シュレディンガーの密室世界
ゆめぜっと観念ミステリ第三弾。
一
朝。
剥き出しの木造の一室で目を覚ます。
正方形の間取り、中央にあるベッドにて。
ベッドのナイトテーブル。
引き出しを一瞥し、私は無意識に目を逸らす。
立方体…四方が几帳面な等間隔に並んでいた。
窓がない代わりにいずれもドアが備え付けられている。
ここは取り囲まれた、中央の部屋だ。
それを知ると息が詰まり始める…
そして樹木の芳香…
ドアはしっかりと施錠されていて、内部からは開けられない、それを何故かしら知っているのはなぜだろう。
ぼやけた頭で考える事はそういった取り留めのない、答えの出ない疑問であり、それ以上に眺め渡す樹木のどっしりとした色彩。
私の思考は併走する。
これが初めての朝であり、私は起き上がってこれから隈なく部屋を調べ始める…ナイトテーブルの引き出しを除いて。
もうひとつ。
私はこの一日を何度も繰り返していて、五年経つ。
翌朝になればまるで初めてのような心地で同じ一日が始まっていく、サイクルは延々と続いていく。それは淡々と手渡され、私はそれを何度も受け入れている…すべてが当たり前のように。
それは言うなれば生きていて死んでいるシュレディンガーの猫自体と同じ心境なのだ。
結局私はこの部屋を精査していく運命にあるのだ。
そのいちいちが不可解であり、併走して懐かしかった。
取り囲まれた一枚一枚を…柱のひとつひとつを…
指でなぞったりなぞった指を嗅いでみたり直接嗅いでみたり。拳をつくってコンコンと。あるいは凝視。
じっと眺めていると、木目の個性に時間を奪われる、ここにいれば時間が貴重であるとは考えなくなる。
それなのに好奇な眼差しでつぎつぎ眺め渡す私がいるのだ。
一通りそれが済むと私の行動は段階を上げる。
ベッドとナイトテーブルと電灯以外に家具はなく、私はそれ以外の間取り自体を調査するのだ。
基本的に押したり引いたりすることが主である、それで多くは事足りるのだ。四方は全く同じ造りをしているから、目をつぶってグルグルと回ればどれがどの面であるか判らなくなるだろう。ベッドのナイトテーブルを動かさなければそうなることは無いが、しかし正確な位置関係などに取り立てて意味はない。
部屋中にはありとあらゆる小道具が隠され施されている。板目と板目の隙間から細い糸が現れた、美しい糸であったがそれがどうしたというのだろう?
それでも私は初めてのように驚くのだ。
きっと、五年間の毎日で、欠かさず取り続けたリアクションではないだろうか?飽きもせず、むしろそれは日に日に洗練を遂げて行ったに違いないことだ。
探せば探すだけ、探れば探るだけ…この部屋には数え切れない仕掛けが埋蔵されてあるに違いないだろう。
しかし、私は余り行き過ぎる事はなかった。
本能がそうしていると思われる、本能?私は疑問に思う。ひょっとすればそれは経験の記憶の顕われなのかもしれない。
何度も同じ失敗を繰り返し、蓄積された結果に、無意識によるなんらかの忌避が生まれるのだ。
私は一日の終わりにベッドに戻って、翌朝すべてはリセットされてまた新たな一日が始まっていくのだろう。
ひょっとすると、私の失敗は、そのリセットを即座に要求するものなのかもしれない。つまり仕掛けによって私は死ぬのであり、一日の中途半端な時間でその短い人生は遮断されてしまうのだ!
下手をすると本能に逆らって毎日が半ばで、リセットされ続けているのかもしれないし。
つまりがすべては五年間の集積であるし、初日だった。
五年間の日々が、初体験されて、懐かしいのだ。
その記憶の感覚だけが確かにあった。
二
私がなぜベッドの脇に備えられたナイトテーブルの引き出しに関する様々なアプローチを拒んでいるのか?
