運命の環
「相田さん?」
先生に呼ばれて花音は長い長い回想から引き戻された。花音の選択科目・音楽の先生だ。
「どうしました?」
「あなた、音楽の教科リーダーでしょ? 今日の音楽はリコーダーを使うからってみんなに伝えといて」
「分かりました。他には何かありますか?」
「いえ、特にないわ。じゃ、お願いね」
そう言って音楽担当の教員は去っていった。
花音はふぅと息をついた。
……あたし教科リーダーになった覚えないんだけどなぁ。
それでも頼まれたらやってしまうのが花音の悪い癖である。
「さて、じゃあ伝えに行かなくちゃだね」
花音は降りかけていた階段を登り始めようとした、その時。
世界がくるりと回転した。
「きゃ……⁉︎」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
爽太は下に降りて売店でジュースを買っていた。
(ん? あれって……)
教師と話しているのは花音だ。
邪魔しないほうがいいかと思い、他の階段を使って教室へ戻ろうとした時だった。
「きゃ……⁉︎」
花音の声がした。振り向くと花音が階段を踏み外して落ちそうになっていた。
「花音⁉︎」
慌てて駆け寄る。
ドサッ! 2人一緒に床に倒れた。花音は爽太の上に乗っていたから怪我はなさそうだ。
「いたた……って爽太⁉︎や だごめん大丈夫⁉︎」
花音が慌てて爽太の上からどく。
爽太は笑って「大丈夫大丈夫」と軽く手を挙げた。
「それより花音、お前のが心配だよ。大丈夫か?」
花音はきょとんと爽太を見つめ、それからにこっと笑った。
「あたしは平気よ。誰かさんがあたしを助けてくれたから」
いたずらっぽく笑う花音。
……なんだろう、この笑みを見ていたら何だか動悸と息切れが。
それにドキドキと胸も鳴っている。
「そ、爽太? どうしたの? 怪我した?」
花音が顔を近づけてくる。爽太は思わず顔を後ろに引いて「い、いや平気」と平気じゃなさそうな声で言った。
「でも顔赤いし……熱でもあるんじゃないの?」
「ないないない平気! それよりお前選択の伝言は⁉︎」
花音はハッとした顔になり、「いっけない! 行ってくるね!」と駆け出そうとした。が、花音は立ち止まり、こちらをくるりと振り向いた。
「ありがとね」
そう言い残し花音は今度こそダッシュで教室へ戻った。
爽太は顔を赤くし、謎の動悸・息切れ・胸のドキドキに悩まされながら教室へ戻った。
教室で若菜と桃李に散々からかわれる事となったのは言うまでもない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
帰り道。花音は用があるとかで外れているので若菜・桃李・爽太の3人だ。
爽太は2人に昼間あった事を話していた。
「それが花音にしては珍しくてさ」
「そうよねぇ。あのコぽけーっとしてるようで意外と見てるし」
若菜は爽太と同意見、桃李も「まあ花音だってそーゆー事ぐらいあるだろ」とやや右翼気味だ。
「でも用事って何だろなー?」
爽太は空を思い切り仰いだ。
若菜は少し胸を痛めながらからかうように言った。
「なぁに、そんなに心配?」
案の定、つつくと爽太は顔を真っ赤にして
「ば、バーカ! そんなんじゃねーよっ!」
と叫んだ。若菜はこの分かりやすい幼馴染にくすくすと笑うふりをしながら「照れるな照れるな」と言ってやった。
ーー気づいてないんだね、爽太。男の子が女の子をそんな風に想うなんて……
「答えは1つだよ……」
若菜は泣くのを堪えるように目を瞑った。
桃李はそんな若菜を彼女よりも辛そうな瞳で見ていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ただいま帰りました……」
花音はボソッと呟くように言いながらドアを開ける。
誰もいない、広い家。
春輝が日本を旅立ってからしばらくした頃に、花音は自主的に施設を出て家を借りた。
もちろんバイトなどは出来ないので母方の遺産を使って暮らしている。中学3年間暮らしていけるくらいのものは残っている。
花音はふぅとため息をつきリビングの電気を点けた。
「さて……」
花音は制服の袖をまくり上げ、洗い物をし始めた。
施設を出て自活するようになってから、炊事・洗濯・掃除などの家事をテキパキとこなせるようになった。
今日の夕飯は肉じゃがと焼き魚という、和食のオンパレードだ。
それらが丁度出来上がった頃。
『ピーンポーン』
玄関のチャイムが鳴った。誰だろ、こんな時間に。
「はーい……?」
ドアを開けると……
「パァン!」
「きゃ!?」
破裂音がして、花音は思わずその場に伏せた。
途端に笑いが起こる。声の主は爽太と若菜だ。
え。な、何?
