イマジナリーアイデン
「イマジナリーアイデン」
なんともやりきれない一日だった。
凝り固まったため息を吐き出して、SNSのアカウントにログインする。軽く画面をスクロールして、タイムラインをななめ読みする。ほとんどのアカウントの発信は、アイコンをみるだけで中身までは読まない。画面のいちばん上まできて、私はキーボードの上で指を走らせる。
インターネット上に、私の影のようなものが生まれていく。どこか知らない景色の写真や、縮小に耐え切れずつぶれたアイコンの中に、ぽつりと卵のデフォルトアイコンの投稿が混ざった。意味のない空騒ぎや、ポエティックな反省の中に、二人分のピザと、チューハイにビールの写真が付けられた私の投稿が混ざる。
「今日はお疲れ様サプライズしてくれた! 大学生活、これがあるだけで頑張れる」
短い発信だ。彼氏なんてことばを使わないことがいつから暗黙のルールになったかはわからないけど、踏襲する。主語がない言葉は恋人のことを表しています。と、後世ではいわれるのだろうか。
すぐに返信が画面に現れる。
「凛子ちゃん、お疲れー。準備からいろいろありがとねー!」
「こちらこそありがとう! ミホも今日はお疲れ様でした!」
短いリプライを送ってから、ウインドウを閉じてパソコンの電源を落とす。まだ返信があるかもしれなかったが、私は基本的には返事しなかった。
バカらしい。
ベッドへと倒れこむ。
やはり、演習のペアに岸田美穂を選んだのが間違えだった。選んだ。なんて言い方をしたら彼女はきっと怒るだろうけど、選んだのは間違えなく私で、そのことがよりいっそう私のやるせなさを増長させた。
枕にうずめた頭の中で、今日の発表がリフレインする。岸田美穂の低く無愛想な声が。聴講者の白い眼と笑いを押し殺した口元が。少し困った顔をした教授の質問に岸田美穂が口ごもる様子が。
できるだけ目立たないように生きていたかった。そんな私のささやかな願いを、岸田美穂はずっと無視する。目立とうとすることは、不足していることを主張しているのと同じなのに。
岸田美穂が、「もの静かに見えるけど、話してみたらすごく自分をもっててすごいよ!」と自分の友人に私を紹介したことがあった。自分をもっている。という言い方に、彼女の友人たちはみな短く視線を交わした。
「えーそんなことないけどなあ」と、柔らかく否定する。こういう、肯定も否定もダメージになるようなことを、岸田美穂はよくいう。
「プロデューサーかよ」
自分の口から現実世界へとつぶやいた言葉は、一人の部屋には虚しすぎて、私はそっと眠りまで瞼の裏を見つめた。
「ふーん、つまんない発表。中身ねーな」
翌日の、別な演習発表で、昨日の失態をけろりと忘れて岸田美穂は発表者をけなした。
私はノートを鞄に入れて返事を濁した。
授業が終わって移動してる間も、岸田美穂は「高い声出して媚びてんのかな?」「笑えば済むってものじゃないのにヘラヘラしやがって」とあれやこれやと発表者のダメ出しをしていた。その姿は、テレビの向こうのタレントにケチをつけるおばさんのようだった。
「リオー!」
「あっ、お疲れ美穂!」
岸田美穂は、廊下の向こうの友人を見つけ、駆け出す。動物の唸り声のような響きに周りの学生が一瞬振り向き、すぐに見てはいけないものをみてしまったかのようにもとの会話に戻っていった。岸田美穂の、さっきの発表者のことをおとしめる自慢げな声が、わざとゆっくりと歩く私の耳にはっきりととんできた。彼女の友人は「わかるー」「だよねー」といって首を縦に振っていた。
「でもやっぱり、凛子が一番私をわかってくれてるわ」
去っていく友人の背中を見ながら、岸田美穂がぽつぽつと語り出した。
「わりとみんな、うんうんしかいわないし自分がないっていうか」
「そう? うれしい」
私はにっこりと笑った。岸田美穂はなにか言いたそうに口を半開きにしてから、すぐにニコリと笑った。前のように、彼女の友人の前に私を引きづり出すようなことをしなくてよかったと、私はホッとした。
「ヤバい! 夏がはじまってしまう! 今年こそ二人でどこかに行きたいなあ」
今日も寝る前に文字を打ち込む。
私の発信のすぐ上に、岸田美穂のアイコンがポッと出てきた。
「意味深なこというのって、なんなんだろうね。もっとストレートに、自信もてばいいのに」
同意を表す星が、すでにいくつか押されていた。
更新ボタンを押すと、岸田美穂の投稿は消えていた。
ゴミ箱から、食べきれなかったピザの腐りかけたにおいがしていた。ピザはまるまる一枚残されていた。キッチンにはプルタブが開けられたまま中身の減っていないビールが置きっぱなしになっている。
「彼氏、ほしいな」
声に出す。自分がない人間なんていないのにな。と思った。
岸田美穂の知らない凛子が、SNSの中ではしゃいでいた。