カワラズノセカイ
場所は、新川ポートアイランドと繋がった千葉県内のある建物の中。
そこで、私は、訊いた。
「これは、どういうことですか?」
目の前には、ろくに手入れもしないのに長い髪をしているため、年がら年中と言っていいほど、髪がボサボサの女。その女は、少し髪をいじった後に、
「まあ、そう、怒らないでくれ、セラ。昨日、飲み過ぎてね。頭に響く」
頭を押さえて、気だるそうに答えるだけだ。
「……多賀谷シンパチには関わるな、とあれほど言ったはずです」
ここは、私が所属している組織の本社である。
そして、そのリーダーが目の前にいる女、名前は『室長』、あだ名やコードネームではなく、室長と言う名の女だ。
「とにかく、私も、多賀谷シンパチの家へ向かいます」
「あー、それは、許可できない。今の君は何をするかわからないからね。いいかい? これは、命令だ。君はこの部屋を出るな」
「……」
室長はアナザーではないため私を捕縛する方法はない。この建物には、“仕掛け”が色々と張り巡らされているが、脱出して、多賀谷シンパチを助けに行くことは不可能ではない。
「いい加減に諦めろ、セラ」
ドアの前に立つこの女さえ、いなければ、
私はその女を睨み付ける。
腰まで流れるワインレッドの髪を後ろで一本に結い、墨汁で染めたような黒い包帯で両目を覆った女、服は黒い洋風のドレスで髑髏柄のレースが付いており、左手には鉄製の杖、そして、右腰にはズシリと重みのある刀が下げられている。
カラナ・ガルデラ、私と同じ、ここに所属している者でアナザーの一人。
「カラナ君の言うとおりだな」
その後ろから扉を開いて現れたのは、白髪で体格のいい男、服装はスーツ姿だが、神父服でも着せれば似合いそうな姿で、実際、一般人であろうと罪人相手だろうと誰の目の前でも笑顔を絶やさぬ男。この組織の副リーダー格だが、アナザーではない。
「彼だけを特別扱いにするわけにはいかない、例え、君が責任をもって監視するとは言ってもだ。まあ、自分の責任で彼を巻き込んでしまったことを悔いるのはわかるが、事件が起こっている以上、もはや、討論する余裕はない、彼は我々の監視下におかねばならん」
「あの人は、そんなことをする人ではありません」
「失笑、セラ。あなた、あいつと会って、何日目だ? 一週間どころか三日も経っていない、それで、人を判断するのは不可能。ましてや、相手はアナザーとなれば」
「それでも、彼はやっていない」
目は見えないが、カラナはこちらを見ているはずだ、カラナの見えざる目と睨み合うこと数秒。
「やめたまえ」
いつの間にか、飲み物を取り出して飲んでいる室長。恐らく、デスクの下に隠してあるつもりの冷蔵庫から取り出したのだろう。
「室長、それは酒ではないだろうな」
「安心したまえ、一応は仕事中だからな。これは、アルコールの入ったミネラルウォーターだよ」
「世間一般的にそれを水割りと言うのだ」
「そんなことはどうでもいいのです、カラナがここにいるということは彼を迎えに行ったのは、九条ですか?」
「ああ、彼女なら力を調べることにも適任だ。危険な相手であろうと奇天烈な力を使おうと、隙さえ突けば捕獲が可能だからね」
「力を調べる……と言いましたか?」
私はその意味をよく知っている、それは、アナザー同士で殺し合わせるという意味だ。どちらに転んで、結果、アナザーの数が減っても、増えても、彼らにとっては問題ない、何故なら、上の連中に言わせれば、味方であろうとアナザーは邪魔者に過ぎないからだ。
私が腰にかかった拳銃を触れると、背後で、カラナが刀を握る、左手は杖を突いたまま、右手で刀を握っただけ、構えも何もない、小学生が新聞紙を丸めて刀にして持っているような未熟な持ち方。
だが、それでも、動けない。彼女の力量はわかっている、ゆえに今は動いてはいけない、この距離は彼女の間合い、しかも、部屋が狭すぎる。