びっくりして腰を抜かしていた花音に手が差し伸べられた。
「ごめんな、うちのバカがやりたがったからさ」
声の主は桃李だ。何となくその手をとって立ち上がる。
そばで大笑いしているのは若菜と爽太だった。
「な……何であたしの家知ってるの……?」
花音は困惑しきりだ。
爽太が笑いを引っ込めるのに苦労しながら説明し始めた。
彼らによると、今日帰り道に偶然この家を見つけたそうな。
「で、何となくチャイム鳴らしてみたら……という事だよ」
「……それでご飯食べさせろ、とか言うんでしょ? 全く……」
そう言いながら花音はドアを開けたまま中へ入った。
それから少しした後に3人が入ってくる。
「あら、今日肉じゃが?」
「うん、一応少し多めに作ってあったからよかったよ」
「ラッキー! 腹ペコなんだよ」
「お前少しは遠慮しろよ」
久し振りの賑やかな食卓。花音は施設にいた頃以来の楽しさを感じていた。
「……でさー!」
「ウッソすごい!」
「でもね〜」
「それはないだろ」
賑やかに会話をしながら食事が進む。こんなに楽しいの久し振りだ。
3人は花音の家に泊まる事となった。
若菜は花音の部屋、桃李と爽太はもう1つの空き部屋だ。布団も余っていたのでちょうどよかった。
「そーいえば花音の家泊まるのって初めてだね?」
若菜が部屋着に着替え花音のベッドの上でクッションを弄びながら言った。
「確かに……っていうかそもそも若菜と会ったの最近だしね」
「あそっか。だから泊まりきたの初めてって当たり前なんだ」
若菜が納得したように手を叩く。
そこへ。
「おーい、いるか?」
爽太の声だ。若菜がドアを開ける。
「どうしたの爽太。なんか用?」
「いや……ちょっと花音借りていいか?」
自分の名前が出たことで不審に思った花音は、
「は? あたし??」
と自分を指差した。
「そ、お前。ちょっと来てくれ、話がしたい」
「いいけど……」
そう言って花音は爽太と一緒に出て行った。
なんだろう話って。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ね……ねぇ、何よ話って」
「……人来ないようなとこあるか?」
「あんた聞いてんの人の話!」
「いーから答えろって。あんのか?」
「……あるわよ」
「んじゃふて腐れてないで案内してくれ」
花音は渋々一階の使ってない部屋を案内した。今は物置にしている。
「ここよ。ちょっと埃臭いけど我慢してね」
ギィッとドアを開けると少し埃が舞った。
「掃除してないのか?」
「してるわよ、でも使ってないくせにものは置いてあるから埃がたまるの」
窓を開けて埃を外に出す。やっと息が出来るくらいになったところで花音からまた聞いた。
「で? 何なのよ話って。くだらない事だったら張り倒すわよ」
そう言うと爽太は「くだらなくねーよ」とふて腐れたような顔をした。
「……お前さ、なんかあったのか?」
え、と花音は口ごもった。
「なんかあったろ? 今日じゃなくても。過去の事でもさ」
「……ない」
花音はやっとそれだけ言った。
あんな事、言えるわけない。
「ホントか?」
「……ホントよ」
じぃぃっと花音の目をまっすぐに見つめる爽太。
花音は目をそらして黙りこくった。
「……なぁ。俺、そんなに頼りないか?」
意外な問いに虚を突かれる。
「花音が持て余してる事話せないくらい頼りないか?」
「そんなこと……」
「言いたくないならそれでもいいけど」
無理に話さなくてもいいけど、頼りないって思われるのは辛い。
爽太はそう訴えた。
花音は首をぶんぶんと振った。そうじゃない、そうじゃない……。
「違うの……頼りないとか、そういうんじゃなくて」
「じゃあ何だよ?」
「……怖いの」
花音は思っていた事を吐き出した。