それは、他の室内の小道具に抱いた本能的な警戒心と、似て非なるものだった。
なぜなら他の警戒心が漠然としたものであるとするならば、ナイトテーブルに関する警戒心は完全に具体的なものであったからだ。
私はその引き出しを引いてしまえば、玉手箱みたいに猛毒の白煙がもくもくと吹き上がる、ということを知っていたのだ。それはきっと今日という目覚めからの一日に限らずに、毎回の目覚めの恒例となっている認識なんじゃないかと想像される。
それは禁忌であった。この部屋に施された罠、その悪意や空虚さの言うなれば集大成である、と私は考えた。
そして、私は先程から考えあぐねているのである、それは身の危険に対する防衛本能と、対極する誘惑への鬩ぎ合いであり、その萌芽は小さな囚われに過ぎないが、下手をすれば僅かな執着心から逃れようのない偏執へと至る決まりきった運命の道筋を、思いもよらぬスピードで進行している事となって。
それは引き裂かれるようにこの身に降りかかって。そして思考は凍結されて本能だけが邁進して行く結果となる。
絶望は自分である。
甘い薫りの毒の蜜である。
空を密閉した行き止まりの高い高い壁に立ち尽くす、私は崩壊した、逆行世界の生贄なのだった。
この一日は繰り返されていく…途方もなく…その取るに足らない大河の一滴を、たった一度の一日の秩序の機能の成立のための絶対義務を、その不自由への転落を放棄したところで…私の一日はどうせ再び手渡され、何事もなかったかの様に始まって行くのだとしたら?
私の意識は乳白色の毒ガスの濃霧に侵されていった…
死。
無念な結末は連結された翌朝に消去されている、私は幾度死を迎え、朝を繰り返したのだろう?記憶は角を削られ茫洋とした領域である深層心理へと堆積されて、ただ誘惑だけが鋭角になっていくのだ…私は本能に逆らってみる、それは私に残された、数少ない自由意志だと思われてならなかった…
逆行!
ベッドの脇のナイトテーブルの引き出しへと差し出された私の手は…スローモーションに描かれて写っていた…
すぅ…
わずか数十センチの引き出しのレールの走行が、まるで数十キロメートルの線路の走行のように流されていた。
意識は逆流する…本能に…不自由に…私の高い壁は切り崩されて…奥まった世界の実相が響めき始めた……濃霧…濃霧…濃霧…濃霧……
ようやく視界が晴れ渡っていく……
朝?
私の意識は寸断されそして再起動された、朝…否、私は佇んでいる、意識の始まりがベッドよりの起床から始まっているのでなければ、それは朝ではなく別様の記憶障害なのだろう。
そして今、私は驚いていた。
引き出しから吐き出されたのは猛毒の白煙ではなかった、ならばどうして私はあのような具体的な警戒心を持ったのだろう?しかしその疑問もすぐに霧散した。
やはり眼前に奥まる情景こそが主眼となった。
それは深い地下へと奥まって闇と結ばれた。
渋い赤茶色の木製のナイトテーブルは、引き出しに連結して四つの脚が伸びていた。もちろんその脚の部分は脚以外空間が空洞となっている。
しかし…
私が今眺め落としている引き出しの内部。
木製家具の内側に、生々しい肉の襞で出来た壁面が現れていた、引き出しの底板はなく、代わりに深い井戸の底のような…それから更なる無限を想起させる深淵にまで深く伸び到達しているような……闇--
引き出された引き出しの真下やナイトテーブルの脚の部分は横から見れば何もない空洞の空間であるのに、それを真上から覗くと果てしない肉の壁と真四角に穿たれた闇の空洞の空間なのだ…まるでトリックアートだ……
見蕩れていた。
その内面世界の天井と呼ぶべき場所、ナイトテーブルの天板の真裏に当たる場所からは、乳白色の粘液が垂れていた…そしてそれは無数にあり、鍾乳洞みたいにツララになっていた。
