帰還
酷く懐かしい夢を見ていた気がする。
穏やかに意識が浮上していく感覚のなかで、次第に響く声があった。
「どうしてこんな事に……京平さん」
頬に触れる冷たく震える手と、どこまでも深い悲しみに染まる声に目を開く、そこにある白い仮面。誰かだなんて間違えようがない。なんだか安堵が滲み出る。
「え……?」
微かに残る心地よささえある微睡みのなか、俺も彼女の頬へと手を伸ばす。
「きょうへい……さん?」
視界いっぱいに広がるノワイエの仮面。そこから覗く翡翠色の瞳は驚きに見開かれている。何か言うべきか。何を言うべきか。
口を開こうとした瞬間。
口の中に感じる異物感に手を押さえて咳き込む、同時に広がる強い鉄錆臭さと共に口から吐き出した液体は――
「……うわ、マジでか」
「な……!?」
「京平さんっ!?」
仰天の第一声。心地よさは一点、自ら手を見ると真っ赤っか。吐き出した血の匂いに具合が悪くなる。アレルギー症状は多岐に渡って経験済みだけど、吐血は流石に初体験だ。
そんな見当違いな感想を抱く俺にノワイエと、ブリッツだろうか。誰かが駆け寄る足音がした。
段々と意識がはっきりするに連れて、自分の置かれている状況が判ってきた。正確に言えば、俺の体勢だ。
ノワイエに膝枕されていた。理解してようやくローブ越しの後頭部に当たる柔らかい感触に顔が熱くなる。失血なんて感じさせない程に血流は良好のようです。
「あぁ、なんだ……その、ノワイエ? 俺はもう大丈夫だから――」
「よかった、京平さん……」
起き上がろうとした俺と、感極まったらしいノワイエでは互いのすれ違いが大いにあるらしい。
後頭部に感じた温かく柔らかな感触は今や、全方位に感じる事となった。
つまりはハグである。
肩に当たる仮面の硬さと、花のように大変良い匂いと、何よりも女性特有の柔らかな物が――
「っ、よかっ、た……本当、に……」
「…………」
急激に上昇した熱は、嗚咽の混じる声と小さく震える身体によって、いつしか穏やかな物へと変わっていた。
どうにか動く右腕で、宥めるように彼女の頭をぽんぽんと叩く。灯衣菜へとするように、優しく、ゆっくりと……
「大丈夫、大丈夫だから……」
「っ、う、ぁ――」
何が大丈夫なのか。誰が大丈夫なのか。遠い昔、誰かが掛けてくれた魔法のようなおまじない。堰を切ったように声を上げるノワイエに、しばらくはこのままかと安堵と諦めが混ざった溜め息が零れた。
もういっそのこと、このまま寝てしまおうか。そんな開き直りに至ろうとした頃、ノワイエは落ち着いたのか、俺を解放してくれた。
「……もう大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。というのも何だか変ですね? わたしが言うべき言葉なのに……」
今更になって恥ずかしくなったのか。俯きがちに視線を逸らすノワイエに、俺も小さく吹き出して笑ってしま――
「ゴホン。あー、なんだ? 良い所になってるとこ非常に申し訳ないんだが――」
突然の声に、俺達は揃ってその第三者に向く。完全に存在を忘れられていた男……ブリッツは気まずそうに俺を見ていた。
「すまん。その、色々と……」
一応の事実として、俺を殺したという事もあってか、頭を下げるブリッツに対して俺は――
「いや、別に……」
結果的に大事に至らなかった、というのも変な話だが。俺もある意味ブリッツと同じく未体験な出来事にどう対処したらいいのか判らなかった。
まさか自分を殺した相手に生きて会う事になるとは……いや、この場合殺してないのか? でも確かに――
「ブリッツ、ちゃんと謝って」
「今度はお前かよ……一応これでも大真面目に――」
「ブリッツ?」
疑問符が思考を埋めるなか、ノワイエとブリッツはどこか親しげに言葉を交わして……あれ?
「だ、大体男はそう何遍も頭を下げるもんじゃねぇんだよ!!」
「またそうやって意地を張って……悪い事をしたら素直に謝る方がよっぽど男らしいと思うんだけど……」
「だから謝ったじゃねぇか!! それにお前だって……」
「あの、二人とも? そのくらいにして……」
「「だってブリッツ(ノワイエ)が!!」」
なにこの二人、息ぴったり過ぎじゃなかろうか。どういう関係なんだ、そこのとこ詳しく聞かせてくれても……
「それよか、お前……本当に大丈夫なのか?」
「いや、自分でも不安だけど……」
見た目はもう酷い有り様だ。患部が果たしてどうなってるかを見る勇気がまったく出ないくらいには酷い。
「あっ……ごめんノワイエ。服とかこんなんにしちゃって」
「京平さんが気にする事ありません。全部ブリッツがやった事なんですから」
「ぐっ、まだ言うか……確かにそうだけどよ……」
「なんにせよ。いつまでもここにいても埒が開きませんし、中に入りましょう」
ノワイエの提案はごもっとも、こんな血まみれな状態で外にいたら、近隣住民も驚くだろうし。
勧められるままに俺達はノワイエの家に帰り着いた。そう……なぜか、ブリッツまで付いてだ。