「あたしの事を全部知られて、嫌われたり軽蔑されたりするのが怖いの!」
花音はぎゅっと自分の両腕を抱きしめた。
「あたしはあんたの事を頼りないなんて思ってない。でも、いくら優しいあんたでもあたしのことを知ったらきっと嫌悪する。そしたらあたしはまた1人になる。それが……怖いの」
たった1回でも。実の父親に身体を穢された花音を嫌悪する人間は多かった。
その年で処女を捨ててるなんて。
汚ならしい。
周りはそんな侮蔑の目を向ける人間ばかり。
同情してくれる人間もいた。けれどそれすらも花音には怖かった。
きっと爽太も、若菜も、桃李も。
本当の事を知れば、きっと嫌いになる。
2度と目も合わせれくれなくなる。1人になる。
それが怖くて今までずっと言えなかった。
そんな事をすべて吐き出した。
「今まで言えなくて……ごめんね」
爽太は大まかな事情を察したらしい。花音に何も聞かずただじっとそばにいた。
どれくらい経ったろうか。爽太は花音に向き直り、そっと目元を指で拭いてくれた。
花音はその時初めて自分が泣いていると気付いた。
「ごめん……ごめんね爽太」
「もう謝るなって。……俺は敢えて何も聞かない。ただ……昼間は何かあったのか?」
「……そういえば言ってなかったね」
花音は涙の跡が残っている顔でくすりと笑った。
「……お墓参り」
「誰の?」
花音は少し目を伏せた。
「お母さんと……春輝君て人の」
爽太は案の定、「お袋さんは分かるけど……誰だよ春輝って」と怪訝な顔になった。
うーん、と花音は言葉を選びながら話した。
「あたし、あの後施設に入ってたのね。そこで会った人なんだけど……」
「友達?」
うーん、とまた花音は困った声を出した。
何て説明したらいいかな、と呟き、それから言った。
「友達って言うか……あたしの好きな人」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「す……好きな人?」
爽太が確認すると花音は少し顔を赤らめて頷いた。
「お前の?」
花音はまた頷く。
「……でも、イギリス留学に行く途中の飛行機で事故にあったの」
どきりとした。爽太が背負っていたものと同じ気がしたから。
「それを知った時、あたしすごく後悔したの。もっと強く引きとめればよかった。あたしも一緒に行ってればよかった、って」
でもね、とひっくり返した声は強かった。
「ある日思ったの。あたしは望まれて産まれた子じゃないかもしれないけど、あの時一緒に行って一緒に死んでたらみんなには会えてなかったなって」
爽太の心に灯りがともった気がした。
「あたしがあの時死んでたらみんなとは会えてなかったし、春輝君にも怒られる気がする」
花音はくすくす、と笑った。
「『なんで花音まで死んでんだよ!』ってさ」
そーゆー人だから、と花音は呟いた。
爽太は少し俯いて小さな声で言った。
「……そっか。なんか……言わせてごめん」
「やだ、気にしないで。あたしも話したくて話したんだし」
いきなり謝る爽太に花音は驚いたように両手を振った。
「……ねぇ、爽太は部活とかやんないの?」
「……は? 何でいきなり」
花音の唐突な質問に爽太は怪訝な顔をした。
「ううん、爽太って足速いでしょ? 陸上とかやんないのかなって」
そういうことか。爽太はやっと理解した。
でもーーー……
「……俺はやらないよ」
「あら、どうして?」
足も速くてスラッとしてるし、スポーツにはうってつけだと思うのに。花音はそう言ってくれたが爽太はもう二度と陸上をやる気はない。
自分だけやりたい事をやるなんて許されない。
「……決めてるんだ、もう二度と陸上はやらないって」
「……そっか」
花音もそれ以上は追及せず黙った。
傷を抱えた2人の輪はここから廻り始めたのかもしれない。