すたっ……すたっ……
風を切る音が……
それは不定期なリズムで、しかし心地よいリズムで静かな音を立てて落下した…それは天井から…あるいはツララの突先から……
私は不意に衝動的に、空腹の発作が起こった、そして眺めているその粘液が私の唾液を分泌させた。
不気味で…不快な異世界のエサであるその分泌液に、私は食欲を抑えきれなくなっていた。
意識はもう、差し出される指先の本能に従う以外なかったのである…どろっ…粘液は見たとおりの感触で私の指を冷たく濡らした…まるで精液のような…乳白色のベトつき……
指をくわえた瞬間に私は衝撃を受けた。
脳に流れる、意識を包み込む、それは初体験の感覚であり懐かしい感覚だ…乳白色の粘液の色と匂いと感触とが意識や感覚に洪水のように押し寄せては通過していった……
私は満腹であった…
そこに得られるものは、長い歴史の集積であり、誕生の朝であった…
その記憶の感覚だけが確かにあった。
三
朝…何かが変わっていた。
それから幾年が過ぎた。
私はそれ以前に五年間の記憶を持っていた、しかしそれは懐かしい感覚と初体験の瑞々しい感覚が混淆していて、取り留めのない茫洋とした記憶でしかなかった。
それに比べ以降の幾年の記憶は定かであった。
それは繰り返される一日の堆積であり、しかしそれは消去されずに加算され進んでいく毎日なのである。
でも、それが過去とどう違うのかなんて何も言えないほどの、微々たる変化でしかないのかもしれない。
私はこの何もない部屋で時を過ごすばかり、そして定刻にナイトテーブルの引き出しを開ける。
それは食事のため。
乳白色の粘液を指で掬って飲み込むだけの。
しかし排泄もないこの食事に、食事と呼べるだけの定義が成立しているのかはわからない。
不思議なくらいこの狭い一室で、変化のない毎日を重ねていくだけだったのだ。
ドアを見詰めた。
この四方を囲んだドアに通じる世界はどんな世界だろうか?
物音一つ立てずに外の世界は私を相変わらずに遮断していた。
木製の筒状の円いドアノブが何度握られたことだろう?
それはただの飾りだ、それは単なる悪意であり、言うなれば空虚さの集大成なのだ。
そのドアノブは捻っても動かない、固定されたそれが回転するほどの巨大な圧力をもし掛けたとしても、空しく破損して取れてしまうだけに違いなかった。
密室。
食事と称される乳白色の粘液のおかげで、私は歳を取らないようだ、これを摂取している限り私はずっと回復し続けて死ぬことはないような気がしていた…
この狭い永遠に…意味はあるのか?
淡々と過ぎていく膨大な日常…引き出しを開けるか、闇を眺めるか、ドアを眺めるか、部屋に隠され施されたアイテムを探り当てるか…それ以外にやることはない。
それでも、毎日は飽きることなく通過して行き、その時々で初体験の感覚と懐かしい感覚とを集積した。
そのある日だ。
違和感。
いつもとは違う感覚と意識で…私はドアを見詰めた。
それがいつからだったか覚えていないくらい自然に、むしろ運命的に…導かれるように気づけばじっと眺めているのだった。
なぜ導かれたのかは解らなかったが、それが何を意味しているのかだんだんと明瞭になるにつれて、鼓動が早まっていった。
長く長く閉ざされた私の内面世界に、開放のカギとなる目映く差し込んだ光と、血液を口腔からたっぷり流しこむ様な警戒と恐怖の感情と味わいとが、交互に入れ替わり差し出されて、私は興奮し恐慌していた……
一歩、一歩、狭い部屋の床に足を差し出して私は切り開くのだろう、長い長い沈黙の情景を、高い高い私を空より遮断した分厚い壁面の圧力を…
ガチャリ……
ドアノブは捻りを入れられた。
ギー…ギー……
そしてとうとう、堅く閉ざされたドアが、ゆっくりと開かれていった…
「!」
同じ情景!!
バタン!
