爪を噛む彼
酷く、脆く、淡く、崩れる
彼は、初対面でもう爪を噛んでいた。
中高一貫の共学校、地域でも有数の進学校として知られるこの学校に、私は運良く滑り込んだ。辛く苦しい受験勉強を乗り越えた先、これからの6年間に胸躍らせながら、私は自分のクラスへと勇んで足を踏み入れた。
彼とはその時、つまり入学式の日には出会っていた。それというのも、出席番号順に並んだ机の関係上、偶然彼の席が私の席の隣だったからだ。正確には私の席の右隣が彼で、左隣は女子だった。
私はまず左隣の女子に話しかけ、数分ほどたわいもない話をしていたはずだ。何を話したかまでは覚えていないが、彼女とは今でも年賀状のやりとりをする仲だ。同期の中では早くに結婚し、彼女の結婚式でブーケを取り損なって地団駄踏んだこと。それがバッチリ録画されていて後に笑い者になったことは、余り思い出したくない過去だ。因みにブーケをキャッチしたやはり同期の女子は、その3ヵ月後に恋人と婚姻届を提出したというから、こういう慣習も人の背中を押すには役立つのだろう。
ともあれ彼女と話し終えた私は、次に右隣の人にも声をかけようと、クルッと向き直って右隣の席の方を向いた。まさしくその時、彼はちょうど左手の親指の爪をガジガジと噛んでいるところだった。しかも、グーの手で下からではなく、まるで歯を爪切りに見立てたかのように、手を開いて上から手を出して噛んでいた。
とはいえ、この時私は多少驚きはしたものの、別段気にすることなく彼に話しかけた。爪を噛むという動作自体はよくある癖の1つだし、私自身がどちらかというとガサツな人間だったので、他人の癖に対して一々眉を顰めることもなかった。
彼は突然横から声をかけられ、慌てて口元の手を机の下に持っていき、一瞬バツの悪そうな顔を浮かべた。だが、すぐに何事もなかったかのようにこちらに顔を向け、私との会話に応じてくれた。かなり背は高かったが、細身で華奢な体型。線の細さと同様に声も細く、私は最初声変わり前だと思っていた。後に声変わりは済んだ後だと知って驚いたが。
私から見た彼の第一印象は、穏やかで大人びた優等生だった。会話のキャッチボールが上手く、ゆったりとした喋り方はとても聞き取りやすかった。成る程、本当に「できる」生徒とは彼のような人を指すのだろうと、私は1人勝手に得心していた。そのうちに担任の先生がやってきて、彼との初対面はこれで終わった。
その後の6年間で、彼とは4年間同じクラスになった。同じ物化選択の理系に進んだので、高校の2年間は必然的に同じクラスではあったが。彼は第一印象と違わず、中高6年に渡り成績上位を維持し続けた。およそ定期試験の度に貼り出される順位表で、上位10番から彼が落ちたことは1度もなかった(文理別れても)。それどころか、学年トップであることもしばしばだった。私が受験の燃え尽き症候群で出遅れ、結局ロクな成績を取れていなかったのとは対照的だった。
同じクラスにいることが多かった為、私と彼は必然接する機会も多かった。勿論男子は男子の、女子は女子のグループがあるから、言うほど接触機会が多かった訳ではないが。私は拘束の緩い女子グループに入り、クラスカーストトップの面々を横目で見ながら、マイペースに暮らすことが多かった。
彼は成績上位者で、かつ性格も良かったので、クラスの中でも特に孤立するようなことはなかった。だが、彼自身内向的な人間で、人付き合いが悪いとまでは行かずとも、そこまでノリが良くはなかった。なので、時と次第によっては後ろ指を指されることもたまにあった。
所謂カッコつけだの、陰キャだの、ガリ勉だの、もやしだの。特に男子内では運動が苦手なことが槍玉にあげられることが多かった。一方で女子の一部で彼を中傷する時に良く言われたのが、アイツは不潔だ。爪を噛む癖があり、気持ち悪い、という言説だった。
とはいえ、特に女子の間で、裏で悪口を言われない存在はないと思った方がいい。同じグループの仲間同士でさえ、互いに知らない場所で陰口大会を開催するのだ。だから、彼に対する中傷もさして変わったことではなかった。
クラス内で彼以外でも極端ないじめに発展することは幸いなかったし、結局彼が定期試験で1番を取れば、その中傷は明らかなやっかみを帯びてくる。やっかみ込みの陰口を気にするほど、彼は神経質に振舞ってはいなかった。単に女子の陰口など知る由もなかったのかもしれないが。
なんだかんだと言いつつも、成績優秀、顔も良い彼を狙う女子もいた。常に成績上位者として名前が挙がるのだから、名前自体もよく知れ渡っていた。1度告白されたことがあったが、普通にお断りしたことがあると、私に話したことがある。何故付き合わなかったのかと訊ねると、彼女という存在に割く時間はないとほざきおった。
