春の優しさ、夏の非情さ
すぐに仲良くなった4人がそんな話題で盛り上がっていたのは5月のある日、昼休みだった。
花音が若菜や桃李、爽太を呼び捨てにすることにも慣れ始めてきた頃、そして3人も花音を呼び捨てにすることができるようになった頃だった。
「桃李はどの季節が好き?」
花音が訊くと桃李はすこし考え込んだ。
「俺? 俺は……冬かなあ」
「あら、桃李って冬が好きだったっけ?」
若菜が意外そうに桃李を見る。桃李も笑って答えた。
「だってホラ、冬っていろいろあるだろ? だからかな」
「あー。正月とかクリスマスとかだろ?」
爽太がからかって笑う。
「お年玉とかもらえるしな。そーゆう爽太は何だよ?」
「俺? うーん……」
爽太は少し考えて「夏だな!」と明るく答えた。
「何で夏なの?」
花音が訊いた。爽太はまたうーんと考え、
「やっぱ夏が1番活気があるからかなあ……俺は好きなんだよな」
「ふぅーん……。若菜は?」
「あたしも夏かな。アイス安くなるし」
「ってそこ⁉︎ 夏だったらかき氷とか言わない⁉︎ そこでアイス⁉︎」
「そりゃあもう。あたし=アイス、みたいなもんだし?」
「何じゃそりゃ!」
花音が若菜に突っ込んだところで桃李が入ってきた。
「花音はどうなんだよ? いつが好きなんだ?」
花音はすこし考える様子を見せて言った。
「あたし……は春かな」
少し遠くなった瞳。何かを思い出しているのだろうか。
「何か特別な思い出でもあんのか?」
爽太が訊くと桃李に小突かれた。
「バーカ。花音には秘密が似合うんだから訊くなって」
桃李のふざけたような口調に花音はくすっと小さく笑った。
「あたし次選択科目だから行くね!」
「行ってらっしゃ〜い!」
若菜が元気よく送り出す。花音の姿が見えなくなってから爽太は2人に説教された。
「バカねあんた! あのコの顔見なかったの!?」
「あれは触れないほうがいい話題だったんだって!」
桃李と若菜に寄ってたかって言われる。爽太は口を尖らせた。
「だって知らねーもん。俺に人の表情読めとか無理だっつーの」
「まぁな。今度は気をつけろ」
桃李が静かに言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁー……」
花音は選択科目の教科書を持って階段を降りていた。
あんなこと思い出したの久し振り。
春輝君のことなんて。
まだ花音が恋という恋を知らなかった頃。
未来が真っ白で、こんな風に彼とのことが心に重くのしかかるなんて思ってもいなかった頃。
「懐かしいなぁ……」
あれは7年前。彼と出会ったのは、桜が散るか散らないか、という頃だった。
「花音ちゃん、この男の子は春輝君よ。この施設ではあなたのお世話をしてもらうから、よろしくね」
花音は7歳の頃に施設に入った。母は花音を産んでしばらくした頃に亡くなっている。父親が男手一つで育ててくれていたらしい。だが──……
「パ……パパ?」
「いいか花音。ここでされたことは誰にも言ってはならない。いいな、絶対言うなよ」
「や……だよ、やだ……助け……。パパ! 助けてぇ……っ」
──花音は7歳にしてこの世で最も重い罪を背負った。実の父の血によって穢された。
だからその頃にはもう誰も信じられなくなっていた。
だから春輝という少年も信じられなかった。
いつか彼も自分を裏切る。こんな自分を知ったら離れてゆく。
そんな風にずっと思っていた。──あの時まで。
ある日の夜だった。
──月が綺麗だなあ……
花音は施設の庭に出て空を見上げていた。
「……そっか、今日は満月なんだ」
呟くと「そうだよ」と静かな声がした。
ぎょっとして振り向くと春輝だった。
「春輝君……だったっけ。何してるの、こんな所で」
精々嫌悪感たっぷりに言い放つ。
春輝はそんな花音を気にもせず、「君こそ何してるの、風邪引くよ」と毛布を持って来た。
「触らないでッ……」
毛布を差し出してくれた手が花音の体に触れた。それだけでその手を払いのけてしまった。
案の定、春輝は少し驚き、そして傷付いた顔をした。
「あ……ごめ、なさ……」
花音は目をきゅっと瞑って春輝の前から逃げ出した。
「花音ちゃん⁉︎」
春輝が呼び止める声も聞かずに走った。
いつの間にか施設を飛び出して知らないところに来ていた。
……どこ、ここ。
怖い。暗い。ひとりぼっち。
そこへ。
「あっれ〜? こんな所にガキがいるよ」
粗野な男の声。振り向くと、──昔、花音を襲った父親と同類の匂いを漂わせた男が何人か居た。
「かっわいーじゃん。ねぇ年いくつ?」
花音は答えない。
「ねぇ」
男はさらりと爆弾を放った。
「いくら出せばヤらせてくれんの?」
背中に氷を入れられた気分だった。
何、言ってんのこの男。
「こんな夜遅くに外出てんだからもちろんヤル気満々だよねぇ? ほら、いくら出せば良いの?」
男は花音の顎に手を当てて顔を上げさせたが、花音は答えない。男はそんな花音に苛立ったのか後ろにいた男たちを呼び、「このガキやるぞ」とドスの効いた声で言った。
男達は見る間に花音に群がり、足を開かせる。
男達の手が身体に触れる度肌は虫が走ったような悪寒がする。
やだ、だれか──そう思った時、ある少年の顔が浮かんだ。
──助けて!