ドアは再び閉ざされてしまった。ノブはもう飾りみたいに固まってしまっている、即座にそう了解された。
「ほう、参りましたか……」
ベッドを挟んだ奥のあたりから声が聞こえた。蹲っていたのだ。そして男が立ち上がった。
「!」
衝撃……
それはいかにも……
立ち上がったその男は、私自身であった。
四
少し年老いた、中年くらいのそれは私であると直ぐに了解された。
そして彼は、私と同じ格好で、普段着の、シャツとズボンを着けていた。ただ、シャツのボタンを外して、上半身の右側だけを剥き出しにしているのだった…
「恥ずかしい話だがね…食事をしていたもので。食事は決まってこの格好でやる事となっているもので」
私は彼の話より、肩にばかり意識を取られた。
肩は深く生々しく抉られていた、血液や粘液すら噴き出していた…
「まあ…食事という名の治療みたいなものだよ…」
私は何言も発せなくなっていた。
「怪我をしてしまってね?あなたは運良く健常ですね、羨ましいことだが、しかし代わりに皆がみな、何かしらの他の苦悩を抱えて生きているもんですがね?」
「……。あなたは…」
「…ええ…」
「あなたは…誰ですか?あなたは…」
「…見ての通りですよ、わたしはあなただ」
「あなたは私なのですか?」
「ええ…ただし、年齢も違えば境遇も違いますがね…よって抱える意識も若干異なりますが…しかしわたしはあなたなんです」
「…同じ服を着ています…」
「はい。なぜでしょう?わたしとあなたが同一人物だからでしょうかね?」
「私は…あなたの…なんなのですか?」
「さあ。ここはわたしとあなたと、大勢のわたし達の世界ですよ。つまりわたしというあなたがいる、あらゆる可能性の世界だよ、あなた、シュレディンガーの猫は知っていますか?」
「シュレディンガー…」
馬鹿げている…これが私の人生というものなのだろうか?
「あれは猫が死んでいて生きているというものだ。そして、今、あなたは健常で、わたしは怪我をしている…これらはみんなひとつの可能性であって、派生したそれらの結果を束ねたものだ、この部屋はその可能性とやらの全てを抱えている、部屋は延々と向こう側へ隣り合いながら連なっているのです、そしてこの巨大な家屋の全体が、ようやく『わたし』というわたし達として成立しているのです。これは量子論だ」
「…私はずっと密室だと思っていた、そしてそれに疑問も持たずに閉ざされていた。どうしてあなたとの部屋のドアは破られたのでしょう?私はこれまで幾度となく開けようと試み、失敗したのに…」
「さあ?わたしだってここに閉じこもったきりですからねえ…そのことに理由なんてものはないですよ、ただ意味があるだけだ。あなたがわたしの部屋に辿り着いた、という意味だけがあるのだよ、それはわたしが怪我をし、あなたが健常であることとさほど変わりのないことだよね?」
「…しかし…」
「悪いが…」
「!!」
彼が後ろを振り返る、同時に私は衝撃を受ける、彼は…頭蓋骨から背にかけて…下手をすると下半身にまで…
肩だけではなかった!
怪我をして深く刳られていたのは背面、人間の内側が有りありとしている…
「わたしは治療をしないとね…」
男は視界から消えている、ベッドを挟んで再び背の低いナイトテーブルの引き出しからあの粘液を取り出しているのだろう…
「ちょっと不便だよ…治療を怠ると死んでしまうからね」
男はもう一度現れた。
「ドアを行きなさい、どれかが空いているはずだ、この部屋に『わたし』という二つの可能性が混在しているわけにもいかないしね…」
訝ったが、私は踵を返し、戻りかけた…
「いいや。そこはいけないよ、この部屋はね、不思議な事に戻ることが出来ない仕組みなんだよ」
「??」
「まあ世の中の仕組みとは強制との共生だよね…そこから面白みを見付けていかねばならないんだよ…」
私は彼の言葉に従って向かいのドアを通過する事に決めた…そして一瞥した…
実を言うともう一度そのグロテスクな背面を確認したかったついでが働いてしまったのであった。
ガチャリ…
ギー…ギー…
「それではごきげんよう…」
彼は背面にたっぷりとそれを塗りこんでいて余念がなかった……
五
ガチャリ…
ギー…ギー…バタン!
