始まりの日 1 (9/26 改稿)
見上げた空はすっきりと晴れ渡り、どこまでも青く澄み渡っていた。
3月。晴天の下を抜けていく風はまだまだ寒く、コートの襟を寄せながら俺は視線を落とす。
「ったく、まだ来ないのかよ……」
通っている学校が終業式を迎える本日。俺はひとり、次から次へと校門から吐き出されるように出て来る生徒達の姿を見ながら呟いた。
誰もがこれから始まるであろう短い春休みを謳歌すべく、嬉々とした表情を浮かべるなかひとりで、だ。
そう、おそらく誰一人として憂いを抱くような者などない。この休みが明け、学年最上級生となり進路に悩むであろうクラスメイト達も今はこの休みを存分に満喫するのだろう。
「…………」
対して、俺の気持ちだけは一向に晴れる気配がない。雲一つない空とは反対に、薄暗く気持ちが上を向こうとしないのだ。吐く息のすべてが重くて、苦しい。
原因は解っていた。解決策もまた――
「――ん? ――さん、ってば」
「…………」
でも、俺はそれを解消させずにいる。問題を問題のままで解消させないまま、このまま……ずっと。
「兄さんっ!!」
「うぉっ!? なんだ、灯衣菜かよ」
いったい何時からいたのか。気が付けば俺の前には、腰に手を当て、いかにも不機嫌な様子を見せる妹の姿があった。
「なんだ……じゃない。待たせた私が悪いかもだけど、待っておいて無視するとか酷いんじゃない?」
「悪い、ちょっと考え事してた」
「ふぅん……考え事、ねぇ」
呆れるように、じとりとした三白眼を向ける灯衣菜から感じる居心地の悪さに、自然っ俺の足は帰路へと向いた。
恐らく……いや確実に、俺の解消しない問題を、この妹様は知っていらっしゃる。
「あ、待ってよ兄さん!! もう、都合が悪くなるとすぐこれなんだから」
背中の向こうで、灯衣菜のトレードマークであるツインテールを結ぶリボンの鈴が世話しなく鳴り響くのを聞きながら、俺は小さく溜め息を吐いた。
「じゃあ、俺を待たせた分。ジュースでも奢ってくれよな?」
「兄さん。下校中の買い食いは駄目なんだよ?」
そう言いながら澄ました顔でサッサと横切っていく妹の背中を、ジッと睨み付ける。そうくるか。
「……朝方、近所に新しく出来たパン屋に寄りたいと言っていたのはどこのどいつだよ」
チリンと鳴る鈴の音に、灯衣菜の足が止まり振り返る。澄まし顔から一変、身内の贔屓目を抜きにしても可愛らしい笑顔がそこにあった。
「兄さん。下校中の買い食いは学生の青春だよ」
「さいですか」
こいつも大概だよな。そう思わざるを得ない。
ともあれ、面倒な追求を受ける前に話題を逸らすことには成功したようだ。その代償は予想に容易いがな。
「話によると、クリームパンが美味しいらしいんだよね」
前を歩きながら頭の鈴を景気良くリンリンと鳴らす妹様。御機嫌は大変よろしいようで――
「あんパンも結構いけるらしいぞ?」
その声は、俺の後ろから静かに響いた。だが、俺は振り返らない。その必要がないくらい、聞き覚えのある声だからだ。
同時に、頭が痛くなりそうだった。
「あれー? 鈴音姉、奇遇だね」
「やぁ、灯衣菜、奇遇だな」
何が奇遇だ。心中でそう呟く。胡散臭い棒読みがバレバレなんだよ。
そうか、通りで何時もならば簡単に引き下がるはずのない灯衣菜が、面倒な追求をして来ない訳だ。
こうなれば朝からパン屋に寄ろうと約束させられたのも、校門前で待たされたのも、初めから策略だったのかと疑ってしまう。
「キ、キョウも……その、奇遇……だな」
背中越しでも、その声が緊張していると判る。解ってしまう。いつものように落ち着き、根拠のない自信に満ち溢れた声ではなく、弱っている事が。
腐れ縁は伊達じゃない。柄にもない表情を浮かべている素顔が容易に解る――
「…………」
"だからこそ"俺から返す言葉は、ない。何もない。
ただ、何も見ず、何も聞いていないかのように帰り道を歩くだけ――
「兄さん」
今に至るまでそうして来た俺の前に、灯衣菜は立ちふさがった。まるで、逃がさないといったように。責めるように俺を睨む視線を無視することは出来なかった。
「帰るぞ、灯衣菜」
「ねぇ、兄さん。ちゃんと鈴音姉と話、しよ? ふたりに何があったのか判らないけど――」
「キョウ。灯衣菜を利用したようで私も悪く思うのだが――」
あぁ、本当に……嫌になる。
「鈴音」
