがあった。マニラは人口数千万人の大都市だ。東京よろしく、お金さえあれば欲しいものは全て買える(と思う)。
そんな大都市マニラでは、貧富の格差が激しく、またスラム街も広がっており、そこかしこに物乞いがいる。子供の物乞いもいる。いわゆるストリートチルドレンだ。
実はこのフィリピン人の物乞いが曲者で、日本人を含む外国人観光客に「情」に訴えて、お金をかすめ取る術を知り尽くしている。フィリピン人の「プロの物乞い」が、日本人から金をかっぱらうためにはどういった方法があるだろうか。例えば、実際にそこかしこで行われているアプローチの一つに、物乞い間における赤ちゃんや子供のシェア(貸し借り)がある。つまり、物乞い達が一種の協同組合のような組織を作り、その組織内のメンバーでメンバーの赤ちゃんや子供を貸し借りするのだ。そして赤ちゃんを借りた物乞いは赤ちゃんを抱いて一見するとみじめな境遇の親子を装い「マネー」と叫び、日本人から施しを受けるのである。フィリピン一見さんの日本人観光客は、まさかこの親子が赤の他人とは夢にも思わないので、偽装親子を哀れに思いお金をあげてしまうのだ。人間は、お金が絡むと本当に頭がよく回る。これはもはや、詐欺といっても過言ではないのだが、こうして獲得したお金は協同組合にプールされて、メンバー間で分配されるのである。
僕はフィリピンで金に対する人間の悪知恵や執着心を目の当たりにしてきた。もちろん、これは貧しい人たちが生き残るための生存戦略の一つである。その一方で、世界第三位の経済大国にして老大国の日本において、僕はそこまでしてお金に執着する意味は全く見いだせない。
お金とは一体何であろうか。
お金があれば幸せという図式は成り立たないのではないか。
ビンボー道に通じる思想的背景が途上国で身についた。
十八
人気のユーチューバーややり手の実業家の大活躍をインターネットやテレビで見るにつけ、多くの人たちが彼らには儲けにつながる特別な情報の仕入れルートがあると妬んでいる。
そんな彼らへの嫉妬や不満を言う時間があるのなら、もっとフットワークを軽くして軽いノリで世界中や日本中を旅してたくさんの人と出会ったり、大学の授業や読書などで勉強したりして、「質の高い情報」を仕入れる努力をすべきだ。質の高い情報や知識を継続的にインプットすると、当然にして頭にインプットされる良質な知識や情報の量が増える。そのような知識や情報が頭にストックされると、考える力が養われて、その場その場で適切な判断ができるようになる。学びは賢者への入り口。まさに「量が質に転化する」瞬間である。
僕はこのエッセーを書いて、ビンボー道の伝統者や求道者のような存在になっているが、そこに至るまでには、世界中の多くの場所を訪れて活動し、目の前で起こっている現象(悲惨な現象も含めて)を生の貴重な一次情報として吸収してきた。日本では絶対に報道されない質の高いレアな情報である。実際にこういった高品質な生情報を僕がインターネット上に公開すると、視聴者の食いつきは非常によい。日本人なら誰しも、自分が全く知る由もない高品質な情報や知識に飢えているのだ。
気づけば、ビンボー道を人類の救世主にするぐらいの勢いで、このエッセーを書き続けている。
ビンボー道で、日本人の新しい生活スタイルを提案していきたい。
十九
基本的に人生は自然な川の流れに任せる。これこそ、僕が理想とするビンボー道である。実際に来る人拒まず、去る人拒まずの精神で活動してきた。