そんなこと言って、結婚を考える頃には相手がいなくなってるぞと指摘すると、別に独身で構わないとの返事。徹頭徹尾内向的な人間だった。常に机に自前の本を積み、それを読み崩しながら新しい本を積んでいった。
彼は女子と話すこと自体がそこまで得意ではなかったと見え、女子と話したり授業でグループを組むことには一々微妙な顔をした。それ故かどちらかというと女っ気が薄く、クラスが同じになる機会が多かった私に自然と近付いたようだった。彼と私の接触機会が多かったのは、それもある。
たまにからかいの対象にもなったが、彼も私もそういうノリは悪い。からかい甲斐がないからということもあり、誰も本気にはしなかった。実際問題、彼はともかく私は彼を恋愛対象としては見ていなかった。当時私は私で、軽音部でベースを弾くのに忙しかったのもある。そういう意味では私も彼のことを強くは言えないのだが。
彼と話すこと自体は案外楽しかった。博学で会話が上手いので、純粋にタメになることも多かった。授業でグループを組んだ時など、彼1人に作業を丸投げしておけば、何もしなくても課題が勝手に片付いていた。酷い話だが、都合良く利用していた面も否定しない。
しかし、調理実習で彼1人にいつもの如く半ば丸投げしたら、私以上に上手い料理を作ったのには理不尽に腹が立った。丸投げせずに女としての意地や見栄を張ればよかったものを、と今なら思うが。後、実習中ですら爪を噛もうとしたのか、ついつい口元に手が行きそうになるのは流石に私でもどうかと思った。
やがて大学受験の頃になった。私は自分の成績に見合わない難関国立大学を狙った。一応目標があったからだが、現実問題として浪人を覚悟していた。現役などすっぱり諦めて、1浪ならまだマシかなとさえ思っていた。滑り止めも受けはしたが、親向けの体裁を整える為に受けただけで、受かっても進学する気はゼロだった。正直受験料の無駄でしかなかった。
彼は推薦入学の基準に達していることが明白だった為、推薦枠でどこかの大学に行くのではと言われていた。彼が何を目指しているのかは分からなかったが、理系なのだし、恐らく私立の理系学部にでも推薦で入るのだろうと、私も思っていた。
蓋を開けてみると、私は滑り止めに落っこちた挙句、何故か第1志望の国立大に合格した。結果を聞いて親が吹き出した時の顔が今でも頭に残っている。やはりうちの親は娘を信用していない。驚いたことに、彼も私と同じ大学の医学部に進んだ。成る程、医者志望だったかと驚くと同時に妥当な選択だとも思った。
中高6年同じで、学部こそ違えど同じ大学。必然彼と私の関係は腐れ縁に近いものへと移行しつつあった。私はとりあえず最低限の必修分を埋めた後は、やはり大学の軽音サークルで活動していた。彼は私がキチガイかよと思わず口走るほど、ギッチリ限界まで講義コマを埋めていた。それでいて落単を1つも出さないどころか、ほぼ全部を優で埋める辺りは流石としか言いようがなかった。
彼の爪を噛む癖は、結局治ることもなく続いていた。無粋にも指摘するような人間は、大学に入ってまでいはしなかったし、私もその行為に慣れきっていた。しかし、実習の時なぞ爪を噛む人間は困るのではないかと、現実的な問題は心配こそしたが。
大学デビューなどという言葉は、彼にとって最も縁遠いものだったのだろう。一応制服から代わって多少垢抜けたような格好にはなっていたが、高校時代と雰囲気は何ら変わりなかった。髪を染めることも、ピアスの穴を開けることもなかった。私は大学で即効ピアスの穴を開けたが。彼の場合、元々地毛の色が薄く、染めなくとも真っ黒な髪の毛ではなかった。
彼とはちょくちょく食堂で昼を一緒にする程度の中だった。入学当初に情報交換を色々していた名残でそのまま続いていた。私も彼もそこまで群れるたちではなかったが、この昼食会というには些か以上に小ぢんまりしすぎるものは、たわいもない会話をしながら惰性で続いていた。
そんな腐れ縁が続いた2回生のある日、突然彼から付き合ってくれないかと切り出された。中高時代に恋愛に割く時間はないなどとほざいた人間のセリフとはとても思えず、言葉に詰まった。即答などできず、とりあえず持ち帰って要検討という先延ばしを行った。
どういう風の吹き回しだろうか。別に私としても彼が嫌いという訳ではなかったが、かといって恋愛対象としては見ていないままだった。突然好きだなどとカミングアウトされても、非常に対処に困った。というより彼に一体何の心境の変化があったのか。
