僥倖(9/5改稿)
それからどれだけの時間が経ったのか、、俺は静かに廊下を歩く。ノワイエは恐らく寝たのだろう。夜の静寂は微かな足音さえも酷く目立たせる。
窓から差す青白い光を頼りに、緊張した足取りで俺は台所の勝手口に辿り着く。店側の出入り口は鍵がかかっていた。内側からも開けられないとは思わなかったよ。
祈るような気持ちでゆっくりとノブを回し、ドアが開く……よし。
どうやら中庭に続く方には鍵をかけていないらしい。不用心といえば不用心だが、今はありがたい。
微かに冷たく感じる外気を頬に感じながら、勝手に拝借した外套を羽織る。今回は汚したり破いたりしないようにしたい。
「…………」
外へと踏み出し、そこに広がる光景を前に思わず踏みとどまった。
空から降り注ぐ青白く輝く満月の光を受ける中庭は、昼間とはまた違う様相を呈していた。幻想的とも神秘的とも呼べる小さな世界に、微かな寂寥感さえ感じる。
もう、集うことの叶わぬ家族を待つように広がる中庭。俺は浮かんでくる感慨を振り払って中へと進んでいく。
「……この辺りがいいかな」
頭ひとつ分高い外壁のなか、そこだけは置かれた岩の分だけ登りやすそうだった。
軽く助走を付けて跳躍、伸ばした手が壁を掴む。壁に防犯機能がないことくらい、今朝入り込んだユトリーのおかげで判っている。
「よっ、と……」
難なく壁をよじ登り、向こう側に着地成功。暗い路地裏を店側の入り口へと進む。そうでなければ多分迷いそうだから――
「……マジ?」
その途端、視線へ移り込んだ"人物"に俺は思わず声を上げた。まったく予想外の展開だ、同時に僥倖ともいえる。
相手も俺に気が付いたらしい。壁にもたれる身体を放し、こちらへと手を上げてやってくる。
「夜のお散歩とは、素行が悪いんじゃないか?」
「お前だって、俺が行儀良くしてると思ってないだろ。ブリッツ」
本当、寒気がする。これで拳でも打ち合わせたりでもしたら、吐き気くらいしそうだ。だけど、口元に自然と笑みが浮かぶ。
「安心しろ、タイラント君。いや、タマちゃんだったか。アイツはかず姉に預けてきたよ」
「用意周到な事には頭が上がらないけど……俺が来るって判ってたのか?」
俺と同じ笑みを浮かべるブリッツに問わずにはいられない。これで俺が来なかったら相当恥ずかしいぞ?
「さぁな……でも、不思議とお前達が来ないとは思わなかったぜ」
「本当にそういうの止めろって、あと近寄るのも禁止だ……それにお前達ってのも違う、俺だけだ」
「だからお前は俺をなんだと……あ? ノワイエはどうした?」
まったく油断も隙もない。危うく接近を許してしまう所だった。うぅ、さぶいぼさぶいぼ。
「そのノワイエの事で訊きたい事がある」
「ほぅ、お前一人ってのは、それが理由か。ちなみにそれは、あそこの奴らが関係してたりするか?」
顎で差すのは、俺が出て来たのとは別の路地裏。質問の訳も分からず覗き込むと、そこには何人かが地面に倒れ込んで……って、はっ!?
「死んじゃいねぇよ。ただ、少しの間おとなしくなってもらっただけだ」
「この人達って……」
「なんだと思うよ、キョウ」
するりと肩を組んでくるブリッツの言葉に、俺は唖然としながらも思考する。しかし、もちろん判るはずもない。
少なくとも、ブリッツがわざわざ運んで来たのでもないだろう。俺を待ってたくらいだから、つまり初めからこの人達はここにいた? 何のために……
「もしかして、店をあんな風にした奴らか?」
「惜しい、そういった輩はもういねぇよ。その必要がなくなったんだからな」
「……?」
推測ばかりが先行し過ぎて情報が処理しきれない俺に、ブリッツは軽く笑いながら離れていく。
「まぁ、普通は判らんだろうな。コイツらは、"監視"さ」
「監視……?」
疑問の答えだというのに理解出来ない。どうしてそんな事をする必要が……?
「ともあれ、何時までもここにいちゃマズいな。場所を変えようぜ、キョウ」
「あぁ、でも――」
理由が定かではないけど"監視"がこんな風になってしまっては後で面倒な事になるのでは?
問いかけようとした俺だが、それは遮られた。
「心配するな、そいつらが倒されたのは未熟な証拠。その程度だったという事だ」
「「っ!?」」
声が聞こえてから、俺達は初めて気が付いたように顔を向けた。倒された人達のすぐ向こう側、そこに立つ何者かの存在を。
そんな筈がない。
思考は即座に否定した。つい今し方まで見た時には誰もいなかった。少なくとも、倒れている人に注意が向いても、だ。
しかし、暗がりのなかで、月光を反射させる鎧を装着した人物を見失うか? ただの直線が伸びる路地裏で……
「臆するな"小物"よ。お前達を断ずるつもりはない。失せよ」
低く響く男の声、ただ立っているだけだというのに強い威圧感。自然と俺の額に冷たい汗が伝って――
「行くぞ、キョウ」
突然、半ば強引に腕を引かれては俺に為す術もない。癪に障るけど、絡んでくるつもりもないようだし事を荒立てないっていうなら好都合だ。
逃げるんじゃないからな。それを視線に乗せても負け惜しみにしかならないのがまた腹立たしい。
監視といい、白い鎧の男といい、本当に訳が分からないよ。




