治療とはいったい
すっかり肝を冷やされたせいか、足取りの遅かった帰り道は少し足早に。しかし、薄暗くなった空の下でようやく見えて来た店先を視界に捕らえ、再び俺の足は止まる事になった。
「…………」
その瞬間に抱いた気持ち。それはあまりにも複雑で、言葉で例える事は俺には酷く難しく思える。
いつかの幼少期、帰り着いた家の前に佇む母の姿には恐怖と安堵を覚えたものだが、ある意味ではそれに近い感情が俺の心を鷲掴みにした。
変わらず目を背けたくなる有り様の店先で一人、壁に背を預けて佇む少女がいる。
いったい何時からそうしていたのだろうか。いったい何を思っているのだろうか。穢された店先で一人、全てから切り離されたような孤独を思わせる彼女は何を――
「ノワイエ……」
締め付けられる胸から零れ落ちた声。後悔は痛みとなって突き刺さる。
早く帰って来れば良かった。
心の奥の奥からそう思う。こんな光景を見るくらいならば、誰かに絡まれようと、誰に慰められようと、励まされようと、ただ速く帰り着けば良かったのだと。
「あ……」
俺の漏らした声に、俯いたノワイエが気が付く。こちらを向いた白い仮面は、どんな感情を彼女が抱いていたのか、その残滓すら俺に見せてはくれなかった。
「京平、さん……?」
ただ、感情の発露となった声が、恐る恐る近づく足取りが、胸に痛くて、俺の背中を強く押した。
「ノワイエ、遅くなってごめん……ごめんな?」
「いえ、そんな――」
そこまで言葉を紡ぎ、彼女は一息に俺の下へと駆け寄った。あまりにも突然の行動に思わず息が詰まる。
「どうしたんですか、この怪我……それに服も……」
震える声に、そっちの言い訳を考えてさえいなかった迂闊さを呪いたくなった。と、いうかそんなに酷い有り様なのか。
「いったい誰が、こんな……」
「ちょっとした……社会勉強だよ。ごめん、服……台無しにして――」
「服なんてどうだっていいですから、早く治療しないと……」
一応怪我人だからなのか、俺の手を引いたりはせずにおろおろとするノワイエに、なぜか一番の安堵を覚えてしまった。不謹慎だけど、心配されて情けなくも嬉しいと思う。
「ごめん、本当心配かけてばっかりで」
「いえ、代わりの服は……えっと――」
なんとか家へと帰り着くと、テキパキと着替えを用意し始めるノワイエ。昼間にも見た光景に俺は、ふと思った。
午前はブリッツに殺され、午後はチンピラに半殺し。
本当、随分と物騒な体験してるな、と。
「そういえば、ブリッツは――」
「よう、また男前な面構えになって来たな」
「……そりゃどうも」
まさか、まだいるとは思わなかった。家の奥から軽い調子で顔を出したブリッツは、さっそく俺の顔を見るなり苦笑していた。やはりそんなに酷い有り様か、鏡を探すと店の姿見を見つけ――
あぁ、これはまたなんとも、か……?
頬に擦り傷くらいだ。もしかしたら、かず姉のアレのお陰かも知れない。たんこぶや打撲の痛みも消して貰えたし。
「……で、顔は覚えてるか?」
「うぉ、急に近付くなよな」
足音とかしなかったぞ、今。姿見に目を向けてた間に、彼との距離は急接近。ふざけるな、誰得だよ。
「そんな事より……誰がやった?」
しかも、先程の調子とは違って、怒気を感じさせる瞳で見られて……怖いから。まさか報復でもしに行こうとかか?
「はぁ……告げ口は男を下げるんだぞ?」
「……頑固者め」
これ見よがしに呆れた視線で返せば、納得してくれたらしく下がってくれた。仕返しとか今のところ考えてないし、そもそも負けてなんかいないし。
「まぁ、何かあったら頼れ……な?」
「へいへい、わかったよ」
同性の友達らしい気安さに内心では感謝を覚えながらも、俺は視線を逸らす。
「……二人とも、もういいですか?」
その先で、着替えらしき服を抱えながら、ノワイエは気まずそうに俺達に声をかけた。
何かおかしい勘違いしていそうな気がする。そこから始まる俺の弁解に、ノワイエは『大丈夫、解ってますから』と謎の理解を得る事が出来た。
◆ ◆
「着替えの前に、治療ですね」
とは、台所まで連れられてノワイエからの言葉だった。確かに治療するとは言ってたけど、なぜそんなに改まる必要があるのか。
「まさかノワイエ、治療ってアレか?」
「そうだけど、京平さん。すいませんが、少し我慢してくださいね?」
何を? と首を傾げながら、いわれるがままに事の成り行きを見守ることにした。ブリッツは思うところがあるのか、なぜか俺を憐れむように見ているのが非常に気になるところなんだが――
と、考えている内にノワイエは戸棚から青白いティーカップを取り出し、水瓶から水を入れて持ってきた。何が始まるんです? いや、もしかしなくても多分……
「清浄を司る水よ。穢れを払え、蝕む痛みに決別を――」
やっぱり厨二術でしたね、はい。気持ち鳥肌感じてます、えぇ、我慢しますよ。
しかし、凄いな。ティーカップに入ってるのは普通の水なのだろう。しかし、ノワイエの声に反応して薄く光を放ち始めている。幻想的な光景に俺も自然と目が離せない。
「我は願う、祝福を汝に。我は願う、切に願う。ただ、祝福を汝に……」
「ノワイエ……?」
不意に、これまで聞いた厨二術の詠唱と違う何かを感じた気がする。それはブリッツも同じだったのか、静かな室内に困惑した声が小さく響いた。
ティーカップのなかは、もはや光が液体に代わったかのような状態だ。それでいて眩しさはなく、神々しささえ覚えてしまいそうで――
「九つを流るる果実の如く、"顕現せよ"。『始原より来たる祝福の水(オリジンズ = ギフト)』」
その名を告げた瞬間。ティーカップがそこにある光のなかに溶けるように消え失せ……光もまた小さく、ノワイエの手のなかで米粒ほどの大きさへと変化してしまった。
「嘘、だろ……?」
突然後ろからそんな呟きと共に、ガタンと何かが倒れる音がして振り返ると、なぜかブリッツが腰を抜かしたように座り込んでいた。
「ブリッツ、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも……」
「京平さん」
「ん?」
驚愕を顔面に貼り付けるブリッツだが、残念ながら俺は何も解らない。ノワイエの声に再びそちらへ顔を向けると――
じゅっ。
じゅっ?
「っ!?!?」
直後、突然頬に刺さる激痛にのた打つ俺。肩を叩かれて、振り向いたら指が頬に刺さる悪戯は幾らでも妹と幼なじみと親父にされたが、こんな激痛は経験がない。これは頬を貫かれたと錯覚するレベルだ。無理無理痛い痛い!!
「えっ!? そんな……京平さん!?」
「何してんのさ……ぐぉぉっ」
「キョウ、大丈夫か!?」
台所の床をのた打つ俺に、駆け寄ろうとする二人。何これ本当に何これ、ビックリするくらい痛いんですけど!?
「ふぅーっ……ふぅーっ!!」
「熱いんですか!? 水かけますか!?」
「落ち着けノワイエッ!! お前まで取り乱すなっ!!」
阿鼻叫喚とはこのことか。謎の激痛が治まるまで、台所の喧騒も収まる事はなかった。