既に途上国での生活は長いが、海外ボランティアの希望国はエジプトだったのに、派遣元からの「フィリピンに行って欲しい」という提案を受け入れたし、国際NGOのプロジェクトではインド赴任を希望したが、先方から「ネパールに行って欲しい」と言われて、これも受け入れた。また同じく国際NGOのプロジェクトでアフリカのウガンダ赴任を希望したが、先方から「(アフリカの)マラウイに行って欲しい」と言われて、これも受け入れた(この話には落ちがあって、最終的にはウガンダのプロジェクトにも携わることになった)。
往々にして自分の希望が通った例はないのだ。しかしながら、その瞬間の現場の判断で全て快諾してきた。ビンボー道の求道者たるもの、本当にモノを所有していないので、いつでもフットワークが軽く、軽いノリで世界中、どこでも行けちゃうのである。そして現場でワクワク・ドキドキ・ハラハラを経験しながら能力とスキルを磨き、猛烈に成長していく。ひたすら、この繰り返しだ。
家や土地などの不動産よろしく、モノを所有するとフットワークが著しく悪くなるリスクが付きまとう。例えば、東京に住宅ローンで一軒家を購入したあなたは、会社の上司から「明日、日本を発ってブラジルの熱帯雨林にある一軒家で仕事しながらウンコしてくれ」と懇願されても困る一方であり、会社を退職することすら検討するかも知れない。家族や子供がいれば、なおさらのことだ。
僕は今後も家や土地を買わないし、自動車や高級カツラも買わない。結婚もしなければ、子育てもしないだろう。アマゾンの熱帯雨林で野糞はするかも知れない。
人生における巨大コストである住宅費や教育費を削減する代わりに、僕は世のため人のため、これからも世界中で国際協力を中心に活動していく。社会的投資やソーシャルビジネスも然りだ。住宅や教育にかけるお金や時間を世界の繁栄と自分の成長に充てていくのだ。
二十
さあ皆さんも、自分を拘束してしまうモノから解放されて豊かになろう。部屋にあるモノを整理整頓して不要なモノは全て捨ててしまおう。毎日一つずつ、捨てる習慣を身につけよう。
実は、僕の親は両親ともに毒親なのだが、その毒親たる母が僕に教えてくれた唯一の有難みのある言葉は「財産は盗まれても、頭の中にある知識や情報は盗まれない」なのだ。
部屋を片付けして、マスト以外のアイテムを全て断捨離する。僕の場合、マストのアイテムは書棚であり、書棚には大量の書籍が保管してある。これまでに色々なジャンルの本を手あたり次第、何千冊も読みこんできた。本を読むことで生きる力を養ってきたのだ。
ビンボー道の求道者として、毒親の唯一の教えをさらにレベルアップし「盗まれるモノは何も持っていない。でも、頭の中にある知識や情報は大量にある。そしてその知識と情報に裏付けられた知恵と地頭でもって、いつまでも面白おかしく生きる」のが現在の僕のモットーである。
昔、大手企業の会社員をしていた頃、会社の寮にずっと寝泊まりしていた。その時の僕の部屋にあったモノと言えば、これまた書籍とパソコンぐらいで、あとは備えつけのクローゼットとベッドだけであった。僕の部屋の隣室に住んでいた会社の同僚が、僕の部屋の何もない殺風景な様子を見て、余りの「生活臭」の無さに驚いていたが、この生活スタイル(生活レベル)が途上国で過酷な生活を強いられる前のビンボー道の黎明期であることを改めて考えると、なんとも感慨深い気持ちになる。
要するに、過去から未来に向かって一直線にビンボー道をひたすら突っ走ってきたのだ。
結果だけを見ると、ビンボー道はミニマリストの生活と変わらないようだが、その発展プロセスは非常に異なる。日本人が真の地球市民となり、多文化共生やSDGs推進社会を目指す中で、ビンボー道は新たな脚光を浴びつつある。僕は既に途上国の難民レベルや貧困レベルで生活することも可能であり(多くの難民や貧困を直視してきた)、この先、日本が人口一億人を維持することができず、持続的な衰退の道を歩み続けても、僕はしぶとく生き抜くことができるのだ。神は私にビンボー道というギフト(武器)を贈ってくれた。