悩んでいると、目敏く母親に咎められ、隠すことでもあるまいと喋った。母親は彼について根掘り葉掘り聞き、付き合うのはやめた方がいいとスッパリ言い切った。わお一刀両断と思いつつ、理由を聞くと出るわ出るわ。大体中高6年一緒で、ここまで告白しなかったのはおかしいとか、以前の言動からして、いざとなれば捨てられる可能性は高いとか。
そんな数多挙げた理由の中に、彼が爪を噛むからだというものがあった。何故かと問い返すと、爪を噛むということは、つまり自傷行為でストレス解消をしている人間ということだ。そんな人間が恋人などという都合の良いストレスのはけ口を見つけると、そちらへの加害行為でストレス解消をする可能性がある、というのだ。
別に母親は心理学や医学を修めた人間ではない。元からもっともらしいことをもっともらしく言うことに長けていたから、この発言にも根拠はないのだろうとは思った。だが、何となくその言葉が引っかかった。どちらかというと紳士的な彼が、そう言う行動に走るのだろうか。いや、他人なのだから何があってもおかしくはないが。
一晩考えた上、告白自体はお断りした。結局彼を恋愛対象として私が見られなかったのが、彼の敗因だった。彼は寂しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したかのように別の話題に移った。私も何事もなかったかのようにその話題に乗っかった。
だが、私の方が何となく気まずくなり、それ以降彼と会う機会を減らした。自分でも驚いたことに私は彼とメールアドレスもSNSも交換しておらず、直接合わなくなると何ら彼との連絡の手段を失った。そのまま私は大学を卒業して無事国家試験を突破し、薬剤師として病院で働き始めた。仕事も充実し、結婚こそしていないものの、恋人も出来た。いつしか私は彼のことを頭から排除していた。
彼の訃報が友人から届いたのは、初冬、風が急に冷たくなり始めた頃だった。耳を疑った、あの彼が亡くなったなどと。通夜と葬式の日取りが届いたので、仕事の都合上通夜に出席することにした。
友人に詳しい事情を聞くと、何と縊死とのこと。彼はあの後順当に医師免許を取得し、研修医として働いた後、そのまま研修先の大学病院で勤め始めた。だが、職場での人間関係を始めとして悩みを抱えるようになっていたらしく、それを誰にも相談できないままだったそうだ。そしてある日の朝、出勤してこない彼を不審に思った同僚が自宅マンションを訪ねると、マンションの一室で首を吊っているのを発見したそうだ。
彼の通夜には医局関係者や小中高大の友人を始め、結構な人数が集まっていた。およそ死んだ人間は美化される原則に基づき、彼を忍ぶ声があちこちで聞こえる。まあ元々彼自身が良い人だったから、そこまで美化されてはいなかったが。
棺桶の中の彼は死化粧以前に酷く白い顔で、大分頬が削れやつれた顔をしていた。老いたというには早すぎる年齢にも関わらず、どこかに根本的な老いを感じた。
ふと、彼の手を見ると、そこには彼が噛み続けた爪が。まじまじと見たことはなかったが、長年噛み続けた結果、爪の形は酷く歪になっていた。ギザギザの爪先、脇の部分が消滅している爪本体。あの時の母親の言葉を思い出した。爪を噛むような人間は、その傷害行為を外に向ける可能性があると。
でも、それが真実だとしても、結局彼は外に向けることなく、寧ろ自傷行為を極限にまで高めて死んでしまった。あるいは、それを外に向けさせる相手がいなかっただけかもしれない。だが、私は思わざるを得なかったのだ。あの時、告白を受け入れていたら、果たしてどうなっていたのだろうか。
勿論、彼が豹変した可能性は否定できないし、無理に恋愛対象でもない彼を受け入れれば、逆にもっと酷い結果になった可能性も否定できない。それでも、私はひょっとしたら彼を救う機会があったのではないか。そう思う気持ちを抑えられなかった。生前の彼の穏やかな表情と、おっとりとした喋り方。それがたとえ仮面に過ぎなかったとしても、私はその彼しか知らなかったのだから。
焼香を済ませると、私は足早にその場を立ち去った。本来はもっと長くいるつもりだったが、彼について話す人々がどうにも白々しく思えた。自分も、最後まで彼の内面を知る由も無かったという点では同じであったが、せめて生者の為でなく、死者の為に祈りたかった。優秀な後継ぎを失ったと嘆く彼の父親を横目に、私は葬儀場を後にした。
彼の好きだったピンクのシクラメンが、近くの家の窓辺に咲いていた。
作中の主人公の母親の言説に、医学的心理学的根拠はありません。
また、爪を噛む人への偏見・不当な差別を助長する意図もありません。