何もない部屋…誰もいない部屋…
今度ばかりはベッドの奥側を覗いてみても誰もいなかった。
そして壁面のひとつに、ハンガーに洋服だけが吊るされていた…それは悪い冗談みたいだった、あたかも幽霊である『私』がそこに浮かんでいるかのような…服装は同じく普段着のシャツとズボンであった…
二つの可能性の同居は許されない…
先程の彼の言葉…
ここは誰か居るのか…それとも私だけでいいのか…
躊躇したが、しかし私はこの部屋を出ることに決めた。
やはりこのぶら下がった普段着が、幽霊のようで気味が悪かったのかもしれない。
ガチャリ…
ギー…ギー…バタン!
「!!」
「ん?」
「…あ…あなた…」
「ああ、もう迷い込んでしまいましたか?」
「私は別のドアを選択した…なのに…」
部屋に居たのは最初に遭遇した彼であった。
「私は戻った訳じゃない!」
「だから言ったでしょう、戻ることは出来ないと」
「では何故!戻ることが可能なら、私は以前の私の部屋へと戻りたい!」
「まあ…辿り着く先はあるさ…どこかにね、それが人生ってもので」
「ドアを遡ればいいんだろう、ならば…」
「やめて置きなさい…」
ガチャリ…
私は興奮して彼の制止を聞かなかった。
ギー…ギー…
そして現れたのは…
「!!!」
崖……
深淵にまで通ずるくらいの深い深い渓底となっていた…
「ドアを戻ることは出来ない、だってそこは行き止まりだからね…」
徒労感が襲った…なぜだろう?
これ程長い間単調な暮らしを続けていた…ひとつの変化が刺激となり、これまでの集積に一気に堪えてしまったというのか?
それは自分でも抱えきれぬ謎の感情であり、軈ては衝動へと変わっていった……
「行き止まりというのなら、どうなっているのでしょうかね?」
私は口調を強め彼に言い放っていた…
同時に私は身を投げ落とした……
風圧!
私は無限とも思えるような長い転落を身に受けながら…知らない間に意識を失ってしまっていた……
……ドシャッ!!!
六
朝。
剥き出しの木造の一室で目を覚ます。
正方形の間取り、中央にあるベッドにて。
結局私は、再び朝を迎えることとなっていた。
死んだのか?それとも…
細かいことは何も覚えていない。
しかし、私は私の部屋へと戻された、ここは、私が元居た部屋ではないような気がするけれども…しかし、ここに居ていいということだろう…
ガチャ!
しかし…
…ドアが、勝手に開いた、私はぼやけた頭でそれを眺めた、そして遠慮深く少しだけ隙間を開けてそれは開いていた。
仕方ない性…
私は進まなければならないようだ。
ギー…ギー…バタン!
「久しぶりの客じゃな…」
「アンタは…」
老人…私の年老いたすがたが……ただし、身体に合わせるかのように、普段着であるシャツもズボンも年寄りに見合う恰好だ。
「まだ若いようじゃなあ…」
「アンタはいくつだ?私の老後なのか??」
「さあ…年齢など…ここに住んで長い長い…」
「五年間か?私はここに住んで五年間の記憶が確かにあって…それからも数年の…」
「五年間…?それはえらく具体的な数字じゃねえ?しかし馬鹿げておるのう、わたしはあんたと同じ歳月を過ごして来たはずじゃね…」
「五年間!そうじゃないのか??」
「ふ~む…我々はあんたと同じ歳月を過ごしてきたんじゃよ…我々は過ごして来たんじゃ…永劫という途方もない時間を通過させてしまったのう…」
「永劫!何て馬鹿な」
「これを飲んでいればね…少し若返るんじゃよ…」
老人は乳白色の粘液を啜ると、肌艶が若返り、シワが浅くなったように見えた。
「しかしいつまでも飽きずにのう…人間の生涯とはなんというか…」
私は動揺していた…五年間という曖昧ではあるが確固たるイメージ…私の中の唯一と言ってよい拠り所は…一体なんだったのだろうか…?