「やれやれ、身内の争いはなしだ。それに、セラも安心していい、先ほど連絡があった。多賀谷シンパチは九条の『ドッペル・ナイト』を一度は打ち破って、今は五体満足でこちらへと連行されている最中だ」
「それは、本当ですか?」
「味方に嘘を吐いてどうなる?」
本当かどうかは疑わしいが、一先ずはホッとする、九条の、特に知美の方の性格は危険だ。あの子は叱られるためなら、人間を切り刻むことすら平然とする、勝美という制御装置がいなければ、今頃は、牢獄か、地獄かのどちらかにぶち込まれていてもおかしくはない。
「しかし、興味深いことを聞いたぞ。何でも、彼のアナザーは、九条の影の世界まで破壊したらしい。いきなり、『ビジョン』を使ったことも考えると、わずか、数日でここまでアナザーの力を発揮できるものかな、セラ?」
室長の寝ぼけた眼差しがこちらへと向けられる。だが、その瞳の奥の光はまるで、胸の中の闇を見透かそうとするほど鋭い。
「そのことならば、甲崎信吾もまた、わずか一週間程で、我らと同等の力を身につけていました。懸念するほどのことではないかと」
「ふふ、それもそうだね。あの甲崎君だっけ? 彼は才能があったみたいだね。仲間に迎え入れられずに残念だよ。ああ、それと、少し、興味深いデータを手に入れてね。彼、ああ、多賀谷シンパチ君のことだけど、彼は『東京崩壊地震』の際に、例の崩壊ポイントにいたらしいよ。そこで、母を失い、怪我をしてから親戚の家に預かられているが、うん、担当医の話だと、一部だが記憶障害が診られたらしいね。まあ、子供の頃だ。嫌な記憶は胸にしまっておいたのかな」
多賀谷シンパチの資料をめくりながら、関心があるのか、ないのかわからない口調で語る室長。
「東京崩壊地震? 室長、確か、それはガセだったはずだが?」
カラナの問いに室長は頷き、
「ああ、ガセだよ、ガセでなければ、ここも無事であるはずがない」
東京崩壊地震、過去に掲示板で話題になった一件だ。ある日、東京都の地震計測器が測定不可能な数値を察知し、それに、慌てた気象庁は東京から隣接する県全てに避難命令が出されて騒動になった事件だ、結局、地震は起きたが、震度は3、怪我人の数はむしろ、避難命令で慌てて逃げ出して怪我をした数の方が圧倒的に多かったとか、何より、この地震、おかしな点があり、本来は発生後に観測できるはずの地震が発生前に観測できたという点である。
まるで、世界の崩壊を予知したかのように、しかし、結局のところは掲示板のネタになるだけの事件でしかなかった、崩壊ポイントとは、その地震の震源地のことである。
その時、静まり返った部屋にノックの音が響き渡った。
「おや? 誰かな?」
部屋が開かれると、そこには、誰の姿もない。否、視線を下に向ければ、小学生くらいの少女が顔を覗かせている。
「あのー、九条さんがお帰りになったようですよ?」
「ああ、白井さん、知らせてくれてありがとう。お仕事に戻ってくれ」
「はい」
室長の言葉に少女は頷くと、部屋の扉を閉めた。トテトテと、少女の足音が遠ざかる音が部屋に響き、次に、少し大きめの足音がこちらへと近づいてくる。
部屋の扉が再び、開かれると、そこには、眼鏡を外している九条勝美の姿、その片腕は途中で途切れるとその先は黒色に染まり、その手が掴んでいるのは、男の影。
影が部屋に転がされると、九条が携帯を操作、瞬間、
「ッ、眩し、ここは、どこだ?」
影と入れ替わったのは、当然、眩しさに目を細めた多賀谷シンパチ。
「シンパチ、申し訳ありません」
彼の姿を見て、私は素直に謝罪する、もはや、彼を巻き込まないわけにはいかないらしい。
「セラ……だとしたら、ここは」
シンパチが警戒の色を強くし周囲を見渡した後、視線を向けたのは、椅子にもたれ掛かった、この組織のリーダー。
室長は口の端をつり上げると、シンパチへと告げる。
「ようこそ、多賀谷シンパチ君。世界政府直属、アナザー対策室『カワラズノセカイ』へ」