これまで何度となく喧嘩をした俺達だけど、これだけ長い間名前を呼ばなかったのは過去最長かもしれないな、だなんて頭の隅で思っていた。客観的な自分から酷く今が滑稽に見えて仕方ない。
――だから、願わくば。
「私に至らない所があったなら言ってくれ。私自身、気が利かないというのは判っているんだが、それに私も――」
同じ時間だけ見ることのなかった顔は、酷く弱々しく見えた。いつものように凜として、余裕ぶっている表情は今や見る影もない。 それら全ての原因が俺にあるという事が自惚れではない程度にはやってきたんだ。
――だから、願わくば。
「迷惑なんだよ。お前」
――これが、本当の最後にして欲しい。
「兄、さん……?」
「……え……キョ、ウ……?」
呆然とした鈴音の頬に伝って落ちる涙の一滴に、俺はもう限界だった。
行く手を阻んでいた灯衣菜さえ、俺の言葉を信じられないといった様子で立ち尽くしていた。その横を、俺は走り抜ける。
胸に突き刺さる痛みを振り切るように、塗り潰したくて走り続けた。
ただひたすらに足を動かし、叫びたい衝動をも抑え、ただひたすらに走る。
どれだけ走ったか、走る勢いが衰え、何かに躓いて転がって、ようやく俺は止まった。微かに夕焼けに染まる空が視界いっぱいに広がる。
痛いくらいに脈打つ心臓と、荒い呼吸を繰り返しながら、ただ夕焼けの空を見ていた。
本当なら、もっと上手くやるつもりだったのに。
家族ぐるみの付き合いがある幼なじみという関係から、徐々に距離を取り、顔を合わせる回数を減らして……
「いや、家族ぐるみの付き合いがある幼なじみから他人へ、とか無理だろ……」
それこそ、今通う高校を卒業して、どこか遠くの大学や就職でもしない限りは……
つまりは少なくとも、あと一年間。俺は改めて絶縁宣言をした幼なじみと、極めて不機嫌な妹がいる場所で生活する事になったのだ。
「いっそ、旅にでも出るか……」
ぽつりと呟いた言葉は、あまりに現実味がなかった。
いくら交通機関が発達している現代社会であっても、金もない学生が行ける場所なんて限られている。
「ほぅ……ようやく、その気になったか」
「…………はぁ」
不意に頭上から聞こえる言葉に、反射的に溜め息が零れた。盛大に。
どうして、俺の身の回りには神出鬼没な奴らが多いのか。そして結局、計画性のない旅は始まらないのだと思わざるを得なかった。
「不安か……そうだろう、そうだろう。皆まで言うな。俺も昔はそうだった」
うんうんと感慨深く頷きながら、俺の視界の片隅に1人の男が座り込んだのが見えた。
相変わらず見たくもないくらい暑苦しい巨体だ。偉丈夫という言葉から人格者という意味を抜けば丁度良いかもしれない。
「今でも鮮明に覚えているぜ……千を越える軍勢を前に1人立ったあの時、震えが止まらなかったものさ……」
「武者震いだろ?」
水を差すように告げながら、俺は微かに腕をさすった。痒くなるからやめろよな。
「いや、俺は恐れた。無敵過ぎる俺から逃げる奴らを葬れない事をな?」
どやっ、と犬歯を向いて笑む筋肉質の塊に付き合うつもりは毛頭ないと、体を起こして改めて帰路に着くことにした。これ以上は本当に勘弁して欲しい。
「なんだ、帰るのか? 付き合い悪いなぁ、旅に出たいんじゃないのかよぅ」
「例え家出しても付いて来る気満々だろ、あと気持ち悪いからクネクネすんな」
「それも面白いが、息子の一人旅を邪魔するのも悪いと思う気持ちはあるぞ?」
このゴリラより逞しい男が親父だと、時々信じられない。多分母親の遺伝子ときっちり半分ずつにしても……いや、それ以上考えてはいけない。
「なんと言っても伝説の英雄たる俺と母さんの子だからな、お前なら――」
「やめろよ」
自分でも冷たい声だと思った。少なくとも親に向かって言うような声色じゃないとも。
「そんな設定は、もう聞き飽きたんだよ」
「キョウ……」
伝説の英雄とか、ゲームやファンタジーじゃあるまいし。ましてや歴史に名を残している人物じゃないなんて当の昔に知ってしまっている。
「それに、仮にそんな2人の息子なら……」
いつの間にか、痛いくらいに拳を握り締めていた。続く言葉は熱を持つ身体に焼かれて消えていく。
「すまん、とりあえず……帰るか」
「…………」
ぽんぽんと頭を叩く大きな手と、それだけ言って前を歩き出す親父の背中に付いていきながら。俺はただついて行くしか出来なかった。