「飲めば飲むほど満たされるものがある…しかし、そうしたところで磨かれていくばかりではないのじゃよ…わたしはあんたと違ってもう老体…あるところまで行ったらもうこれ以上は若返ることはないからのう…それでもう、口を湿らす程度にしておるわ…」
「さっきから何を言ってるんです?」
「ふうむ…これがわたしのサイクルなんじゃて。それ以上でもそれ以下でもいけない…それは単なる日常であって満足とか不足とかいう尺度ではないのじゃよ…」
「だから何を言っているのですか!!」
「……」
それ以降、老人は口を閉ざしてしまった…
そして宙を見詰めたまま動かなかった……
私は気味が悪くなった…老人を足早に横切って向かいのドアを開ける…
ガチャリ…ギー…ギー…バタン!
七
ギー…ギー…バタン!
ぶくぶくぶくぶく…
煮え立つような音がしている…木製の床を濡らしている…それはだんだんと蕩けていき…長時間煮込まれたように骨までも柔らかくなって……
そこには腕がしなだれてようよう立っていた…
そして更にだんだんと形を崩していく…時にブシュ~と音を立てながら…激しさを加速的に増していく…まるで腕の揚げた断末魔…そしてより一層のたうち回って止め処なかった…
助けて…と…腕が…いっている……
ポチャン…ポチャン……
天井から…乳白色の粘液が雨漏りのように滴り落ちる……
そして崩れた肉の池に落とされて…腕の部分だけが…ほんの僅かだけ…再生されるのが確認された…
…コイツは…まだ…生きている…そしてまだ…生きようと…している…??
私は虫唾が走っていた……
ズカズカと進んでいき、その生きようと必死になっている腕に向かって思いっきり足で踏みつけた!
ぶちゃ!ぶちゃ!ぶちゃ!…
キエエエエエエエエーーーーーー
腕は泣き叫んでいた…
何の因果だろうか…ある可能性の世界で、腕だけになった私が…それでも必死に再生を遂げようと奮闘している…
…悍ましさと憐憫とが一気に押し寄せた私は、ただただ無心でソイツの息の根を止めるために…休む間もなく踏みつけるばかりだった……
そして汚れた裾と靴底で脚を踏み出して…大股で次のドアを進んでいった……
…すた…すた…すた…
乳白色の粘液はなおも滴り続けた……
八
次なるドアを開けた時、私は息を飲み、続いて胸の奥に激しく酔い痴れる感覚がグルグルと谺して止むことはなかった…
そこにいたのは美しいオンナだった。
白い透けたネグリジェを着けた半裸で、肌白の柔らかい裸体を向けこちらに迫っていた。
オンナは直ぐに私に気づいた…
そして見詰め合っていた。
本能がそうさせたのだろうか…私は躊躇なくオンナの肉体を強引に嬲りものにし…オンナはそれを受けた……
真っ白な世界へと……
私とオンナは飛んでいき…溶け合っている……
それは輝く湖面だった…真っ白な水面に…湖となった私とオンナ…湖面のちょうど中心から…波紋が始まって…それは永遠の領域にまで……広がって……
!
そして暴力的に浪立って…
潮が立ち、空中高く飛沫が騰がっていく…
軈て湖全体が大きくうねり始めて……
そして巨大な巨大な…星ほどに巨大な水風船の真っ白な球体が……
破裂して真っ白な爆発を飛沫させて爆死した!