二十一
どこの業界や会社であれ、本当にできる人は情報量で他人と差をつける。それも質の高い情報量で他人と差をつけるのだ。
僕のビンボー忍耐力が一線を越えるレベル(超人レベル)に達するまでには、色々な経緯(多くの失敗を含む)があったのだが、その中でも特に重要なエピソードを一つ披露しよう。
フィリピンのルソン島北部の山岳地帯で海外ボランティアをしていた時の話である。日本の中山間地域と同じように、フィリピンの山奥でも山道というのは基本的に一本道であり、例えばゲリラ豪雨により山で土砂崩れが起これば、一本道が塞がれてしまい、人々は道を往来することができず、たちまち付近一帯が陸の孤島と化してしまう。
そんな山奥の一本道で舗装もされていない山道を、僕は仕事柄歩くことが多かった。ある時、ひと気のない山道を登っていくと道に面してあばら家が一軒現れた。あばら家に近づいてみると、驚いたことに、あばら家の周辺とあばら家に面した山道一面に木彫りの男性器、つまりフル勃起した剥けチンコが何百本、いや何千本ものチンコが亀頭を一つの方向を向けて(剥けて?)そこかしこに並んでいたのである。
途上国ではしばしば、子孫繁栄を祈願して男性器をモチーフにしたお土産が販売される。例えば、僕が滞在していたネパールの寺院などにも男性器を模した装飾が大量に施されていた。しかし、である。一応の知識や情報として、フル勃起の剥けチンコがお土産となる可能性を理解しているものの、いきなり軽いノリでひと気のない路上に何百本、いや何千本ものフル勃起の剥けチンコが、北朝鮮軍による一糸乱れぬ軍隊行進と同じように一方向に亀頭を向けて並んでいる様子を見るにつけ、僕はあばら家に新興の「オカルト教団」の臭いを嗅ぎつけてしまったのだ。「この家の中には、オカルト教団の教祖が鎮座しているのではないか…」という強い疑念である。
そして、恐る恐るあばら家の入り口まで行くと、家の中から半裸の爺さんがチンコを握りしめながら出てきて、つぶらな瞳を輝かせながら「I am very happy!!」とほざいて見せたのである。
やはり人間たるもの、自分の価値観や考え方の閾値を超えた事件や事故に遭遇すると、すこぶる寛容になってしまい、相手のいかなる価値観や信念、意見などに対しても一旦咀嚼して受け入れられるようになる。まさに世界には自分に遠く及ばない人知があることを、身をもって体験してしまった後の副作用だ。何千本ものチンコたちが僕の目を覚ましてくれたのだ。
途上国で活動してきて、日本の百円玉一枚の本当の価値を知った。この日本円の価値を再考する時、ビンボー道への一筋の光明が見えたのである。
ビンボー道は、地球市民に捧げる豊かさへの福音書である。
二十二
衣食住と人・モノ・金・情報・時間という観点からビンボー道を論じてきた。このエッセー、つまり次世代のビンボー道の求道者たちに贈る「福音書」も最終稿を迎えている。
やはり人生、楽しんでナンボ!ホント、人生ってヤツは、楽しんでナンボだ。ビンボー道も人生を楽しむためのアプローチの一つに過ぎない。
あなたも、かけうどん一杯を心の奥底から楽しめる(味わえる)境地に達すれば、新型コロナウィルス騒動宜しく、変化の激しい時代においてさえ、毎日ニコニコで生活できる。
軽いノリで住む場所を変えて、仕事や会う人も変える。また、三人以上の人生の先生を持ち、教えを乞うなどして、あなたの人生に彩を添えるために、とにかく色んなことにチャンレジしてもらいたい。
そんな悪戦苦闘して生きている間、一生続いていく不屈のチャレンジの中にこそ、ビンボー道が力を発揮して人生を謳歌するツールとなれば幸いである。
さあ、あなたもグレイトなビンボーになろう!
(了)