「……るき、君。春輝君ッ! 助けてぇ!!」
その時。バキィッと人を殴り飛ばす鈍い音が響いた。
そして、そこには花音が思った通りの人物がそこに立っていた。
「なにしてんだテメェ!」
花音の足を持ち上げていた男を殴り飛ばしたのは春輝だった。
「春……輝君……」
「大丈夫か花音! 怪我は⁉︎」
「な……ない……」
ほーっと春輝が大きく息をつく。
「おいガキ」
2人はハッとした。振り向けば先程の男どもが指をバキバキと鳴らしてこちらを睨んでいた。
春輝は花音を後ろに庇った。
「大人のお楽しみを邪魔するとはいい度胸じゃねーか」
「あ? 大人の楽しみぃ〜?」
春輝は自分よりも大きい男達を見上げていた。だが、その小さな体から発せられる気迫は男たちよりも強かった。
「そんなん知らねーよ。俺は見ての通りガキだし?」
春輝は必要以上に男たちを煽っていた。
「あんたらこそこんな小さい女の子犯そーなんざ性根が腐ってますねぇ〜?」
「クッソガキ……。やっちまえ!」
うおおおっと男たちが春輝に群がる。
春輝は花音に「離れてろ!」と指示をした。
その声で花音が弾かれる。
まだ少年の春輝は囲まれたら見えない。だから花音にはどうなっているのか分からなかった。
「春輝君……」
どうしよう、春輝君がやられちゃう……
あたしならどうする? どうする──こうする。
タッとその場から少し離れた。花音の叫ぶ声が聞こえるギリギリのところまで。そこで、
「お巡りさーん! こっちで喧嘩が! 急いで来て‼︎」
男たちが露骨にぎょっとする。やがて1人の男がチッと舌打ちをし、「戻るぞ!」と全体に指示をした。
やがて男どもが去っていくと春輝は傷だらけでその場に座り込んでいた。
「花音……お巡りさんは?」
花音はふるふると首を振った。
「いるわけないじゃない」
ここには警察署もおろか交番もないのだ。警邏の人もここはあまり通らないところだ。たまに通ったりするが。
花音の言葉に春輝はククッと笑った。
「でっち上げか」
「うん。それより怪我すごいよ、あたし絆創膏持ってるから取り敢えずだけど手当てしよ?」
そう言って花音はポケットから絆創膏を取り出して春輝の額や鼻の頭、頬などに貼り付けた。
「すごい、服もボロボロ。どんだけやられてたの」
「まぁこっちも攻撃してたけどな」
「それでもやられ過ぎ」
ふふっと息が漏れた。春輝が意外そうに花音を見つめた。
「……何?」
「いや……花音が笑うの、初めて見たから」
自分は笑っていたのか、と気付いた。
いつから笑うことを忘れていたのだろう。
「……そうだね、あたし笑ったの久し振りかも。何でだろ、笑うと何だか……」
ぽろぽろと目から涙が出てきた。春輝が袖で拭ってくれる。
「泣くなって」
春輝は困ったように苦笑した。
「……もし良かったら俺と一緒に居てくれないか?」
春輝の唐突な申し出に花音は涙で濡れているであろう顔を上げた。
「花音のこと、もっと知りたい。教えてほしいんだ、そしてもっと頼ってほしい。……駄目、かな」
花音はふるふると首を振った。
「駄目……じゃ、ない、です。あたしも……春輝君のこと、もっと知りたい」
春輝はふっと嬉しそうに笑い、「取り敢えず施設に戻ろうか。先生たち心配してるよ」と言って立ち上がった。
施設には無事バレずに戻ることはできたが……
「……くしゅん!」
「お、おい花音⁉︎ 大丈夫か?」
花音は少し風邪気味になっていた。
「う、うん平気……。でもちょっと寒いかな」
「あんな薄着で夜走るからだろ?」
「ごめんなさーい」
春輝はため息をつき、施設を飛び出す時に放ったらかしにしていたらしい毛布を花音にかけた。
「ホラ、これかけてりゃあったかいだろ?」
「……うん。あったかい」
花音はこれまでにない程安心感を抱いていた。この人ならきっと自分を裏切らない、ずっと一緒にいてくれる。
2人は施設の中でも春輝がお気に入りだという部屋に入った。
「わ……あ」
「すげーだろ?」
天窓から見える無数の星々。
「キレー……」
「ここは天体観測したりするところなんだ。俺のお気に入りの場所」
「すごいね、こんな所があるなんて」
花音はほぅっとため息をついた。うっとりしている。