行為のあと…
オンナは…裸で寝そべっているのだった……
九
オンナは艶かしく美しかった。
このオンナと一緒にいたい…それは私の希望となるに違いない…
「あなた…」
オンナが呼んでいる…オンナだって私の存在は貴重に違いないだろう…
そして私は激しくヨガり…喘いだオンナの声を思い出していた…
「オンナとは…美しい花みたいなものですね…」
私は何から何までどうでもよかった…無論、オンナの無駄話何てなおの事……
「そして美しさは極められ…次の代に咲かせる為にその美しさで引き寄せるのです…世界のすべてを……」
奇妙なオンナだ…何がなんだかさっぱりだった…
「美しい花…そう、植物にとっての秘部によって…」
「!」
…私は原因不明のめまいに襲われた…ベッドに並んで座るふたりの男女……
「あなた…もう…お行きなさい」
ぐるぐると部屋が回転している…オンナの声だけが方向の頼りだ…
「ここを出るのです!」
オンナが私を追い出そうとしている…どうしてだろう…オンナも…私も…渇望し、飢えているであろうに……
「わたし達は同じ部屋にいることは出来ません」
ゆったりと…
回転が収まって私の視線は真っ直ぐにオンナの瞳に結ばれていた…
「わたしとあなたは同じ『わたし』なのですからね」
「!!」
私は拒絶したかった…
「あなたが私と同じ『わたし』ですって?」
「ええ…可能性の一部です…それで同居するわけには行きませんわ…」
「知っていたので?」
「…ええ…」
「じゃあ…なぜ…?あなたは私と交わったのです!」
「……」
オンナは切ない表情で笑っていた…
「だって…わたしだってオンナですもの…欲望には逆らえませんわ……」
「だったら私は…私は…私自身であるオンナの『わたし』と交わったと!」
「ええ…」
「あり得ない!」
「いいえ…例え誰と誰でも…」
そう発してオンナ言い淀んでいた。
「誰と誰でも…何です?」
「……。例え、誰と誰が交わろうと同じことです…」
「何が?」
「違うものどおしに思えたとしても…それは世界と世界とが交わっているに過ぎませんわ…それって自分と自分が交わっているのと同じことじゃありませんか?」
「…よく解からないな…」
「世界がそうですから同じことです…わたしと…あなたが交わろうと…過ちではなくそれは自然だと思う……」
オンナは完全に口を閉ざした…
私はいずれにしてもここを出なければならない…しかし…どこへ行こうとも…安住の地は再び見つかることはあるのだろうか……
「あなたは言いました」
私は口を閉ざしたオンナに話しかけた…というより…それは壁に向かって延々と話しかけるようなもので…言わば気が触れた兆候だったのだろう…
「世界と世界が交わっているに過ぎないと…それが世界の全てなのでしょうか…」
オンナは壁になっている…もう私の目の前に…壁しかないとすら言える…
「それなら世界に終わりがあるのです?すべては自分自身ではありませんか!」
私は荒げていた!
そうでありながら、私の視線の先はひとつに定まっていた……
私はベッドで延々と喋っている…それに併走して…私は視線の先へとカラダを移動させている…意識なのか幻想なのかそれとも現実が分離し始めているのだろうか…とうとう意識は分断されて…喋り続ける私はもう私ではなかった…私は移動する…視線の…その先へ……
…それが答えだった…その答えが私には理由もなく渡されたのだ…答えには意味だけがあるのだった…
ナイトテーブルの引き出しを引く……
…それが答えなのであった…乳白色の粘着物を垂らしたツララが何本も垂れ下がっていた…私はもう…それを必要とはしていない…私が必要としているものは……
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
私は私の肩幅よりも遥かに小さいナイトテーブルの引き出しに…強引に頭の先からカラダを逆立ちにしながら押し入れていった……
…内面世界の壁は…肉の壁となっており、弾性を持っていた…肉の壁より大きな私の全身も…少しずつ呑み込まれていくのだった……
それは初体験であり…懐かしい感覚だった…それは産道の通過のようだった……
狭い窮屈な穴をようやく行き過ぎて…直ぐに私はすとんと落とされてしまった!
落下!
風圧が私に押し寄せている…それはあの時…身を投げた渓底への落下に感じた以来の強い風圧だった…しかし……
…私はようやく本当に死ぬだろう…シュレディンガーの密室世界で…死ぬことの出来ずに延々と繰り返された一日の集合体に別れを告げることが出来るはずだ…ここは目的地なのだ…あの集合体の枝葉であった数々の可能性である『わたし』にとっての唯一の脱出地点なのだ……
「死…」
落下を続ける私の耳元に囁く声がした……
空中で声の方へと振り向くと…同じように落下する私と交わったオンナの『わたし』に目が合った……
その奥には…あらゆる可能性である『わたし』たちの落下する有り様が…まるで銀河系の星々ように広がっているのが絶景だった……
観念ミステリもだいぶ板について来ました。