「……俺は元々親から虐待されててさ。そこから施設に入ったんだけど。最初はここの大人達全員があのクソ親に見えて、ヘドが出そうだった」
ズキリと胸が痛んだ。
花音が思っていたことと同じだったから。
「でもある日、ここを見つけたんだ」
花音は春輝の顔を見つめた。
春輝は天窓から見える星を眺めていた。
「この星たちを見て思ったんだ。『ああ、この世にこんな綺麗なものがあるんだ』って。それから星のことをたくさん勉強した。お陰で星に関してはかなりの知識を得たよ」
春輝はおかしそうに笑った。花音もつられて笑う。 だから今は幸せだよ。そう彼は言った。
今は親に感謝してる、とも彼は言った。
「だって親が産んでくれなければ俺はこんなに楽しい思いができなかったしな」
春輝がそんな思いを抱えているとは思わなかった。 花音も自然と口が開く。
「あたし……お母さんがあたしを産んでしばらくしてから死んじゃったの。それからお父さんが男手一つで育ててくれてたんだけど……」
今も思い出せば体が震える。
「……ある日、お父さんに……。あたし、お、襲われて……」
だから男の人なんて信じられなかった。でも──
「この施設に入って少し変わった気がする。ここの人達はあたしの事情を知っているのに優しく接してくれて」
嬉しかったの、と花音は呟いた。
「春輝君はあたしを助けに来てくれたよね。これからも、あたしが危険な目に遭ったら助けてくれる?」
すがるように春輝を見つめる花音を春輝は優しく抱きしめた。
「当たり前だろ。俺はお前が必要なんだ。きっと、お前が危険な目に遭ってたら何度でもお前を守る」
花音は込み上げてきた涙を拭うこともせず、うわああ、と声を上げて泣いた。
春輝が背中をさする。こんな風に声を上げて泣いたのはいつぶりだろう。
……知らなかった。
──人の胸って、こんなにあったかいんだ。
それからというもの、花音と春輝はいろんな事を話した。
食べ物の好き嫌いから天気のこと、果ては宗教や前世、政治などについても話していた。
花音は最初、春輝の話についていけなかったが、だんだんと分かるようになり、沢山沢山話した。季節はいつの間にか夏になり、蝉時雨がみーんみーんと降り注いでいた。
「あっついねー」
「もう毎日アイス食べるよな」
「うんうん」
そんな会話をする毎日。
日常が壊れたのは真夏の昼下がりだった。
「え……? 春輝君、ごめん、もう一回……」
花音は自分の聞いたことが信じられず、春輝に聞き返した。
「だから、俺来月からイギリスに留学するんだ」
春輝は感情を一切込めていない抑揚のない声で言った。きっと感情を込めたら堰が壊れてしまうからだろう。
「な……なんで?」
「天文学の勉強をしたいんだ。日本だとなかなか出来ない。だから──」
「あたしは必要じゃないの⁉︎」
花音は春輝の言葉をぶった切った。
「あたしのこと必要って言ってくれたじゃん! 嘘だったの⁉︎」
「嘘じゃないよ」
春輝は即座に否定した。
「じゃあ何で」
「でも、全てを捨てないと叶わない夢なんだ」
花音はそれ以上、何も言えなかった。
それでもなお食い下がるということは、春輝に夢を諦めろ、と言っているようなものだからである。
「……どうしても行くの?」
花音は小声で聞いた。
「……うん。ごめんな、花音」
春輝はぎゅっと花音を抱きしめた。
「あたし、ずっと待ってる、春輝君のこと、好きだから。好きだから行ってほしくないけど、好きだから夢を追いかけて頑張って欲しいの」
我ながら矛盾してる。春輝も驚くだろう。
案の定、春輝が少しびっくりしたのが伝わった。
だが春輝は花音をきつく抱きしめたまま、
「俺も離れたくないよ。でも俺は行かなきゃならない。……ごめん、ごめんな花音」
花音は首をふるふると振った。
「いいよ……頑張ってね、応援してる。待ってるから、ずっと」
花音が言うと、春輝も強く顎を引いた。
「ああ、頑張ってくる。そんで、天文学者になって帰ってくるよ」
心なしか春輝の声は少し泣きそうだった。
みーんみーんと蝉の声が響く。
緑の葉をたっぷりと蓄えた木々が風に揺れる。
そんな8月の夏真っ盛りの頃。
花音の世界で1番大切な人は花音の前から永久に居なくなった──。